内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

忠誠論(四)同僚への異見 ―「渇く時、水呑むように受け合わせ」

2022-01-08 14:48:35 | 哲学

 昨日の記事の終わりに現代語訳を引用した『葉隠』の一文では、主君への「陰の奉公」と傍輩への「陰徳」とが同一の志に根ざすものとして示されていた。主君への忠誠そのものだけでなく、傍輩への配慮もまた奉公にとって本質的なものだということである。前者が主君への「志の諫言」という形で死を覚悟するまでに先鋭化されることがあるとすれば、後者は「異見」という形をとって日常の交わりの中で注意深く具体化される。
 傍輩への異見は、主君や組織のために有用な人材を育成してより効果的な奉公を実現するためである。異見は、余人に知られぬように「潜(ひそか)に)」、事前に、などなど、そのあるべきかたちが『葉隠』には事細かに繰り返し述べられている。次の一節など、徳川封建社会における奉公人的倫理を日常の同僚との交わりのなかで具体的に徹底化させる経験を通じて、その枠組をいつの間にか突破する普遍的な認識を示し得ているとは言えないであろうか。

 人に異見をして疵を直すといふ事、大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候。異見の仕様、大きに骨を折事也。人の上の善悪を見出すは安きゆへ也。夫を異見するは安きこと也。大方は、人のすかぬいひにくきことを云を深切のやうにおもひ、夫を受ねば、不及力(ちからおよばざる)といふ也。何の益にも不立。人に恥をかかせ、悪口すると同事也。我胸はらしに云迄也
 異見と云は、先其人の請くるか、請ぬかの気を能く見わけ、入魂(じつこん)に成り、此方の詞を兼々信仰有様に仕成してより、好きの道などより引入候様、種々に工夫し、時節を考、或は文通、或は暇乞などの折にも、我身の上の悪事を申出し、不言しても思ひ当る様に、先能事を褒立、気を引立、工夫を砕き、渇時水呑む様に受合せ、疵直るが異見也。殊外仕にくきもの也。
 年来の曲なれば、大体にては直らず。我身にも覚へ有。諸傍輩下々入魂をし、曲を直して、一味同心に御用に立所なれば、御奉公大慈悲也。然るに恥を与へて何しに直り可申哉。(一ノ一四)

 (人に意見をしてその欠点を改めさせるということは大切なことであり、大慈悲であると同時に主君への第一の奉公である。だが意見の仕方にはずいぶんと苦労がある。他人の善悪を見つけるのは簡単だからである。それを見つけて意見するのは容易である。たいていの人は人が嫌ういいにくいことをあえていうのが親切のように思い、相手がそれを受けいれぬとわが力の及ばぬところ、やむなしなどというのである。これではせっかくの意見も役に立たずただ相手に恥をかかせ悪口をいったのと同じことになる。自分の気晴らしにいうにすぎない。
 意見というものはまず第一に相手が受けいれるか否かの様子をよく見きわめ、ふだんから親しく付き合ってこちらの言葉を相手が信用するように仕向けておいて、それから趣味の話などから相手を引きいれるようにいろいろと工夫し、時と場合を考え、あるいは手紙を書く際あるいは別れの挨拶のときなどの機会をとらえてまず自分の悪癖や失敗談などからはじめ、直接にそれといわないでも相手が思い当たるようにしたり、またはまず相手の長所を褒め上げて相手の気分を盛り上げる工夫をするなどして、喉の渇いたときに水を呑むように受けいれさせて欠点が直るようにするのが意見である。ずいぶんとやり難いものである。
 長年の癖だから普通のやり方では直らない。私自身も身に覚えのあることである。同僚や配下の者たちとふだんから親しくしておいて、かれらの癖を直して心を一つにし力を合わせて主君のお役にたとうというのであるから、これは立派な御奉公であり大慈悲である。しかるに相手に恥をかかせるようでは、どうしてその癖を直すことができようか。)