あまりにも数字ばかりになりそうなので、このコンマ1ミリの奈落、少し休みます。
付いて行けないとほぉさんが言っています。
最近よく言われるようになってしまって、驚いている事があります。
実は昨晩も言われて、かなりショックなのです。
「変わり者、変人」普通じゃないよねと言われました。
私はとても普通だと思っています。
このブログ読んでくれている方にはお分かりでしょう。
バランスが良いはずなのです。何処かに意見が傾くと言うことも無いし、素直に謝るし、意地は張らないですし、人の言う事は良く聞きますし、変な常識というのも持ち合わせていませんし、年寄りは大切にしますし、若い物には極力チャンスを回しますし、誰でも仲良くしようと努力はしますし、自分ひとりだけ儲けようなどというのも有りませんし、誰の作った二胡でも大切にします。
これは変わっていませんね。
変わり者と言えば。
私の周りは物作りばかりです。音楽家も絵描きもダンサーも居ます。
この人達の変わりようというのは、もう私などの常識では理解不可能なのですが、やはり仕事で絡むことも多く理解しようと若いころから努力して来たのです。
18歳の頃、池田 満寿夫や靉嘔、得田寿之等という絵描き達にたまたま接する事があり、この人達の変わり者ぶりに飛んでも無く驚いた事があります。
敢えて常識的でなく生きているようにしか思えませんでした。その後、私もいた仕方なく物を作って生活して来て、かなり優秀な物作り達と一緒に仕事して、思ったのは、この人達は、「剥き身」なんだという事です。
自分の感性を素直に表現すると言うのが、物つくりや音楽家の仕事です。
人は生まれてから、ずーっと、これはしてはいけないこうするのが正しい、こうしなければいけない、と親からも、先生からも友達からも言われ続けます。
頭の中で何か考えついたとしても、それを表わそうと或いは行動に移そうとした時に既に、言われ続けた、常識というのが、人の手も身体も、頭も縛り上げてしまいます。
この人達物つくりは、そう言う意味での貝殻を持っていない「剥き身」なのではないでしょうか。
生まれながらの人もいるでしょうし、意識してそうなった人もいると思います。
音楽家やダンサーなどが子供のころからやらないと良い表現者にならないと言われるのは、この言われ続ける事の中身が、かなりしっかりした目的を持って自分自身の中に、音楽家としてダンサーとして定着しているというのも一つはあるかもしれませんね。
世の中に自分のオリジナルの物を作りだそうと言う人は、価値観そのものが、オリジナルでなければならないのでしょう。
という事は、生まれてからずーっと言われ続けた常識で縛られていると、そのオリジナルの感性が表れにくいのかもしれません。殻につつまれてしまいますからね。
この物作り達は、とてもある意味純粋です。純粋でなければ、良い物作りにはなれません。
自分自身の感性に素直に従う様に訓練されなければいけないのです。
それには、日常の様々な事から始めなければいけません。
極端に言うと、キリスト教の十戎のような、道徳律や、孔子の仁義礼智信などという物に縛られていても、自分自身の素直な感性を出す環境というのは作りにくいのではないでしょうか。
音楽家や絵描きの人達が、ドラッグや酒や性にハマり込むと言うのも、日々の日常から非日常の世界に自分を置き、その中でじぶんの感性を如何に頭の中から素直に表現できる場を作ろうとする、「努力」と言えなくもないのだな、と、思います。
それら、国家が決めた事、或いは集団が決めた事、それらから逃れなければ、感性の自由は出てきにくいのかもしれません。
しかし、それらの生活の基盤になる、集団を維持するための、道徳律という殻から出てしまえば、その人達は、己を守る物が無くなります。
精神的にはとても弱いところで生きていかざるを得なくなります。
守ってくれる人がいなければ、とても生きていけないぐらいの人生になってしまうのです。
ですから、精神を病んだり身体を壊したり、若くして破綻をする人も多くいました。
どちらかというと、私は、その人達を守る立場で生きてきたのではないかと思ってきました。
常識の塊ながら、物作りを理解できる、非常識をも持ち合わせていたのかもしれません。
ところが最近になって、よく変わり者扱いをされるようになりました。多分これは二胡を作り始めて以来だと思います。
木を見て音を感じ、皮を見て響きを感じるようにならないと、二胡作りは出来ません。
姿を見ただけでも、良い楽器は解るようんなりますし、皮を触っただけでも、何年ぐらい弾き込まれたものか感じるようになってしまった時に、
多分私も、物作りの一人になってしまったのかもしれません。
付いて行けないとほぉさんが言っています。
最近よく言われるようになってしまって、驚いている事があります。
実は昨晩も言われて、かなりショックなのです。
「変わり者、変人」普通じゃないよねと言われました。
私はとても普通だと思っています。
このブログ読んでくれている方にはお分かりでしょう。
バランスが良いはずなのです。何処かに意見が傾くと言うことも無いし、素直に謝るし、意地は張らないですし、人の言う事は良く聞きますし、変な常識というのも持ち合わせていませんし、年寄りは大切にしますし、若い物には極力チャンスを回しますし、誰でも仲良くしようと努力はしますし、自分ひとりだけ儲けようなどというのも有りませんし、誰の作った二胡でも大切にします。
これは変わっていませんね。
変わり者と言えば。
私の周りは物作りばかりです。音楽家も絵描きもダンサーも居ます。
この人達の変わりようというのは、もう私などの常識では理解不可能なのですが、やはり仕事で絡むことも多く理解しようと若いころから努力して来たのです。
18歳の頃、池田 満寿夫や靉嘔、得田寿之等という絵描き達にたまたま接する事があり、この人達の変わり者ぶりに飛んでも無く驚いた事があります。
敢えて常識的でなく生きているようにしか思えませんでした。その後、私もいた仕方なく物を作って生活して来て、かなり優秀な物作り達と一緒に仕事して、思ったのは、この人達は、「剥き身」なんだという事です。
自分の感性を素直に表現すると言うのが、物つくりや音楽家の仕事です。
人は生まれてから、ずーっと、これはしてはいけないこうするのが正しい、こうしなければいけない、と親からも、先生からも友達からも言われ続けます。
頭の中で何か考えついたとしても、それを表わそうと或いは行動に移そうとした時に既に、言われ続けた、常識というのが、人の手も身体も、頭も縛り上げてしまいます。
この人達物つくりは、そう言う意味での貝殻を持っていない「剥き身」なのではないでしょうか。
生まれながらの人もいるでしょうし、意識してそうなった人もいると思います。
音楽家やダンサーなどが子供のころからやらないと良い表現者にならないと言われるのは、この言われ続ける事の中身が、かなりしっかりした目的を持って自分自身の中に、音楽家としてダンサーとして定着しているというのも一つはあるかもしれませんね。
世の中に自分のオリジナルの物を作りだそうと言う人は、価値観そのものが、オリジナルでなければならないのでしょう。
という事は、生まれてからずーっと言われ続けた常識で縛られていると、そのオリジナルの感性が表れにくいのかもしれません。殻につつまれてしまいますからね。
この物作り達は、とてもある意味純粋です。純粋でなければ、良い物作りにはなれません。
自分自身の感性に素直に従う様に訓練されなければいけないのです。
それには、日常の様々な事から始めなければいけません。
極端に言うと、キリスト教の十戎のような、道徳律や、孔子の仁義礼智信などという物に縛られていても、自分自身の素直な感性を出す環境というのは作りにくいのではないでしょうか。
音楽家や絵描きの人達が、ドラッグや酒や性にハマり込むと言うのも、日々の日常から非日常の世界に自分を置き、その中でじぶんの感性を如何に頭の中から素直に表現できる場を作ろうとする、「努力」と言えなくもないのだな、と、思います。
それら、国家が決めた事、或いは集団が決めた事、それらから逃れなければ、感性の自由は出てきにくいのかもしれません。
しかし、それらの生活の基盤になる、集団を維持するための、道徳律という殻から出てしまえば、その人達は、己を守る物が無くなります。
精神的にはとても弱いところで生きていかざるを得なくなります。
守ってくれる人がいなければ、とても生きていけないぐらいの人生になってしまうのです。
ですから、精神を病んだり身体を壊したり、若くして破綻をする人も多くいました。
どちらかというと、私は、その人達を守る立場で生きてきたのではないかと思ってきました。
常識の塊ながら、物作りを理解できる、非常識をも持ち合わせていたのかもしれません。
ところが最近になって、よく変わり者扱いをされるようになりました。多分これは二胡を作り始めて以来だと思います。
木を見て音を感じ、皮を見て響きを感じるようにならないと、二胡作りは出来ません。
姿を見ただけでも、良い楽器は解るようんなりますし、皮を触っただけでも、何年ぐらい弾き込まれたものか感じるようになってしまった時に、
多分私も、物作りの一人になってしまったのかもしれません。
自覚が無いのは、尺度の基準が自分だから!
私は何にも極めてませんが、初対面の方から『変な人や!』と、何度も言われてますよ……(T_T)
いとしの」メグミちゃんに、移らないように。
pcの前に、写真貼ってあります。誰の子や?