こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

航海日誌:不定期日記(2/22 木)

2024-02-25 21:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

2月22日(木)8/4℃。目覚めると雨の音がする。大量のおしっこをしたあと、また少しだけ布団に入る。目が強烈に痛い。硝子戸の中、好きな漱石の随筆の朗読を少しだけ聴く。下に降りる前にちる坊が呼びに来ていた。彼にうながされて降りると、途端にシャカシャカ前足を掻く音。こちらの都合関係なく、今度はちる坊がおしっこを開始する。その始末をつけるのに腰痛のコシを押さえてかがみ、処理をする。終えるとやっとこちらの用事をする時間になる。血圧計測、正常範囲。外しだいにひどい雨、冷たい陽気へ。

ひと騒ぎを終えたネコどもはかごの中に入ってネコ団子、寿司詰めになる。おなか空いたが残るご飯が無い。仕方なく手順変更。コメ浸してお茶を飲み、洗たくスタート。ひとまずバナナ2本だけ食べる。。。洗たく終えた9時過ぎ、新しく炊き上がったご飯をやっと食べ出す。

午後外出。雨の為、予想外の渋滞でぎりぎりになり、コンビニに駆け込み、カレーパン、ホットドックとコーヒーで昼を済ませた。夜は珍しく家人不在、ひとりめし。ある意味自由だが、ネコたちの夕ご飯があるから、経路を変えて早く家に帰る。ネコたちにご飯を与えると、こちらは買ったお弁当+焼きそばで済ませる。ふだん制限している炭水化物過多の夕食になり、その反動で眠くなる。食後テレビ前でヨガマットを引いてストレッチをしていると うとうと眠ってしまう。20時プライムニュース 浅田彰先生+先﨑彰容先生「戦火の時代は日本をどう変えたか?」興味深く全部見た。終わると昨年録画したベストヒットUSA3/4分~はぐれ刑事~ジョニ男さん・池袋。テレビ前でネコたちと過ごす。今夜も2時ごろ就寝。

浅田彰先生ということで、つい雑誌を引っ張り出す。写真は1984年当時、フールズメイトに載った北村昌士せんせいとの貴重なポートレイト。そして下はコロナ禍のさなか、中古レコード屋さんのエサ箱をめくっていたら、ポッと出てきたYBO2(いぼいぼ)のシングル盤「空ガ堕チル」。30数年経て偶然出会ったレコード。THIS HEATなんて想い出す。

■YBO2「空が堕ちる」1986■

白い雲が空にとける

青い空が海におちる

雲がとける 空がおちる

赤痢 ペスト エイズ カフカ・・・

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航海日誌:不定期日記(2/21 水)

2024-02-24 21:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

2月21日(水)13/8℃、くもり→雨。薄暗い朝、黒い雲、しだいに雨へ。起きると部屋の外にネコがいる。まだこの部屋は入場禁止にしているので、ちびっこギャングたちは入れるスキを狙ってとびらの向こうで張り込み中。朝ごはん、キムチ納豆等々。はぐれ刑事#8これまた再度岡本夏生が出演。シリーズに必ず1回は出てくる準メンバーは今回4人の子を養うシングルマザー役。粗大ごみを拾って再利用しているが、ある日ゴミ置き場に捨ててあるグローヴやバットをおばさんと取り合いになり・・・。

前日22℃陽気はどこかへ。昼はタンメン、お肉は無いが残り野菜と麺で作って済ませた。昔「今日は1日いくらで済ませた」と節約していた時期を想い出す。お金のためにくだらぬ我慢をし、鼻をつまんで息を止め、苦しみが通過するのをしのいでた。それがいかに馬鹿なことか。そんな考えはもう要らない。

午後も雨降り。ネコたちにはすまないがケージに入れて外出。仕事。途中みんなと紙でチョコバナナをたくさん作る。

夜、夕食後に生ブッセ ラムレーズン。入浴後ネコたちをケージに招き入れようとするが、なかなか入ってくれない。追いかけっこに夢中、それを止めるのもかわいそうで付き合っている間に1時を過ぎる。申し訳ないが最後は強制連行。

こちらも寝床入るが、なかなか落ち着かず、寝るために聴く音を決めるのに時間を要する。結局YouTubeにあったはぐれ刑事の小川範子ちゃんの切り抜きを集めた動画を”聴いて“眠りへ。コーヒーを飲み過ぎたせいだろう、深く眠れない。たぶん2時近い。一体何をやっているんだか。。。人生は野菜スープのよう。。。

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航海日誌:不定期日記(2/20 火)

2024-02-21 21:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

2月20日(火)22/11℃、晴れ。冷え性で毎日ポケットカイロを使うので、大量の不燃ごみは重い。今朝の彼らはカリカリ食べ終わるとみんな静かになり、こちらも静かにお茶飲み、内観。カネのために生きると本質を見誤る。納豆、べったら、味噌汁、十六穀米、一汁一菜いつもの質素な朝ごはん。はぐれ刑事(2003年16シリーズ)#7。再び久野真紀子さん、不似合いな農家役。

自転車で疼痛治療へ、帰路スーパーで少し買い物して一度戻る。昼は肉まん、サンド、コーヒー。梱包した宅急便の大荷物抱えて外に出るとめろんまと出会う。やっと冬眠明け、春の花を植えるのだ、と息巻いていた。午後仕事へ。22度まで上がる陽気。夜かつ丼・天丼をはんぶんこづつ家の者と分け合う。人生は野菜スープのようだ。

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航海日誌:不定期日記(2/19 月)

2024-02-20 21:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

2月19日(月)18/13℃、くもりから小雨へ。7:10苦しんで起きる。歯磨き等一式。家人出るまでネコの行方を追いかけ、一緒に横にくっつき抱っこして外出邪魔を防ぐ。7:50やっとおちつくとやっとこちらの着替え。つけっぱなしのテレビ千葉 レオンくんが歌っている。画面にアップされた顔。新曲だという。体操のコーナー間に合わず。朝ごはん 長ネギの味噌汁。9時過ぎ、外は曇り空。雨はもう降らないというカン。自転車で行くことにする。amボランティア作業。クチばかりで手が動かない人、長年やっているからと勝手に場を仕切り出す人。人が集まるところはどこにも付き物の問題。

amで終わるはずだった雨は予想を外してやまず。昼やむなく移動、自転車で濡れて走る。こんなことは少年時代以来やってなかった。最近の人は雨に傘も差さない人が増えたが、自分は苦手。なんだかんだ迷いながら、結局見知った定食屋さんに滑り込む。自転車で来るのは初めてだから、路駐。メンチ定食。そしてコンビニコーヒーを雨宿り先で飲む。午後仕事。白桃、みかん、パイン、サイダーで作ったフルーツポンチをふるまう。みんなどれが多い少ないと取り合い。日没どっぷり暮れた後、自転車で色街通過して帰る。夜、海鮮ちらし、お吸い物、やきとり。人生は野菜スープのようだ。

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航海日誌:不定期日記(2/18 日)

2024-02-19 21:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

2月18日(日)17/9℃。7:20すでにちる坊大量オシッコ済、起き抜けに処理。外は晴れているが少々曇り気味。7:45さわやか自然百景。今日はネコたちは鳥に余り反応しない。TVは小さな旅へ。

ネコたちはむしろ階段上り降り追いかけっこの方に夢中。頂いた高級ハムでハムエッグを作る。ごはん2膳。午後、梅を観に外出。甘酒を呑み、大道芸を見る。

夜も頂き物、某冷凍の牛丼で済ませる。NHK「冤罪の構図」、22:00~ナイトライダー。23時過ぎ散髪、入浴。湯の中で過去への怒りが再燃。湯上り暗がりで1985年の少年時代の手帳を見返してみる。”狂気や苦難をくぐりぬけて何とか生きてきた、その自分の労をねぎらってやってください。”人生は野菜スープだ。

■10CC「Life Is A Minestrone」1975■

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航海日誌: アフターコロナの名曲喫茶

2023-10-18 09:30:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

(2023.10.17晴れ)


ラジオ番組「SAYONARAシティボーイズ」が好きで、毎週聞いている。
その番組後半では、メンバー3人が書いてきた日記を持ち寄り、それぞれの日記を自分で読むコーナーがある。
この14日(土)はきたろうさんと大竹まことさんの日記だったが、大竹さんの書いてきた「名曲喫茶」を巡る日記が心に残り、何回も繰り返しタイムフリーで聴いていた。

長引く不況やこの三年のコロナ禍により、昔なじみの喫茶店が次々と店をたたんでいる。
それは何も喫茶店に限った話しでは無い。この10数年前から、日本のどの町に行っても同じチェーン系の店しか無い、という状況になってしまった。
時代は明らかな転換点を迎えている。

大竹さんは、そんな状況下でもささやかに営業している、個人経営の小さなお店の話しを昼の番組でもたまにしていたが、今週はそんなコーヒー店に行ったときの日記だった。
とても示唆に富んだ日記だったので、文字起こしをしてみた。

日記 9月28日 木曜日
時代から取り残されたような古い喫茶店に入ってしまった。
老婦人がアイスコーヒーをテーブルに静かに置いた。見ただけで透明のガラスに入ったコーヒーは薄そうなのがわかった。
飲むとやっぱり薄い。。。めちゃくちゃ薄い。。。小さな氷がカタカタと音を立てる。私はこれまでの人生で一番薄いアイスコーヒーを飲んだ。
老婦人が暗いカウンターの奥で笑っている。私も笑った。

私より後に入ってきた老人は確かコーヒーフロートを頼んだはずだが、テーブルに置かれたのはクリームソーダであった。
緑色に透けるクリームソーダを老人は文句も言わずストローですすっている。クラシックが流れている。
「名曲喫茶ネルソン」と看板にあった。もう61年続いているらしい。


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読書日誌:「2020年 東京五輪の黒いカネ」(一の宮美成+グループ・K21)

2021-08-08 18:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


昔、入院中に偶然出会ったのが、この本だった。タイトルと黒い表紙が目を引く1冊。
院内にあった図書館的スペースで発見したこの本。パラパラめくってピピッと反応し、早速借りて入院ベッドで読み出した。
だが、読んでいる途中で退院が決まり、最後まで読み切れず、それっきりになってしまっていた。

今年に入ってスイッチが入り、この本を買ったが、買った勢いだけで失速し、「積んどく」本のチームに入ってしまい再読機会を失っていた。
しかし、2021年7月23日ついに東京五輪開催へ強行突入してしまったことが起爆剤となって、やり場のない想いを持って、積んだままだった本をここ数日で読み切った。

***

東京五輪誘致決定が2013年9月。
この本が出版されたのは2014年6月である。

この本のテーマは、東京五輪と東京大改革をとりまく「カネと利権」。
五輪誘致決定までの闇、そして新国立競技場建設の闇、、、、闇・闇・闇だらけの裏の真実。
最近タイトル倒しの本が多いが、この本は調査に基づいて積み上げられた事実がまとめられている。
全7章構成で、タイトルを読むだけでも、内容がどんなものか伝わってくる。

 序章 ヤクザ・オリンピック
 第1章 五輪招致とカネと旧皇族
 第2章 森喜朗と「新国立競技場」の深い闇
 第3章 五輪ビジネスの支配者たち
 第4章 東京大改造バブル
 第5章 築地市場移転と五輪利権
 第6章 「カジノ利権」に蠢く政財界ウラ人脈
 第7章 東京ホットスポット
 終章 「石原ー猪瀬ー舛添」の黒い紐帯

新旧織り交ぜた街で構成された都市=東京。
この超過密都市で真夏に五輪を開催する・・・そのためには街をぶっ壊して、無理矢理カネかけて再構築していいんだ、という無茶苦茶な理屈。
そんなことが通用するのか?

いや通用させるのだ、と為政者は言った。
まさにキチガイとしか言いようがない為政者とその犬たちは、高笑いでカネと権力にむしゃぶりついた。

まっとうな神経ではありえないのだが、東京はふるさととして生まれ育った人も少ない土地。
カネと権力に群がることを「ビジネス」と言い換えて悪に手を染めるサラリーマンが多い東京、そして日本社会。
建設業、広告業、他さまざまな業界で、本件のおこぼれをもらう配下企業と関係者の裾野は広かった。

異常な計画の中止を祈るこの8年だったが、戦後の匂いを残した街もこの機に刷新してしまえ、という風が吹く中、想定通り街は様変わりした。
また国立競技場周辺の一帯再開発や、都営霞ヶ丘アパートを話し合い抜きで立ち退かせ全部解体など、中国が過去五輪でやった強引な手法を、この国は平気で市民に行った。



写真や図解が挿入され、非常にわかりやすい一冊。
2014年6月発行と7年前の本であるが、こういった本があるおかげで、たぶらかしてきた政府とすぐたぶらかされる民との間で忘れ去られてしまいがちな五輪の初期問題を振り返ることができる。確かに東京五輪には、今では語られなくなったカジノ(6章)や築地移転(5章)などの問題も絡んでいた。五輪に絡めて、それまで着手出来なかったことも一気に誤魔化してやってしまうつもりだったのだ。

そもそも、この本の表紙の5人。
ああそうか、この5人が当初五輪に関わっていたのだ。。。5人とも五輪実施された2021年の関係者席にはいない。
罪の重さや罪の質はそれぞれ違うが、全員犯罪を行った存在であり「WANTED」。
ここに竹中や、その後罪を継承した小池や菅も入れるべきだろう。

これまでの壮大な迷走は、元々カネで開催地を東京へ無理矢理誘導を行った出発地点から始まる。

「多様性と共生」だの「復興五輪」など言っているが、そんな主題は元々無く、「カネと利権」のために東京で開催する必要があった。
カネと利権だけが計画の目的であり、途中で奇妙な事件が多発し迷走したが、どんなウソをついても誘致させ、五輪開催を目指した。
そもそもの東京五輪のコンセプト土台の設計が如何にいい加減だったかを証明している。計画に無理あるものは、後々巨大な失敗に繋がる。

コロナという想定外の問題があろうがなかろうが、それ以上に深い根腐れが誘致時点ですでに発生していた。
「コロナがあったから仕方ない」ではなく、コロナがあったからそれを隠れ蓑にして、おおもとの問題をもみ消そうとしている。
コロナという特殊事態のノイズを除いて2021年最終地点へ繋がる道を確認する際、参考文献として読むことを勧める。



よく言われる通り、80年代から「五輪は商売になる」ということで商業主義になっていった五輪。
たった2週間程度の世界競技会に、わかるだけでも3兆円超の税金が投入され、都民のテレビ観戦料は一人約10万円とも言われる。

どんな不具合があろうと何ら説明せずごまかし、人をとっかえひっかえしながら、押し倒して突入した五輪。
・・・・「いざ始まってしまえば、あいつら始まるまでの不満なんか忘れますよ」
電2+政府関係者+マスメディア+利権者はそう言い、7月23日前までの空気を一転させるように、開会式を契機にニュースは五輪だけに染まり、大事な天気や生活に関わるニュースすらそっちのけにする。
何があってもシラを切り、突っ張り、押し切れば、何とかなる、という姿勢。

うつろいやすい国民は「また」開催前までの気持ちを忘れて、五輪終了後の選挙戦に向けて誘導されていくのではないか?。そんな心配がよぎる。
先日の都議選ですら、多くの都民は投票にも行かず、異議すら示さず、ありえない結果に終わっている。

そうならないためにも、こういった本を読みつつ、再度8年前からのプロセスを確認しておきたい。

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読書日誌:「FAKEな平成史」(森達也)

2021-08-01 18:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


少年の頃の夏に「新潮文庫の100冊」というフェアが始まった。
セミ鳴く中、本屋さんに行った切ない夏の遠いシーンを想い出す。
と同時に、伊武雅刀さんがナレーションするCMや教授が広告になったポスターなども記憶によみがえる。

その類の夏のフェアは今でもやっていて、時期が来ると本屋さんには看板やポスター、店頭にずらっと本が並ぶ。その姿は毎年夏の風物詩になっている。
エアコンの効いた本屋さん店内、紙の匂い、夏らしいデザインのオビを付けた本が勢ぞろいしている様は今でも好きだ。
夏が来たな、と季節を感じる。

時期がたまたま夏に重なっただけだが、夏休みの読書感想文の宿題を始める、ということではない。
読書日誌、なんて書いたが、単なる個人的読書にまつわるメモである。
その程度である。それを最初に記す。

***

森達也さんの著書「FAKE(フェイク)な平成史」を読んだ。
この本は、2017年9月22日に発刊されたもので、当時気になっていたのだが、やっと4年遅れで読了した。
タイトルからお察しの通り、平成が終わる、ということになって企画された本である。

表紙に「自粛と萎縮にあらがい続ける」というコピーがある。
まるでコロナを予言していたかのような錯覚を覚えるセリフだが、コロナと無縁の時期に出た本である。
なのに現時点の日本にぴったりの表現のコピーである。
つまり、それくらい、日本は構造的に変わらない空気の中に居続けているのだろう。

本書は、平成天皇の退位される日が2019年4月30日となることを受け、平成を振り返るために、各時代に森さんが制作した映像ドキュメンタリー作品を置きながら、それに関わるゲストとの対談をまとめた本である。
タイトルに「平成史」とあるし全262ページとそこそこ分厚いので、平成の歴史本と勘違いしそうだがそういった類の本ではない。

森さん本人も、自分が歴史家や評論家でもないし、平成史を正面から統括することは荷が重く、振り返るとしても半径は小さいので、
テーマに関連する人を呼んで「煩悶や考察の補助線を依頼した」と断りを入れている。
しかし、昭和の終わりの自粛に始まり、平成の約30年の間、全体を覆ってきた空気がテーマである。



本は6章立てで構成され、それぞれのテーマに合ったゲストとの対談と、その頃の森さん自身の振り返り独白が交互に織り交ざる。

第1幕 疑似的民主主義国家ニッポン ~『放送禁止歌』 ゲスト:ピーター・バラカン
第2幕 差別するぼくらニッポン人 ~『ミゼットプロレス伝説』 ゲスト:日比野和雅(NHK『バリバラ』初代プロデューサー)
第3幕 自粛と萎縮に抗って ~幻の『天皇ドキュメンタリー』 ゲスト:松元ヒロ(お笑い芸人)
第4幕 組織は圧倒的に間違える ~『A』『A2』 ゲスト:有田芳生(参議院議員)
第5幕 平壌、かつての東京との交信 ~未完の『ドキュメンタリー』ゲス ト:若林盛亮(「よど号ハイジャック事件」実行犯)
第6幕 正しさこそが危機を生む ~『FAKE』 ゲスト:長野智子(ニュースキャスター)


個人的には、やはりという感じだが、日本と日本音楽を巡るピーター・バラカンさんとの対談が興味深かった。
もともとじぶんが思うことを率直に語るピーターさんだが、彼の本音が溢れていて面白かった。
またNHK「バリバラ」を巡る2幕、オウムを巡る有田さんとの4幕なども面白い。

すべての章の対談は森さん・編集者・ゲストの3人で行われているが、会話の断片が誰の発言なのか?
発言者がよくわからないまま羅列的に列挙記載されている箇所が多い。
読み手であるじぶんは、「 」カッコ内は誰がしゃべったものなのか?識別が難しくてできない。これはゲスト?森さん?編集者?
果たして誰か?わからないのは、読み手が悪いのか?本の編集の仕方が悪いのか?あえて発言をまぜこぜにしてるのか?
わたしはたぶん、あえてまぜこぜにしているのだ、そう思う。それくらい3人が考えていることは同じに近い。

***

本の分野や種類にもよるけれど、じぶんの最近の読書は、ふせんを付けたり、アンダーラインを引いたりして読むことが多い。
「一度読んだ本は二度と繰り返し見ないから、売るか捨てましょう」という断捨離思想が持てたら良いけれど、そんなスマートな性格になれず、
読み終わった本はふせんやアンダーラインなどでキズを付けた箇所だけめくり直すことが多い。

また、幼いころから本を最初から最後のページに向けて順を追って読むことが出来ない障害を持っている。
数冊を並行して、読めそうなところから入って、読めそうなら進む。
何回もトライして読めずに積まれた本もあれば、読みだしても、あるパートしか読めないという本もある。
1冊1冊をカタを付けるように読めないじぶん。
そんなじぶんにしては、この本は比較的やすやすと読めた。けっこうインタビューや対談本なら読めるのだ。

***

話しが逸れてしまったので、元に戻す。
第1幕はピーターさんとの対談を掲載しつつ、あいだに森さん自身の「ドキュメンタリー人生の始まり」そしてそれが平成とほぼ平行して始まり進んで行った様が振り返られる。ピーターさんはこの章で、日本に40年居るのに、日本人の感性が持てない、という在日外国人の正直な吐露をする。
そんな彼の発言や視線を借りながら、この国のありようを描き出していく。
じぶんが心にとまった箇所のいくつかだけ、下記に紹介し、読みたい方は本書を取っていただきたい。

p37・・・「もしも意見が違ったら、会社で村八分になってしまうとの意識なのでしょうか。ならばそういう意味で日本は、制度は議会制民主主義だけど、民主主義国とはとても言えないと僕は思います」
「ゴルバチョフが日本に来たとき、我々の国では失敗したが、この国では社会主義に成功した、と言ったらしいです。真偽は不明。仮に言ったとしても半分はジョークでしょう。でもならば半分は本気です。」
言いながら考える。そろそろ認めねばならない。この国は疑似的民主主義国家なのだ。

p39・・・日本の場合は、全員が黙り込んだうえでのフェアネスを実践しようとしている。しかし欧米では、投票権を持つ人がみんなで意見を出し合うフェアネスだ。この差は大きい。いや差ではない。根本的に違う。
「日本人はきっと、この国は民主主義国家ですかと訊かれたら、ほとんどの人がイエスと答えると思います。でもね、それは明らかに違う。本人たちはわかっていない。この国は実のところは独裁国家です。でも日本人の多くはそれを自覚していないから、こうした風土や状況を変えようとの意識が生まれない」
相当に辛辣な(でもだからこそ本音なのだろう)バラカンの言葉を聞きながら考える。一般的な独裁国家のイメージは、強権的な独裁者が存在して人民を抑圧し、強圧的に支配するということになる。確かに日本の場合は、強権的な独裁者や強圧的な支配は(表層的には)存在しない。ところが沈黙のフェアネスが典型だが、結果として独裁国家における国民の振る舞いとほぼ変わらない。支配されていないのに自発的に隷従する。でもその自覚はない。 多くの人は自由意志で判断していると思いこみながら、その振る舞いはことごとく隷従そのものになっている。

p44・・・バラカンに不謹慎はどのように訳すべきかと訊くと、しばらく考えてから、「確かにぴったりの言葉は英語にないですね」との答えが返ってきた。
不謹慎とは何か。何に抵触しているのか。法ではない。ルールとも違う。道徳や倫理でもない。結局は空気なのだ。みんなで同じことをやっているのに、なぜおまえだけがやらないのか。
あるいは、みんなで我慢してやらないのに、なぜおまえだけがやるのか。
これが不謹慎だ。右向け右。前へ進め。全体止まれ。その動きに同調しない異物の摘発。排除するための言い訳。

p69・・・日本の原発の保有数は世界第三位。でも一位のアメリカは国土が圧倒的に大きい。二位のフランスは地震がほとんどない。なぜこれほどに国土が小さくて地震が多くて、さらには(今の状況が示すように)電力も足りていたのに、気がつけば五四基もの原発を保持していたのか。
集団への従属、言い換えれば一人称を主体とする個の消滅は、人類全般が持つDNAに由来する。ただし日本人は、この本能が少しだけ強い。つまり場や空気に従いやすい。個が弱いのた。あるいは個を出さないように抑制する。こうして疑似的独裁国家が誕生する。
駅で電車を待ちながら、少し無理やりにこじつければ平成という時代は、日本におけるこのプロセスが、より顕在化しながら加速した時代と見なすことができるのだろうと考える。


また、森さんが海外で映画『A』を上映した際のエピソード。
上映後の質疑応答時、ドイツ人の発言にはハッとさせられた。

「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」

このときはドイツ人男性のこの発言を契機にして、会場はかなり沸いた。男性の意見に同調する人もいたし、メディアについてはほぼ同じだと反論する人もいた。要するに文字通りのディスカッションだ。観客たちが論争を始めている。日本の劇場では、まず見られない光景だろう。
彼らの発言を聞きながら、少しずつ気持ちが冷えていったことを覚えている。理由はわかっている。年配の男性は、「日本という国はそうとうに奇妙だと思う」と発言した。多くの人がそう思うのだろうか。


2017年の本の表紙には別でタテ書きのコピーで「終わる平成。しかし、忖度は続いている。」とある。
この本が出た後、コロナが来て、2021年夏、東京五輪は開催に突入した。

平成が終わると決まった2017年と現在2021年に起きている事象は違うが、根底に占める空気が支配する問題は変わっていない。
ではそんな国でどうすればいいのか?どう生きればいいのか?
個人的に思うものはある。しかし、そんな大きなテーマよりも「あなたの病気・心身を直してくださいな」と周囲やツレに言われる。
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2015年10月15日 木曜日 地を這うカメはそれでも必死にフルスロットルで生きていく覚悟

2015-10-16 00:51:23 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

僕はもう、この十年来、たいがい一人で住んでいる。
東京のあの街やこの街にも一人で住み、京都でも、茨城県の取手という小さい町でも、小田原でも、一人で住んでいた。ところが、家というものは(部屋でもいいが)たった一人で住んでいても、いつも悔いがつきまとう。

しばらく家をあけ、外で酒を飲んだり女に戯れたり、時には、ただ何もない旅先から帰ってきたりする。すると、必ず悔いがある。
叱る母もいないし、怒る女房も子供もない。隣の人にあいさつすることすら、いらない生活なのである。
それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない。

帰る途中、友達のところへ寄る。そこでは、いっこうに、悲しさや、うしろめたさが、ないのである。そうして、平々凡々と四五人の友達の所をわたり、家へ戻る。
すると、やっぱり、悲しさ、うしろめたさが生れてくる。

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いや悲しさから逃げることができないのだ。
帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。

この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。
そうして、いつも、前進すればいい。
[坂口安吾 「日本文化私観」より] ※改行・スペースは原文と異なる


つねに歩くことに希望を見い出すじぶんの今を照射する。

とある日。
不意に安吾の言葉に出くわし、そのコトバに、ぴったりと、眼が醒めるような想いがした。心に響いて仕方がない。(それは上の文ではない。)
安吾のそのコトバが忘れられず、うずうずした日々を過ごし、その末、ムズムズは歩く日々のとある時に、足を神保町・古本屋街にじぶんをいざなった。

何度か出向き、何周かブーンブーンと脳は旋回し・古本屋をいくつも巡ったが、なかなか安吾の本にブチ当たらない。
多くの作家たちと過去すれ違い、擦過してきたなか、安吾は1つのブラックホールだった。
この歳になるまで安吾の実体も知らずに来た。
愛する麻生久美子の初出演映画「カンゾー先生」を有楽町で観て、出演者の舞台あいさつに手を叩いても、原作者の坂口安吾には思いが至らなかった過去。

この休みにいくつかの文章を集めた「堕落論」を買った。そして読んでいる。
「堕落論」には集めたものが異なる、いくつもの本が存在する。じぶんが手に入れたのは1990年集英社文庫。
これは大仰な比喩ではなく、安吾に惹かれた理由。
まるで「今・ここ」に居るかのように、言葉に肉体を宿している点。今、じぶんに語り掛けているように思えて仕方がない。

それを友人MZ師に言うと、太宰治との対談等でも、いかに言葉が肉体を持つかを安吾は訴えていたと聞く。太宰というコインの裏側であった三島由紀夫を想い出す。
産まれたスタートラインで、感性よりもすでに言葉や概念に虫喰われたビハインドから始まった三島さんのこと。

坂口安吾に出会えなかったのは、文学少年に始まった絶縁した兄の部屋から盗み読むことがかなわなかったことが大きい。そのかたわら、もう一人の文学少年(出会ったときには青年)であった友人MZ師からは、話のすきますきまに安吾の話しが出てきた。しかし、じぶんは立ち読みした安吾の文章そのものよりも、彼の語り口のほうが魅力的だった。
「わたしは海を抱きしめていたい」というセリフ。
その表現がいかに素晴らしいかを熱心に語る彼。

お前は、いったい誰に向けてこんな馬鹿な作業を続けているんだ?
ブログに対して、そういったことは、内外問わず言われてきた。

そういうなか、よくじぶんの頭には寺山修司さんの言葉が浮かぶ。
じぶんは何かを求めていろんな本を読み漁ったが、そこに回答を得られなかった。
そこに見つけたのは、彼らの悪戦苦闘のキズ跡のみである。

そんな意味のくだり。

馬鹿丸出しやウソ八百も含めたじぶんという流体の、不可思議な存在の在り処。

***

最近逃げきれず通い始めた歯医者。
じぶんより年上の女院長兼実務担当者。
その手際よさと信頼感に、がんばってちゃんと前向きに歯を治そう。
つねにネガティヴに傾くじぶんなのに、そう思うくらいの感情が珍しく産まれる。

今日、会計を済ませる中、最後の患者ということもあったのだろうが、施術を終えてため息をついたじぶんを笑う先生。雑談を向けられる。
先生も実家が下町だという。そこから話は花開き、愛する街を熱く語ることとなる。
そんなことは思いもしなかった。あそこのカドを曲がって・・・はいはい。そんな具合に。また新しい知り合いに感謝。

カメ。それは、じぶんが小学生の卒業文集で、じぶんを例えて書いたコトバである。
それを当時の鬼畜親父に揶揄され、親族が集まるたびに言われた笑い話。

それから三十数年。イイ歳こいてこんなバカとは言われても、それでも今を生きる。
じぶんがじぶんを見捨てたらそこでジ・エンド。
宗教も主義的主義もモラルもイデオロギーもその人を救いはしない。
じぶんが持つ大事な永山則夫さんの本と言葉を引っ張り出してくる。
「独りで誕まれて来たのであり、とある日独りで死んで逝くのだ」

これは万人共通、唯一の現実である。
ならだ、だ。一生懸命生きるだけである。
たやすく使われる「一生懸命」や「がんばる」を嫌うじぶんは、今こそこの言葉を使いたい。

■エルビス・コステロ&ダリル・ホール 「オンリー・フレーム・イン・タウン」1984■
コステロを聴きながら、駅フォームで電車を待っていたら、気付かぬうちに踊っていたようだ。
向かい電車内から2人の女同志が凝視していた。
踊るといったってスイングだけど、見られてはじめてカラダを動かしてる自分に気付いた。
今、一番自由でしあわせなのかもしれない。過去もそう言った瞬間はあるだろう。
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2015年7月24日 金曜日 「夏の音色 Mille」

2015-07-24 23:23:50 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

”好きなものが、わたしを強くする。
好きなものを守るために、強くなる。

目に映るものを見つめる力。
目には見えないものを信じる力。
今ここにあるものを味わう力。
ここではないどこかを夢見る力。
今ではないいつかに想いを馳せる力。

好きなものを、愛したい。
大切なものを、大事にしたい。
いくつもの「好き」を、いつまでも忘れないように。”(丹所千佳)


■Pupa 「Anywhere」2008■
時節柄、1982年の今ごろ、毎日聴いていたロキシー・ミュージックが到達した地点「Avalon(桃源郷)」への想いがよみがえる。稀なる透明感と恋心を抱いてやまないこの曲への一途な想いとともに。

本日一日お休みをいただいた。夏バテで丸一日横になっていた。
相変わらずの猛暑に始まり、不安定な天候は次第にカミナリの音、そして雨音を聴いた。
つね外に身を追いやる自分が、丸一日室内に居るなんてことは、いまや本当に珍しい。
そんな折、この端正な文書に出会った。

去年から今年の冬歩く中、夜の外灯が点いた古本屋の軒先。
そこで見つけ購入した雑誌『Mille(ミル)』2013年12月増刊号。
上記は、この本の冒頭の一文である。丹所千佳さんはこの本の編集者。

買ったはよいが積んであったこの雑誌を今日めくったことには、中島らもさんが言っていた「その日の天使」が居た。ページをめくると豊かな写真と詩的文章。だから買ったのだが放置していた。
「女の子」的なものが多いと感じる。(近時ハヤリの「女子」的ではない。)

丹所さんがどんなプロフィールの方かは知らないが、一文から伝わってくるもの。
とてもチカラ強い信念を感じる。それでなければ、厄介ごとをひっくるめて一冊の本を創り担うなんてことは出来ない。丹所さんが意図したものが、ちゃんと一冊の中に展開されている。

1984年に出会った雑誌「LOO」を想い出す。
丹所さんが言わんとすることはよく解かる。それを視る側の自分は”そうは想えど”もうその地点から別の地点に移っている。それは自ら動いたものもあれば、周囲の様相がおかしくなったからもある。
熱い想いとそれを定着させた一冊。”時を超える夢”などを込めた内容がまぶしい。

たた好きなものに没頭していられたのは、育ててくれた人たちが与えてくれた空白余地あってのこと。
そんな場所で出会えたものたちは一生刻まれるが、人は次第にそうも行かなくなる。
イヤでも好きだけでは済まなくなる。しかし、現実に目の前で見た夢のような出来事を手放し・あきらめることはない。

*現代は「人はパンのみにて生くるにあらず」のみではない。「人は検索のみにて生くるにあらず」も言っておいたほうが良い。
検索しているヒマがあったら、みずから動いて、いきあたりばったりの何かに出会った方が良い。
たぶん、つまらん洗脳を回避するのも含めて、今選ぶべき生き方はそれなんだろう、という直感にはまちがいはない。
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