喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

佐田岬(さだみさき)の小さな小さな郷(さと)の物語 ☆

2010-04-21 | 喜久家の情報
 佐田岬(さだみさき)の小さな小さな郷(さと)の物語。
  
 私のふるさとは、四国最西端の伊方町平礒(ひらいそ)。
日本一細長い佐田岬半島の先端にある。
地図で見ると、何か遠くを指さしているように見えるが、ふるさとの未来を指さしているようにも感じられる。
 世帯数は17戸、人口50人足らずの小さな小さな郷。
そのほとんどは、清見タンゴール、甘夏柑、デコポン、伊予柑などの柑橘農業で暮らしを立てている。
北風吹きつける冬、山は黄金色に色づき、実りの季節となる。
 
 海から空へとつづく段々畑は、海抜200メートル以上にわたり、碧石の石垣に支えられている。
先祖が一つ一つ海岸から背負って運び上げ築いたものだ。
きれいに切りそろえられた暴風垣とあわせ、古代の城郭遺跡のようでさえある。
豊かな太陽、ミネラルを含んだ潮風、適した土によって育まれた柑橘は、
味わう人に命を与える。
 
 「農業という生産のカタチがしっかりとした地域は、地域のカタチもしっかりとしている」
と言われるが、土を愛する平礒の人たちは、まじめで温かく、支え合って生きている。
 
 このふるさとの良さを感じるまでに長い時間がかかった。
自分の中のものさしが、便利か不便かにばかりとらわれていた気がする。
便利さを求めるがあまり、まちがなくした大きなものが3つあると思う。
それは、静けさ・暗闇・人とのつながり。
 何もないがゆえに静かな郷は、自然を十分に感じられるし、
自分をみつめる時間をたっぷりと与えてくれる。
 街灯が少ない郷の暗い夜は、月や星、蛍の光をより輝かせ、
明るい家族団らんの時をより恋しく思わせる。
 誰からも干渉されない生活も楽だが、「どうぞ」というおすそ分けのつながりは温かい。
 
 郷の風景は、30年前と比べてもほとんど変わっていない。
まるで時間が止まったような。
「不便だけれど、変わらないところが良さかもしれない」と思うようになった。
 
 一方で人口は、減り続け、空き家や作り手のいなくなった畑が多くなっており、
未来予想図は、決して明るいものではない。
それは、愛媛県内そして日本国内の多くも同じ状況になっている。
 
 地域人としてもっとできること、やらなければならないことはあるような気がする。

穀雨

2010-04-21 | ブログ
 昨日4月20日は、月暦でいう3月(弥生)7日。
二十四節気では、穀雨。
期間は、5月4日(月暦では3月21日)まで。
その翌日は、立夏となります。

 このころよく雨が降って、万物を生育させ、百穀をうるおします。

 七十二候では、穀雨は、3つの候(時期)に分かれていて、
第一候: 葦始生- 水辺では、葦が角のような芽を出し始める。
第二候: 牡丹華- このころ牡丹が豪華な華を咲かせる。
第三候: 霜止出苗- 霜もほとんどおりなくなり、苗代の稲苗が成長する。

 そういえば、最近ぐずついた天気が多いです。
 いよいよ、春本番です。

                    岬人(はなんちゅう)
        

都市と地方をつなぐ喜久家プロジェクト ~はまとん魅力発見プログラム~

2010-04-20 | 地域づくり

 喜久家には、いろんな人が訪れます。
3年前、たまたま縁あって、佐田岬半島を自転車でツーリングしていた東京大学自転車部の学生さんたち数名が、一晩泊まりました。
 彼らと出会って、東大生に対するイメージが大きく変わりました。
彼らは、実にたくましく、バイタリティーあふれていて、実行力がありました。

 その一人とは、今でもメールや年賀状のやりとりが続いています。
彼は今、東京大学大学院工学系研究科社会基盤学を学んでおり、景観研究室の修士。
北海道の浜頓別でおもしろい活動をしているのです。
くわしくは、
「はまとん魅力発見プログラム」
   http://www.sanshiro.ne.jp/hamaton/program.html

 昨日、メールが届きましたので紹介します。

『お久しぶりです!
元気にやっています。
メールをいただいてとても嬉しかったです。

 4月から修士2年になりました。
今は就活をしていて、都市・地域計画やまちづくりのコンサルタントをやってい
るような会社を考えています。
面接で何を話そうかと考えていて、今まで訪れてきたいろいろな地方を思い浮か
べつつ、
その中でもはじめに思いつくのが、「愛媛には愛がある」と言っていた浅野さんでし
た。
なんで、このタイミングでメールをいただきとてもびっくりしました。

 浅野さんたちのやっている喜久家プロジェクトはとても楽しみですね。
国内外から若者を呼んできて新しい風を地域に吹かす取り組みは、
平磯だけでなく、外からやってきた人たちの住む街も双方向的に元気にする試み
だと思っています。
 都市にはないものが地方にあって、
でも地方にはないものも都市にはあって、
それを互いに補完して、都市も地方も元気になっていくようななにか仕事に関わ
ればいいと思っています。

 ブログ拝見しました~。
喜久家のプロジェクトもどんどん賑やかになっていきますね。
僕たちはたまたま一晩泊まっただけで、まだ喜久家の活動をちゃんとしていない
なと思って。
学生のうちにぜひまた平磯を訪れたいと思っています。

 北海道のプロジェクトは、昨年の夏に東京から大学生を15人くらい連れて行き、
地元の方々や高校生達と一緒に1週間過ごし町の良さを発見・再発見するというワ
ークショップを行いました。
地元のNPOの方や、役場・高校の先生、高校生、商工会、酪農家や漁師さん、など
などいろいろな方達と話して、
非常に多様な視点を持ちました。
 それぞれの人たちにとって、それぞれの町があり、
その根底にはでもみなさん町をとても愛していると思いました。

 僕らの活動は昨夏で一区切り付けて、今は参加者が引き継いで今夏に向けてイベ
ントを行おうとしています。
 継続的に何かが動いていくことがとても大切だと思っています。
終わりがあることではないので、これからもまちがどうしたら元気になっていく
のか考えて行きたいですし、
なんらかのかたちで貢献していきたいと思っています。

 またぜひお話ししましょう!』


 1+1=2
ではなく、3にも4にもなるというのが、人のつながりのすばらしいところ。
将来彼ともまた、新しいワクワクするようなできごとが、
おこりそうな予感がします。

 人生って、楽しいですね!
                   岬人(はなんちゅう)



佐田岬から見た戦艦大和

2010-04-20 | ふるさと

 戦艦大和が佐田岬灯台沖を通った・・・

 そう思ったとき、
お腹の中に小さな鉛のかたまりが落ちていくような感触が生まれ、
それを飲み込む一瞬に、頬まで鳥肌が立っていきました。

 目をつぶると、私が何度も見たことのある岬の風景の沖合いに、
悲しい運命の中に静かに進んでいく大和の姿が見えるようで、
目を閉じておくことができません。

 かつて吉田満の「戦艦大和の最期」を読みながら、
若い生命が奪われる不条理に怒り、悲しんで流した涙以上に、
胸の深いところまで突き刺さる痛み。
 きっと、戦争を「実感」したのだと思います。

「想像」は出来ます。
でも、「実感」することは難しいんですね。

 この平和学習を経た中学生は、ふるさとの海をみつめるまなざしに、
深い光を宿していくことでしょう。

 瞳を閉じて見える未来は・・・
「鎮魂と誓いを胸に海を見つめる若い岬人」と
「いつも いつまでも変わらない ただ美しい海」。

 これは、おかけやさんからの書きこみです。
なんて、深い感受性なのでしょう。

 佐田岬の海は、西に沈む夕日に照らされて、オレンジ色に染まっています。


おりづるの旅プロジェクト ~戦没者を偲ぶ~

2010-04-19 | 教育

 おりづるの旅プロジェクトとして、三崎の傳宗寺の裏にある墓地を訪ね、
戦争で亡くなった方々を偲びました。
     
 戦没者のお墓は、その方の記念碑であり、祈念碑であると思います。

 いつ、何歳で、どこでなど、教科書では感じられないものを、感じることができました。
また、これまでのおりづるの旅プロジェクトの取組をふり返ると、
戦争で亡くなった方々の想いが感じられ、2度と戦争を起こしてはいけないという祈りや誓いの気持ちもわきおこってきました。

 子どもたちは、黙々と戦死者のお墓をながめ、メモをとっていました。
その後、メモを全体で確認しあいました。
わずか20歳すぎの本当に若い人たちが、祖国・ふるさとから遠い地で亡くなったということに気づいていきました。

 ぜひ、自分の地域に帰って、同じように戦争で亡くなった方々のことを感じてほしいと伝えました。
 戦争を知らない私たちに何ができるか。
それをさらに考えていきたいと思います。

                         岬人(はなんちゅう)


おりづるの旅プロジェクト ~戦没者慰霊之碑より~

2010-04-18 | ブログ
 昨年、戦没者慰霊之碑ができました。
ここには、先の太平洋戦争・日中戦争で亡くなられたふるさと三崎地域の方々の名前が刻まれています。
戦没者とは、戦いでなくなった戦死者、病気などで亡くなった病死者など、すべてを含みます。
 
 慰霊之碑は、旧三崎町の各地区ごとで亡くなった人を記しており、平礒では9名。
その中に、祖父浅野金太郎という文字も刻まれています。
 旧三崎町すべての地区を合わせると、471名の尊い命がなくなっています。
日本全体の戦没者数は、約240万人。
 
 明治時代以降の主な戦争での戦没者数を以下に記します。
(なお、数については、さまざまな資料により差があります)

1894~95  日清戦争(対中国):1万3249 人 
1904~05  日露戦争(対ロシア):8万7983 人
1914~18  第1次世界大戦(欧州大戦):1352 人
1931 満州事変(対中国):769 人
1937~45  日中戦争(対中国):20万 人
1941~45  太平洋戦争(対アメリカ・イギリス等):240万 人

 これを見ても、いかに太平洋戦争が壮絶なものであったかがわかります。
しかも、太平洋戦争では、これ以外に日本本土の空襲や原爆被災者など約70万人が亡くなっているのです。  

 おりづるの旅プロジェクトとして、この戦没者慰霊之碑から戦争というものを身近に感じていこうと思いました。
子どもたちは、真剣なまなざしで刻まれた名前を目で追っていました。
そして何人か、身内や親戚の方が亡くなられていたようです。

 最後に、一人一人がそれぞれの想いで、黙とうを捧げました。

                        岬人(はなんちゅう)


おりづるの旅プロジェクト ~男たちの大和~

2010-04-18 | ブログ
おりづるの旅 ~男たちの大和~ 

 戦後65年。
70歳になる私の父は、自分の父親が出征したときのことは記憶にないのです。
したがって私たちが戦争というものを想像することは、むずかしいことです。

 先日の授業では、映画「男たちの大和」の一部を観て、戦争について考えました。

 1941(昭和16)年12月、戦艦大和は、太平洋戦争開戦とほぼ同時に完成し、
世界最大最強を誇りました。
しかし、時代は戦闘機による空中戦の時代に変わっていき、
大和に大きな戦績はありません。

 1945(昭和20)年4月6日、桜の咲き誇る祖国(岩国の基地)を後に、
大和は永遠の海へ旅立っていきました。
その日の夜、豊後水道を南下します。
つまりふるさとの佐田岬灯台沖を戦艦大和や他の護衛艦が通ったのです。
子どもたちは、この事実に驚きます。
  
 一億総特攻の先駆けとして出撃し、
4月7日、鹿児島沖の東シナ海に沈められました。 

 乗艦した3010余名の乗務員たちの希みは、
ただ愛する人を、家族を、友を、祖国を守ること。
 映画では、その部分に焦点をあて、
亡くなった人たち・生き残った人たち・ふるさとの愛する人・家族・友の
やるせない悲しみと怒りと気高さが胸をうちました。
 戦死者2,740名、生存者269名または276名。

 涙する子どもたちもおおぜいいました。
私も涙をおさえることができず、ほほをつたって流れ落ちました。
 特に胸がしめつけられる場面があります。
それは、赤ちゃんを抱いた妻が陸から、はしけ船に乗った夫を見送る場面です。
その時の家族の想いを想像するとたまりません。

 出征した私の祖父金太郎と見送る家族の気持ちが、この場面と重なります。

 この映画のエンディング曲は、
長渕剛の「CLOSE YOUR EYES」
この歌詞もまた、祖父金太郎と残された祖母ミチエの想いが重なります。

『それでも この国を
たまらなく 愛しているから
もう一度 生まれ変わったら
私の名を 呼んで下さい
寒さに 震える夜も
流れる涙 つむぐ夜も
もう一度 生まれ変わったら
あなたを決して 離しはしない

私の胸の中へ帰っておいで
気高い あなたの勇気を抱きしめたい
ひそやかな海に咲いた白い花たちが
今 私のからだに折り重なる

close your eyes 瞳を閉じれば
あなたが私に 微笑みかけるよ
close your eyes 瞳を閉じれば
希望へかけのぼる あなたが永遠に生きている

それでも この道を
耐え忍び 歩いて来たから
もう一度 生まれ変わったら
あなたの名を 呼んであげたい

夕暮れに しなだれて
必ず 明日が来るんだと
もう一度 生まれ変わったら
あきらめないで 待ち続けたい

私の胸の中へ帰っておいで
気高い あなたの勇気を抱きしめたい
ひそやかな海に咲いた白い花たちが
今 私のからだに折り重なる

close your eyes 瞳を閉じれば
あなたが私に 微笑みかけるよ
close your eyes 瞳を閉じれば
希望へかけのぼる あなたが永遠に生きている』

 命のたすきリレーをつながれた私たちは、
たくましく生きぬいていかなければなりません。
 
 瞳を閉じると、どんな未来が見えてきますか。

               岬人(はなんちゅう)




おりづるの旅プロジェクト 

2010-04-18 | ブログ
 昨年、四国最西端の伊方町立三崎中学校では、「おりづるの旅プロジェクト」というものをスタートさせました。
 広島に「アント・ヒロシマ」というNGOがあります。
すごい平和活動・国際協力をされている団体で、代表が渡部朋子さん。
笑顔のすてきな、心のひろーい女性です。
 このアント・ヒロシマとの連携・協力で、三崎中学校の2年生が広島平和祈念公園で平和学習をしました。
その時の様子は、アント・ヒロシマのブログにのっていますので、ごらんください。
 http://ant.blog.so-net.ne.jp/

 被爆された岡田恵美子さんの体験を聞かせせていただきました。
悲しさと、むなしさと、たくましさと、さまざまな気持ちが入りまじり、
多くの中学生が涙しました。

「この想いをぜひ、ふるさと三崎の人たちにも届けたい。
平和に向かっての一歩を踏み出したい。」
そんな子どもたちの想いが、伊方町の協力もあり、地域講演会というカタチで実現しました。
渡部朋子さんと岡田恵美子さんに三崎へ来ていただき、講演会を行ったのです。
 
 講演会に向けての企画・準備・運営は、子どもたちが行いました。
チラシづくり、配布(3000枚)、マスコミへの広報、事前学習、学習情報の伝達、
講師とのうち合わせ・連絡、会場デザイン、会場設営、講演会進行、その他運営、
講演会後の報告と伝達など。
 この取組は、マスコミにも大きく取り上げられ話題となりました。

 「おりづるの旅プロジェクト」という名は、佐々木サダコさんのおりづるからきています。
サダコのおりづるは、平和の使者として、世界中を旅していくというストーリーです。
三崎中学校でもこの取組を続け、平和のメッセージを発信し続けていきたいと考えています。

 このおりづるの旅については、さまざまな感動秘話があります。
このお話は、少しずつしていきたいと思います。

                          岬人(はなんちゅう)

昭和の男

2010-04-17 | ブログ
 先日、4月15日は、父の誕生日でした。
1940(昭和15)年生まれの70歳。

 昭和を生きた人たちは、波瀾万丈の人生が多いようです。
父武久は、金太郎とミチエの長男として生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父そして妻(ミチエ)をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はありません。
祖母ミチエやおばさんの話によると、
父は、金太郎からよく肩車をしてもらっていたそうです。
出征の日も最後の肩車をしてもらい、
「父ちゃんといっしょに行く!」と言って泣きながらしがみつき、離れなかったそうです。
 1945(昭和20)年、5月。
終戦3ヶ月前、金太郎は、東北沖の輸送船に乗りこんでいたところを撃沈され、帰らぬ人となりました。
 高校3年生の時には、金太郎亡き後の父がわりとして育ててくれた鶴松もこの世を去ります。

 灘の酒造会社に就職が決まっていたにもかかわらず、
家や家族をまもるために平礒に残り、以来半世紀にわたり農業一筋に生きてきました。
新しい家庭を築き、家を建て、そしてお墓をうつし改葬するなど、
1つ1つ着実な人生を築いてきました。
 私たち子どもにとっては、寄りつけないような厳しさがありましたが、
私の子どもにたいしては、やさしいおじいちゃんなのです。

 平成になりはや22年。
昭和という響きさえ、遠い過去のように聞こえます。
 激動の昭和を生きてきた人たちには、
悲しさと強さとやさしさが感じられます。

                       岬人(はなんちゅう)

ニューヨークからの便り

2010-04-17 | 喜久家の情報
 喜久家を旅立った若者たちは、今どこで、どうしているでしょう。
そんなことをよく思います。
その数は、毎年増えていっています。
 そうしてたまにメールをしたり、届いたり。
 
 2年前「レイセン」というニューヨーク生まれの若者が喜久家に来てくれました。
3ヶ月いたのですが、小がらながら、とってもよく働く、礼儀正しい、やさしい人でした。
見た目は、ハリーポッターのような。
(写真まん中の黒いTシャツを着た若者。)
 
 その間、国際ワークキャンプがあったり、
それが終わったあとは、韓国のロビンやドイツのジャナイといっしょに暮らしていました。
レイセンのまわりには、いつも笑顔が絶えませんでした。
それは、レイセン自身がいつもそうだったからです。

 レイセンから届いた2つのメールを紹介します。 

『☆4月14日のメール

 お元気ですか。 
桜がいま咲いていることでしょう。
ニューヨークでは、桜もあるし、ほかの花のある木も多いです。 
とてもきれいです。 

 いいニュースがあります。 
カナダのトロント大学の申し込みに合格しました。 
9月から始まります。 
物理学を勉強するつもりです。

 ヘミちゃんが伊方に戻ってきたって聞きました! 
楽しそうてすね。 
僕も行きたい。 
 来年の夏日本へ行けるかもしれません。
では、またね! みんなさんによろしくを!


☆4月16日のメール
 
 今でも連絡とっているのが、自分もとてもうれしいです。 
喜久家に住んでいた時が、自分の人生で一番想いで深い時でした。

 できれば、ぜひトロントに来てください! ご案内します。 

 ブログすごいですね。 日本語を読むのが遅いんですけど、少しずつ読んでみます。 
喜久家のニュースをいつも聞きたいです。 
私のことを書いてくれるとは、光栄です。

 将来の思いもあります。 
卒業したら、農業をしようと思っています。 
やはり、平礒でその興味が始まりました。
あれからもっと農業について習いました。 
特に有機農業と都市農業に興味があります。 

 石油がだんだんなくなってしまうので、輸入とかができないほど高くなってしまいそうです。 
なので、地場産業がますます必要になりそうです。 
ご飯は一番必要なので、地場農業を伸ばすことがとても大切だと思います。

 ちょっと聞きたいことあります。 
きちさぶろうさんとつねきちさんの住所を送っていただければ、本当にうれしいです。
またメールします。
 では、レイセン』

 どうですか。
本当、うれしいです。
大都会ニューヨークで、桜を見ながら日本の平礒を思いだし、
将来は、農業をやってみようと考えているとは。
 ニューヨークやカナダのトロントへ会いに行きたくなります。

 世界が小さく・近く感じたメールでした。

                     岬人(はなんちゅう)

ピンチはチャンス ☆

2010-04-16 | ブログ
 四国最西端の小さな小さな三崎中学校。

 部活動、ソフトテニスをとおして人生の道を学ぶ。
「ただの部活動と思うな。人生と思え!」です。

 部活動では、良いこともあれば、悩むこともあります。
まさに人生の縮図なのです。
 子どもたちより、ちょっと長く生きていて、多くの経験をしている私たち大人は、
そこで得たことを子どもたちに伝えていかなければなりません。

 ここ最近、チームが、ごたごたしている感じがしています。
それは、思ったようなプレーができない。
試合に勝てない、ことが原因。

だから、勝ちたいと思うがあまり、自分や自分のペアだけにしか目がいっていない者。
自分のことを見つめる勇気をもたず、他の人ばかりを責める者。
傷つくのがこわくて、何も言おうとしないか、陰口を言う者
結果などわかりもしないのに、もう勝てないと思ってしまっている者。

 そんな悪い考え方の習慣がついてしまうと、人生の多くにおいて苦しむことになります。そして、大切な周りの人を苦しませることになります。
 「そんな生き方でいいのか!」

 今のピンチは、次へのチャンス!真の成長とは、失敗の後にあると思います。 
今こそ原点に戻るとき。
「私たちなら、できる!」と。
 
 そこで、子どもたちに次のような言葉をプリントで伝えました。

『私たちはできる!
負けそうだなと思うと 私たちは負ける
もうダメかなと思うと そこからダメになる
できると思う心のどこかに 無理かもしれないという心がある
そして次から次へ 無理かもしれないという心が出てくる
失敗しそうだなと思うと 私たちは失敗する
不安が不安を生み 焦りが自信を失わせる

夢をつかんだ人たちをみてみよう
最後まで夢を追い続けた人たちだけが 
最後まで自分たちを信じ続けた人たちだけが
夢をつかんでいるではないか
すべては 私たちの「心」が決めるのだ
もし私たちが願い続けるなら 私たちはそのとおりの人になる

さあやろう 強い人たちが夢をつかめるとは限らない
頭のいい人たちが夢をつかめるとも限らない
「私たちはできる!」
そう信じ続ける私たちだけが 夢をつかめるのだ』

 「雨降って、地固まる」
ここが正念場です。
                  岬人(はなんちゅう)
                      

音のある風景 ☆

2010-04-16 | ブログ
 音のある風景は、ありますか。

 ある音を聞くと、思い出の風景がうかびあがってくるような。
昨日4月15日は、ふるさと平礒の春祭りでした。
春祭りといっても、神社で神事が行われ、
写真のような幟(のぼり)が立てられるだけのものです。

 久しぶりに祭りの日中にいあわすことができました。
遠い過去と同じように、いつもと変わらず、いつものように幟が立っていました。

 その時です。
幟が風にあおられ、柱がこすれる音がしました。
「ギー、ギュー、ギーコ」
その音を聞くと同時に、昔聞いた記憶が。
そしてその風景が、よみがえってきたのです。

 音のある風景、大切にしたいふるさとの音です。

                       岬人

オレンジのある生活☆

2010-04-14 | ブログ
 双海で開かれたオレンジデーイベントで、
喜久家プロジェクトの清見タンゴールを買っていただいた方から、
とってもすてきなメールがありましたので紹介します。

『お陰様で、部屋にオレンジの香りが漂う嬉しい毎日です。
 慌てて冷蔵庫に入れたたくさんの「きよみちゃんゴール」
(←娘が呼ぶとこうなります)・・・
でも、なんとなく目に入るところに置きたくて、
一つだけ、キッチンのカウンターに載せています。
 
 なめらかなのにゴツっとした手ざわりからは、
農家の方の真面目さと寡黙な働きぶりが、
清らかであざやかな香りからは、明るさとおおらかさが伝わってきます。
 
 一つの果実に、作り手を感じることが出来るご縁を下さったみなさんに、
感謝をこめて。』

 
 こんなすてきなメールでした。
作り手の農家さんにとって、これほどうれしいことはありません。
本当、土を愛する人たちなのです。

 オレンジのある生活って、いいものですね。

                       岬人

愛媛県で一番古い木づくりの学校 ~翠小学校~

2010-04-13 | ブログ
 翠(みどり)小学校 ☆

 愛媛県人でも知らない人が多い、こんなすてきな学校があるんです。
現存する木造校舎では、愛媛県一古い。
昨年、耐震工事そして何と地球と人にやさしいエコ改修を終え、スタートしています。

 残せる柱や部分はそのまま残し、新しい光とりの天窓や、空調、ソーラー発電などは
取りつけるという、まさに絶品の学校。
全校児童数は、何と20名少し。

 玄関前の二宮金次郎像もなつかしく。

 オレンジデーイベントを終え、立ち寄った翠小学校。
エレナ、藤井君、久保さん、エレナもあまりのすてきさに大喜び。

 今はありませんが、私が入学した三崎町立釜木小学校の思い出が、
走馬燈のようによみがえってきました。
なつかしくて、心がキュンとする想いで翠小学校をあとにしました。

 そして話は、まだ終わらず、
最後にとどめのできごとが3分後に待っていたのです。 
今日は、ここまでにしておきます。

 予告として、
「石窯(いしがま)だからおいしい! 石窯香房みどり」

                   岬人(はなんちゅう)
 

清見タンゴール

2010-04-13 | ブログ
 三崎の清見タンゴールは、全国ブランド

 「夕日がたちどまる町」双海でのオレンジデーイベントに、
喜久家プロジェクトも参加しました。

 みんなで準備し、営業し、かたづけをしました。
協働のすばらしさ。

 すてきな笑顔の写真です。
喜久家国際ワークキャンプに参加してくれた大学生の久保さん。
自転車で日本1周をめざしている藤井君。
そして、喜久家ボランティアのイタリア出身のエレナ。

 さまざまな「ちがい」と「同じ」をもったすばらしい仲間です。
藤井君は、16日。
エレナは、25日が旅立ちの日です。

                     岬人(はなんちゅう)