内的自己対話-川の畔のささめごと

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忠誠論(十三)「忍恋」に極まる主従関係に必ずしも包摂され切れない一個の武士として在り方

2022-01-19 11:48:48 | 哲学

 相良亨の『武士道』の「名と主従関係」と題された節(84‐92頁)を読んでいく。昨日の記事で言及したように、この節で『葉隠』における没我的献身が検討されている。

葉隠武士にとって、かかる主従の契りは人生のすべてであり、「主従の契より外には何もいらぬことなり」、「武士は主を思ふより外のことはなし」ともいい切られていた。しからばその奉公の仕方はといえば、ただ「一向に主人を大切に歎くまでなり」、「何もかも、根からぐわらりと主人に打ち任すれば済むものなり」であった。(85頁)

 この後に、『葉隠』の有名な箇所の一つである「忍恋」の一部が引かれる。相良が引いていない続きも含めて引用しよう。本文・訳文とも、ちくま学芸文庫版に拠る。

恋の心入れの様なる事也。情なくつらきほど思ひを増す也。適にも逢ふ時は命を捨つる心になる。忍ぶ恋などこそよき手本なれ。一生云出す事もなく、思ひ死にする心入れは深き事也。また自然偽に逢ひても、当座は一入悦び、偽のあらはるれば猶深く思入る也。君臣の間、如斯なるべし。奉公の大意、是にて埒明くる也。理非の外なるもの也。

(恋の心入れのようなことである。情けなく辛いほど思いを増すのである。たまたまにでも逢う時は命を捨てる心になる。忍ぶ恋などこそよい手本である。一生言い出すこともなく、思い死にする心入れは深いことである。またもし偽りに逢っても、その時はひとしお悦び、偽りが顕れればなお深く思い入れるのである。君臣の間はこのようでなければならぬ。奉公の根本はこれで埒が明くのである。理非の外にあるものである。)

 ここに「主君に対する武士の心情の純粋性」の徹底した追求を相良は見ているが、そのことに私も異論はない。この「純粋性の追求」を相良は「無私性の追求」に置き換えられると言っている。ここに相良の解釈の方向性が示されている。没我は主従関係への「埋没」へと傾斜していくのに対して、無私は主従関係を超越する可能性を秘めている。なぜなら、無私は一個の独立した存在性と矛盾しないどころか、その「完現態」(エンテレケイア)とも見なせるからである。
 しかし、相良自身がそう言っているわけではない。これは私の解釈だ。筆を急ぎすぎた。本文に立ち返って相良の所説を聴こう。

 しかし、この『葉隠』においても依然、一個の武士としての「名」は問題にされている。忍ぶ恋を恋の至極とする『葉隠』において、すべてが主従関係に埋没するかと思われるがそうではなかった。例えば降参ということは「謀にても君のためにても、武士のせざることなり」と『葉隠』はいう。もっとも、ここには「忠臣はかくのごとくあるべきなり、」という文章がつづいている。あくまでも主君に対する奉公人として武士を捉えようとする姿勢がここにもある。しかし、降参といえど主君の為ならばするというのとは異なる。ここはあくまでも一個の独立した武士の存在が理解されており、主従関係はそれをも包摂するものとして捉えるべく拡張されている。主従関係をここまで強引に拡張しないではおかなかったということは、それなりに注目すべき問題であるが、しかしここでは、いわゆる主従関係をはみ出すものが、武士の生き方、あるべきあり方のなかにあったとういことである。(86頁)

 降参の例については、相良とまったく逆の解釈も可能である。つまり、一個の武士としての存在の独立性は、主従関係の徹底した遵守をその前提とするかぎりにおいて認められる、とも解釈できる。では、なぜ相良は一個の独立した武士の存在をかくも強調するのか。
 それは、相良が武士の存在様態の中に本来的な矛盾を見ているからである。そして、この矛盾の中に「歴史を形成する原動力」(91頁)があったと考えているからである。この歴史を形成する原動力である社会存在論的「矛盾」について、明日の記事で相良の所説を追う。