こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

冬の100曲:坂本龍一「20220123」

2025-01-07 20:50:00 | 音楽帳

□音楽と無縁な話し□暮れから年初□

12月下旬からノドの痛みは感じていたが、それを認めるとアウトなのでうがいだけをして過ごしていた。つまりその痛みは”例の病気”への前兆(まえぶれ)であることは薄々意識で感じていたのである。しかし、そこに注目すると病気を引き寄せるので無視していた。1週間程度続いていたノドの痛みは、なんとかその程度で年を越えた。

そして元旦。今年の正月はそもそもうれしくもなんともない。能登地震が起きた日でもあるし。この何年ものあいだできるだけ関わらないようにしてきた父、そして元家族たち。最近では彼らに一年に一回だけ会う日が元旦となっている。それゆえ余計に元旦は喜ばしいものから遠くに在る。気が重いだけの一日。

その気の重さが前面に出ているから、家人も一緒に行きたくないのだ。しかし、その空気を無理矢理はねかえして、ムチを打って先方へ出向いた。そんな午後の訪問。先方に居ても意味の無い時間。手持ちぶさたから、つい流れで少し冷酒を呑んでしまった。

***

今の自分はふだんお酒を呑まない。無理して「欲しくない」と言っているのではない。吞めなくなったせいでもあるが、もう欲しいとも思わない。たまに夕食時ノンアルコールビアを、家で付き合って呑む程度だ。この日やむなく呑んだ酒のせいで血管が浮き出始め、遠いどこかで頭痛が始まり、そして鼻水が止まらなくなった。かんでもかんでも止まぬ鼻水。よくあるスパイラルが始まり、元旦の会合の終わりを首長くして待つ。

そしてやっと夜7時過ぎ、元旦の会合から解放され、帰路を辿る。その帰路で次第に酒が消えていく。帰りの道で家の者としゃべっていると、それでもまだまだやけに赤い顔と消えぬ鼻水を指摘される。”例の前ぶれ”じゃないの?と。

家に帰って熱を測るとすでに数値は38℃台。。。結果的に昨年後半からの続編。5回目の炎症。三箇日(さんがにち)は病院はやっていないので、この元旦、2日、3日・・・と寝込んで治そうとするが、それで済まないのが、この肺炎に向けた不気味な熱と他の症状。38℃台に上がった熱は、夜中汗でびしょびしょになって衣類を着替えることに。そして翌朝起きると平熱に戻っている。

だが、翌日も午後からゆっくりと熱が上がり出し、また夜には38℃を越えていく。これを2日も3日も繰り返し、果ての無い静かな戦いに入ってしまう。

***

病院が本格的に再開するのは6日(月曜日)だが、この日は元々早朝からしごとの用事があった。何とか5日(日曜日)じゅうには歩ける程度まで直さねばならない。また辛さから月曜まで我慢できる状態でもない。

考えた末4日(土曜日)病院に出向いた。この日は病院側も十分な体制にはなく、医者も関係者も半分程度の状態に対し、年末年始我慢していた同様の患者が来るという具合。それは予想通りだった。自分が見てもらいたかった医師が居ないのも分かった話し。結局検査はできず薬を貰って帰る形となった。これも予想通りだった。あまり劇薬は望まないが、いったん薬で病気をある程度昇華させるしかなかった。そして何とか6日の仕事を越えることができた。

***

年末年始も、いろんな音楽を聴いた。しかしいつもどおりストレートな音楽は少ない。

宝石ならばよく磨かれた鮮やかなものではなくて、はっきりしないもの。光線の入り方で屈折の度合いを変えにぶい色を放つ石のようなもの。。。今日なら今日で、別にどんな音楽でも良かったのだが、夕方たまたまこの曲が気持ちに一番近い位置に在った。

予約して手に入れたCDで、発売前にすでに全部聴いて知っていたということなら、ボウイの「ブラック・スター」と同様。2022年の暮れにオンラインで聴き、翌2023年1月17日入手後はしばらく繰り返し聴いていたが、つら過ぎて放り出したCD。今日ひさしぶりに取り出した。その頃も今日も”20220123”は流していてさほど苦ではない。息と野外の風が聴こえる。

 

■坂本龍一「20220123」■

241230

250104

250106早朝

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冬の100曲:甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986

2024-12-30 21:30:00 | 音楽帳

1974年にデビューした甲斐バンドを初めて聴いたのはかなり遅くて、「Hero」(1979年)というヒット曲が始まりだった。ちょうど「ザ・ベストテン」の時代で、毎週TVの前にかじりついてノートを付けながら見ていた。そんな季節だった。バンドはその後もヒット曲を飛ばし、自分も一曲一曲はTVで聴いたが、アルバムLPを通して聴くわけではなく、その頃は甲斐バンドそのものの良き理解者ではなかった、といえる。当時の少年の心境を振り返れば、とっつきにくく、怖そうな面々で、かかわるとやっかいなんではないか?とその頃思っていたふしがある。
そのうち自分は70年代の終わり頃暗く偏屈な中学生になり、背伸びして「洋楽のみを聴く主義」に無理矢理変更した。

その後、時代はすぐに1980年/80年代になって、私で言えばYMO時代をむかえ、音楽機材も含めて フォーク等々70年代的なものが古く見え始めた。音楽の価値観が全く違う世界に突入し、ミュージシャンはみなその流れを無視しては生きていけない状況になった。そんな80年代は甲斐バンドにとってもアウェイだったであろうし、厳しい時代だったかもしれない。

そんな80年代、甲斐よしひろはサウンドストリートのDJでもあった。教授が火曜、甲斐が水曜レギュラーの時期、教授が1984年「音楽図鑑」を発表したときは甲斐の番組ゲストに出演。まるで水と油というスタイル違う2人だったが、2人の対談は実に面白く、広く異分野の音楽を理解する 甲斐よしひろという人の度量の深さがにじむ放送回だった。

***

海外で言えはニューウェイヴが終焉をむかえ、また新しい未知の時代へと動き出した1986年。そんな1986年に甲斐バンドは解散する。解散間際に流れていた「メガロポリス・ノクターン」そして最後のライヴの最終曲「ラブ・マイナスzero」が今でも好きだ。長年のファンからは、これらの楽曲は甲斐バンドの本筋ではないと言われるかもしれないが、個人的にすごく好きな曲で、一回聴きだすと延々と繰り返し聴いてしまう。
サウンドを追求した結果依頼したボブ・クリアマウンテンのミックスはロキシーのアヴァロンを想起させる美しさ。歌詞を一節一節ひとつごとに切り分け、揺れる声でしっかり圧を語尾にかけるように歌う。そんな甲斐よしひろの魅力的な声と歌い方は、時代を一回りした末のところですごく自分の心に響く。
70年代らしい楽曲から始まったものの、失速せずに泳ぎ切るために時代変化に応じてカタチを変え、全く違う世界に変化してみせた甲斐よしひろの対応力と粘り強い胆力。決して男っぽさや荒々しいチカラ強さだけではなく、アクロバットに変わってみせたしなやかさ、その跳躍距離の長さに"あっぱれ"と思った。

昨日、師走も終わろうとする上野付近をチャリンコで走った。日没の残照を遠くに見ながら、この曲「ラブ・マイナス・ゼロ」を10回近くは聴いたと思う。
アメ横じゃ今年も賑やかに威勢の良い叩き売りが行われてるだろうが、そこは通らずに帰った。あっという間に年末、こうして今年も暮れてゆく。。。

■甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986■

月あかり高鳴る時間は終わり
通りを洗い流すほどの激しい
嵐の中 今夜二人いる

君の海岸へと流れ着き
強く抱きしめようと手をのばすと
霧が行手を隠してしまう

LOVE MINUS ZERO
君から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

孤独なままの夜のくり返し
俺の胸をくもらせてしまった彼女
逢える時まで時間は止まったまま

身体合わせても夢さえ見られずに
叫びだけが夜に突きささる
あれは魂が愛を奏でる音

LOVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

月あかり高なる時間は終わり
憎しみのあとの愛はげしい姿が
だけど俺を捕らえて離さない

OVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

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冬の100曲:ペイル・コクーン「繭」1984

2024-12-22 12:40:00 | 音楽帳

昨日12月21日冬至をむかえ、まさに冬本番になった。日中は相変わらず雲の切れた晴天が続いているが、昨夜は風速15mの強い北風が吹き荒れて、野外の自転車は総じてなぎ倒されていた。そして今朝もその強風は続いている。

***

先日書いたペイル・コクーンは11月くらいから聴いている。デビュー作である4曲入りレコード「青空の実験室」(1982年)以外に、1984年に発表された「繭」を聴いている。最近は、寒空の下チャリンコで走る中聴くこの「繭」がとても心地良い。

「繭」は当時カセットブックの形で発売されたもの。カセットテープ好きの自分は欲しい一品だったが、「欲しいなあ」で止まったままこれも買えずじまいで時間が流れていった。

当時は「カセットブック」そのものが「新しい」音楽形態みたいに扱われていたから話題にはなったが、失礼ながらそんなに数が売れなかったはず。。。その「繭」が2020年に初のレコードとCD化となった。私が「繭」をやっと聴けたのもここ数年のこと。

<当時聴けたらもっと良かっただろうなあ、という名盤。>

こんなセリフはよくレコード評につきものだが、これはよくある饒舌なウソではなくて本音。すごく良い曲が多い一枚。自分にとってはまさに2024年の名盤なのだ。

クレジットを見ると曲目はすべて英文字。その文字を立ち止まってようく読んでみる。

A面

  1. Sora
  2. Shunmin
  3. Musoukyoku
  4. Mizutamari
  5. Onshits
  6. Kumoatsume

B面

  1. Toy Box
  2. Laboratory under the Bluesky
  3. Room=Manhole
  4. Automatic Doll
  5. Microscorp
  6. FLALORM

A面始まりから・・空・春眠・夢想曲・水たまり・温室・・・。勝手に日本語に置き換えてみると、このアルバムの世界がよく伝わってくる。今は冬の風吹く中チャリンコで聴いているが、聴いていると雪解けして水ぬるむ季節のぼんやりした春の風景が見えてくる。

歌詞は聞き取れる箇所もあるけれど、過剰なほどエコーがかかった音像の中に歌う声は波紋のように広がって正確には聞き取れない。それがとても心地良い。歌詞なんてわかったって仕方がないのだから。。。あえてぼかしてあると推測する。

また、このアルバムではデビュー作「青空の実験室」の曲が装幀を変えて登場する。A4「Mizutamari」は「水たまり (Brain To Vain)」のリメイクだし、B2「Laboratory under the Bluesky」は「青空の実験室」の、B4「Automatic Doll」も「自動人形」のいわばダブヴァージョン。機材も予算も限られた中だっただろうが、仲間たちの手を借りながら「創意工夫」の末に創られたサウンドは、デモテープの延長線上にあり(←これは褒め言葉)音質的にも決して良いものではないけど、ぼんやりした音の森は実に魅力的。どんなカネの匂いぷんぷんな音楽よりもはるかに美しい。

 

■Pale Cocoon「Sora」1984■

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冬の100曲:Japan「My New Career」1980

2024-12-15 21:20:00 | 音楽帳

晴れがずいぶんと続いていた。まっさおな青空が美しく、そこに映える紅葉も美しい日々が続いた。しかし、その紅葉ははらはらと散り終えつつある。落ち葉は乾いて、カラカラと木枯らしのなか舞っている。陽の長さは日に日に短くなり、あと一週間程度の冬至に向かって傾いていく。
金曜は長らく続いた連続晴天から一転して、真っ白い曇り空になった。もう冬だろう。その日に感じた。
そして、金曜曇りを挟み、昨日も今日もまた絶好の晴れとなった。

こんな日々が続く中、朝の布団を離れるのは9時から10時のあいだ、という具合。別に寒いからじゃない。晴れた日はせっかくの日光なのにと思うのだが、半世紀以上朝は苦手。立ち上がりの悪さやふらふら感は変わりない。
長らく「はぐれ刑事純情派」の再放送(今は1994年第7シリーズ)を9時から見ることを楽しみにしてきたが、昨年以降2巡目に入り気力落ちた為に9時前に起きる必死さが無い。理由はほかにもあるが、TVは無理矢理な動機付けには格好の材料だが。。
歯磨き、湯沸かし等々の雑事終わってTV付ける頃にはじゅん散歩〜おおしたさんの番組の流れになる。
別に寝坊でも何でも無い。ネコのことなら彼らの要望に応じて、深夜から明け方も含め24時間対応はしている。外用事は午後から済ませるだけのことだ。

この12月某日で、ドクターストップがかかってから丸5年をむかえた。まさか、と思う。驚くべき時間の速さ、人生の短さを痛感する。
この5年のあいだに、コロナ禍を通過、仕事は休職を経てがたがたやり合いの末に時間切れの形になった。その後、一生に一回の転期と考えた。カネの為に身を削り、我慢辛抱して奴隷として働くという日本人的労働観を捨て、残る時間はそれまでと違う新しい生き方をしようと決めた。

しかし、そうは言ってもやはりカネが一文無しでは生きていけない。四苦八苦しながらさまざまな取り組みをしている。
だが、つくづく今の日本社会は、会社員中心に出来ていて、社会的手続きや所属員への優遇など、会社に属している人のメリットだらけ←/→社畜的奴隷制度から脱してもデメリットだらけ。それでも、もうカネだけのために生きる無様な生き方はしたくないので、この病んだサークルの外側にいま私は居る。

かつて会社に寄生してはチューチューチューチューあらゆるカネ目のものを吸い取り、社内外に毒をまき、依存的生き方をしていた連中の、愚劣でえげつない化け物顔がときおり浮かぶ。。。彼らはたんまりカネを得て、さぞご満悦だろう。

***

何はともあれ、かつて居た場所を離れ、自分は見知らぬ飛び出た場所にいる。私は新しい生き方、新しい道の上にいる。もう後ろに戻る道は無いし、戻らない。それは格好つけてるわけでも突っ張ってるわけでもなく、事実なのである。

ココロには中学三年生15歳の自分が、暴風の中新しい道へ歩き出したときの姿が浮かぶ。決してその後の道がハッピーエンドに向かったわけではない。むしろその反対だが、それでもなんとか難局を超えて生きていくことを選んできた。

15歳の頃、すり減る程に聴き込んだJAPANのアルバム「孤独な影」。孤独な中、周りのしがらみに翻弄され腐りながらも、自らが思う道を歩こうとするデヴィッド・シルヴィアンの姿が自分を後押ししていた。全曲あり得ない完璧さをもっているが、最近またこの曲(マイ・ニュー・キャリア)を聴いている。
このアルバムとの出会いから約43年。心の深い深いところに届く数少ないこのアルバムから、多くの励ましを得てきた。 JAPANは私にとって唯一無二の存在。特にこのアルバムは、この後も一生を通じて聴くことになるだろう。

 

■Japan「My New Career」1980  (Old Grey Whistle Test, Dec. 1980)■

ひとりきりになりたいなんて
思ったことはなかったくせに
とにかく僕はそっと家を抜け出して
ここまで来てしまったんだ

南に住む人々は
些細な人生の浮き沈みを繰り返しながら
まっすぐ前を向いて歩いてる
確かな足どりで

彼等が僕たちの唄をうたってる
外の人々には何も聞こえないけれど
彼等が僕たちのうたをうたってる
僕の新しい人生のはじまりに

やっと気づいたんだ
違う生き方もあるということに
船が港に着くたびに
出発の時はやってくるのだから

南へ行けと彼等は言うよ
太陽は僕の町には沈まない
僕を物憂い気分にさせるのは
この熱風の中の疾走

僕は誰ひとり傷つけたりしていない
ことに 君を傷つけるような真似は

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秋の100曲:ペイル・コクーン「青空の実験室」1982

2024-12-10 21:20:00 | 音楽帳

昨日朝、おおしたようこさんの番組見てたら”いよいよ冬本番”と言っていた。初霜、初氷となり、例年より14日早いんだとか。
今年は猛暑のせいですべてが季節遅れだったが、いきなり逆転したらしい。
私の中ではまだ晩秋だったんだけど、、そして「まだ秋」と言ってふんばりたいけど。。もう冬の到来を認めねばならないのかもしれない。

***

秋と冬の境目はどこなのだろうか?などとずっと考えていた。試しに家人に質問してみたら、そんなこと考えたこともない。ずいぶんと小さなことを相変わらずぐるぐる考えてるんだね、といなされた。そうだ、私はこの手のことをふだん四六時中考えている。

秋と冬の境目を「月」でわけて考えるのが気象庁で、11月までか秋、12から2月が冬としているらしい。あるいは、冬至から春分までを冬とする考え方もある。
自分としては、やっとおとずれた紅葉が散って、裸の木立ちがあらわれ出したら冬、としたい気分。
そうしたら、この数日で美しい葉々がはらはら散り出した。やっぱり冬がもう来たのかもしれない。。手足などの末端を中心に冷え性だから用心してきたが、、「今年は大丈夫だよ」と無意識に自分に言ってきたが、むしろ例年以上に気をつけねばならないのかもしれない。

***

そんな寒い中、音楽を聴きながら、土、日、1日空けて火曜とチャリンコを走らせ、紅葉が散り行くさまを見てきた。
最近取り出したのはペイル・コクーンの4曲入りミニアルバム「青空の実験室」。(「取り出した」と言ってもiTunesに入れたものだけど。)

このアルバムを知ったのは、雑誌フールズ・メイト1983年師走号に載ったパフェレコードの広告。アルバムリリースは1982年だそうで、翌年の紹介広告だった。これ以外でも雑誌でアルバムのモノクロームなジャケットを見たことはあり、興味は猛烈にあったが実態不明なまま40年経過。中身を聴いたのは、ここ数年のことだった。カラーの色付きジャケットを見たのは、かつて神保町にあったジャニスの店内かもしれない。日焼けしたかのような色味のカラー写真がさらにそそられる。
のちに発売されたレコードに写るメンバー2人は太ももあらわな短パン、ベレー帽姿で、まるで少年探偵団の小林少年を模していたので。。。聴く前の想像は、外界と切り離れた小学生たちの秘めた小宇宙を思い浮かべていた。その後実際に聴いた後も、そのイメージや印象に違いはなかった。

80年代初頭、みんな自宅でラジカセ等を相手に音に関するさまざまな実験を行っていた。私もそんな子供の1人で、マイクでいろんな音を録音したり、ループさせたり重ねたり・・。帰宅から母親に「夕ご飯だよ」と声を掛けられるまでのあいだ、全く生産性とは関係のない、無縁な実験行為に浸っていた。私はいわゆるそんな”デモテープ世代”であって、教授のサウンドストリートでデモテープ特集が組まれる前後の時代 夢中になっていた。
この4曲入りミニアルバムも、そんなデモテープ世界と地続きで、アナログな楽器類で構成されたくぐもった音の世界。ボリュームを上げて聴くと外気の音や見知らぬ人の声、ざわめきなんかも聞こえてくる。師走のゆらめく風景にマッチする。

 

■ペイル・コクーン「青空の実験室」1982■

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秋の100曲:鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983

2024-12-07 14:30:00 | 音楽帳

幼い頃から、十代、二十代、その後、と闇のなかを歩いてきた。
たとえば、高校を何とか出たところで、自分は2年も無職・浪人のときを過ごしていた。そのときには、日々悩みさまよいながら、自分が身を置ける場所がどこにもなかった。カネもなく、安堵できる家や場所も無いから、野外をほつきあるいていた。そんなにも苦しくて現実に身を置けない時代に、自分はいわば家出状態だったのだ。野外で持ち歩ける音楽プレイヤーなども無かった。そんなときには、カラダが勝手に作り出した脳内プレイヤーが活躍した。脳内の想像だけで音楽を再生し、そこに浸るというワザを身につけた。

あれからもう数十年が経った。今ではすぐれたモバイルプレイヤーがある。大してカネを持たない自分でも買えるくらいに安いものが手に入る。
でもいまだに苦しいココロを抱えて生きるのは変わらないから、持ち歩けるラジオとかプレイヤーは毎日欠かせない。毎晩眠れないから、寝る時もイヤホンをして別の世界に身をひたす。そうしないと、味気ない現実に身を侵蝕されて、生きたまま白痴になってしまうようだから。

***

”シネマ”ではなく”B-2ユニッツ”でその演奏に初めて出会った鈴木さえ子のソロデビュー作「毎日がクリスマスだったら(I wish it could be Christmas everyday)」は、少女的とも少年的ともいえるかわいらしい世界。
少年的とは、慶一氏が共同制作者だから、たぶんそれがにじみ出てきているのだろう。ほとんどの曲を二人で作っていて、二人のウエディングアルバムともいえる。

このアルバムに収録された曲には好きなものが多い。その中の1曲がアルバムB面最後に入った「朝のマリンバ」。
(歌詞はあるものの)”ほぼ”インストゥルメンタルな曲で、その雰囲気は晩秋にぴったり。この曲の数行の詞は慶一氏のもの。作曲はさえ子ちゃんになっている。
チャイムの音が印象的な曲で、これを掛けてイチョウ並木の下を歩きたい、と1983年からずーっと思ってきた。

《鐘の鳴る秋向きの曲は、いくつかあるけど。。》
できるなら、曲のアタマとお尻をうまく繋げてエンドレスで聴きたい。
先程の話に戻れば、こんな曲を周りの雑音が聞こえなくなるくらいの音量でイヤホンで聴きたい。
エンドレスに鳴り続ける音の世界にどっぷり浸り、鬱に落ちていくココロから飛び出して行きたい。

よく読書家や文学者の方のお話しで、読書で本の世界に入り込んでいるときだけは生きていてもいいと思う、といった話しを聞くことが最近特に多い。そして、この手の話しには、死んでしまいたい気分が毎日基本だが・・という補足が付くことが多い。
その話しにすごく共鳴するし、よくわかる。私もおおよそそんな状況だ。

 

■鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983■

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秋の100曲:Nick Heyward「Café Canada」1983

2024-11-30 22:40:00 | 音楽帳

この曲を初めて聴いたのは「教授(坂本龍一)のサウンドストリート」1983年8月30日の放送回でのこと。ゲストは鈴木慶一さんandさえ子ちゃん。
そのときは2人が結婚することになった頃で、慶一氏が手伝った さえ子ちゃんのソロアルバム「毎日がクリスマスだったら」の紹介回だった。アルバム紹介の合間・ティーブレイクとしてこの曲「Café Canada」が掛かった。

1981年4月に始まった「坂本龍一のサウンドストリート」も、毎週一秒も聴き逃すまいと切迫感を持って毎週大事に聴いていた時代を過ぎ、 1983年ともなるとすっかり中だるみして、カセットテープに録音して満足して済ませていた回も多かった。しかし、この回は掛かる音楽・会話ともに面白く深かったので、何回もこのテープを聴いていた。1983年夏の終わりの番組を、秋から冬になっても繰り返し聴いていた。以来「Café Canada」は毎年秋になると必ず聴いている。

***

「Café Canada」はイギリス現地発売のシングル「Take That Situation」のB面に収録されている。最近ではファーストソロアルバム「風のミラクル」CDのボーナストラックに収録されている。

サウンドストリートでは、お気に入りレコード探しを巡る会話が楽しかった。教授は某パイドパイパー・・でたんまり新譜レコードを買っていたが、仕事が忙しくてなかなか聴く時間がない。ひたすら膨大な枚数聴いてないレコードが溜まっていく中、一枚でも聴いてみようという気持ちになるきっかけは、「誰それがアレが良かった、と言っていた」という仲間の情報だ、と言う。
一方、新譜好きの慶一氏の方はといえば、さえ子ちゃんが代わりに聴いて「アレが良かった/これはあんまりよく無かった」と仕分けして教えてあげてると言う。そんなデレデレの会話につい教授は「早くも内助の功かよ」と小さくキレた。
この頃、この夫婦の仲睦まじい感じはイヤミがなく楽しそうだった。。(慶一・さえ子夫婦はうまくいくんじゃないかな、と自分は思っていたけど。。。)

ニック・ヘイワードは、ヘアカット100がヒットした途端にいきなり脱退して、当時えらく驚いたもの。/ソロになって一枚目のシングル「Whistle Down The Wind」のスローなテンポの魅力。/その後、一枚一枚シングルカットを繰り出して、その末にファーストソロアルバムを作った流れ。/幸宏がオールナイトニッポンでそのシングル曲を掛け続けてくれたこと。/同じく幸宏がアルバムのライナーノーツを書いていたこと。/・・・などと芋づる式にさまざま思い出す。

今年は猛暑・異常気象を引きずり秋のおとずれや紅葉も遅くなったが、やっとこの曲が似合う季節になった。

■Nick Heyward「Café Canada」1983■

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秋の100曲:Janis Ian「Will You Dance?」1977

2024-11-26 22:20:00 | 音楽帳

昨日朝、テレビの番組表をながめて、とある意外な番組を発見。すぐにチャンネルを合わせた。
その番組は山田太一さん脚本のドラマ「岸辺のアルバム」。
1977年(昭和52年)の作品だったんだなあ・・・といまさら思う。その1回目の始まりに偶然立ち会えた。こんなめぐり合わせを逃してはならない。。。
でもリハビリ仕事に行かねばならず。。。途中まで見て、そこから録画に切り替えて外に出た。

一日経ち、今朝ドラマの続きをゆっくり観た。
とても懐かしくいとおしい時代、70年代の匂いが充満する。でも、ただのなつかしさとかノスタルジーではない何か。。。
山田太一さん作品では、未だに小学生の頃に観た「男たちの旅路」(1976年・昭和51年~)がココロに深く刺さっている。

そして、当時想像もしなかった時代・2024年に、再び1977年の「岸辺のアルバム」を改めて観ている。
自分が生まれたのは60年代後半。そんな子供が意識を持って歩き出した子供時代は70年代。
身の回りの生活が次第に豊かになっていく一方、次第に沈没に向けて傾いていく予感。それがこのドラマには漂っている。

このとき46歳だった八千草薫さんが、いつもながら上品でかわいい。
八千草さんは、桃井かおりさんが主人公のドラマ「ちょっとマイウェイ」(1979年・昭和54年)におねえちゃん役で出ていた、その印象がとても強い。
おっとりしておっちょこちょいだけど、いつも桃井かおりを見守っているおねえちゃん。でも、いつも桃井かおりにクチで言い負ける。
その様があんまりにもかわいくて、大好きだった。(当然、ドラマ自体も桃井さんも大好きだった。)

***

今生きている2024年。この時代・今の世界にどうも愛着が持てない。とんでもない場違いな時代に生きている、という感覚がする。
自分はまるで浦島太郎みたいだな、という感覚に包まれる時がある。
よくトカトントンと音がしては浦島太郎になる。

そんな時代の中で見るこのドラマ。何がどう、という理屈ではなく、離れがたいいとおしい想いになり、言葉を失う。
幼い頃からよく過去を振りむいては、その過去への愛着を抱いて何とか今を生きてきた。
その愛着が今を生きる阻害要因となっているのかもしれない。と愛着を捨て去ろうとした時期もあった。

まだドラマは始まったばかり。これからまた色んなことを想い出したり考えたりしながら、見ていくんだろう。
うまく言えないけれども、いま不思議な感覚に包まれている。

■Janis Ian「Will You Dance?」1977■

ちる坊はテレビ画面前でじゃまをする。

今夜のスカイツリー。

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秋の100曲:Ultravox「Monument」1982

2024-11-22 12:00:00 | 音楽帳

今年は特に病院通いが多い一年だった。(まだ今年は終わっていないけど。)病院通いで青山から赤坂を歩くことが多くなり、奇遇にも元ジャニーズ本社前を往来することがよくあった。その元Jビルのななめ向かいには今年亡くなってしまった桂由美さんのブライダルハウスがある。元Jビルが無味乾燥なのに対して、桂さんの建物は凝った造形の建物で、ついシャッターを切る。
下記はその建物を私が撮影した写真だが、自分の中の幻影イメージに近づけようと、無意識に、撮影した写真に過度な補正を加えてしまう。退廃的で浪漫的なテイストになってしまうのは、自分がウルトラヴォックス好きであることと繋がっている。とその写真を見て思う。

ウルトラヴォックスは十代の頃、自分の中では偉大なる存在だった。(そんな彼らへの敬意は今も変わらない。)
1980年CMで聴いた「ニュー・ヨーロピアンズ」に一撃された自分は、「ヴィエナ」から「ラメント」にかけての第二期の彼らがやはり好きだ。
もっと言うと、アルバムでは「エデンの嵐」が一番好きで、それは今も変わらない。(ここで多くの人は「ヴィエナ」の方を選ぶだろうが。)
「エデンの嵐」はウルトラヴォックスで一番初めに買ったLPであり、一番聴き込んだレコード。コニー・プランクが絡み、ベルリンの"By The Wall"で録音された緊張感満ちる世界がすごい。

***

今回選んだ曲「モニュメント」は、1983年11月29日のクロスオーバーイレブンでABC、アイ・レベルに続き、4曲目に掛かった曲。この曲は、「エデンの嵐」に続いて1982年11月発売された「カルテット」収録の「ヒム(Hymn)」というシングル盤のB面曲である。アルバムには入っていない。

アルバム「カルテット」発売後、1983年7月に編集盤として、日本限定でミニアルバム「聖歌」が発売。今までの曲の未収録のロングバージョンやライヴバージョン・・・そこに混じって「モニュメント」が収録されている。

アルバム「カルテット」は、ポップになり過ぎていて、「エデンの嵐」にしびれてしびれてしびれまくった自分には少し違和感があるアルバムだった。
最初のシングルカット「リープ・ザ・ワイルド・ウインド」の「明るく希望あり」といった様にはワクワクしたものだったが、アルバム全体を聴いてみると、それまでの重厚さが取れ独自性がなくなったように思ってしまい、「あれっ?自分が愛したウルトラヴォックスは、確かもっと硬質なザラザラした感触の、浪漫に満ち構成主義的な音を鳴らすバンドだったはず。。。。」
どうやら同じ感想を持ったファンが多かったようで、当時のインタビューでミッジ・ユーロは、評判悪い「カルテット」に反論を述べていたが、彼がどう言おうといまいちそうは思えなかった。

そんな自分にも、インスト曲「モニュメント」は「エデンの嵐」に近い”あの”理想的感触の音で、実に素晴らしい一曲。
同じような感情を持つ人は居るだろうか?正直自信がないが、自分には名曲である。

 

■Ultravox「Monument」1982■

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秋の100曲:I-Level「Stone Heart」1983

2024-11-18 22:20:00 | 音楽帳

この曲を初めて聴いたのは1983年11月29日のこと。
これはオールナイトニッポンではなく、クロスオーバーイレブンで掛かった曲。エアチェックしながら聴いたもの。

この日ABCの「そして今は・・・」が1曲目でかかるので、密閉タイプのヘッドフォンをして神妙に電波をコントロールしながらエアチェック準備。
そして番組が始まりABC新曲を録音。それが終わると2曲目全く知らなかったアイ・レベルというバンドの曲が掛かった。
あまりにカッコよくて、そのまま録音して残した。「ストーン・ハート」。これもいまだに好きでよく聴く曲。

バンド”アイ・レベル”は、ダンガン・ブリッジマン、ジョー・デウォー二アック、サム・ジョーンズの3人組。
イギリスで1981年結成し、1982年~85年の3年間活動した。この3年でアルバム2枚とシングル8枚を発表。自分はアルバム1枚だけ持っているが、この「ストーン・ハート」のシングル盤は持っていない。(この約40数年、日々漁りまくったレコード屋さんでこのシングルレコードを見たことがなかった。)

ダンガン・ブリッジマンは昨年紹介した2人組”ガーデニング・バイ・ムーンライト”のメンバー。ナゾなのはアイ・レベルのこの曲もガーデニング・バイ・ムーンライトのLP(1983年9月発表)も完全に同時期であること。2つのバンドを掛け持ちしたのだろうか?。
調べていくと彼は(私が)敬愛するジョン・フォックスの名盤「ザ・ガーデン」においてピアノ、パーカッションで参加している。そして、ジョー・デウォー二アックも同じアルバムにパーカッションで参加。2人ともスタジオ・ミュージシャンや裏方的な存在だったようである。
アイ・レベルはこの2人が曲の骨格を作り、レゲエ・バンドに居たサム・ジョーンズがメインヴォーカルという構成のようだ。
シングル「ストーン・ハート」は、ファンキーでクロスオーバーなサウンドの味わいが絶品。しずけさに戻っていく23時頃の夜に流すには格好の音楽である。

■I-Level「Stone Heart (Stone Woman)」1983■

こちらは1985年2枚目のアルバム「Shake」。こちらのジャケットデザインは今一つ。(だが「ストーン・ハート」は名曲。)

今夜のスカイツリー。

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