相良亨の『武士道』で「矛盾」という言葉が使われているもう一つの箇所は、「卓爾とした独立」と題された第五章の第三節「草莽崛起論」の中にある。この章では、山鹿素行の士道論が『葉隠』との対比において主な考察対象となっている。小池喜明の『葉隠 武士と「奉公」』で見たように、前者が義合的忠誠観を代表し、後者が情誼的忠誠観を代表している。これらの術語は相良書では全く使われていないが、両者における上下関係論の違いを問題にするところでは、実質的にこの区別にそのまま対応する見方を相良もしている。
両者の違いは君父に対する「諫言」の位置づけの違いに端的に表れている。『葉隠』においては、「志の諫言」、つまり主君を諌めることは奉公の最高なるものであるが、諌めても容れられないときには、主君の悪を自分の悪として引き受けるのが忠臣の生き方であった。これに対して素行の士道論に代表される義合的忠誠観においては、主君を諌めても容れられず、その主君がもはや道を実現する為政者としての資格を欠くと判断したときには、その主君を去り、他の主君に仕えるのが武士の道であると考える。
前者においては「上下の分」が道のすべてであり、この「分」に生きること以外に生きる道を考えない。つまり、主君への奉公に徹する。後者においては、「分」を否定するわけではないが、「分」は道の一節であり、士の任とすべき道の実現とは、天下に道を実現することであると理解される。素行は、前者のような生き方を「義」と呼び、後者を「王」と名付ける。義が一般武士の生き方であるのに対して、大丈夫たらんとする者、つまり「卓爾とした独立」に生きる者の生き方が王である。
太平の世では、つまり世の中がうまく治まっているときには、王としての生き方が上下の分と対立することはなかった。上位者を補佐する仕方において、天下に道を実現する一個の士たりうるからである。ところが世がうまく治まらなくなると、上下の分を守る生き方と天下に道を実現すべき一個の人倫の指導者である王としての生き方とに「矛盾」が生じるようになる。
この矛盾が露呈するのが幕末の変動期だというのが相良の見方である。いきなり分の思想が放棄されたわけではないが、例えば、吉田松陰の草莽崛起論はついにそれを否定するに至る。松陰は藩主の恩を感ずる心を充分にもっていたが、日本の命運を思うとき、そこにとどまっていることはできなかった。
日本全体の安否を思う時、上下の分にこだわりつづけることは出来なかった。松陰にとって価値の頂点にたつのは日本の運命であり、時に幕府にそむくべく、時に藩主は無視すべく、しかし日本の安否は座視すべからざるものであった。万民の安穏の実現に責任をもつ一個の武士としての意識は、このような価値序列観をふまえたこの決意として崛起となったのである。(190頁)
松陰に草莽崛起論を押し出させたのが「近世武士の武士なりの個を主張する精神」であるというのが相良の武士道論の主張である。
草莽崛起は先にのべたように、幕府・藩つまり分の秩序を括弧に入れることである。しかして分の秩序を括弧に入れしめたものは、自らをのみたのみ天下国家を以て自ら任ずる大丈夫の精神、卓爾として独り立つ精神の高揚である。(193頁)