昨日の記事に引き続き、第三章末の注を読む。
注(2)は常朝の精神世界に関わる。「常朝の精神世界における君臣関係は佐賀という特殊空間に限定される。したがって、常朝にあっては、主君を超えかつは規制する「公」的存在としては「国家」(藩)のみが考えられ、将軍・幕府(あるいは天皇・日本国)をそうしたものとして意識するという発想はまったく見られない。彼が天皇や将軍に無関心だったというのではない。主君を超えるそれらの上位の存在を敢えて排除した純粋空間に彼の『奉公人』道は定位されている、ということである。この『御国風』意識はとりわけ『聞書』一・二で徹底している。」(281頁)
常朝において、佐賀藩という有限空間の絶対化と奉公人としての忠誠の絶対化とは不可分である。この絶対化された有限空間においてのみ、藩主もまた「御国家」(藩)という「公」的組織の「奉公人」であるという組織人的視座の確立が可能になっている。言い換えれば、有限空間における忠誠の徹底した一元化が常朝の組織論の根幹を成している。
一昨日の記事で見た藩内における君臣間の諫言の開放性も、この忠誠の一元性を前提としており、したがって、藩の枠組みを超越した外部からの介入を徹底的に排除することによってはじめて保証される。
ここに常朝の奉公論・忠誠論の強固な一貫性を見ることができると同時に、その限界もおのずと明らかになる。