こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

かたちんば徒然日記  : -20110119→0121朝-

2011-01-23 12:00:00 | 雑記帳
■0119水曜、睡眠薬を飲んでも、脳の興奮が止まず3時間しか眠れなかった。



■0120木曜、午後つくばでの会合の下資料を、朝からガーッと突っ走り作る。
要領得ない電話は「こうこう。以上」と1分で結論言って切る。

メシを喰うためのお金を得るための仕事。
その上で長電話の人には、どうしても無駄の固まりを感じてしまう。

顧客を持つ営業マンも・他の業務も、パイプの1つとしての電話は大事だが、不必要にいつも電話が長い者は、思考プロセスに問題があるのだろう。

自分側の時間を1分でも多く創る
モノをイマジネーション広げる余裕に回すために

昼飯は食べず資料仕上げ・部数分出力し、電車に飛び乗る。



ギリギリ予定時間に間に合う。
2時間半有効な意見交換して終わる。

終わって外は既に陽が沈み切り、田舎の夜の寒さに包まれていた。



その後、ぶらっとほかの人の所に立ち寄り、ピンポイント情報交換すると19:00..。

凍てつく帰路を辿る。



帰宅すると、腹ぺこで夜のつまみ&ノンアルコールビール・読書と思案巡り・BS「刑事コロンボ」・熱い湯に浸かり・睡眠薬を飲み1時過ぎ真っ暗にすると眠りにこてっと落ちた。。。。。

■そして、0121金曜朝。
けたたましい目覚ましに覚醒するが、ひどいだるさと重さを覚える。
そこになって、やっと「やばい、今週は走り過ぎた」と気づく。



しじみ汁・熱茶・タバコ・ドリンク剤…で何とか正気に補正しようとする。



出がけに、魂を鎮めるためにU2の「ランキング・トゥ・スタンド・スティル」を聴き、出発する。

***



駅前で、人々の朝の静けさを壊す為に日本共産党が「消費税UP反対!」ののれん立て、演説。
「気」が乱れているのもあり、直接抗議に出ようともしたが、電車迫り通り過ぎる。
今度再び居たら、必ず抗議する。
言うだけ番長・外野でほざいていればいれば済む事をバックにしている共産党などに、自分たちの朝を乱されたくは無い。

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私のレコード棚から ① Style Council 「Long Hot Summer」'83.06

2011-01-22 04:17:49 | 音楽帳
今日は、2週間に1回の総合病院通院の日。

午後、通院→診察待ち→診察→会計→クスリをもらう・・・
で、通常はかなり時間を食うのだが、かなり早く済んだので、(昼抜きだったので)夕ご飯代わりを食べ、そこからは御茶ノ水~神保町へ「ラビラント・迷宮の旅」に出た。



無目的に写真を撮りながら歩き。。。
行き着いたのは、マーブル・ディスク。
ジャニスの斜め前。



ここで、かじかむ指を真っ黒にしながら、レコードを2時間半かけて、探索。
色んな発見に、買うものはテンコ盛り。
迷いはしたが、希望のものを全部買うわけにはいかない。

そこで、今まで続けてきた7インチ・シングル盤、洋盤も邦盤も、そこに探索を絞り込み、結果20枚近くの発掘をして、購入した。

マーブル・ディスクは、ところ狭しとレコードからCD、VIDEO、映画まで網羅した愉しい巣窟。

私の方は、寡黙に1人で整理にいそしむ店長を知ってはいたが、相手は、ボクが久しぶりで、風体も3mmカット&ヒゲ&黒で固めた身なりにわからんだろう、と20枚のレジを打つ間、待っていたが、お金を渡してモノをもらったあと、ぬあんと!
寡黙な店長自ら、ボクに声を掛けてくれたのだった。

店長「そうとう広範囲のジャンルの音楽を聴いているんですね。」

ボク「ええ、まあ。。。」

店長「今の学生は、CDすら買わないからなあ。。。
デジタル・データでしか音楽を聴かない。
レコードをこんなに買うのも珍しい。」

ボク「そうですね。
私の場合は、ジャニスさんがオープンした1981年頃から、とにかく神保町に愛着があって、四六時中、このへんをうろうろしているんですよ。
だから・・もう30年、この界隈に生息してますね(微笑)。」

店長「じゃあ、相当なコレクションでしょう。CDは聴かないんですか?」

ボク「CDもたんまり数百枚持っていますけど、そろそろ手放そうかなと思っているんです。」

店長「なぜです?」

ボク「しょせん、CDなんざ、コピー品ですからね。
愛着が湧かない。
最近、やっぱり、レコードでぷちぷち言う中聴く事に関心が戻ってきているんです。
だから、ばっさりCDはデータだけ抜いて、抜け殻のコピー品は、やはり一番音楽に理解あって、価値の分かる神保町に寄付しようかな、と思っています。」

店長「聴くものはやはり広い?」

ボク「いやいや、そんな広いこと無いですよ。
80年代とニュー・ウェイヴに愛着がありまして・・・。」

そうやって店長から声を掛けてもらえた嬉しさ。
時代を継承していくべき神保町の、軸のブレないガンコな職人に接した想いがした。

***

最近、すっかりYOUTUBE三昧にどっぷりハマっていたが、レコード盤に針を落とす事に戻りたい。

NETにメールに・・・・デジタル機器に囲まれながら、何か大事なものをボクは見失っている気がしている。
資料作りも紙とエンピツ、思考をめぐらせるのも、今年に入ってから同じように、いろんないたづら書きからスタートする。

道具に使われている気がしてならない。

レコード盤の匂い、キズ、質感、ジャケット・・・
プリミティヴなものに、ボクは回帰していきたいと思っている。

・・・という事で、いつまで続くかわからないですが、「私のレコード棚から」1枚1枚紹介していこうと思った。
写真もネットから拾わずに、写真で撮ろうとも思っている。

***

ポール・ウェラーが熱烈なファンが居ながらも、ジャムを自ら解散させ、スタイル・カウンシルを結成した夏から秋の物語のはじまり。。。

人に拠っては「青筋立てて歌っていないポール・ウェラーなんて、軟弱で駄目だ」という意見・批判もおおかたっが、そういう様々な事を振り切って、自ら、新しいユニットを結成したことに、ボクはココロ踊った。

それは、相当な決断が要ったと思うが、彼の頭には、本当にドリーミーな未来への光が見えていたのだと思う。



初めて聴いた、最初のシングル「スピーク・ライク・ア・チャイルド」をエア・チェックして、毎日聴いていた。
その後、数枚のシングルを経て、秋に「イントロデューシング」という、ボクから見たら、シングルの寄せ集めが発表されたが、それぞれシングルで欲しいものだった。

そんな折毎年恒例のミュージック・マガジンの「1983年の10枚」の中で、真保みゆきが「a Paris」【上記写真】を挙げていて、そのジャケットの素晴らしさと「これからボクの未来が、また始まるんだ」という彼の希望に満ちた姿に惹かれた。

***

しかし、「a Paris」は未だに手に入れられていない。
だが、そんな折、今日、マーブル・ディスクで500円で「a Paris」のEP盤を発見し、即確保した。
他人に取られないように。



帰りの喫茶店で、中を開けて見ると、盤には日本語で書かれており、ポリドール・レコードから発売されたようだが、EPジャケットの表も裏も日本語の表記が無い?



ウラ・ジャケットを見ると英語でもなく、フランス語で書かれている。
不思議な1枚。

スタイル・カウンシルの活動の中でも、特に大好きな「ロング・ホット・サマー」という1曲。
ぷちぷち言うレコードで聴くと、mp3で聴くのとは「ちょっと」違いますよ。

***

と言いながらも、一応、曲紹介のために、知らない人のために、YOUTUBEのリンクを下に貼ります。
今は、真冬なのに、なんで「ロング・ホット・サマー」?
とは言わないで下さいな。

冬に聴いたって、イイ曲はイイ曲なんですから。
是非、2011年盛夏の夜には、この曲を聴いてください。



レコードと音楽を愛する友に捧ぐ。

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クロスオーバー・イレブン : 1983年8月かたちんば制作カセットテープより

2011-01-20 02:27:20 | クロスオーバーイレブン
過去エアチェックしたカセットに、約30年近くを経て、最近伸びて音のピッチがおかしくなったテープを発見した。
実は、密かにショックであったりする…。

そのテープはやはり安物。



'83~84年のキュートな鈴木さえ子ちゃんの「サウンド・キッチン」(文化放送・毎週土曜日22:00~:30[だったかなぁ?]/提供企業:西武)を録音した仮テープから、余計な部分を除去・ダビングして仕上げた作品。
実に珍しい逸品というのにぃ…(ノ△T)[しょぼん]。

という事で、今、①テープ速度補正機能付きカセットデッキ購入、もしくは②外部専門業者に依頼、を考えている。
私としては②は技術料がバカ高いのとカセットテープの本数がハンパでは無いので①で検討中。

***

但し、信頼感あるTDKテープは未だ健在。
「モノ創り」に努力・執念を注ぎ込んだ、過去日本人技術者の力が、ココにちゃんと残っているのだ。

当時(’78~80年代前半中心)を「ひいき」していると思ってもらって結構だが、オーディオ機器もカセットテープなるメディアもFM雑誌も、それに関わる人々は本当に夢やビジョンを持ち、語り・創っていた。
その夢やビジョンの恩恵と幸福感を浴びながらも、リスナーもそのムーヴメントを創っている仲間の一部だった。

NETは実際、革命だったし、リアルタイムに全てがスピーディーに展開する同期化は世界を一変させたが、果たしてそれが人々に同じような幸福感だけをもたらしたのか?
には疑問符が沢山付く。

スタンドアローンのプリミティブなモノにしか無いチカラ・魅力・独自の世界が、進化形の器の中に満たされているとは思わない。

ラジオが決して死ななと思うのも同じ事だろう。

(私も携帯はいじりますが)電車の中で携帯いじりかゲームに専念する人がほとんどの状態を客観的に傍観するたび、ピアスみたいに「いつかカラダにチップを埋め込み、それが同様の目的を果たす日が来るのかな…」と馬鹿な妄想をしたりする。

効率化一途が進み、人々はその中で走らされる世界で、自分もその器の一角に係わりながらも、一方ではそこから逸脱し、自由をある程度謳歌している。

ネコたちとたわむれながら、昆布茶をすする細野さんのスローライフに近付き、今からゆったりマイペースで歳老いていくつもりである。

***

さて、そんなカセットテープの中から、クロスオーバー・イレブン中心に完成させた愛着ある1983年8月号を紹介したい。

注:()内は、エアチェックした日を記載した。

使用テープ:TDKのAD‐X60


<Japan 「Quiet Life」>

【A面】
1・君はトゥー・シャイ/カジャ・グー・グー(8月15日)
2・チャーチ・オブ・ザ・ポイズン・マインド/カルチャー・クラブ(8月16日)
3・スタントマン/エドガー・フローゼ(8月17日)
4・ニュー・イヤーズ・デイ(アメリカ・ヴァージョン)/U2(8月19日)
5・プロミセス・プロミセス/ネイキッド・アイズ(8月21日)
6・クワイエット・ライフ/ジャパン(8月23日)
7・チャイナ・ガール/デヴィッド・ボウイー(8月25日)

【B面】
1・バブーシュカ/ケイト・ブッシュ(8月19日)
2・彼女はサイエンス(ロング・ヴァージョン)/トーマス・ドルビー(8月22日)
3・音楽(インストゥルメンタル・ヴァージョン)/YMO(8月22日)
4・レッツ・ダンス/デヴィッド・ボウイー(8月25日)
5・ソフトリー・オーヴァー/ヤズー(8月30日)
6・嵐ヶ丘/パット・ベネター(不明)

***

かなりポップでキャッチーな選曲と繋ぎ。

U2のアメリカ・ヴァージョンは、オリジナルのソリッドな面から少し丸みを帯び・若干戦闘性が和らいでいる。

B面最後は、本来オリジナルのケイト・ブッシュの「嵐ヶ丘」で行きたかったのだが、パット・ベネターのカバーとなってしまった点にだけは悔いは残るが、全体としては、なかなかのモノと自負している。

インデックスカードには、イメージと合わないかもしれないが、当時のプレイボーイから切り抜きした写真を使用。
猥雑な部分をカットし、品良く仕上げたつもりですが……。
それは、また今度。

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Joni Mitchell 「Come in from the cold」'91

2011-01-19 12:00:00 | 音楽帳


大学4年生の冬「ナイト・ライド・ホーム」を真っ先に聴いたのは、クロスオーバー・イレブンの「ジョニ・ミッチェル」特集でだった。

学生から社会人への微妙な移行期間の中、モラトリアム期間が終わろうとする中、音楽カテゴリーを超えたジョニ・ミッチェルの素晴らしい選曲の放送に、ついカセット録音をした。

その中の1曲が「Come in from the cold」だった。

外は冬の寒い中、その寒いところから帰って家に入って来る温かみを想像した。



ジョニ・ミッチェルの卓越した才能。
兄も彼女のファンだが、渋谷陽一さんもファンの1人で、珍しくラヴ・レターのような文章をロッキン・オンに書き下ろしていた。

その渋谷さんも言っていたが、カベの向こう側にある空気感みたいなものを音楽で伝えてくるジョニ・ミッチェルの音楽の浮遊感。

クロスオーバー・イレブンの「ジョニ・ミッチェル」特集は、それまで数曲しか知らなかったボクが、その後、彼女の音楽にはまっていくきっかけでもあった。

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夢日記 : 社会からの逃走

2011-01-18 08:48:00 | 雑記帳


さすがの昨夜は,この約2ヶ月の脳の疲労困憊で,熱い湯舟に浸かり,23:30睡眠薬を呑むと珍しく即眠りに落ちた。
明け方(5時過ぎ?)夢を見た。
私はどうでもいいやと仕事放棄し,オープンな光の刺す何処かの民宿。
仕事場から電話あるが「調子悪い。皆さんに顔会す事はもう無いでしょう」。
実際,鏡に映る姿は両瞼がお岩さんの如く眼が無い程に腫れ上がる。
同じ民宿で精練潔白の若い宇津井健に会った。
そんな夢から抜ける為に6:20布団から飛び起き、コーヒーを煎れた。
脳に癒しを入れるべく,甘いコーヒーを立て続けに2杯呑む。
穏やかな私だけの刻を味わう。

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このところ旅に出ていない

2011-01-18 00:05:00 | 雑記帳


旅の記憶が薄い。
ここ数年で言えば、人に会いに名古屋,豊橋,仕事では大阪,京都,岡山くらいの余裕無いもの。
大竹伸朗さんの「日本景」,みうらじゅんさんの「勝手に観光協会」のように打ち捨てられた[地方]の空っぽ裏街道に何か意味なき発見に魅力は感じるが。
ここ1年ではせむしのように体を丸めて向島周辺,浅草,上野,御徒町,秋葉原,御茶ノ水,神保町,靖国神社という定番に,青山,表参道渋谷,新宿それにセミナー・展示会等での有明など。

長く仕事を開けられないのと,今マーケティングに夢中なので,東京以外へ重い体で時間をかけて何処かに行きたい気が無い。

行けば何か心的変化があろうが、特にその気が今の自分には無い。
行くとしても一人旅の重さが立ち上がらせなくくしている。

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Kate Bush & Mick Karn  「Heads We're Dancing」'89

2011-01-17 20:00:00 | 音楽帳
’86年末にランDMCの曲を聴いてニュー・ウエイヴの終焉と自分の音楽の旅が1つの終焉を迎えたのを悟った。

’87年4月に大学に入った自分は、音楽チャートも追いかけなければ、新しい音楽などもう生まれないという心境から、音楽断ちに入った。

毎日、デザイン、イラスト、絵を描くことに、自分を見い出そうとしていた。

***

そんな自分だが、’87-’91の大学時代、聴いた音楽が「ゼロ」だった訳では無い。
というか、このうるさい日本において、音を遮断すること自体無理なのだが。

たまには、クロスオーバー・イレブンも聴いた。
「祭りの後」という空白感を感じながら。
時代は音楽を何処に向かわせていくのだろうと思いながら。

ほとんどは、そういう空白感を埋めるに足りる音楽では無かったが、昔、お世話になったニュー・ウエイヴの仲間たちの行方は気になっていた。

***



そんな折、1989年にケイト・ブッシュの新譜が発表され、クロスオーバー・イレブンでかかった「Heads We're Dancing」にトリコになった。

サンプリングを利用した、不思議なテクノ調のベーシックな音。
その上に乗るは、一聴して、即、ミック・カーンと分かるベース。
ミック・カーン独特のベース全開バリバリで、まさに、鬼才同士の戦いの曲「ゴジラ対モスラ」のようなバトル。



この曲をカセットテープに録音して、繰り返して聴いた。

この曲の収まったテープには、デヴィッド・シルヴィアンの「レット・ザ・ハピネス・イン」、幸宏の「ブロードキャスト・フロム・ヘヴン」等、かなりごちゃごちゃな音楽が収まってはいたが、当時、自分の琴線に触れるだけの曲が少なかった為に、60分を埋め尽くすだけのものが無く、完成することは無かったが。

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ピロリの『冬』'83-⑥ U2 「Like A Song・・・」from"WAR"

2011-01-16 13:57:35 | 音楽帳
正直、かなりヘヴィな話が続いてしまった。
それがウソだかホントだか、知る人ぞ知ればいい。
批判にさらされるがいい。
この場は、しょせん私の1つの実験場。
「コンフュージョン・ウィル・マイ・エピタフ」。
日々の迷走こそが「わたし」の、その時・その時での死ぬまでの全てである。
ただ、「わたし」が「その時」そう思った、その事だけは事実である。
他人がどう言おうと関係は無い。
生全てが修羅場である。
一瞬一瞬、時を刻むと共に、「わたし」は変化し続ける。

***

話を80年代に戻す。

自分でも意外に抜け落ちていた記憶・記憶が持つあいまいさゆえだが、1983年秋~冬、すっかりYMO、ビル・ネルソン、モンスーン、デペッシュ・モード、ホール&オーツ、ロバート・パーマー、ABC・・・etcがメイン・イメージとして固定化されていたが、よくよく記憶の糸口をさかのぼるに、U2の「WAR」を聴いていたのが、1984年1月18日だった事が、ウィキペディアの助けを借りて分かった。



1983年、石丸電気の万世橋警察【今は移転】の向かい側にあったレコード館で、U2の「WAR」を輸入盤で買った。

「ロック」という概念・思想が死んでいた80年代。
U2を「ロック」では無くて、ニュー・ウェイヴの軌道上で捉えていた自分。

「ニュー・イヤーズ・デイ」のプロモーション・ヴィデオを、テレビ埼玉の「サウンド・スーパー・シティ」という夕方の番組で見て、好きになってから、U2のアルバム「WAR」を買った。《生まれ育った三ノ輪から【父と周囲の力に拠って】引き裂かれるようにして、81年夏に草加に家を建てられ引越した産物で》

しかし、「ニュー・イヤーズ・デイ」以外なかなか好きになれなかった。

やはり、自分と音楽との距離の近さでは、U2は(YMO、ビル・ネルソン、モンスーン、デペッシュ・モード、ホール&オーツ、ロバート・パーマー、ABC・・・etc)より遠くに位置していた。

***

「WAR」をちゃんと本格的に聴いたのは、1983年を越年した1984年になってからだった。
YMOが散会し、ぽっかりと空白感があった1984年1月。

神経性胃潰瘍での入院から無理矢理、家に脱出はしたものの、思考回路が変わらない限り、神経性胃潰瘍は直らない。
タバコと酒と覚えてから多少は良くなったが、退院したところで、この悪癖の胃痛はずっと後まで引きずった。

さて、思い出した記憶の断片というのは、胃痛を覚えながらも、大塚と池袋の間にあった文武両道の男子校に通った1984年1月、学校から大塚駅までの15分程度の帰り道。

それは雪道で、偶然同じ草加に住み・偶然同じ排球部(バレーボール部)に入った友人と歩いていた。
そこで、友人は「胃が痛い」というわたしに「大丈夫かよ」と笑いながら言った。

しかし、大塚駅に沿った坂道に入り、ステンと雪道にスッ転んで、腰を打った。
雪は晴天にまばゆく光っていた。

***

1983年~1984年の秋・冬はとてつも無い寒さだった。

1984年1月18日大雪が降ったというウィキペディアの情報から、確実にその日だったと思うが、早く学校から帰った。
わたしは、窓の外で吹き荒れる白い雪の世界に、窓のカーテンを全開し、そこでU2の「WAR」を大音量で聴いた。

U2「WAR」のインナーに入っている、ダブリンの雪の中の4人の姿とダブらせて。



そこから、「WAR」のA面が好きになった、というか、「WAR」と同化したような気がする。
(正直、B面の数曲は、女性ヴォーカルとの絡みも入って、その軟弱さは未だに受け入れられ無いが。「40」という最後の曲は、U2が当時ライヴの最後には必ず歌うという良い曲だが。)



野外で吹き荒れる雪の中、スティーヴ・リリィホワイトらしい、ドラムのバスンバスンいう硬質で粗暴な音の中、硬派に走るエッジの突き抜けるギターとボノの決して軟弱を赦さない真摯なヴォーカルが大音量で奏でられた。



ファースト・アルバム「ボーイ」で幼かった少年は、この「WAR」のジャケットで剥き出しの怒りの断固とした表情に変わっていた。

***

A面3曲目の「ニュー・イヤーズ・デイ」の後の4曲目「ライク・ア・ソング・・・」は、イントロの背後に不穏な事件・血を想起した。



***

輸入盤のインナーに記載された「ライク・ア・ソング・・・」の歌詞を見ると、ボノが如何に「ねばならない」という熱血に包まれていたことが、今になってわかる。
このアルバム「WAR」を雪の中で聴くと、当時の空気を心境に戻れるかもしれない。

「まるで音楽のように、わたしは歌いたい。
そして、君たちに向けて、わたしは歌う。
そして、そのコトバ通りに、わたし自身をもっていかねばならない。
そして、わたしはそのコトバを君たちに送る。
わたしたちは、なめし革やモール革やチェーンのように、もう一度革命を起こすべきである。」

フールズ・メイト1983年11月号のU2のインタビューにて、エッジは、こう語っている。

「ぼくらが対抗しているのは、現実を直視しない逃避傾向という川の流れ。
ぼくらは、その中で、その流れに逆らって、リアリズムで泳いでいる。
そういうぼくらに対して”政治的なバンド”というレッテルを貼りたがる人が居るけど、ぼくらは断じて政治的なバンドではないよ。

”サンデイ・ブラディ・マンデイ”でアイルランド民族闘争による60年前と10年前の流血事件を扱い、”ニュー・イヤーズ・デイ”がポーランドの連帯にインスパイアされたものであろうと、”セカンズ”や昨年のシングル”ア・セレブレイション”が核兵器の問題に関係あろうと、ある特定の政治声明をぼくらは強調しているわけでは決してない。

ぼくらが、表現しているのは、さまざまな現実を一緒に直視しようということなんだ。
”ニュー・イヤーズ・デイ”なんかは激しいラヴ・ソングでもあるんだ。
ボノの書く詞は、だからとても深みがあるし、リアリティもある。
それは、彼が自分の感情に対して正直であるからだ。」

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桜井哲夫 「新しい”棲み方”のために」'84

2011-01-15 13:00:00 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


私は大学で経済学部に入りながらも、経済には一切興味が無かった。

元々、絵かきの道を進みたかったが、親の「おまえ、そんなもんでメシが喰えると思ってんのかぁ」に完全拒絶され、親に抵抗できない情け無い自分が居た。

だから2年も素浪人し・さ迷い歩いた。

大学では、絵ばかり描いていた。

しかし、不思議と興味あった労働法・祭と現代社会・社会学だけは、前向きに授業を聞いた。
そこで出会ったのが社会学の桜井哲夫先生だった。

先生の授業用にも使われた本「近代の意味~制度としての学校・工場~」は、今でもアンダーラインを引かれ、くたくたになりながらも、ボクの本棚にある。



その本の「ある箇所」の文章が自分のカラダにズシンと来、折あるごとに、読み返す。

以下の文章は私が生きる上で、迷路に入ってしまったとき、リセットして「超えていく」【=SURVIVE】ことへの認識の原点に立ち返らせる。

エイリアンであることを知ってしまった者への言葉。

この言葉は、もはや、ボク自身の言葉のように思ってしまっている。

******************

・・・・さて、他人とのコミュニケーションを次第に失い、激烈な競争原理のなかに置かれた私たちは、ともすれば、集団的な陶酔のなかに誘惑されやすくなっている。

このような危険をはらむ社会のなかで、社会の強制する論理と戦いつつ、逃げながらも「狂気」に至らないためには、どのような道が可能なのであろうか?

その手がかりとして、中井久夫の論攷「世に棲む患者」を敷衍しつつ、社会の強制する論理からの脱出(エクソダス)の道を考えていくことにしたい。

勿論、本論攷は、分裂病患者の退院後の社会復帰について書かれたものである。

にもかかわらず、ここでは少数者が少数者として、決して多数者に同化せずに生きていく道を示唆する視点を私たちに提供している。

その道はまた、私たちにとって不可欠なテリトリーの行動にもかかわらず、普段は労働や教育を中心とする社会のなかで見失われてしまっている空間行動にほかならない。

皮肉なことにも、私たちにとって生きられるテリトリー的な空間行動は、分裂病患者のように非日常的な現実を介して透視されてくるのである。



ところで、中井は、退院後の患者たちが思いも寄らない行動をとり、独特の人間関係を作り出していることに気づいた。

つまり彼らのうち、ある者は、ビア・バーの常連になったり、またある者は、ある決まった映画館に行ったり、さらに決まったときに海を見るために列車に乗って出かけたりする者もいるという具合に・・・・人に知られぬ場をもっている。

そうした場では、彼らは名前も知られないまま、その存在が許容されている。
何年も言葉を交わしたビア・バーの常連もお互いの名前や職業を知ることもないままである。

そして、こうした行動は次第に「橋頭堡=前進基地」を幾つか生み出すようになる。

行きつけの喫茶店から囲碁会所、パチンコ、コンサートといった具合に、オリヅルランが根を張っていくのにも似ており、また仔ウサギが巣から徐々に行動圏を拡大するのにも似ている。


中井は、通常の組織に生きる人々が、職業中心の同心円(ヤマノイモ型)構造に生きているのに対して、オリヅルラン型の行動様式のなかに少数者が少数者として独自に生きていく道を見出している。



そのことに関連して、さらに彼は、自分の団地生活の経験について語っている。

第1期の団地生活のリーダーたちは有能な弁護士・会計士などで、彼らは 4・5年で団地を去って一戸建てに移る。
第2期は,組織(政治,宗教)に属する人々が活躍した。

そして静かになった第3期は、労働に対する価値観の違う人々が現れてきたのである。

仕事に関して有能であっても、仕事は“仮の姿”・“払わなければならない税金”として受け定め、自分の独特の世界(鉄道趣味・UFO研究・書籍収集)をもつ人々がこの時点で姿を現してきたという。

つまり、競争に駆り立てられ、「しっと」や「ねたみ」に駆り立てられるこの群衆社会のなかで、群れに同調せずに生きていく「棲み方」を私たちは自分で見つけていかなければならない。



それは職場集団から離れた「橋頭堡」を次々に作っていくことなのであり、この発想は
G.ドゥルーズ=F.ガタリのいう「リゾーム(地下茎)」とも通じている。

ここで「リゾーム」とは、常に数多くの入り口をもつということを指す。

切断されても止まることなく、接合を繰り返し、一点にとどまることなく広がり続けるリゾーム(地下茎)というのは、いかにも自由奔放なライフスタイルであり、あらゆる組織や制度を拒否するヨーロッパ的なラディカリズムである。

最近の言葉でいうと、それは「マルチチュード」(A.ネグリ&M.ハート)である。



再び,本論攷の内容に戻るならば、中井は「橋頭堡」は決して「基地」にならないと指摘している。
ヴァージニア・ウルフのいう「女が一人でもいられる部屋」にも似た、人々の視線を避けられる、侵されない一隅が必要だという。

確かに「リゾーム」と比べると、中井のいうことは、ある意味できわめて保守的で常識的であるかも知れない。

にもかかわらず、保守的で常識的であることのほうが、必要な場合もある。
速く走るよりも、自分のペースをくずさないことの方が重要な場合もある。
すべてひとびとに一様に走りつづけることを強制する必要もない。


われわれに必要なことは、基地からのびやかに各橋頭堡をめぐりながら、次第に他の地下茎との連携のなかに入ってゆくことなのだ。


急ぐことはない。

われわれはいままであまりにも速く走りすぎてきたのだから。。。。。

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失われた記憶を求めて

2011-01-13 11:00:00 | 雑記帳


このタイトルは、今読んでいる柳美里さんの「言葉のレッスン」というエッセイの中の一話から。

先日、私が「或る日」の事故から過去の記憶が薄くなり、その記憶を取り戻す1つとして、ブログに固執している事実を述べた。
柳さんは、外国の多重人格者を挙げながら、柳さん自身も或る期間の記憶が欠落していると吐露している。

***

過去の堪え難いストレス蓄積が「OVER THE TOP」を迎えると、脳が自己保持の為、一定期間の嫌悪する記憶を自ら外に弾き出す。
それが上例では別人格の発現となっている。

然し、日本では多重人格者は少ない。
どちらかと言えば、私や柳さんの様な記憶欠落・人格障害は多いが・・・。

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私は、1980年の「或る日」以前の記憶欠落に対し、様々な手段での自己分析を行うことで、かなり引き出しは拡がった。

それは、自分で自分に対して、麻酔無しでメスを入れるという行為。
激痛の中、鬱血した血しぶきが飛ぶ。

そこから見えてくる、父が母を虐めた場面・永遠に途絶える事無き毎日連続の不和喧嘩の蓄積+血縁を通した気違いのDNA。
様々な鬱血の要因。
それに依る脳のSPIN。

激痛に意識を失いそうになりながらも、意識が阻害してきた記憶の断片が血の中に見えてくる。

だが、要因はそれだけでは無い。

それは、永遠に根底で横たわる「人間としてこの世に放り出された」解答亡き不条理である。

私の身に、いつENDマークが出るかなんて知ったことじゃねぇが!
進行する死への確実に落ちていく時間の不可逆の一瞬一瞬を生きながら、失われた記憶奪回と、不条理への抗いに突入し続ける意志を諦めはしない。

神など居なくとも、或る神的存在へのツバを吐く無謀あるのみだ。
それが私の死までの基軸と道程である。

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