内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

忠誠論(十五)「卓爾として独り立つ精神」― 一個の武士としての理想

2022-01-21 23:59:59 | 哲学

 相良亨の『武士道』で「矛盾」という言葉が使われているもう一つの箇所は、「卓爾とした独立」と題された第五章の第三節「草莽崛起論」の中にある。この章では、山鹿素行の士道論が『葉隠』との対比において主な考察対象となっている。小池喜明の『葉隠 武士と「奉公」』で見たように、前者が義合的忠誠観を代表し、後者が情誼的忠誠観を代表している。これらの術語は相良書では全く使われていないが、両者における上下関係論の違いを問題にするところでは、実質的にこの区別にそのまま対応する見方を相良もしている。
 両者の違いは君父に対する「諫言」の位置づけの違いに端的に表れている。『葉隠』においては、「志の諫言」、つまり主君を諌めることは奉公の最高なるものであるが、諌めても容れられないときには、主君の悪を自分の悪として引き受けるのが忠臣の生き方であった。これに対して素行の士道論に代表される義合的忠誠観においては、主君を諌めても容れられず、その主君がもはや道を実現する為政者としての資格を欠くと判断したときには、その主君を去り、他の主君に仕えるのが武士の道であると考える。
 前者においては「上下の分」が道のすべてであり、この「分」に生きること以外に生きる道を考えない。つまり、主君への奉公に徹する。後者においては、「分」を否定するわけではないが、「分」は道の一節であり、士の任とすべき道の実現とは、天下に道を実現することであると理解される。素行は、前者のような生き方を「義」と呼び、後者を「王」と名付ける。義が一般武士の生き方であるのに対して、大丈夫たらんとする者、つまり「卓爾とした独立」に生きる者の生き方が王である。
 太平の世では、つまり世の中がうまく治まっているときには、王としての生き方が上下の分と対立することはなかった。上位者を補佐する仕方において、天下に道を実現する一個の士たりうるからである。ところが世がうまく治まらなくなると、上下の分を守る生き方と天下に道を実現すべき一個の人倫の指導者である王としての生き方とに「矛盾」が生じるようになる。
 この矛盾が露呈するのが幕末の変動期だというのが相良の見方である。いきなり分の思想が放棄されたわけではないが、例えば、吉田松陰の草莽崛起論はついにそれを否定するに至る。松陰は藩主の恩を感ずる心を充分にもっていたが、日本の命運を思うとき、そこにとどまっていることはできなかった。

日本全体の安否を思う時、上下の分にこだわりつづけることは出来なかった。松陰にとって価値の頂点にたつのは日本の運命であり、時に幕府にそむくべく、時に藩主は無視すべく、しかし日本の安否は座視すべからざるものであった。万民の安穏の実現に責任をもつ一個の武士としての意識は、このような価値序列観をふまえたこの決意として崛起となったのである。(190頁)

 松陰に草莽崛起論を押し出させたのが「近世武士の武士なりの個を主張する精神」であるというのが相良の武士道論の主張である。

 草莽崛起は先にのべたように、幕府・藩つまり分の秩序を括弧に入れることである。しかして分の秩序を括弧に入れしめたものは、自らをのみたのみ天下国家を以て自ら任ずる大丈夫の精神、卓爾として独り立つ精神の高揚である。(193頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(十四)「一個の武士」― 日本倫理思想史における一つの倫理的範型

2022-01-20 00:00:30 | 哲学

 相良亨の『武士道』には、「矛盾」という言葉が繰り返される箇所が二つある。一つは、昨日の記事で取り上げた「名と主従関係」の節である。わずか数行の段落に三回「矛盾」という言葉が使われている。まさにそのことによって、相良固有の問題設定の仕方と彼の思想史家として「賭け」とがよくわかる箇所だと思う。当該段落全体は以下の通り。

 武士の強烈な名の追求を理解する時、これと、彼らの主従の道徳との関係を問題にしないわけにはいかない。武士の主従の道徳は型通りにいえば主君への没我的献身であった。それはすべての私の否定を内容とするものであった。しかし、名はあくまでも一個の武士としての名であり、それはいわば私の名の追求であった。名を追求する姿勢と主君への没我的献身とは、このように考えてくると矛盾してくる。“このように考えると”といえば、本来両者は矛盾するものではないがという意味にとられるかもしれないが、私は両者は本来このように矛盾するものであったといいたい。(84頁)

 個の独立的価値を人生の最上位に置くことにほかならない「名」の追求という欲望とその「名」を消すことを求める主君への滅私奉公という個の意志の絶対的否定とは、確かに、両立しがたいように思われる。
 この両立不可能性を、どちらかを選択することによって、あるいは、どちらかを他方に従属させることによって、解消しようとするのではなく、この二律背反的な追求をその生き方のうちに抱え込んで生きているのが「武士」であり、そうであってこそ「一個の武士」たりうる。そう相良は考えたいのだろう。
 ある時代にそのような武士たちが現実に存在したかどうかを相良は史料に基づいて実証しようとはしない。相良の関心はそこにはない。異なった時代の文献を用い、一方ではそこに強烈な名の追求を認め、他方では没我的献身を認める。その二つの間に矛盾をみるのはよい。だが、その矛盾を「一個の武士」という範疇の中に読み込むのは、歴史学の立場からすれば、あまりにも恣意的だと批判されても仕方ないだろう。
 相良がそこまでして「造型」したかったのは何だったのだろうか。一言で言えば、一つの倫理的理念型(イデアルティプス)としての武士像である、というのがこの問いに対する私の答えである。
 そうだとして、この理念的な造型作業はなんのためなのか。単に歴史的現実としての戦場、武士集団、武士社会、太平の世の武士階級における武士たちの生き方を思惟によって整序するための方法的概念を思想史へ導入するためではない。そうではなく、「一個の武士」を一つの倫理的範型として現代に蘇生させたいという思想的切望に突き動かされてのことではないかと私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(十三)「忍恋」に極まる主従関係に必ずしも包摂され切れない一個の武士として在り方

2022-01-19 11:48:48 | 哲学

 相良亨の『武士道』の「名と主従関係」と題された節(84‐92頁)を読んでいく。昨日の記事で言及したように、この節で『葉隠』における没我的献身が検討されている。

葉隠武士にとって、かかる主従の契りは人生のすべてであり、「主従の契より外には何もいらぬことなり」、「武士は主を思ふより外のことはなし」ともいい切られていた。しからばその奉公の仕方はといえば、ただ「一向に主人を大切に歎くまでなり」、「何もかも、根からぐわらりと主人に打ち任すれば済むものなり」であった。(85頁)

 この後に、『葉隠』の有名な箇所の一つである「忍恋」の一部が引かれる。相良が引いていない続きも含めて引用しよう。本文・訳文とも、ちくま学芸文庫版に拠る。

恋の心入れの様なる事也。情なくつらきほど思ひを増す也。適にも逢ふ時は命を捨つる心になる。忍ぶ恋などこそよき手本なれ。一生云出す事もなく、思ひ死にする心入れは深き事也。また自然偽に逢ひても、当座は一入悦び、偽のあらはるれば猶深く思入る也。君臣の間、如斯なるべし。奉公の大意、是にて埒明くる也。理非の外なるもの也。

(恋の心入れのようなことである。情けなく辛いほど思いを増すのである。たまたまにでも逢う時は命を捨てる心になる。忍ぶ恋などこそよい手本である。一生言い出すこともなく、思い死にする心入れは深いことである。またもし偽りに逢っても、その時はひとしお悦び、偽りが顕れればなお深く思い入れるのである。君臣の間はこのようでなければならぬ。奉公の根本はこれで埒が明くのである。理非の外にあるものである。)

 ここに「主君に対する武士の心情の純粋性」の徹底した追求を相良は見ているが、そのことに私も異論はない。この「純粋性の追求」を相良は「無私性の追求」に置き換えられると言っている。ここに相良の解釈の方向性が示されている。没我は主従関係への「埋没」へと傾斜していくのに対して、無私は主従関係を超越する可能性を秘めている。なぜなら、無私は一個の独立した存在性と矛盾しないどころか、その「完現態」(エンテレケイア)とも見なせるからである。
 しかし、相良自身がそう言っているわけではない。これは私の解釈だ。筆を急ぎすぎた。本文に立ち返って相良の所説を聴こう。

 しかし、この『葉隠』においても依然、一個の武士としての「名」は問題にされている。忍ぶ恋を恋の至極とする『葉隠』において、すべてが主従関係に埋没するかと思われるがそうではなかった。例えば降参ということは「謀にても君のためにても、武士のせざることなり」と『葉隠』はいう。もっとも、ここには「忠臣はかくのごとくあるべきなり、」という文章がつづいている。あくまでも主君に対する奉公人として武士を捉えようとする姿勢がここにもある。しかし、降参といえど主君の為ならばするというのとは異なる。ここはあくまでも一個の独立した武士の存在が理解されており、主従関係はそれをも包摂するものとして捉えるべく拡張されている。主従関係をここまで強引に拡張しないではおかなかったということは、それなりに注目すべき問題であるが、しかしここでは、いわゆる主従関係をはみ出すものが、武士の生き方、あるべきあり方のなかにあったとういことである。(86頁)

 降参の例については、相良とまったく逆の解釈も可能である。つまり、一個の武士としての存在の独立性は、主従関係の徹底した遵守をその前提とするかぎりにおいて認められる、とも解釈できる。では、なぜ相良は一個の独立した武士の存在をかくも強調するのか。
 それは、相良が武士の存在様態の中に本来的な矛盾を見ているからである。そして、この矛盾の中に「歴史を形成する原動力」(91頁)があったと考えているからである。この歴史を形成する原動力である社会存在論的「矛盾」について、明日の記事で相良の所説を追う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(十二)相良亨『武士道』における忠誠論の不在の意味すること

2022-01-18 23:59:59 | 哲学

 忠誠論を再開する。小池喜明氏の『葉隠 武士と「奉公」』を一旦離れ、それよりも三十年余前の1968年にその初版が刊行された相良亨の名作『武士道』に立ち戻る。立ち戻るというのは、昨年2月26日から十日あまり同書を取り上げたからである。今回は、あくまで忠誠論の枠組みの中で取り上げ直す。
 まず指摘しておかなくてはならないことは、相良書には「忠誠」という言葉が一度も出てこないということである。「忠義」という漢語も一度も使われていない。「忠」という漢字を含んだ漢語にまで検索範囲を広げても、十四箇所しかなく、しかも、そのうちの一箇所は「忠綱」という人名であるから、これは除外する。のこり十三箇所で使われている漢語は、「忠節」(四回)「忠告」(一回)「忠臣」(三回)「忠考」(四回)「不忠」(一回)である。
 「忠考」が出てくるのは、いずれも古典からの引用文中であり、しかも忠誠を論ずる文脈でのことではない。「忠臣」も、そのあり方が論じられる場面で忠誠が問題となっているわけではない。このうち忠誠論に関係があるのは、「忠節」という漢語がニ度使われている「名と主従関係」という『葉隠』を主に論じている箇所のみである。
 しかも、そこでさえ、主君に対する没我的献身と一個の武士としての名を守る(恥を知る)こととの緊張関係が問題とされ、「主従関係に必ずしも包摂され切れない一個の武士」のあり方が強調される。つまり、相良書にまとまった忠誠論はないのである。
 相良書における忠誠論の不在は何を意味するのか。この問いに対する答えは、すでに「まえがき」の中に読み取ることができる。武士が生きた場を人間関係から捉えれば、その基本が主従関係であることを認めつつ、いわゆる「主従のモラル」が武士の精神的生命のすべてではなかったことを相良は強調している。相良にとっての主たる関心事は、「一個の武士」としての存在様態なのである。「死と覚悟」と題された第三章でも、「主従関係に生きるということと、一個の武士として生きるということとの矛盾」を問題にしている。同様な主張は他所にも散見される。つまり、忠誠の枠組みにおさまりきらない「一個の武士」としての生き方を強調することに相良の武士道論の特徴がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第三回目接種翌日の様子の報告

2022-01-17 17:13:36 | 雑感

 昨日午後三時半頃のワクチン接種後、夕食を早めに取り、十時前には就寝した。体調には何の問題もなかったが、体を早めに休めようとした。
 ところが、午前三時過ぎには目が覚めてしまった。すぐに枕元に用意してあった体温計で体温を測ってみる。36.5℃で平熱。スマートウォッチのパルスオキシメーターで酸素飽和度(SpO2)と心拍数を計測する。98%、52bpmで異常なし。腕を肩より上に上げるときにワクチン接種箇所である左上腕部に若干の筋肉痛がある以外、副反応はまったく感じられない。
 そのまま起き出して、今日が教務への提出期限の成績表の最終チェックをした上で送信する。授業の準備や研究発表のために机上のアクリルボードに貼り付けってあったポストイットが一杯になっていたので、それらをA4版のノートに書き写したり、貼り付けてメモを書き加えたりする。明日から始まる後期の授業の準備もする。それらが一段落したのが午前十時過ぎ。
 一息入れてから、先週金曜日の「近代日本の歴史と社会」の期末試験の答案の採点を始める。授業をよく聴き、試験問題として与えられた日本語テキストをちゃんと読んだ学生と、授業をろくに聞きもせずテキストも読まない学生たちとの差は歴然としている。二十二名の受験者のうち十名が二十点満点で九点以下だ。もっとも、中間試験と平常点を加味すると、総合点が落第点なのは五人に減る。
 採点をほぼ終えたところで、再度、パルスオキシメーターで計測。酸素飽和度98%、心拍数48bpm でサイナス。ジョギングに出かけることにする。体調を見るためでもあるので、いつもよりゆっくり走る。一時間で9,4キロ走った。どこにも異常は感じられず。
 まだ結論を出すには早すぎるが、第三回目接種も、交互接種とはなったが、どうやら副反応らしい副反応はなくて済みそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ワクチン接種第三回目 ― 交互接種ファイザー→モデルナ

2022-01-16 19:06:00 | 雑感

 昨日まで十一日間連続で忠誠論を書き続けてきた。小池喜明氏の『葉隠 武士と「奉公」』に直接言及する形での忠誠論には一応区切りがついたので、ここで小休止する。明日以降は断続的になるが、忠誠論はいましばらくこのブログの主たるテーマの一つとして維持されることになる。
 さて、今日日曜日の午後、対コロナ・ワクチンの第三回目接種に行ってきた。その記録を残しておく。フランスでは、昨年九月からすでに第三回目接種は段階的に始まっていたが、八月下旬に摂取した私はその時点では第三回目接種の条件を満たしていなかった。それに、積極的に早めに接種を受けたいとも思っていなかった。
 そうこうするうちに、第二回目接種三ヶ月後から接種可能になった。昨年末に予約を取ろうとしたが、一・二回目と同じファイザー社製にしようとすると、供給が充分ではないとのことで、なかなか予約が取れそうにない。それでモデルナ社製を選択した。それで今日の予約が取れた。いわゆる交互接種である。
 接種してまた三時間余りしか経っていないので、副反応についてはまだ何とも言えない。今のところ、何の兆候もない。夕食時には、いつものように赤ワイン一本開けてしまった。ただ、接種会場の医師の忠告に従い、水分は普段以上に摂取している。ワクチン接種前、午前中にはいつもように十キロのジョギングもした。
 前ニ回はまったく副反応がなかった。三回目は一・二回目よりも副反応が強く出るという話もあるし、交互接種だから、前二回とは違った反応もありうるかも知れない。
 今晩から明日にかけての経過については明日の記事で報告いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(十一)「君に事へて遇はざる時」― 常朝と松陰との根本的相異

2022-01-15 06:05:20 | 哲学

 今回の忠誠論を始めた一月五日の記事で、吉田松陰の『講孟余話』を情誼的忠誠論の代表として引用した際、そこでは常朝の忠誠論もこの類型に属するという小池氏の見解に従った。しかし、小池氏自身、第三章末の注(4)で、松陰と常朝の忠誠論の決定的な違いについて重要な指摘を行っている。
 松陰の没我的忠誠のうちに胚胎する能動的契機としての「忠義」の「逆焰」に注目した丸山真男の『忠誠と叛逆』に対して、小池氏は、常朝の「諫言」における積極的契機としての「志の諫言」の境位の開明が本章の意図であったという。つまり、松陰の忠誠論にあっては、不義なる権力に対する叛逆を正当化する契機が没我的忠義の徹底に内在しているのに対して、常朝に於いては、「逆命」はあくまで「利君」のためであって、「志の諫言」は自分が奉公人として仕える藩の維持と安泰という目的に叶うかぎりで正当化される。したがって、常朝の忠誠論には、藩の秩序を揺るがし、さらにはその転覆を引き起こしかねない「逆焰」が正当化されうる契機は存在し得ない。
 両者の忠誠論を情誼的忠誠論という同一の類型中に組み入れる見方は維持しつつ、小池氏は、同注において、「両者の思惟様式の差異の面」により多くの関心を示し、とりわけ両者における「諫言」の位相の違いに注目している。
 確かに、何に対して「忠」なのかという点において、両者には決定的な違いがある。小池氏が同注で引用している『講孟余話』に「国家夷狄の事、固より君相の職にはあれ共、神州に生まれたん者は、普天率土の万民、皆自ら職とせずんばあるべからず。……吾幽囚の罪人と雖ども、悪んぞ国家の衰乱夷狄の猖獗を度外に置くに忍びんや」とあるように、国家存亡の危機にあって、その国家に対して普天率土の万民の一人として「忠」であろうとするのが松陰の忠誠論の根本的な姿勢である。
 『講孟余話』冒頭には、「君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり、幽囚するも可なり、飢餓するも可也。……是を大忠と云なり」とあるが、小池氏が同注で指摘しているように、常朝ならば、「君に事へて遇はざる時」とは決して言わないであろう。
同注の最後の段落を引く。

君・臣をあたかも対等視するかのごとき大上段のこの議論は基本的に藩を超越する「日本国」からの視点からのものであり、ナショナリスティックな気分の高揚した幕末「猖獗」の時節のなせる業といってもよい。……常朝には君主や藩を超えての上位概念は天・天下・幕府などのいかなるものも存在しない。ここに「日本国」規模の大問題をかかえてわずか自藩やその主君のために安閑と「朽果」ててなどいられず、積極的な「諫死」へと駆り立てられる「神州」的発想の松陰との根本的相異がある。


忠誠論(十)組織論的行動原理としての「逆命利君」と「滅私奉公」との関係

2022-01-14 06:28:46 | 哲学

 『葉隠 武士と「奉公」』第三章「家老論」後注(3)は「諫言」の機能と効果の組織論的普遍化に関わる。
 奉公人の忠誠の精髄である諫言の本質は「逆命利君」にある。この語は漢の劉向が前賢先哲の逸話を編纂した『説苑』の中に見られる語である。「命に従いて君を利する、之を順と為し、命に従いて君を病ましむる、之を諛と為す。命に逆いて君を利する、之を忠と謂ひ、命に逆ひて君を病ましむる、之を乱と謂ふ。」
 「逆命利君」とは、主君の命に背くまさにそのことによって主君の利となることを為すことであり、これこそが「忠」だというのである。主君の意向を超えた「公」に対して忠実であることによってはじめて「奉公」は成立するのであり、そのかぎりにおいて主君に「仕える」ということも成り立つ。
 したがって、組織論的行動原理としての「滅私奉公」と「逆命利君」とは、対立関係にあるのではなく、相補的な関係にあるのでもなく、「有機的な緊張関係」(282頁)という曖昧な表現によって捉えられるものでもなく、端的に、前者は後者の可能性の条件という関係にある。
 この「滅私奉公」と「逆命利君」という二つの行動原理は、情誼的忠誠と義合的忠誠という忠誠観の二類型と「構造的に深くかかわる」と小池氏は同注で述べているが、「両者の構造的連関についての詳細にわたる議論の展開は本書の枠内におさまりきれぬことが危惧される」として、別途、他日を期することとし、問題の提示のみにとどめている。
 確かに、この問題に取り組むことは、『葉隠』論の枠を超えて、忠誠論をより一般的な次元で展開することを要請する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(九)佐賀藩という有限空間の絶対化によってはじめて可能になる忠誠の徹底的一元化

2022-01-13 10:10:21 | 哲学

 昨日の記事に引き続き、第三章末の注を読む。
 注(2)は常朝の精神世界に関わる。「常朝の精神世界における君臣関係は佐賀という特殊空間に限定される。したがって、常朝にあっては、主君を超えかつは規制する「公」的存在としては「国家」(藩)のみが考えられ、将軍・幕府(あるいは天皇・日本国)をそうしたものとして意識するという発想はまったく見られない。彼が天皇や将軍に無関心だったというのではない。主君を超えるそれらの上位の存在を敢えて排除した純粋空間に彼の『奉公人』道は定位されている、ということである。この『御国風』意識はとりわけ『聞書』一・二で徹底している。」(281頁)
 常朝において、佐賀藩という有限空間の絶対化と奉公人としての忠誠の絶対化とは不可分である。この絶対化された有限空間においてのみ、藩主もまた「御国家」(藩)という「公」的組織の「奉公人」であるという組織人的視座の確立が可能になっている。言い換えれば、有限空間における忠誠の徹底した一元化が常朝の組織論の根幹を成している。
 一昨日の記事で見た藩内における君臣間の諫言の開放性も、この忠誠の一元性を前提としており、したがって、藩の枠組みを超越した外部からの介入を徹底的に排除することによってはじめて保証される。
 ここに常朝の奉公論・忠誠論の強固な一貫性を見ることができると同時に、その限界もおのずと明らかになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


忠誠論(八)『葉隠』に完全に欠落している民政的視点

2022-01-12 23:59:59 | 哲学

 ここまで小池喜明氏の『葉隠 武士と「奉公」』の第三章「家老論」三「志の諫言」を読んできた。この第三節にではなく、同章第一節「『諫言』――『家老』職分論」に小城藩鍋島藩士安住道古の話が出て来る。
 道古は常朝より二十五歳年長である。『葉隠』の聞書八・四三(本文の番号は、ちくま学芸文庫版・講談社学術文庫版のそれに従う)にその道古が語ったとされることが記されている。
 その聞書によると、道古は、「死ほど軽きものはなし。恥知りたる児、女などは、屁一つにて命を捨て申す也。然ば屁よりも軽きもの也」と言ってのけたという。その心は、しかし、命など簡単に捨てられるものだということではない。行住坐臥、死を恐れぬ覚悟のほどを示している。この道古と常朝の差異はどこにあるか。
 この問いに対する一つの答えが、小池書の第三章末の注(1)に示されている。それがとても興味深い。
 道古は、小城郡芦刈村の数千町の田地に灌漑水の乏しきを憂え、川上川の水を引いて感慨に弁ずべく企て、暮夜ひそかに水中に入り、泳ぎ流れ、水行を察すること七夜におよび、やがて藩主の命によりみずから頭取となって芦刈水道を開鑿した。芦刈および沿道の民の多くがその恩沢に浴し、いまなお「ドウコウ」さんといって神のごとく崇敬しているという。
 道古は、藩主の「御側」(近習)の「慰方」(歌書役)に終始した、つまり「内勤」の常朝とはかなり異質の、「土の臭いのする」奉公人であり、民政に腐心する役人であった。
 それに対して、『葉隠』全十一巻には民政的視点は完全に欠落しており、治水灌漑その他の民政に関する記述は一項もない。常朝が生きた時代、そして常朝没後に『葉隠』を最終的に編纂した陣基が生きた時代、佐賀藩にとって治水政策をはじめとした民政は重要な政治的案件であったにもかかわらず、佐賀藩は藩として有効な対策を積極的に取ろうという姿勢にきわめて乏しい。
 小池氏はいささかの皮肉を込めて、「藩領内の大被害にはいささかの関心も示さぬ『奉公人』のありようは、まことに興味深い」と同注に記している。常朝および陣基におけるこの民政的視点の完全な欠落はどこから来るのだろうか。それは常朝の「奉公」観や「奉公人」道の本質にかかわる問題だと小池氏は指摘する。小池氏は「次稿において検討したい」と同注を結ばれているが、実際にこの問題についての論考を氏が後日発表されたのかどうか詳らかにしない。