今日も、くたくたで、小雨の中、22時半ごろ駅に向かう中、中目黒方面の電車を待つ人が、何か感覚的に多いなあ・・・と思うと、東急東横線で、また、「飛び込み」があったようです。
また、山の手線も、架線に何かが絡まったのが原因で、さまざまな電車に遅れが・・。
近時、「飛び込み自殺」ざんまいの日々に、やはり今の日本は、そこまで異常な状況にあることを、ただ黙って認識するだけだ。
今夜は、いくつかの事故が連鎖して電車のダイヤ全体が麻痺していた。
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2009年度という不幸だった年度が終わろうとしているのに、そこで「リセット・ボタン」が押されて「さあ、新年度だ」という切り替えがされれば良いものを、その「ゼロ」への回帰はされる事無く、棒状に繋がった「時」の連なりが、見通しの効かない2010年度に繋がっている・・・。
何の保証も無い「Tomorrow Never Knows」という世界。
それが、多くの人の大事なイノチを「魔の刻」に轢きずりこんでいくのである。
自分が、いつからだったか・・・・春に抱く憂鬱は、年度の切り替わりの中、さまざまな不幸が、みんなの上に訪れる事に拠る。
まあ、仕事を始めた1991年(バブル崩壊後)から、約20年間、ひたすら右肩下がりの日本と共にしてきたが、ついに、こうして、まさに「デッド・ライン」に入った2010年。
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「なぜ、わたしたちは別々の家に帰らなければならないのか・・・」
そういう歌詞が、昔、大好きだった斉藤由貴自身の作詞の曲(アルバム「LOVE」に収録)のセリフにあったのを、急に思い出した。
みんな一緒に居れればいいのに、そうならない現実。
「出会いがあれば、別れもあるさ」・「別れもまた楽し」というコトバもあるが、我々は、そんな前向きなコトバには揺るがないほどの地点に来てしまったような気がする。
ロジカルさ・整合感を全く欠いた大きなチカラが、わたしたちを引き裂いている、きしむ「音」が聞こえてくる。
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1年という長い時間を寡黙にこつこつと過ごした日々の果て、やっと華々しく咲いた桜が、ほんの数日の嵐や雨という大きな軋轢によって、桜吹雪という美しく刹那的な華々しい散り方をしていく。
ぼくらは、それを綺麗だなと見上げながらも、その桜という不思議な樹木の営みに、さまざまな想いを投影する。
今年の桜には、何か特別な念を抱きながら、しかし、だからといって、何も出来ぬまま、その散り様を、ただ見ている。
「時」だけは、残酷にも、みなの上に等価な長さで、進行し、刻み続ける。