内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

武士道、主体性、自然の創意 ― 来月から9月末までの研究教育テーマなどについて

2022-01-26 14:10:08 | 雑感

 今日は離脱論を休む。まだまだ延々と続くだろう。無理をせず断続的に投稿する。
 エックハルト及びライン川流域神秘主義については、渡仏前から四半世紀余りずっと興味を持っており、今手元にある仏語の参考文献だけでも数十冊ある。「離脱」はエックハルトの根本思想であるだけに、それらの文献のほとんどすべてにおいて少なからぬページがその論述・考察に割かれており、それらを参照しつつ、エックハルトの説教集を読んでいくだけでも、数年はかかる。これは私にとっては誇張ではない。研究論文として発表することはない。中高ドイツ語で書かれた一次文献を読めないのであるから、それはありえない。ただ、先を急がず、むしろできるだけゆっくりと、説教の言葉を魂の滋養になるように咀嚼していきたい。この読解作業におそらく終わりはない。
 さて、来月から九月末にかけてのいくつかの研究発表、原稿依頼、研究教育あるいは文化プログラムへの参加予定などについてここで整理しておきたい。
 2月5日・6日(土・日)は、法政大学の哲学科の学部2・3年生とストラスブール大学日本学科修士1年生の合同ゼミ。昨年同様、すべてZOOMを使って行われる。このゼミの枠内で一時間のレクチャーを行う。そのタイトル「比較文化の方法ーVeracity と Loyalty、そして「わかる」と「理解する」の違いをめぐって」を今朝プログラムのオーガナイザーに送った。
 2月18日(金)、イナルコの言語学関係の研究会で発表。Subjectivité について哲学の立場からの一考察を発表する。これもZOOM使用。このテーマは私の「十八番」と言える。
 3月17日(木)から19日(土)、ストラスブール大学で開催される「伝達(transmission)」をテーマとした日本研究シンポジウムに発表者として参加する。このシンポジウムの方式はハイブリッド。フランス在住の発表者は現地参加で、日本在住の発表者はオンライン参加。私の発表タイトルは、「「みち」から「道」へ ―「もののふのみち」から武士道への倫理規範の変容過程の思想史的考察―」 。原稿は2月後半の冬休み中に書き始め、二月末には仕上げる。このブログで継続中の「忠誠論」が原稿の核となるはずである。
 3月29日(火)、ストラスブール国立大学図書館主催の日本月間のプログラムの一つとして高畑勲の『かぐや姫の物語』が上映される。そのときにコメンテーターを務める。形式は未定。
 昨年 Vrin社から出版された九鬼周造研究について Cahiers d'Extrême-Asie (CEA) に掲載される書評の依頼が二週間余り前にあった。字数は一万字前後。締め切りは6月末。執筆は6月中。
 8月1日(月)から5日(金)、東洋大学大学院哲学科修士課程の集中講義。タイトルは「〈主体〉の考古学 -西洋哲学史における〈sujet〉の誕生から現代におけるその死と再生まで-」。最初にこの集中講義担当した2011年で取り上げたテーマに立ち返り、その大幅なヴァージョンアップを図る。準備は7月に行う。
 9月5日(月)から9日(金)までパリで開催される翻訳学の第二回世界大会の中で日本仏教の碩学フレディレック・ジラール先生が責任を持たれているパネルに発表者として参加する。発表テーマは、2月の研究発表のテーマと8月の集中講義のテーマの流れを受けて、sujet 概念の日本語への翻訳とそれがもたらした日本独自の哲学的展開について話す。発表原稿は事前提出とのことだが、まだ詳細についての連絡はない。原稿執筆は後期の授業がすべて終わった後、5月後半から始める。
 2019年に参加した『大地への/からの回帰』というテーマ連続研究会の成果が論文集として出版されることになったから、そのときの発表原稿をさらに拡充・発展させた原稿を寄稿してほしいと主催者のひとりから昨日依頼があった。喜んで引き受ける。九月末が締め切り。原稿の諸条件については未詳。発表後の三年間に考えたことも盛り込んだ原稿にするつもり。
 2019年の発表の際の仏語と日本語の要旨を掲げておく。

Invention de la nature

 La catastrophe nucléaire de Fukushima, les incendies forestiers en Amazonie et d’autres désastres planétaires qu’a connus la Terre depuis la catastrophe nucléaire de Tchernobyl en 1986 montrent incontestablement que la Terre est sérieusement fragilisée par la civilisation humaine. L’équilibre entre les activités humaines et la résilience des écosystèmes terrestres et aquatiques est perdu de façon irréversible. Le développement “sustainable” est devenu difficilement compatible avec la préservation de l’environnement naturel. À la logique de la répartition des richesses a succédé une logique de la répartition des risques.
 Dans ces conditions sous lesquelles nous vivons actuellement et devrons vivre à l’avenir dans la mesure du possible, on ne pourra plus parler du retour à la terre comme celui à une substance qui reste identique à elle-même, infinie et inépuisable. Si la terre originaire et originelle à retourner n’existe nulle part sur la planète Terre, le retour à la terre ne consiste pas à retourner à la place où l’on était. La Terre ou Gaïa ne ressuscite pas spontanément. Il ne s’agit pas non plus d’abandonner la vie urbaine pour rentrer au « pays natal » et y mène une vie rurale. Si la nostalgie de la Terre est une condition nécessaire pour le retour à la terre, elle ne peut pourtant en être la condition suffisante. Le retour à la terre comme mouvement réel et productif consistera à continuer à inventer un espace de vie viable, fini et plastique, en vertu de la technique fondée sur la technicité de la nature.

自然の創意

 福島原発事故、アマゾンの森林火災、1986 年のチェルノブイリ原発事故以来地球上に発生したその他の大災害は、地球が人類の文明によって深刻な仕方で脆弱化されていることを疑いようもなく示している。人間の諸活動と陸上・水中の諸生態系の自己回復力との均衡は取り返しようもなく失われている。「持続可能な」発展は、自然環境の保護との両立がきわめて困難になっている。富の配分の論理にリスクの配分の論理が取って代わっている。
 私たちが現在生きており、これからも可能なかぎりその下で生きていかなければならないこのような状況において、大地への回帰を、自己同一的で無限で汲み尽くしがたい実体への回帰のように語ることはもはやできないだろう。もし回帰すべき原初の本源的な大地がこの地上のどこにも存在しないとしたら、大地への回帰は、もといた場所へと立ち返ることではない。大地あるいはガイアは自ずと再生しはしない。都会生活を捨てて、「故郷」に帰り、そこで農業生活を営めということでもない。大地へのノスタルジーは、大地への回帰の一つの必要条件であっても十分条件ではありえない。現実的で生産的な運動としての大地への回帰は、有限で可塑的ではあるが持続性のある生活空間を、自然の技術性に基づいた技術によって創出し続けることではないだろか。