ザ・コミュニスト

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民衆会議/世界共同体論(連載第7回)

2017-09-08 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(2)半直接的代議制
 民衆主権に根差す民衆会議制度は、「半直接的代議制」という仕組みで構制されると述べた。普通「直接」とは、直接民主制のように、民衆が代表者を介さずまさしく直接に政治的決定に参加する場合に援用される用語であって、代議制にこの用語をかぶせるのは形容矛盾だというのが、現時点での政治常識であろう。
 たしかに、メンバーを選挙する形の議会制の場合は、一般有権者から投票により代表を託された議員が政治的決定に従事するということから、そうした媒介性は間接民主主義の象徴とみなされている。そして、議会制を代議制の代名詞とみなす政治常識から、代議制とは本質上間接的なものだと思われているのである。
 しかし、発想を変えてみたい。代議制であっても、選挙によらず一般民衆が代議員として参加できる制度があり得るのではないか、と。選挙によらないという場合、別機関による任命制とすることも考えられるが、任命制代議機関はその任命機関の事実上の下部機関と化し、民主的ではなくなる。
 そこで、代議員を抽選(くじ引き)で選出するという制度のほうが、より民主的と考えられる。抽選という方法は安易に思えるかもしれないが、所詮は資金力で決まる選挙とは異なり、無資力であっても政治参加の意欲があれば誰でも代議員(議員)となることができるという意味では、選挙制よりはるかに「直接的な」制度である。
 とはいえ、抽選制の導入が躊躇されるのは、当選が偶然性に左右されるため、適格性に疑義のある者が当選しやすくなるという不安が残るためであろう。しかし、選挙のプロセスでも適格性に関する厳密な事前審査がなされるわけではなく、選挙された議員がその「資質」を問われる事態がしばしば発生するので、この点は程度問題と言える。
 ただ、適格性を確実に保証するためには、抽選の応募条件を厳格に絞り込むか、代議員を免許制としたうえ、一定の試験を経た免許取得者の中から抽選するという方法が想定される。このうち、前者は条件の設定いかんによってはエリート支配に陥る恐れもあるため、後者の免許制のほうがより民主的な方法として推奨できる。
 このように、一般民衆が選挙を介さず、抽選により代議員となって直接に政治的決定に関わる仕組みは、全員参加の「直接」そのものではないとしても、半直接的代議制と呼ぶことは可能であり、そうした仕組みに基づいて構制される代議機関が民衆会議なのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第6回)

2017-09-07 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(1)民衆主権論
  本章では、民衆会議/世界共同体論において、最初の出発点となる民衆会議に込められた理念から説き起こすことにする。民衆会議とは、国家なき統治において中核を成す社会運営団体である。それは名のとおり、民衆が主人公となる会議体である。
 この規定中にすでに現れているように、民衆会議は民衆が主人公という民衆主権の理念を支えとしている。その点、ブルジョワ民主主義では国民主権、プロレタリア民主主義では人民主権など、何らかの意味で「民」が「主」であることを強調する理念が従来から提起されてきたが、いずれも空疎な美辞麗句に終わっている。
 国民主権はリップサービスとして主権者を国民一般と規定しておきながら、実態としては資本と富裕層を主権者としつつ、一般民衆は選挙の投票マシンとして周縁化し、政治的決定から極力遠ざける階級的な政治制度の遮蔽幕である。
 一方、人民主権は労農プロレタリアート―平たく言えば一般民衆―が主権者たることを“革命的に”高調しながら、実態としては共産党その他の支配政党指導部が独占的主権者であり、一般民衆は政治参加すら許されない「人民無権利」の悪いジョークとなってしまった。
 民衆主権はそうした空手形の空論を排して、政治の主導権を実際に民衆の手に渡すことを追求する実践的な理念である。従って、見かけ上は類似概念ながら国民主権論や人民主権論とは相容れず、どちらからも敵視される“危険な”概念となるだろう。
 ただし、民衆主権がいわゆる直接民主主義と結びつくものでないことは、前章でも論じたとおりである。民衆主権は民衆がより直接に参加可能な代議制を要請する。こなれない用語ながら、これを「半直接的代議制(または代表制)」と呼ぶことにする。

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民衆会議/世界共同体論(連載第5回)

2017-08-25 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(4)民主主義と共産主義
 民衆会議/世界共同体の構想は共産主義を土台として「真の民主主義」を追求するものであるが、このような言明は「共産主義=全体主義=反民主主義」という、現時点でもなお世界的な常識となっている図式的理解に真っ向から抵触するであろう。そうした固定観念の誤りはすでに拙論『共産論』でも指摘しているが、ここで改めて詳しく論及し直すことにしたい。
 このような「常識」の出所は冷戦時代の米国を盟主とした西側の反共宣伝にあり、そこで念頭に置かれていたのは共産党が独裁支配した旧ソ連の体制であった。たしかに、旧ソ連の体制はどう贔屓目に見ても民主的とは言い難かった。
 しかし、これもすでに論じたように、旧ソ連は共産党が支配していても、実際は共産主義体制ではなく、共産主義へ至る「途上」段階にあったことは、旧ソ連自身が憲法前文で明白に自認していたところでもある(拙稿参照)。よって、旧ソ連の体制モデルを共産主義と見立てたうえで、共産主義=非民主的と断ずるのが早計であることは、繰り返し強調しなければならない。
 本来、共産主義は経済体制に関わる概念であるので、そこから直接に政治体制論を抽出することができないことは、資本主義の場合と同様である。従って、理論上は共産主義、資本主義ともに一党独裁制や軍事独裁制とさえ結びつくことが可能である。
 ただ、生産活動の非営利的な共同性を特質とする共産主義が全体主義と親和性を持つと考えられやすいことは、事実である。しかし、それは国家の存在を前提に、国家主導の経済計画を志向した場合のことである。これは、まさに疑似共産主義、すなわち集団主義であった旧ソ連モデルそのものである。
 しかし、生産組織自身による共同計画という、より自由な共産主義体制を構想する場合には、全く違ってくる。この場合には、国家という枠組みを打破しつつ、より民主的な社会運営を可能とする政治制度が要請されるからである。民衆会議/世界共同体構想は、このような「自由な共産主義」という方角から抽出される政治制度である。
 では、そのような政治制度を資本主義と結合させることはできないのか、という疑問もあり得るかもしれない。これも原理的に不可能とまでは言えないが、実際上は無理であろう。
 資本は政治的なパトロンを擁して政策を自己に有利に取り計らわせることで持続性を確保し得るゆえに、パトロン政治集団―政党もしくは政党類似の党派的集団(官僚制や軍部のような公務員集団でも可)―の存在を必要とする。民衆会議/世界共同体はこうしたパトロン政治とは対極にある一般民衆を主人公とする政治制度であるからして、資本主義の上部構造としては有効に機能しないと考えられる。
 そうした意味では、次章以下で詳説していく民衆会議/世界共同体はすぐれて共産主義的な政治制度であると言える。同時に、それは旧ソ連が体現していた「共産党独裁」という偽りの“共産主義”に対するアンチテーゼともなる政治制度でもあるのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第4回)

2017-08-24 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(3)国家は民主的ではない
 民主国家と非民主国家という対比がよくなされる。その際も、通常は議会制が存在しているかどうかが最大かつほぼ唯一の指標とされ、一応議会制が存在していれば民主国家として合格点とされている。
 ただ、表面上は議会制がグローバルに普及してきた近時は、合格点のハードルが若干高くなり、議会制が単に存在するだけでなく、それが有効に機能し、定期的な政権交代が可能な状態になっているかどうかという基準が加味され、存在だけの形式的な議会制にとどまっている場合は、欠陥民主主義と評されることもある。
 いずれにせよ、理想的な「民主国家」はあり得るということが、世界的な通念となっていることに変わりはない。しかし、その通念を一度棚上げして、果たして「民主国家」なるものがあり得るかと問うてみたい。言い換えれば、国家が民主的に運営されることはあり得るのかという問いである。
 国家とは、国民を保護するまさに家のようなものであり、実際正常に機能している国家は種々の政策をもって国民を保護していることも、事実である。しかし、国家は保護と引き換えに、国民に国家への服従を求め、義務を課し権利を制限もする。国民が主人公の国民主権を謳う諸国にあっても、国民の実態はいまだ被支配者である。
 そこで、国民が自らの代表者を選ぶ議会制によって国民主権の理念をいくらかでも国家に反映させようというのが、議会制民主主義の構想であるが、実際のところ、その狙いは政党という非公式の政治権力によって妨げられている。選挙の候補者は政党員もしくは政党の推薦を受けた党友的存在に限られ、有権者と呼ばれる一般民衆は政党から提示された選択肢に投票する受け身の存在にすぎない。
 では、議会制によらない民主国家は構想できないか。これについては、従来多くの提案と少数の実践例もあった。ソヴィエト連邦が国名にも冠していたソヴィエト制(会議制)もそうした議会制によらない民主主義の実践例であろうとしたが、党派対立を排するため、非民主的な一党支配制と接合しようとしたため、民主主義としては失敗に終わった。
 とすると、およそ政党を排除することが「民主国家」の秘訣となるのではないかという考え方もできる。たしかに政党の排除は真の民主主義への第一歩であるが、民衆の上にそびえる国家という権力支配の制度そのものを除去しない限り、単純に政党抜きの代表機関を創設したところで、国家を管理する官僚・軍人らの公務員集団が国家運営の実権を握るだけである。
 実際、議会制が有効に機能しているとみなされる「民主国家」にあっても、国家の日常的な管理運営に当たる公務員集団の実権が強まることはあれ、弱まることはなく、議会の役割が程度の差はあれ象徴的なものとなっていることは、必然的な現象である。
 国家は本質的に民を支配する権力体であって、民が主人公となって運営することを予定していない制度なのではないか―。こうして国家という地球人が長く慣れ親しんだ政治制度への未練を断ち切り、「国家は本質的に民主的でない」いう出発点に立った時、真の民主主義が発見されるだろう。

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民衆会議/世界共同体論(連載第3回)

2017-08-12 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(2)直接民主主義の不能性
 
議会制(広くは代議制)は一名、間接民主制とも呼ばれる。「間接」と称されるのは、議会制にあっては、議員が一般有権者の投票という形で付託を受け、代表者として政治を執行するという間接性に着目してのことである。
 しかし、この間接性が曲者で、議員は選挙民に直接拘束されないから、日常的には選挙民から自由に行動することができる。その自由な行動が理にかなっている限りでは、間接性にも利点はあるが、おうおうにして議員の行動は恣意的かつ支援団体・業界への利益誘導的なものとなりがちである。議会制の現状を見る限り、間接性の利点が真に生かされている国は極めて少ない。
 そうした間接民主制への不満は、議会制のような代表システムによらず、有権者が直接集会して政治的な決定に参画する直接民主制の魅力を高める。その際、古代ギリシャの都市国家アテネの民会制度が常にモデル化されてきた。現代では、スイスの州・準州(カントン)のレベルにおける州民総会制がよく引証される。
 しかし、こうした直接民主制を真の意味で実践することは不可能である。モデルとされるアテネの民会にしても、参加資格は成人男性市民に限られ、女性と奴隷の参加は許されていなかったという点では、事実上は成人男性による代議制とみなすこともできる制度であった。スイスの州民総会も現在では人口の少ない二つの州・準州で実践されているのみで、その余は地方議会制である。
 このように、純粋の直接民主制は比較的小さな政治単位では実践可能な余地はあるものの、そうした場合にあっても、参加資格に何らかの制限が加わることが多い。また直接民主制には有権者の意思がまさに直に政治に反映される利点は認められる反面、数の論理が間接民主制以上に重視され、多数派独裁的な暴民政治に陥る危険性もある。
 議会制はこうした直接民主制の欠陥を回避しつつ、議員を直接投票で選出することとして、間接民主制の枠内で直接性を高めようとしている面もあり、そうした限りでは合理性も認められるが、そのことがかえって当選に不可欠な資金と票田作りの必要から金権・パトロン政治を助長している。
 こうした難問を解決するには、直接/間接という二分法からいったん離れ、代議制であるが、より多くの一般市民が自ら代表者(代議員)として参加可能な民主制のあり方を改めて創案する必要があるのである。

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民衆会議/世界共同体論(連載第2回)

2017-08-11 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(1)民主主義の深化
 民主主義が地球的な価値観となって久しい。しかし、その民主主義が今、色褪せてきている。民主主義のモデルを称する諸国でも、議会政治は金権政治と同義となり、政治は財界・富裕層の利益調整の場と化している。一方で、しばしば米欧主導の戦争・軍事介入の大義名分として標榜される「民主主義」への反発から、イスラーム圏を中心に、反民主主義思想も過激な形で台頭してきている。
 そういう混迷した状況の中で提唱される民衆会議/世界共同体の構想は、改めて「真の民主主義」を追求・確立せんとすることに理念的な基礎を置いている。「真の民主主義」とは月並みな言い回しであるが、民主主義の深化と言い換えてもよい。
 現時点で世界のスタンダードとされている民主主義とは、ほぼ議会制民主主義を指す。あるいは大統領のような国家元首を選挙によって選出する制度が加味されることもあるが、そうした大統領選挙制も議会制民主主義を土台とすることではじめて「民主的」との評価を得られる。
 しかし、議会制民主主義は上述のとおり、真に民主的に機能していない。改革を施せば民主的に機能するというほど単純ではない。本来、議会制度は古代的・封建的な王侯貴族政治を市民革命により打破する中で成立した制度であり、普通選挙制の確立以降、選挙過程を通じて政治参加の枠を拡大した功績はあり、その限りにおいては「民主的」であった。
 ここで、あったと完了形で書かなければならないのは、議会制が民主的であった時代はもはや終わりを告げているからである。現代の議会制は財力と党派的なコネクションがものをいう金権・パトロン政治の代表例となっており、むしろ一般民衆を定期的な投票機械に貶め、日々の政治的決定からは遠ざける制度となっていることは明らかである。
 その意味では、もはや議会制と民主主義とを直につなぐ「議会制民主主義」という言い回しは正確なものではない。とはいえ、用語慣習上、当ブログでも「議会制民主主義」という言い回しを使ってきたのは事実であるが、本連載ではこの用語を以後、避けることにする。
 かといって、議会政治を独裁政治と同視するような性急さも避けなければならない。先に指摘したような議会制の歴史的な功績と現在的な限界性を両面考慮すれば、議会制は「限定民主主義」と呼ぶのがふさわしい―「議会制限定民主主義」―が、煩雑になるので、単に「議会制」と称すれば足りるであろう。

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民衆会議/世界共同体論(連載第1回)

2017-08-10 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

改訂版まえがき

 本連載は元来、『共産論』で提起した共産主義的な民主的政治制度を敷衍して論じた派生連載であるが、先般連載を終えた『共産論』増訂版において、司法制度の部分を中心に旧版に変更を加えた関係上、本連載についても改訂する必要が生じてきた。その間の事情は、先行して改訂版連載を開始した『共産法の体系』と同様である。併せて、一部の用語や表現に修正を加えつつ、ここに『民衆会議/世界共同体論』改訂版の連載を開始する。


序言

 筆者は、先に連載終了した『持続可能的計画経済論』の最終章で、共産主義的な計画経済にふさわしい政治制度の概要について言及した。それは、主権‐国民国家制度によらない世界共同体及びその構成要素ともなる民衆会議というものであった。その概略的な制度構想については、すでに別連載『共産論』においても論じているところである。
 ただ、民衆会議/世界共同体の制度は現在我々がすっかり馴染んでいる主権国家をベースとした国際連合や国民国家の議会制度などの内外諸制度とは大きく異なるため、概略説明のみでは理解されにくい。そこで、これまでの記述では十分に触れてこなかった世界共同体/民衆会議の理念的な基礎や制度の詳細設計に関して、改めて独立した連載を立てて論じてみたいと思う。
 繰り返せば、民衆会議/世界共同体の構想が理解されにくいのは、国家という馴染み深い政治制度から脱しようとするからである。国家という制度やその理念は、もとより世界中にあったわけではなく、西洋近代政治学が生み出した一つの政治モデルにすぎないが、それは民衆より以上に統治者にとって有益なツールであったことから、世界中に拡散し、日本のような非西洋圏でも定着した。 
 それへの反発から、アナーキズムの思潮も現れたが、人間は本来的に秩序を求める生物であり、純然たるアナーキー状態では生存できないようである。結局、アナーキズムはアンチテーゼ以上のものとならず、いつしか退潮していった。結果、国家制度は地球的常識となった。
 そのため、国家という政治単位を前提としないあらゆる政治思想が脇に押しやられ、思考されないものとなってしまっている。脱国家的な制度構想は過激なアナーキズムの再来のように受け取られかねない状況である。
 しかし、すでに公表してきた概略的な記述からもわかるとおり、筆者の提唱する民衆会議/世界共同体構想は、決してアナーキーなものではなく、国家とは別の手段によって一つの秩序を志向するものである。そのため、そこには伝統的な国家諸制度との連続性も一定は認められる。
 これまでの議論においても、現行国家制度との対比に努めてきたつもりであるが、本連載ではいっそうクリアな形で、そうした対比によって現行国家制度の限界性を浮き彫りにすることを通じて、民衆会議/世界共同体の具体像を示していく。それは同時に、西洋近代政治学常識に対する―否定的ではなく―脱構築的な挑戦の試みともなるであろう。

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