内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「後の世を渡す橋」―『おくりびと』と『納棺夫日記』との間に画すべき一線

2023-12-07 12:55:46 | 講義の余白から

 昨日の授業では、映画『おくりびと』と青木新門の『納棺夫日記』(文春文庫、増補改訂版、1996年)を取り上げ、両者の間にある重要な差異を話題にした。
 『納棺夫日記』を『おくりびと』の原作と紹介することは、作者の青木新門自身の意志からしてできない。なぜ青木は原作者としてクレジットされることを拒否したのか。その理由は青木自身が『新潮45 eBooklet 教養編9』(2010年、初出『新潮45』二〇〇九年四月号)のなかで詳しく説明している。

ついに、『おくりびと』の制作が決まった時、脚本が送られてきました。これを読んで、私は原作者から私の名前を外すよう頼みました。映画『おくりびと』と私の著書『納棺夫日記』との間に一線を画すべきだと考えたからです。

 その妥協できない一線を説明するために、恵心僧都源信の母が源信に送ったとされる和歌「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき」を青木は引く。この和歌は、『恵心僧都物語』の次のような説話のなかに出てくる。源信は弱冠十五歳の頃、当時の村上天皇の前で仏法を説く講師に選ばれ、下賜された褒美の品を、一人故郷で暮らす母親に送ったところ、母は、上掲の和歌に「まことの求道者となり給へ」と一言添え、下賜された褒美を源信に送り返し、諌めたという。

 私は「後の世を渡す橋」の一助になればと『納棺夫日記』を著しました。しかし、映画『おくりびと』では、主人公が「世渡る」納棺夫として描かれていたからです。つまり、職業としての「納棺夫」の側面しか伝えきれていないと感じたのです。映画では、宗教や永遠について考えた第3章にあたる部分がまったく触れられていませんでした。
 死者をどこへ送るのか。その行き先がわからなければ、安心は得られません。この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのです。
 『納棺夫日記』と『おくりびと』は着地点が違っていました。だから、映画から原作者の名前を外してもらったのです。

 だからといって、青木は映画『おくりびと』を否定しているわけでも、批判しているわけでもない。むしろ次のように高く評価している。

『おくりびと』は、滝田洋二郎監督が名伯楽となり、役者たちの力を引きだし、風景も美しく、ヒューマニズムに満ちた良い映画だと思います。

『おくりびと』が世界から認められ、そこに描かれた日本の「死」が癒しとして受け入れられたのは、この映画が、現代人が忘却していた人と人との絆、家族の絆、死者と生者のつながりという当たり前のことの重要さを気づかせてくれたからではないでしょうか。

 そして、この文章を次のように結んでいる。

死者との応接はどうすべきなのか? この問いは、世界のどこに生きていても課題となる普遍性のある問いなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アニミズムと一神教についての問いかけ ― 上田正昭『死をみつめて生きる』より

2023-12-06 23:59:59 | 講義の余白から

 「日本の文明と文化」という日本語のみで行う授業で、今学期後半、日本のテレビドラマや日本語の書物を通じて、「日本人の死生観」というテーマについて話してきた。話の合間にいくつかの質問を学生たちに投げかけ、それに対する答えを日本語(日本語では難しすぎるときはフランス語)で書いてもらいながら授業を進め、授業の終わりにその回答を回収した。試験ではないし、成績にも加味しないし、君たちがどんなことを考えているか知りたいだけだから、簡単に答えられる範囲で気軽に書いてくれればいいと予め伝えておいた。
 授業中に読んだテキストの理解度を測る質問はおのずと答えが決まっており、正しい答えかそうではないかがはっきりしているが、それだけに興味深い回答というのは少ない。的確に答えられているかいないかだけの違いしかない。
 それに対して、学生たち自身の考えを書いてもらう質問は、回答がそれぞれ異なり、それだけ興味深い。
 上田正昭の『死をみつめて生きる』の以下の箇所を授業で読んだ。

 万有生命信仰は人類学者や宗教学者らによってアニミズムとよばれてきた。アニミズム説を提起したのはイギリスの人類学者タイラーで、一八七一年の『原始文化』のなかで、宗教の起原を論じ、(1)生きているものには霊魂があると信じ、(2)肉体を遊離して飛びまわる精霊(遊離魂)の存在を信じた宗教のもっとも原始的なものは霊的存在(spiritual being)に対する信仰であると力説した。そしてそれは未開人の世界観・人生観ともいうべき一種の人生哲学であり、諸物・諸現象の説明原理になると指摘した。その後ピアジェ(J. Piaget)などの研究もあるが、ひろく支持されてきたといってよい。
 だがアニミズム的信仰が原始・未開であり、唯一絶対の一神教が、宗教や信仰のもっとも発達したありようということができるであろうか。

 上田正昭によるこの最後の一文の問いかけに対して、「あなたはこの問いにどう答えますか」と学生たちに質問した。
多くの回答が、一神教を頂点とする階層化された宗教観に異を唱えていた。その根拠はほぼ同様で、それを簡単にまとめると以下のようになる。
 一神教が支配的になったのは、宗教そのものの内在的価値に拠るのではなく、歴史的理由に拠ることであり、それは自然に対する一定の態度(種差別主義など)を内包しており、その態度はその宗教に拠って正当化されるものではない。それに対して、歴史的に一神教よりも古い信仰形態としての「原始的な」アニミズムと人間の自然に対する一般的態度としてのアニミズムとは区別されるべきで、後者は原始・未開ではなく、人間の自然・宇宙に対するより根源的な関係に関わる問題である。
 回答に認められるこのような一定の傾向性は、学生たちの現代世界に対するある共通の見方を反映している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日仏合同遠隔授業第三回目 ― 現実の問題と向き合う哲学的思考のための演習

2023-11-21 09:05:56 | 講義の余白から

 今朝、こちらの時間で午前5時10分から6時50分まで(日本時間では午後1時10分から2時50分まで)、日仏合同遠隔授業の第3回目がZOOMを使って行われた。私たち教員2人を含めて39名出席。欠席者はストラスブール側の1名のみ。
 今回は、4つの日仏合同チームそれぞれのサブチーム3つの代表に中間報告をしてもらった。だから合計12の報告があった。このようにサブチームを作らせたのは今回がはじめてだった。その理由は、3、4人の小さなチームでのほうが連絡を密に取り合うことができ、話がまとめやすいということである。これは狙い通りであった。各サブチームですでに話し合いを重ね、問題意識がよく共有されており、今後の計画もみなしっかり立てている。全体として期待以上の進展が見られた。
 各サブチームの代表が発表するように先週指示したとき、代表は日本側でもフランス側でもよしとしたのだが、発表者はおそらく全員日本人だろうと予想していた。そのほうがまとめるのも簡単だからである。ところが、あるチームは、3つのサブチームの発表者が全員フランス人だった。しかも、この短期間にパワーポイントも準備してあり、要点が明瞭簡潔に示されていた。これは発表の準備に日本人学生たちがよく協力したからこそであり、それだけチーム全体としてよく機能していることを意味している。これには特に感心した。
 生命倫理、動物倫理、肉食主義という、彼女ら彼らが今までよく考える機会がなかった問題について、参考文献を自分たちで探しながら、それらから得られた知見に基づいて話し合い、その過程で問題がより明確化し、日仏のさまざまな相違点も浮かび上がり、これら三つのテーマの相互連関性も自ずとよりよく見えるようになってきている。
 一方で、哲学・倫理学の基礎概念に立ち戻って問題の大枠をより堅固なものとしつつ、他方では、現実世界の具体的な諸問題・諸事例についての情報を収集することで抽象的な一般論に陥らないように注意する。それらの作業を通じて限定された問題を考えることが、実は哲学的思考の演習になっていることに学生たち自身が気づき始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死生観の歴史的考察から出発し、テキスト分析を経て、自分に向き合う実存的な問いへ

2023-11-15 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の授業形式はかなりうまくいった。まず授業の主題について主旨説明をしてから、テーマごとに六つの質問を提示し、その答えを探しながら私の説明を聴くように学生たちに指示した上で、一つのテーマについて十五分くらい説明する。それから学生たちに十分ほどで質問に対する答えを書かせる。日本語でもフランス語でもよしとした。要は内容をよく理解することにあるからだ。このパターンを三回繰り返したところで授業終了時刻となった。一つ残されたテーマについては、昨日の記事にリンクを貼ったサイト「toibito トイ人」に自分たちでアクセスして、島薗進氏へのインタビューを最後まで読んだ上で、質問への回答を書いてくることを宿題とした。
 当のインタビューでの島薗氏のインタビュアーへの回答は、それぞれが本来は大きな諸問題について、かなりざっくりとした、あるいは極度に単純化された説明になっていて、それらを学生たちに鵜呑みにされては困るので、その点については説明の過程で再三注意を促した。彼らがどう受けとめたかは来週にならないとわからないが、授業中の印象は悪くなかった。予想以上に集中して私の説明を聴いてくれた。知識を提供することではなく、自分たち自身で問題を考えるきっかけを学生たちに与えることが今日の授業の目的だったが、それはかなりよく達成されたように思う。
 日本人の死生観というテーマを扱うにあたり、さしあたり三つの論脈を分けて考える必要がある。
 一つは、死生観を生と死に関する基本的な考え方と単純に規定した上で、その内容の時代的な遷移を追う歴史的考察の論脈である。この論脈では、死生観という言葉が使われているかいないかに関わりなく、生と死に関する基本的な考え方が表現されているすべてのテキストだけでなく、その考え方を表現している、あるいはそれに基づいている民俗・慣習・儀礼等も考察対象となる。
 一つは、死生観という言葉そのものが使用されている文脈そのものにおいて、その言葉が何を意味しているかを考察するテキスト分析である。と同時に、そのテキストがどのような時代状況の中で書かれ、それとどのような関係にあるかも考察対象となる。島薗氏が指摘しているように、「死生観」という言葉が一般に使用されるようになるのは加藤咄堂の『死生観』(井冽堂)が刊行された明治三七年(一九〇四)以降のことである。つまり、二十世紀に入ってからのことである。それ以降、「死生観」という言葉はどのような意味を担わされてきたのか、「死生観」という語をタイトルに含んだ書籍や死生観という語を多用する書籍が今日に至るまでかくも盛んに日本で出版され続けているのはなぜかという問いもこの論脈には含まれている。
 そして、もう一つは、自分自身の死生観を自ら問うという論脈である。上掲二つの論脈の考察を経た上で、自らに自らの死生観を問うという、いわば実存的考察がここでは求められる。この三つ目の論脈は授業で取り上げる時間は残念ながらないが、授業を通じて学生たちが自らに自らの死生観を問うところまで導くことができれば、この授業の目的は達成されたことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人の死生観を授業で正面から取り上げる ― 島薗進『死生観を問う』を教材として

2023-11-14 18:09:42 | 講義の余白から

 日本人の死生観は、私がかねてから授業で本格的に取り上げたいと思っているテーマの一つである。
 過去二年間にも、三年生の「日本の文明と文化」という授業で取り上げてはきた。ただ、この授業は日本語で行うということもあり、それほど立ち入った話はできず、しかも私が話してばかりだと、学生たちの集中力もすぐに切れてしまうので、日本のテレビドラマや映画を教材として利用し、それはそれで興味を持ってくれた学生たちもいたのだが、日本人の死生観というテーマに真正面から向き合っているとは言い難かった。今年度末で終了する五年間のカリキュラムの枠の中では、他の担当授業でこのテーマを扱うこともできなかった。来年度からの五年間のカリキュラムには「日本思想史」という授業が新たに導入されるので、そこでは何回かこのテーマを扱うことができることを今から楽しみにしている。
 それはそれとして、いろいろ思案した挙げ句、今年度後期は研究休暇で授業を持たないこともあり、この前期の「日本の文明と文化」に残されているあと三回の授業(その後の二回は学生の口頭発表に当てるので、もう授業はできない)で、「日本人の死生観」というテーマを正面から取り上げることを今日決めた。日本語だろうがフランス語だろうが、私がもっとも話したいと思っているテーマを取り上げるのがこの授業の主旨に相応しいと今更ながら考え至ったからである。
 といっても、ただ一方的に話すのでは、学生たちの関心を高めることもできない。それに、そもそも若い彼女・彼らたちが自ずと死生観に関心を持ってくれるとは考えにくい。いや、死について考えることを嫌う学生たちもいる。
 だが、日本への関心が現代日本の社会や文化の表層的な傾向や事象に偏りがちな学生たちに対しては、もう少し腰を据えて、長い歴史的な視野の中で、日本の文明と文化の深層へと問題意識を深めてはくれないかと密かに願ってきた。だから、今回の決断は、私にとって一つのチャレンジなのである。
 しかし、なんの参考文献もなしに話すわけにもいかない。先週の授業では、五来重の『日本人の死生観』(講談社学術文庫、2021年。原本、角川書店、1994年)の一部を紹介した。名著ではあるが、さすがにこれは日本語のレベルが高すぎるし、その民俗学的な考察の解説は容易ではない。
 さて何かよい参考文献はないかと探していたところ、幸いなことに、先月、現代の宗教現象研究の第一人者である島薗進氏の『死生観を問う 万葉集から金子みすゞへ』(朝日選書)が刊行された。すでに死生観をめぐる著作を何冊か出版され、「toibito トイ人」というサイトには「日本人の死生観」というタイトルで氏へのインタビューが四回に分けて掲載されてもいる氏が、古代から現代まで文学作品のなかに日本人の死生観を探った本書は、まさに教材として相応しい。
 明日の授業では、まず上記のインタビュー記事から要点を取り出すことを導入とし、補助教材として、上田正昭『死をみつめて生きる 日本人の自然観と死生観』(角川選書、2012年)からの抜粋を読んだ上で、『死生観を問う』の読解へと入る。もっとも、読解といっても、本書のなかから選んだ数節に私が解説を加えていくという形になる。解説は全部日本語で行うから、話が一方的にならないように、学生たちには、話の区切りごとに、いくつか問題を出し、その解答を書いてもらいながら、授業を進めていくつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


和文仏訳問題(下)

2023-11-12 15:19:30 | 講義の余白から

 まず、昨日の記事の最後に載せた出題文をふりがなと語彙抜きで再掲する。

歴史を学ぶことは、歴史上のできごとや年号とか人物のことを暗記することと錯覚している人々が多い。しかしそれは全くの誤りである。過去の史実を正確に認識して現在をよりよく理解し、そして未来を自分なりに展望するために歴史を学ぶのである。

 第一文は、完全な誤訳というのは少なかったが、それでも「歴史を学ぶことは」の扱いで躓いている答案は少なくなかった。どこで躓くのか。
 一年のときに「は」は提題であって主語ではないと教わる。それはそれでよいのだが、その提題がつねに文全体を支配すると思い込んでいる学生が多い。しかし、この文の場合、「は」の支配は「暗記すること」までである。言い換えれば、提題は、錯覚の内容に含まれている。そして、「歴史を学ぶことは~暗記することと錯覚している」は「人々」を修飾している。いわゆる「連体修飾」である。つまり、この文は、[[歴史を学ぶことは~暗記すること]と錯覚している]人々が多い、という入れ子構造になっている。この構造を正確に把握するのが学生たちには必ずしも容易ではないのである。
 さすがに第二文はまるで間違っている訳はほとんどなかったが、「全く」が訳せていない答案は多かった。私自身は普通「まったく」とひらがなで書くが、ここを敢えて原文のままにしたのは、ひらがなにしてしまうと、「まったく」という副詞を知らない学生にはお手上げだから、「全」という一年生で学習している漢字を残し、たとえ副詞「まったく」を知らなくても、漢字「全」の意味から推量する余地を残すためである。それでも正しく訳せなかった学生たちには、「君たち一年生のときいったい何を勉強したの」と聞いてみたい。
 もっとも出来が悪かったのは第三文である。確かに一番長く、連用節同士の関係を正確に把握するのがそれだけ難しい。それに、この文には、文法的な規則のみによってそれらの関係を一義的に決定できないという難しさがある。つまり、「過去の史実を正確に認識して」「現在をよりよく理解し」「そして未来を自分なりに展望するために」という三つの連用節相互の関係をどう理解するかという問題である。
 一番単純な解釈は、三者を並列とする解釈である。つまり、「過去の史実を正確に認識する」「現在をよりよく理解する」「未来を自分なりに展望する」という三者それぞれを「歴史を学ぶ」目的の構成要素とする解釈である。実際、そう解釈した訳がいくつかあった。
 しかし、原文は、「過去の史実を正確に認識して現在をよりよく理解し」となっていることから、これらをひとまとまりの連用節としてとらえ、その内部で第一連用節が第二連用節を修飾していると解釈することもできる。そして、おそらく、これが著者の意図に沿った解釈である。つまり、過去の史実を正確に認識するのは、それ自体が歴史を学ぶ目的ではなく、過去の史実の正確な認識は現在をよりよく理解するためであり、それが歴史を学ぶ目的だという考え方である。
 第三の連用節「未来を自分なりに展望するために」との関係をどう理解するかという問題がそこに加わる。「未来を自分なりに展望する」ことは、「過去の史実を正確に認識」することによって「現在をよりよく理解すること」を前提としていると解釈するのが妥当であろう。
 これらの諸関係を正確に把握することができてはじめて、それらを訳に反映させることできる。これら一連の構文解釈が日本語学習者にはそんなに簡単なことではないのである。
 もう一つの難しさは、読点の機能の理解である。この問題は、日本語には読点に関してちゃんと確立した規則がなく、書き手によって用法が違うだけにやっかいである。問題文に即して言うと、「過去の史実を正確に認識して現在をよりよく理解し、そして未来を自分なりに展望するために歴史を学ぶのである」という文を、読点の前後で二つに分けてしまっていた訳がいくつかあった。つまり、「歴史を学ぶ」目的は「未来を自分なりに展望する」ことのみにあり、読点の前の部分は、その前提としてしまっていたのである。文法的には、このように二つに分けることを間違いだとは言えない。しかし、内容的には支持し難い解釈である。これは構文把握の問題ではなく、内容の知的理解の問題である。
 日本人にとってはなんら躓くところのないような「平易な」文章のなかにも、外国人学習者にとっては「躓きの石」となる問題がこれだけ詰まっているのである。

 以下が模範解答。

Nombreux sont ceux qui pensent par méprise qu’étudier l’histoire signifie apprendre par cœur des événements, des noms d’ère et des personnages historiques. Or, c’est complètement faux. Nous étudions l’histoire afin de reconnaître avec précision les faits historiques passés pour mieux comprendre le présent, puis d’envisager l’avenir à notre manière.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


和文仏訳問題(上)

2023-11-11 23:59:59 | 講義の余白から

 最後まで後回しにしていた二年生の試験の採点作業にようやく取り掛かる。答案は54枚。問題は、一番が語彙問題、二番が記述式解答、三番が和文仏訳。採点を始めてみると、思ったより速く捗る。この調子なら明日午前中には終えることができる。
 出来には相当にばらつきがある。よく授業内容を復習したことがわかる優秀答案が三割程度ある一方、あきらかに何の準備もせずに試験を受けに来ただけのスカスカ答案も同じくらいある。ただ、後者は採点が楽だから、それらの答案の主たちに実は密かに感謝している(いつもアリガトね)。
 意外だったのは、三番の和文仏訳の出来の悪さである。易しすぎる出題だったかと心配していたのだが、こんな文章さえまともに訳せないのかと驚かされる結果となった。完全解答はたった一人。ほぼ完璧を含めても数人しかいなかった。
 私は日本語の授業は担当していないし、一年の授業は持っていないので、今の二年生の日本語力については同僚から聞いている全般的な評価しか知らない。確かに、学年途中での脱落者が例年になく多い学年だとは聞いていたが、今年度の私の授業に関しては、出席率もよく、授業態度も好ましく、授業中の反応も良かった。だが、日本語の読解力そのものについては、どの程度なのかよくわからないままに出題した。出題したこちらとしては、易しい問題をプレゼントしたつもりだったのだが。
 出題文は、ある高名な歴史家の一般向け書籍から取ったものである。ごくわずかだが、漢字をひらがなに変え、表現を省略したところがあるから、さらに元の文よりさらに易しくなっている。しかも、二年生がまだ習っていない漢字にはふりがなを振り、未学習の語彙には仏訳までつけるというサービスぶりである。つまり単語レベルでは、意味のわからない言葉はほぼないという条件で訳させたのである。
 以下がその出題文である。

歴史を学(まな)ぶことは、歴史上(じょう)のできごとや年号(ねんごう)とか人物(じんぶつ)のことを暗記(あんき)することと錯覚(さっかく)している人々が多い。しかしそれは全(まった)くの誤(あやま)りである。過去の史実(しじつ)を正確(せいかく)に認識(にんしき)して現在をよりよく理解し、そして未来を自分なりに展望(てんぼう)するために歴史を学ぶのである。

年号:nom d’ère 人物:personnage 暗記する:apprendre par cœur 錯覚する:penser par méprise 誤り:faute 史実:fait historique 正確に:avec précision 認識する:reconnaîtr 展望する:envisager

 いったこの出題文のどこが難しいというのか。学生たちの悪訳から、彼らにとってどこが難しかったのか、逆に教えられる結果となった。


思想史への存在論的観点の導入の試み ―「遊び」のコスモロジー

2023-11-10 23:59:59 | 講義の余白から

 11月1日水曜日の「諸聖人の祝日」前後の一週間の休暇が明けて最初の週日が今日金曜日で終わる。
 休暇前には、二時間の授業がそれぞれ午前と午後に一コマ、その間に二時間のオフィスアワーがあって、午後の授業が終わるのは四時だった。その時になってようやく解放された気分になった。
 ところが、休み明けからはもう二年生向けの午後の授業を担当しないので、正午に午前中の一コマが終わると、すでに解放感があり、単に拘束時間が二時間減ったという以上に気分が軽くなった。
 正午からのオフィスアワーには、来年度の日本留学の件について面接を希望していた学生二人が順に来て、さらにもう一人日本留学の願書作成についてのアドヴァイスを受けにきた学生もいて、その学生が帰ったときには二時を少し回っていた。その後に授業がないから時間を気にせずに話せた結果である。
 午前中の授業では、近代日本の民主主義的思想の近世における萌芽というテーマの下、江戸時代の会読について前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー、2018年。初版、平凡社選書、2012年)に主に依拠しながら話した。本書を授業で読むのはこれで五年連続になる。パワーポイントは年ごとにヴァージョンアップされ、二回に分けても話しきれないほど内容的には充実させることができている。
 本書に引用されているロジェ・シャルティエの『読書の文化史』、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は、引用箇所以外からもフランス語原文で参考になる箇所を紹介する。同じく本書に引用されているホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の一節の仏訳も示す。これらの箇所への学生たちの関心は高い。
 授業では、ホイジンガとカイヨワによって開示された遊びの文化史的意義を会読の場合に適用する前田書の議論の枠を超えて、前田書では言及されていないオイゲン・フィンクの『遊び―世界の象徴として』(Spiel als Weltsymbol, Kohlhammer, Stuttgart, 1960)の仏訳 Le jeu comme symbole du monde, Les Éditions de Minuit, 1966 からもかなり長い引用する。なぜなら、世界内存在として世界へと開かれた人間とその世界との間のダイナミックな表現的関係の変容の場として遊びを捉えたフィンクの観点から視ると、遊びとしての会読がなぜ参加者たちの間に関係変容を引き起こし、その変容が幕末の志士たちの「横議・横行」(藤田省三「維新の精神」参照)へと繫がっていったかをより説得的に説明できるからである。
 このアプローチは、授業の枠を超えて、思想史への存在論的観点の導入の試みでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第一回口頭発表練習 ― 生命倫理・動物倫理・肉食主義

2023-11-08 23:59:59 | 講義の余白から

 今日から修士一年の演習が後半に入った。前半六回は『現代思想』に掲載された拙論二つの読解に当てられ、私からのフランス語での説明が主であった。後半は、来年二月の日仏合同ゼミの日本語での発表準備に当てられる。この後半六回では、私は、原則、日本語でしか話さない。時折説明の便宜上フランス語の単語を差し挟むことはあっても、フランス語で説明はしない。
 今日は、四つのグループそれぞれの第一回目の発表であった。同じグループ内でも日本語の実力には歴然とした差がある。できる学生のスクリプトは日本語としてはほとんど直す必要がないほどよく書けている。他方、できない学生のスクリプトはまともに書けている文がほとんどない。辛うじて言いたいことがわかる程度である。正直、添削する気にもならない。もう一回面洗って出直してこいと言いたいくらいだ。
 内容に関しては、四グループとも実によく考えて準備してきた。生命倫理、動物倫理(二グループ)、肉食問題がそれぞれのメインテーマだが、予想通り、グループ間で互いに交差し合う問題が取り上げられており、今後各グループで準備を進めていく過程で、自ずとグループ間で共通する問題点が浮かび上がってくるだろう。そうなってくれれば、全体ディスカッションでの議論も活発になることが期待できる。
 年度初めには、もし学生たちが拙論で取り上げられているテーマそのものに拒絶反応を示したらどうしようという不安もなくはなかった。日本学科で扱うようなテーマではないからである。なんでこんなことを日本学科で勉強しなくてはならないのですかと学生たちから問い詰められていたとしたら、日本語の論文を読む練習だという苦しい言い訳くらいしかできなかっただろう。しかし、幸いなことに、学生たちはまさにそのテーマに強い関心を示してくれた。それどころか、すでに何年も前から動物の権利に関心をもっていたという学生もいた。
 これから三ヶ月間、スクリプトを何度も書き直す作業を通じて、そして毎回の授業で口頭発表の練習を重ねることで、二月には日本語で日本人学生たちと議論できるようになるところまで学生たちを鍛えていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「神道非宗教論」について説明せよ ― 前期中間試験問題より

2023-11-06 20:09:26 | 講義の余白から

 午前六時から午後四時頃まで採点作業に没頭。昨日採点した答案と同じく三年生の答案だが、今日採点したのは、三年生必修のもう一つの講義「近代日本の歴史と社会」の中間試験の答案。試験形式は、フランス語での論述式、教室での手書きの答案。
 手書きの答案には、毎回必ずと言っていいほど、ヒエログリフはかくやと思わせる悪筆答案の「解読」に苦労させられる。ところが、今回は、ほんとうに幸いなことに、「解読術」の適用を要する答案は二九枚中一枚しかなかった。それにしても、その答案を前にして、嘆息まじりに思う。どうしたら、こんなに小さく読みにくい字で書けるのか、と。
 それはともかく、まだ半分ほどしか採点を終えていないから中間報告に過ぎないが、上記の悪筆答案も含めて、全体として、こちらの予想をかなり上回るほどに、上々の出来だ。もっとも、授業を真面目に聴いていれば、特に試験勉強をしなくてもいいほどに授業中繰り返し説明した項目ばかりについての設問ではあるのだけれど。
 問題は全部で五題。四題が質問に答える論述形式で、一題がテキスト注解。

I. Répondez à chacune des quatre questions suivantes en français en une dizaine de lignes.

1. Pourquoi et dans quelle mesure Kaempfer était-il favorable à la politique de fermeture du pays du shogunat des Tokugawa ?
2. Pour quelles raisons Shizuki Tadao (志筑忠雄) a-t-il traduit en japonais le discours sur la fermeture du pays de Kaempfer『鎖国論』au début du XIXe siècle ?
3. Quelles sont les différences qu’il y a entre la religion déclarée(創唱宗教)et la religion naturelle(自然宗教)?
4. Selon Inoue Kowashi (井上毅), dans quelle mesure les Japonais peuvent-il pratiquer leur religion ?

II. Expliquer le texte suivant en français en une quinzaine de lignes.

近代国家の条件として政教分離や信教の自由の保障も必要であるとされたこともあって、政府は神道の優位性を保ちつつ新たな位置づけを模索していき、たどり着いたのが神道非宗教論である。つまり、キリスト教をモデルに religion の訳語として宗教の語が定着するのと、神道非宗教論とは表裏の関係にある。この結果、神道は国家儀礼としての地位が与えられることになり、これがのちに国家神道と呼ばれていくようになる。確かに表面上は政教分離が実現したように見えるが、国家儀礼に位置づけられた国家神道の存在は事実上、すべての宗教の優位に立つことになった。

    (大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』講談社学術文庫、2019年、序章「キリシタンを見る視座」より)