初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

家族は浜松へ到着

2015年11月10日 21時57分08秒 | Weblog


私たち家族が乗った引き揚げ者

専用列車はやがて神戸、大阪を

過ぎます。満州に渡るのに

京都から出発したのでした

その京都を通り過ぎました

… … …

何時、京都へ帰れるのかと

一瞬思いました…

… … …

列車は東海道本線を

父親の故郷、浜松へ

向かっています



名古屋を通り過ぎて

岡崎、舞阪、弁天島を過ぎて

いよいよ下車駅、浜松駅です

… … …

浜松駅の改札を出て街を見て

私は、驚きました

駅前から見渡す限り焼け野原に

バラックが建っているのです

戦前からあった駅前の

松菱(まつびし)百貨店の

ビルは残っていました



行き先は父親の次兄が、

元魚町(もとうお) で開業医でした

空襲でこの医院も

焼け出されて田舎へ疎開していました



戦後、父親の兄は元魚町に

六畳、四畳半のバラック(標準)を

建てていました。

そこへ、私たち5人家族は

満州、新京から葫蘆島(ころとう)、

浦頭港(うらかしら)、南風崎(はえのさき)を

通って、やっと落ち着く場所を得ました。






列車は広島駅を通り過ぎて

2015年11月09日 19時52分07秒 | Weblog


国鉄・南風崎駅(はえのさき)から

乗車した引き揚げ者専用列車は

本州を走っています

途中、目的地に着いて

下車する家族もありました



私ら家族は、父親の郷里、浜松へ

向かっていました

専用列車は何故か夜行列車になっています

やがて、広島駅を通過しました



私は、新京で友だち、二瓶(にへい)君と

夏の午後、丸太にまたがって話した

「広島に新型爆弾が落とされた…」を

思い出して、列車の窓を開けました

… … …

列車のゴトンゴトンの音だけ聞こえて

外は真っ暗で何も見えませんでした



もっと明るいころに広島を通過していたら

なにか見えたのかも知れません

… … …

いまから思えば、九州、佐世保の

南風崎から関門トンネルを

通って、わりと近い広島駅、通過が

どうして夜行になってしまったのか

わけを覚えていません








関門トンネルを通る

2015年11月08日 18時22分38秒 | Weblog


南洋諸島、中国、台湾と引き揚げ者が

どっと浦頭埠頭(うらかしら)へ

押し寄せたのですから、

南風崎駅(はえのさき)から出発する

引き揚げ者用の専用列車の手配も

大変だったでしょう





専用列車は超満員ではなく

皆、座れたように覚えています。

国鉄の正常ダイヤに臨時の

引き揚げ列車が組み込まれたので

途中の駅で待避線で、待機したりしました



やがて、引き揚げ列車は

九州と本州の間の関門海峡をくぐる

関門トンネルを通るのです

私には初めてです。

… … …

関門トンネルは普通のトンネルで

関門海峡の水底トンネルの実感も

なく列車はいつの間にか

本州を走っています



車窓から見える日本は

小さな駅を通過すると

すぐ、鉄橋にさしかかり、

トンネルに入り、田圃を通り過ぎて

めまぐるしく、景色が変わります

まるで、模型機関車のジオラマを

走っているように感じました

… … …

列車が一時間、走り続けても

延々と 高梁(こうりゃん)畑が続く

満州から帰ってきたのですから…













上陸は浦頭港でした

2015年11月07日 18時52分53秒 | Weblog


大勢の引き揚げ者の行列にまじって

私ら五人家族は無事

国鉄・南風崎駅(はえのさきえき)へ

到着しました。

満州、新京から葫蘆島(ころとう)まで

無蓋貨車列車での移動は、幸いにも一滴の

雨も降りませんでした。

そして引き揚げ船は、歴史的な

信濃丸(しなのまる)に乗船できました



信濃丸よりスマートに見えた

リバティ船で引き上げた組は大変だったと

聞きました。私たちの組は、伝染病騒ぎや

博多湾で台風に遭遇したりしましたが…

… … …

どうやら、幸運に恵まれた帰国だったようでした

… … …

インターネットで調べてみると

上陸した港は、浦頭港(うらかしら) とわかりました

台湾、南洋諸島からの引き揚げ者など139万人が

ここから上陸しています。

… … …

そのほか、全国として

南樺太(みなみからふと)など

海外から大勢が帰国しています



この浦頭埠頭には現在、整備されて

浦頭引揚記念平和公園
(うらがしらひきあげきねんへいわこうえん)が

作られています



国鉄・南風崎駅から引き揚げ列車に乗るのですが

無蓋貨車列車ではなく、蒸気機関車が牽引する

客車の列車でした

… … …

ただ、客車の窓ガラスがなく板切れで塞がれていて

少し窓を開けないと

景色が見えなかった記憶があります







いよいよ南風崎駅へ

2015年11月07日 00時00分23秒 | Weblog


やっと我々引き揚げ者を乗せた

信濃丸は佐世保(させぼ)の港に入ったのですが

今、地図を眺めてもさっぱり覚えていません

信濃丸からどこかの桟橋へ降りました

これで、日本へ無事、帰ってこれました



桟橋から離れた広場へ船から下りた

引き揚げ者はずらっと並んで

一人ずつ、頭からメリケン粉のように

白い薬をかけられています

アメリカから持ってきた殺虫剤の

DDT(ディ・ディ・ティ)です

引き揚げの途中で、虱(しらみ)や

蚤(のみ)、南京虫などを持ち込んでいないか

… … …

この殺虫剤を頭から浴びせられて

皆、頭から足先まで喜劇のように真っ白に

なりました。



引揚援護事務所で手続きを済ませると

いよいよ引き揚げ者の故郷へ専用列車で

帰るのに国鉄・南風崎駅(はえのさき)に

向かいます。



私は初めて南風崎の駅名を

なんと読めばいいのか、ひらがな名を

見るまでわかりませんでした。

… … …

今、南風崎付近の地図を探すと

ハウス・テンポスがありました







信濃丸は佐世保港へ

2015年11月05日 18時09分04秒 | Weblog


船で台風は初めてです

京都で小さかった頃、

台風の思い出はありません

満州、新京でも台風はありませんでした

… … …

台風が何時やってきたのか覚えていません

恐る恐る甲板に出てみると

信濃丸を呑み込む小山のような大きな

波が被さってきます。もの凄い迫力でした

船は木の葉のように翻弄されました

… … …

船から下りるわけにはいきません

腹具合は悪くなるし嘔吐が始まるし

猛烈な船酔いは初めてでした



なんという台風か覚えていません

戦後、日本を縦断して大変な犠牲を出した

枕崎台風がありましたが、

それだったのかも知れません



何日かして、腸チフスの感染もなく

いよいよ、引き揚げ船、信濃丸は

錨を巻き上げました

… … …

なんと博多湾から出て

佐世保港(させぼ)へ向かうと聞かされました



元軍国少年の私にはピンときました

佐世保港といえば、軍港です

えらいところへ入港するのです

… … …

信濃丸は佐世保に近づくのですが

緑一色の景色で、港が見えません

すると、緑の間から突然、

白い汽船がぽっかり現れました

なるほど、海から見ると、港がわからないのです

それで軍港だったのだなと、納得しました







信濃丸は博多港を前にして

2015年11月04日 18時38分44秒 | Weblog


引き揚げ船は博多湾に

入ってきました

引き揚げ者は久しぶりの故郷(日本)が

間近に見えるデッキに集まりました

… … …

まっすぐ博多港へ向かうのだろう

と、思っていました

… … …

わが信濃丸は博多港を前にして

錨を投げ込んで停泊しました



入港する順番でもあるのかと

思っていましたが、どうやら

そうでもありません。

船内から腸チフス患者(法定伝染病)が出たと

噂が広がってきました



勿論、船内のどのあたりから

などわかりません

船内にこの伝染病が広がらないか

とか、潜伏期間など調べるため

懐かしい、日本の博多港を前にして

上陸のメドがさっぱり立たなくなりました



朝、昼、晩、一汁とご飯の食事で我慢して

停泊したままの船内で過ごしているところへ

台風接近のニュースが知らされました

… … …

弱り目に祟り目です








信濃丸は渤海湾を静かに

2015年11月03日 22時33分42秒 | Weblog


信濃丸の機関室から出て

デッキに戻ってきました

信濃丸はいま、渤海湾を航行しています



船のまわりはどこを向いても

遠く水平線はすこし曲がって見えます

引き揚げ船が葫蘆島を出港して以来

静かに進んでいます

… … …

遠く葫蘆島のほうの水平線を見ると

煙を上げる船の煙突だけが見えました



親しくなった船員さんはその煙突を指さして

「後から出発した引き揚げ船でリバティ船だ…」

「あの船は速いから明日になれば、

この船を追い越しているだろう…」と日本の方向を

指さしました



翌日、船のデッキに出てみると、日本の方向の

曲がって見える水平線に煙と煙突だけが見えました

親しくなった船員さんの云うとおり、リバティ船は

夜中のこの信濃丸を追い越して行ったのでしょう



やがてポツンと緑豊かな島が見えてきました

どうやら、九州らしいのです

上陸地、博多を目指しているようです

海は荒れることなく平穏に航海が

終わるのでしょう






信濃丸の機関室

2015年11月02日 23時30分49秒 | Weblog


引き揚げ船、信濃丸で、親しくなった船員さんを

私室に訪ねると、早速、機関室へ

連れて行ってくれました

… … …

機関室のドアを開けると

ゴーン・ゴーンと音が下の方から

聞こえてきます。

ドアの内側は太い針金の金網の床です

網の間から遙か下の船底まで見えます



巨大なシリンダーにピストンが

上下に動いて、クランクには

太いシャフトが繋がっていて

ぐんぐんまわっています

… … …

蒸気機関車のシリンダーとピストンと

同じ構造です。蒸気機関車のエンジンは

横向きに取り付けられていますが、

信濃丸の蒸気エンジンは

縦方向に取り付けられていました

シャフトの遙か先の船外にはスクリューが

付いているのでしょう



金網の床についている

鉄製でスケスケの階段を怖々歩いて

船底に到着しました

私の横はクランクに取り付けられた

巨大なピストンがドーン・ドーンと

上下に激しく動いています



落ち着いてまわりを見回すと

機関士さんが、油差しを持って

クランクの油差しの穴、

シャフトのベアリングなどに

頻繁に油を差して歩いています

… … …

どうしてそんなに油を差していくの…

と船員さんに聞くと、

1900年に建造された信濃丸がいまも

エンジンが元気に動いているのは

油を切らさないよう大事にしているからだと

ニッコリと船員さんは笑っていました。







信濃丸での食事

2015年11月01日 18時35分03秒 | Weblog


信濃丸は無事出航しました

船は貨物船ですから勿論、

プライベートな船室などありません

新京からの無蓋車、葫蘆島の引き揚げ者収容所と

同じように信濃丸でもフラットな床にシートを

敷いて各家族が適当に座って、食事をとり

就寝しました。



信濃丸での食事の話を

信濃丸に乗船して初めて

食事時間がきました



食事は普通、一汁一菜といいます

信濃丸ではなんと一汁だけで一菜が全くないのです

そして一汁は具のあるようなないような

薄い味噌汁でした

ただ、味噌汁からほのかに鰹のだし、の

日本の味が感じられましたが

… … …

葫蘆島の収容所まで

油でこてこてした中華風の

料理でしたので

この一汁とご飯だけの食事も、

まあ、しょうがないのでしょう

この一汁とご飯という食事が

朝、昼、夜と上陸まで続きました



日本の敗戦前から食料が逼迫して

すいとんとか芋づるの食事と噂で

聞いていました、えらいところへ

帰るのだなと思いました

… … …

当時の日本全体が

超粗食時代だったのです

… … …

しかし、私の82年の人生で最低の食事でした