第四章 近代化と女権
(3)近代化と女性権力者
③西太后と明成皇后
19世紀後半期になると、近代化の波は東アジアにも押し寄せるが、女権忌避的な風潮の強いこの地域では、女性君主の出現は望めなかった。その代わり、強い個性を持って君主に匹敵する権力を行使する后が現れた。
一人は清朝末期の西太后である。彼女は18歳で9代咸豊帝の後宮に入り、皇太子を産んだことで懿貴妃に昇格するが、あくまでも側室扱いであった。しかし、懿貴妃は皇帝も辟易するほど政治的野心が強く、1861年の咸豊帝の死後、皇帝の側近グループを排除するクーデターを起こし、西太后として10代皇帝に即位した息子同治帝を後見する垂簾聴政の形で実権を握った。
しかし同治帝が74年に早世すると、今度は甥に当たる光緒帝を擁立し、引き続き実権を保持した。この間の政治体制は、咸豊帝の皇后だった東太后、さらに咸豊帝の弟恭親王とともに権力を分有する三頭政治であったが、81年に東太后が死去、84年には清仏戦争敗戦の責任を取らされた恭親王が失権すると、西太后の一人天下となった。
西太后の施政はひとことで言えば日和見主義であり、同治帝の時代には、アロー戦争以来、西欧列強による領土侵食が進む中、伝統的な王朝体制を維持しつつ、西洋近代技術も摂取する洋務運動の後援者となったが、この中多半端な改革策が新興国日本との戦争に敗れ、挫折すると、西太后はいったん政治から身を引く。
しかし、親政を開始した光緒帝が日本の明治維新にならった根本的な近代化改革(変法運動)に乗り出し、守旧派官僚らの反発が高まるのを見ると、西太后は守旧派の要請を受け、クーデターを断行、光緒帝を幽閉し、政権を奪取する。
ここから西太后の反動政治が開始されるが、これも1900年の義和団の乱を機に挫折、乱が収拾されると、復権した西太后は一転して変法政策を採用して、近代化改革を進めるのである。その成果は06年の立憲君主制への移行宣言に現れるが、9年後の移行という先送り条件がついていたため、08年の光緒帝死去、翌年の西太后自身の死去により実現しないまま、辛亥革命を迎え、清朝はあえなく終焉してしまう。
結局のところ、西太后は権力闘争には長けていたものの、自己の権力を保持するための日和見主義的な施政のために、激動期の清朝を西欧・日本の外国勢力からも、また国内の革命勢力からも守り切れず、清朝の幕引きに手を貸す結果となった。
一方、清の間接支配下にあった隣国朝鮮にも、西太后と同時期に類似の女性権力者が現れた。朝鮮王朝26代高宗正室の閔妃(明成皇后;ただし明成皇后は諡号のため、以下では閔妃と呼ぶ)。
西太后同様に政治的野心の強かった閔妃の政治家人生はほぼ、高宗治世の初期に実権を持った高宗実父・興宣大院君との権力闘争に割かれていた。まず1873年、大院君を追放する策動に成功した後、権力中枢を身内の閔氏で固めた縁故政治を開始する。
その施政の特質は、大国への依存という事大主義であった。当初は、明治維新直後の日本に接近し、その力を借りて一定の近代化を志向したが、その代償は自国に過酷な不平等条約(日朝修好条規)の締結であった。
しかし、軍の近代化策が旧軍人の反発を招き、大院君の復権を狙ったクーデターを呼び起こすと、今度は清を頼って政権復帰を果たし、清を後ろ盾とする。ところが、清も日清戦争に敗れ、国力を低下させるや、ロシアに接近していく。
このような閔氏政権の親ロシア化に反発した日本や親日派の策動により、95年、閔妃は王宮内に乱入した反対勢力の手により暗殺されてしまう。こうして閔妃は西太后とは異なり、非業の最期を遂げることとなった。
この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来の中国的な垂簾聴政型の王后とは異なり、一人天下となって以降の西太后と同様、君主と同格の后であった。
彼女の反動的な縁故政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
しかし近代主義者としては限界があり、その政治路線は日和見主義的で、一貫しなかった。その点でも西太后に匹敵し、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。