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「女」の世界歴史(連載第42回)

2016-08-10 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

③西太后と明成皇后
 19世紀後半期になると、近代化の波は東アジアにも押し寄せるが、女権忌避的な風潮の強いこの地域では、女性君主の出現は望めなかった。その代わり、強い個性を持って君主に匹敵する権力を行使する后が現れた。
 一人は清朝末期の西太后である。彼女は18歳で9代咸豊帝の後宮に入り、皇太子を産んだことで懿貴妃に昇格するが、あくまでも側室扱いであった。しかし、懿貴妃は皇帝も辟易するほど政治的野心が強く、1861年の咸豊帝の死後、皇帝の側近グループを排除するクーデターを起こし、西太后として10代皇帝に即位した息子同治帝を後見する垂簾聴政の形で実権を握った。
 しかし同治帝が74年に早世すると、今度は甥に当たる光緒帝を擁立し、引き続き実権を保持した。この間の政治体制は、咸豊帝の皇后だった東太后、さらに咸豊帝の弟恭親王とともに権力を分有する三頭政治であったが、81年に東太后が死去、84年には清仏戦争敗戦の責任を取らされた恭親王が失権すると、西太后の一人天下となった。
 西太后の施政はひとことで言えば日和見主義であり、同治帝の時代には、アロー戦争以来、西欧列強による領土侵食が進む中、伝統的な王朝体制を維持しつつ、西洋近代技術も摂取する洋務運動の後援者となったが、この中多半端な改革策が新興国日本との戦争に敗れ、挫折すると、西太后はいったん政治から身を引く。
 しかし、親政を開始した光緒帝が日本の明治維新にならった根本的な近代化改革(変法運動)に乗り出し、守旧派官僚らの反発が高まるのを見ると、西太后は守旧派の要請を受け、クーデターを断行、光緒帝を幽閉し、政権を奪取する。
 ここから西太后の反動政治が開始されるが、これも1900年の義和団の乱を機に挫折、乱が収拾されると、復権した西太后は一転して変法政策を採用して、近代化改革を進めるのである。その成果は06年の立憲君主制への移行宣言に現れるが、9年後の移行という先送り条件がついていたため、08年の光緒帝死去、翌年の西太后自身の死去により実現しないまま、辛亥革命を迎え、清朝はあえなく終焉してしまう。
 結局のところ、西太后は権力闘争には長けていたものの、自己の権力を保持するための日和見主義的な施政のために、激動期の清朝を西欧・日本の外国勢力からも、また国内の革命勢力からも守り切れず、清朝の幕引きに手を貸す結果となった。

 一方、清の間接支配下にあった隣国朝鮮にも、西太后と同時期に類似の女性権力者が現れた。朝鮮王朝26代高宗正室の閔妃(明成皇后;ただし明成皇后は諡号のため、以下では閔妃と呼ぶ)。
 西太后同様に政治的野心の強かった閔妃の政治家人生はほぼ、高宗治世の初期に実権を持った高宗実父・興宣大院君との権力闘争に割かれていた。まず1873年、大院君を追放する策動に成功した後、権力中枢を身内の閔氏で固めた縁故政治を開始する。
 その施政の特質は、大国への依存という事大主義であった。当初は、明治維新直後の日本に接近し、その力を借りて一定の近代化を志向したが、その代償は自国に過酷な不平等条約(日朝修好条規)の締結であった。
 しかし、軍の近代化策が旧軍人の反発を招き、大院君の復権を狙ったクーデターを呼び起こすと、今度は清を頼って政権復帰を果たし、清を後ろ盾とする。ところが、清も日清戦争に敗れ、国力を低下させるや、ロシアに接近していく。
 このような閔氏政権の親ロシア化に反発した日本や親日派の策動により、95年、閔妃は王宮内に乱入した反対勢力の手により暗殺されてしまう。こうして閔妃は西太后とは異なり、非業の最期を遂げることとなった。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来の中国的な垂簾聴政型の王后とは異なり、一人天下となって以降の西太后と同様、君主と同格の后であった。
 彼女の反動的な縁故政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし近代主義者としては限界があり、その政治路線は日和見主義的で、一貫しなかった。その点でも西太后に匹敵し、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。

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「女」の世界歴史(連載第41回)

2016-08-09 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

②マダガスカルの近代女王たち
 近代女王は、欧州のみならず、アフリカの島国マダガスカルという一見予想外の場所にも出現した。マダガスカルでは、ボルネオ方面から渡来してきたアジア系集団と東アフリカからの移住集団が混ざり合いながら複数の王国が競合的に形成されていったが、18世紀末には中央高原から出たメリナ王国が最有力化し、統一国家の樹立に向かっていた。
 特に19世紀初頭に出たラダマ1世は進歩的な思想の持ち主で、軍の近代化を進めてマダガスカル全島の統一を目指すとともに、アフリカにも攻勢を強めていた西欧列強による植民地化を回避し、独立を維持するため、積極的な西欧近代化を進めた。ラダマ1世の治世は、日本より一歩先んじた明治維新のような時代であった。
 ラダマ1世が1828年に死去すると、王妃がラナヴァルナ1世として即位した。マダガスカルではメリナ王国の前身時代、16世紀に半ば伝説的な二人の女王が記録されているが、メリナ王国ではラナヴァルナ1世が初の女王である。
 彼女の登位は男性優位の伝統を変革する近代化の成果とも言えるが、ラダマ1世に世子がなかったことによる特例措置という面も強くあり、ラナヴァルナ1世は即位に当たり妃への王位継承を指示する亡夫の勅令を捏造する必要があった。
 しかし、即位後のラナヴァルナ1世は夫とは正反対の西欧断交政策を展開した。当時のマダガスカルでは、ラダマ1世の思惑に反し、アフリカへ進出する英仏の影響力が競合的に増大しており、独立を脅かしていたからである。
 そこでラナヴァルナ1世は、夫が締結した英国‐メリナ条約の破棄、キリスト教の布教禁止などの強硬策を展開し、列強の反発を招いたが、その施政方針は必ずしも全面的な反近代ではなく、近代的な知識・技術の導入や産業の育成、近代的常備軍の増強など、ラダマ1世時代の近代化政策を少なからず継承している。
 しかし一方で、悪しき慣習である強制賦役の広範な利用や、領土拡張のための戦役などは犠牲者を増やし、30年以上に及んだ彼女の治世の評判は芳しくないものだった。ラナヴァルナ1世が61年に死去すると、女王と愛人の軍士官との間の息子と推測されるラダマ2世が継承し、母王の政策を再び親西欧の方向で覆した。
 ラダマ2世は王子時代、一フランス人実業家にマダガスカルの土地や資源の独占的開発権を付与する秘密協定を結んでおり、これは後年、フランスがマダガスカルを侵略する際の口実に利用されることになる。
 ところが、ラダマ2世の政策転換に反発する国粋勢力の策動により、彼は治世わずか2年で暗殺されてしまう。その後は先例にならい、妃のラスヘリナが即位した。ラスヘリナの治世当初はラダマ2世暗殺を首謀した国粋派が実権を持ったが、間もなく開国派が盛り返した。
 ラスヘリナ女王の治世は英・米との条約締結が成り、欧米列強との関係が強化されていく過渡期であったが、68年に彼女が死去すると、続いて女王の従妹にしてラダマ2世の夫人でもあったラナヴァルナ2世が即位、さらに83年のラナヴァルナ2世死去の後は、その従妹ラナヴァルナ3世と、19世紀後半期のメリナ王国は3代連続して女王が続く欧州でも例を見ない「女王の時代」となる。
 実は「女王の時代」を通じて政府の実権を握っていたのは、三女王すべての王配兼首相の地位にあったライニライアリヴォニであった。開国派の彼が30年近く首相の座にあったこの時代のメリナ王国では、従来の絶対君主制から立憲君主制への変革が起きていた。
 しかし、ライニライアリヴォニの開国・キリスト教化政策は、英国の影響を排除するため83年から開始されたフランスの侵略戦争にメリナ王国が最終的に敗れたことで、フランスの植民地化という結果に終わった。ライニライアリヴォニは仏領アルジェリアに追放され、ラナヴァルナ3世も97年に廃位されたことで、メリナ王国最後の君主となった。
 こうして、19世紀マダガスカルの大半を占めた四人の近代女王の治世は、同時代の日本とは対照的に、鎖国政策と開国政策の間を揺れ動き、独立を維持しながら近代化を推進することに成功することなく、結果として植民地化への道を準備することとなったのである。

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「女」の世界歴史(連載第40回)

2016-08-08 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

①ヴィクトリアとイサベル
 近代化は、女性の権利という意味での女権の拡大をもたらしていくが、同時に、近代化の中で新しいタイプの女性権力者が出現する。この両現象は必ずしも直接には関連しないが、通底するものはあっただろう。
 まず近代化中心の欧州においては、市民革命を通じて、伝統的な君主制が立憲君主制へと変革されていく中で、立憲女王が出現してくる。その代表例は、19世紀の英国に見られる。
 英国では、17世紀末の名誉革命の結果、ステュアート朝内部の体制内改革の形で立憲君主制の萌芽が生まれ、オランダ人の夫ウィリアム3世と共同統治したメアリー3世、さらに、ウィリアム没後に単独女王として即位したアンと半立憲的な女王を輩出する。アン女王が継嗣なく没すると、議会はドイツ人のハノーファー選帝侯ゲオルクを招聘し、ジョージ1世として立てたが、英語を十分に話せず、英国統治にも無関心なジョージの下、結果的に立憲君主‐責任内閣制が構築されていった。
 このハノーヴァー朝子孫として、1837年に即位したのがヴィクトリアであった。ハノーヴァー王家はドイツ系ながら英王室となっていたため、女子の王位継承を排除するゲルマン伝統のサリカ法の適用は除外されており、王位継承に当たり法的な障害はなかった。
 ヴィクトリアが即位した当時の英国では、まだ議院内閣制は発達途上にあり、国王には大権が留保されていた。ただ、ヴィクトリアの即位時は18歳と若かったため、貴族出身の首相メルバーン子爵が実権を持ったが、メルバーンが辞職してからは、やはりドイツ人の王配アルバートの強い影響下に、政務を行なった。
 そのアルバートが1861年に早世すると、国王権力の弱体化が進み、次第に保守党vs自由党の二大政党政に基づく議院内閣制の仕組みが確立されていく。それに相伴って、英国は対外的な膨張を続け、大英帝国の地位を確立していくのであった。 
 自信家のヴィクトリアはしばしば気まぐれに政治に介入しようとする傾向が強かったが、英国の議会政治は女王の気まぐれに振り回されることのない程度に発達しており、ヴィクトリアは、結果として、王は君臨すれども統治しない20世紀的な象徴君主制の確立への橋渡しの役割を果たしたと言えるだろう。

 英国のヴィクトリア女王と同時代、スペインにも類似の女王イサベル2世が出現した。保守的なスペインではレコンキスタを完成させ、統一スペインを樹立した立役者のイサベル1世以来、女王は輩出されなかったため、イサベル2世は1世以来、300年ぶりの女王であった。
 イサベル2世が属したボルボン朝はフランスの近世王室であったブルボン家の支流であり、サリカ法を保守していたが、男子のなかったイサベルの父フェルナンド7世がサリカ法を廃して、女子の王位継承に道を開いていた。
 市民革命の波は保守的なスペインにも押し寄せていたが、議会制が確立されていないスペインでは保守派と自由主義派の争いが革命、クーデター、内戦という不正常な形をとることが多く、19世紀のスペインは激動の時代であった。
 そうした中、ナポレオン支配から解放された後に再即位したフェルナンド7世は絶対君主主義者として反動政治を展開したが、統治能力は乏しく、国政は混乱していた。そのフェルナンドの没後、1833年に即位したイサベルはわずか3歳だったため、生母マリア・クリスティーナが摂政として実権を持った。
 これに対し、サリカ法の復活を主張するイサベルの叔父カルロスが反乱を起こし、カルロス5世を僭称する事態となった。カルロスは保守的な教会や貴族層の支持を受け、進歩的な立憲派を支持基盤としたイサベルに対し7年近くにわたり抗争するが、最終的に休戦に至った。
 この間、37年にはスペインは憲法上立憲君主制を宣言するも、カルロス派(カルリスタ)はなお勢力を保持しており、政府内でも穏健派と急進派の対立がしばしばクーデターや独裁政治を招くなど、政情は安定しなかった。
 それに加え、43年以降親政を開始したイサベルにも気まぐれに政治介入を試みるヴィクトリアと同様の傾向が見られたが、議院内閣制が確立されていないスペインでは英国のように女王の気まぐれを制御できず、国政の混乱に拍車をかけた。
 こうした状況を見て、68年、革新派軍人がクーデターを起こし、イサベルはフランスへ脱出した。彼女は王太子への譲位を望んだが、受け入れられず、70年に退位を余儀なくされ、以後は1904年の死去までパリで亡命生活を送った。こうして、近代女王としてのイサベルはヴィクトリアとは対照的な運命をたどったのだった。

補説:オランダ近代女王
 英国のヴィクトリア時代晩期には、オランダでも近代女王が誕生する。オランダにおけるヴィクトリア女王とも呼ぶべきウィルヘルミナ女王である。ただ、1887年にサリカ法が廃止され、90年にウィルヘルミナが即位した時は10歳だったため、98年まで生母エンマ王太后が摂政として支えた。
 エンマは先王ウィレム3世の後妃だったが、夫のウィレムは元来、世襲共和制から君主制に移行するという歴史をたどったオランダの自由主義的な伝統に反して、絶対君主的な振る舞いをして評判を落としていたところ、摂政エンマはこれを軌道修正し、立憲君主制の確立に尽力したのである。
 オランダでは、ウィルヘルミナ以降、彼女の娘から孫娘へと三代100年以上にわたって連続して立憲女王が続き、特に20世紀は全面的に女王の治世一色となる世界史的にも例を見ない時代であったが、このオランダにおける「女王の世紀」については、改めて次章で見ることにする。

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「女」の世界歴史(連載第39回)

2016-07-26 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(2)産業革命と女性

 産業資本家のようなブルジョワ階級が社会の主導権を握る時代をもたらした市民革命と相即不離の関係で同時並行的に進行していったのが、周知の産業革命であった。
 「機械が筋力をなくてもよいものとする限り、機械は筋力のない労働者・・・・・・・を充用する手段となる。だからこそ、女性・児童労働が機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!」
 『資本論』のマルクスがこう書き付けたように、産業革命は働く女性を増大させた。それまでの熟練した力仕事を要する手工業から、機械化された工業が主流化するにつれ、肉体的条件に恵まれない非熟練の女性労働力が望まれるようになったからである。女性にとって最初の主要な職場は、紡績・織物工場であった。
 こうして自ら労働し賃金を得て、家計を支えるようになった女性たちの家庭内での地位は向上した。この変革は、市民革命における女権思想の影響以上に、女性全体の地位向上にも貢献したと言える。
 とはいえ、女性労働者たちは低賃金・長時間労働を強制される劣悪な労働環境に置かれていたが、産業革命発祥地英国では、19世紀に入り、工場法の整備を通じて労働時間の短縮をはじめとする労働基準の強化が徐々に進んでいった。
 こうした労働基準の改善は労働運動の成果でもあったが、労働運動もまた男性中心主義傾向を免れなかった。産業革命期の女性自身による労働運動の嚆矢は、英国ではなく、米国に現れた。
 米国では、1824年に女性労働者による最初のストライキが記録されており、女性の労働運動が早くから活発であったが、この流れは1844年、10時間労働を要求するマサチューセッツ州の織物女工たちが結成したローウェル女性労働改革協会につながる。これを指導したのは、自身も女工の一人で、後に米国の女性労働運動家の草分けとなるサラ・バグリーであった。
 米国では、ローウェル協会が結成された4年後の1848年には、ニューヨーク州で最初の女権会議(セネカフォールズ会議)が開催された。ここでは、主催者の一人で、後に米国における女性参政権運動の先覚者となるエリザベス・スタントンがアメリカ独立宣言に対抗して起草した「すべての男女は平等に造られた」と宣言する「所感宣言」と、男女平等を達成するための諸決議案が採択された。
 米国における女性運動の出発点とも言われるセネカフォールズ会議を契機に、1850年から南北戦争直前の1860年までの毎年、全米女権会議が開催されるようになり、米国における女権運動の支柱となった。19世紀後半になると、女子教育の発達により、中産階級女性を中心に有識女性が増大したことも、女権運動を深化させていく。こうして、米国では労働者階級女性の労働運動が中産階級女性主体の女権運動を触発するような形で、女性運動が展開されていった。
 産業革命が西欧から海を超えて新大陸にも広がる中、労働を通じて社会参加し始めた女性たちが次に目指すのは、参政権の獲得であったが、これにはなお高い壁が立ちふさがっていた。

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「女」の世界歴史(連載第38回)

2016-07-25 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第四章 近代化と女権

[総説]:女権思想の展開
 女権の黎明期に現れた女帝たちは、それぞれの仕方で画期的ではあったが、所詮は男性権力の代替的な立場に過ぎず、彼女らの存在によって女性全体の地位が向上する効果は持たなかった。
 女帝に象徴されるような女性の権力ではなく、より普遍的な女性の権利という意味での女権思想が芽生えてくるのは、市民革命期以降のことである。それは、おおむね近代の本格的な始まりと一致している。
 とはいえ、当初は進歩的な啓蒙思想においても、女性の権利はまともに想定されていなかったが、18世紀の啓蒙思想は女性の自己啓発をも促進し、啓蒙専制女帝のような権力者のみならず、女性知識人という新たな階層を生み出した。
 その中から、女性の権利向上を意識的に追求する近代的なフェミニズムの思想が誕生し、近代以降の女性運動の理論的な軸として定着していく。このような流れは人権思想発祥地である西欧でまず発したが、その後、東西アジアにも広がりを見せていく。
 そうした流れと合わさる形で、近代国家における新たな女性権力として、西欧を中心に立憲君主型の新しいタイプの女王も出現してくるのが19世紀の状況である。
 他方では、産業革命以降、女性の労働参加が飛躍的に拡大し、女性は勃興する資本主義経済において不可欠の労働力となっていった。この流れは、思想の力以上に、女性の政治参加を求める運動を促進していったであろう。

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(1)市民革命と女性

 市民革命といっても、その嚆矢とみなされる17世紀英国における二つの革命、すなわち清教徒革命と名誉革命は、主として宗教問題を争点とする革命であったため、女性の地位にはほとんど何の影響も及ぼさなかった。
 ただ、女性権力という観点では名誉革命後、テューダー朝エリザベス1世以来となる女王メアリー2世がオランダ総督から招聘されたオランダ人の夫ウィレム(ウィリアム3世)とともにステュアート朝の共同統治者となったが、彼女は補佐的な役割が強く、かつ夫に先立って没した。
 女性の権利としての女権が本格的にクローズアップされるには、18世紀末のフランス革命期を待つ必要があった。そのフランス革命においても、主役は圧倒的に男性陣であったが、女性たちも影ながら参画していた。
 特に革命の導火線となったベルサイユ行進では、折からの食糧品の高騰に直面したパリの主婦たちが「パンをよこせ」のシュプレヒコールを叫び、宮殿と議会へ直訴に赴いたように、革命の口火は平民階級の女性たちが切ったのであった。
 当時の国王ルイ16世とその妃マリー・アントワネットは国民の生活を省みない特権的贅沢三昧の象徴とみなされており、特にマリー・アントワネットは「パンがなければブリオッシュを食べればよい」と言い放ったとされるが、この発言は事実無根であり、実際の彼女は慈善家的な顔を持っていたことが判明している。
 とはいえ、ベルサイユ行進に始まる革命は、まずルイ16世が人権宣言を承認させられることで、第一幕を終える。正式には「人間と市民の権利の宣言」と題されたこの憲法文書は、文言上はジェンダー平等に読めるが、実際のところ、人権享有主体として専ら男性を想定したものだった。
 このことを鋭敏に指摘し、対抗上「女性および女性市民の権利宣言」を作成・公表したのが、近代フェミニズムの先覚者オランプ・ド・グージュ(本名マリー・グーズ)であった。「女性は生まれながらにして自由であり、権利において男性と同等である」に始まるこの対抗的宣言において、ド・グージュは史上初めて女性の権利を簡潔な表現で定式化してみせたのであった。
 しかし、今日的には穏当な内容にすぎないド・グージュ流フェミニズムは当時、過激な危険思想とみなされ、革命政権の主導権を握ったジャコバン派からは敵視された。政治的にジロンド派寄りだったド・グージュ自身、ジャコバン派の恐怖政治に批判的で、ルイ16世夫妻の処刑にも反対したことから、王党派の烙印を押され、断頭台へ送られる運命となった。
 ジャコバン派が失墜し、革命が終息に向かうと、女性の議会傍聴禁止、集会禁止などの反動政策が現れ、仕上げのナポレオン法典では女性の従属的地位と法的無能力が明記されることとなり、女性の権利は抑圧された。
 結局、女性の権利に関する限り、市民革命は成果を生まなかった。しかし全く無意味であったわけではなく、近代的なフェミニズム思想の礎石が置かれたのも、市民革命を通じてであったこともまたもたしかである。

補説:アメリカ独立革命と女性
 新大陸側での市民革命という性格を持っていたアメリカ独立革命は、宗主国との戦争という形態を取ったため、フランス革命以上に男性、とりわけ軍人の主導性が強かった。しかし、ここでも独立戦争の引き金となる茶法への抗議行動ボストン茶会事件に触発され、51人の女性たちが起こした1774年のイーデントン茶会事件のように、革命の導火線を女性たちが引いていたことは注目される。
 また、マーシー・オーティス・ウォレンのように、当時はまだ珍しかった女性政論家として、革命を鼓舞する政治的著作や助言を通じ、後に初代大統領となるジョージ・ワシントンをはじめとする男性革命人士たちに影響を与える女性もいた。
 開戦後、女性たちは戦費調達や前線慰問など「銃後」の役割に回ることが多かったが、少数ながら戦闘に参加した女性たちも存在する。その中には男装で通した者もいた。その他、諜報員を務めた女性もおり、女性は独立戦争そのものにも少なからず関与していた。
 しかし結局、アメリカ独立革命で唱えられた自由や平等も、(白人)男性のものであることが暗黙に合意されており、独立達成後の合衆国政府において女性の解放は課題となり得なかった。よって、慎ましやかな内助の功に徹していた初代大統領夫人マーサ・ワシントンはアメリカ人女性の鑑として、まさにファーストレディであった。
 マーサとは対照的に、第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズは女性の権利を主張し、夫の在任中、政治にもしばしば介入を試みたため、「ミセス大統領」と揶揄された。アビゲイル夫人が望んだアメリカにおける女性解放は、新興国として資本主義的発展を遂げていく19世紀の産業革命下で、労働運動を一つの動因として進んでいったであろう。

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「女」の世界歴史(連載第37回)

2016-07-13 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(4)二人の啓蒙専制女帝

 ロシア・ロマノフ朝のエカチェリーナ1世、アンナ、エリザヴェータまでの三女帝は、それぞれピョートル大帝の皇后、姪、娘であり、いずれもピョートル大帝の身内という立場からの登位であったが、ロシア四人目かつ最後の女帝となるエカチェリーナ2世は全く別筋からの登位である。
 エカチェリーナ2世は、ドイツの小さな領邦君主の家系に生まれたドイツ人であり、ロシア人ですらなかったが、政略婚により父方がやはりドイツ人のロシア皇太子ピョートルに嫁ぎ、ロシアに渡った。
 エカチェリーナは夫がピョートル3世として即位したことで皇后となったが、幼少期から高い教育を受け、教養人だったエカチェリーナは幼児性が抜けなかったとされる夫とは全く性格が合わず、早くに家庭内別居状態に陥っていたため、公式には夫妻の子とされるパーヴェル皇太子も男性遍歴の多かったエカチェリーナの不倫の子とする風評があった。
 その真偽はともかく、エカチェリーナ以上にドイツ的な夫ピョートル3世は親プロイセンの立場を公然と示したことで、ロシア国内では不評であった。そうした状況下で、反ピョートル派が動き、クーデターでピョートルを廃位し(後に不審死)、エカチェリーナ皇后を帝位に就けたのである。
 宮廷クーデターによる女帝の登位は、これで最初の女帝エカチェリーナ1世、エリザヴェータに次いで三度目であり、ロシアにおける女帝が宮廷内の派閥抗争・権力闘争の反映であることを示している。
 こうして史上四人目の女帝となったエカチェリーナは思想上は啓蒙思想の信奉者であり、ヴォルテール、ディドロなど当代一流のフランス啓蒙思想家と文通していたことから、しばしば啓蒙専制君主の代表格とされるが、統治者としてはロシア社会の保守性・後進性に制約され、必ずしも啓蒙的な統治を展開できなかった。
 実際、大規模な農民反乱プガチョフの乱を徹底的に粉砕し、悪名高い搾取的なロシア農奴制は彼女の治世で頂点に達した。また晩年に勃発したフランス革命に際しては、反革命国際同盟にこそ参加しなかったものの、国内的には革命の波及を防ぐべく、思想統制を強化した。
 他方で、37年に及んだ長い治世は安定し、対外的には二度の露土戦争に勝利し、帝国領土を東方に拡張したほか、三度のポーランド分割に参加し、自由主義的なポーランド‐リトアニア共和国を解体した。
 こうして、エカチェリーナ2世はロシア帝国を近世ヨーロッパ列強の一つに押し上げる基礎を築いた名君となるが、彼女の意に反して後継者となったパーヴェル1世は幼少期からエリザヴェータ女帝の下で養育され、生母エカチェリーナとは疎遠、不和であった。
 そのため、即位後はエカチェリーナの政策を否定し、しかも帝位継承法を定め、男系が断絶しない限り女子の帝位継承を禁止したため、以後、ロシアでは女帝は輩出されなくなったが、パーヴェル以降、1917年の革命で王朝が崩壊するまで、ロシア皇帝はすべてエカチェリーナの子孫から出ている。

 ここで、エカチェリーナより一回り年長だが、統治期間が重なるもう一人の啓蒙専制女帝としてオーストリアのマリア・テレジアを対照させておきたい。実のところ、マリア・テレジアは正式には女帝(女性皇帝)ではなく、神聖ローマ皇后という立場にとどまっていたが、夫である皇帝フランツ1世を凌ぐ実権を保持したため、歴史叙述上「女帝」と同視されてきた。ここでもそれに従う。
 さて、オーストリアも包含されるゲルマン諸王朝ではサリカ法の解釈上、女子の王位継承は否定されてきたが、マリア・テレジアの父カール6世には世継ぎの存命男子がなかったことから、やむなくロートリンゲン家の娘婿フランツを形式上後継者としつつ、娘マリア・テレジアにハプスブルク家領土の相続を認めるという苦肉の策に出た。
 これに付け込んで周辺諸国が介入してきたのが、オーストリア継承戦争であり、マリア・テレジアは治世初期の8年間をこれに費やさざるを得なかった。この戦争では一部領土割譲を余儀なくされるも、自身の領土相続は確定させることに成功した。
 その後は、従来の外交政策を転換して、フランスやロシアと同盟し、ライバルのプロイセンに対抗した。その結果がプロイセンとの七年戦争であるが、ロシアの親プロイセン派ピョートル3世の裏切りもあり、この戦争はほぼ引き分けに終わる。
 しかし二つの戦争を通じて、オーストリアは徴兵制軍隊などの軍制の近代化を推進し、西欧列強として飛躍していった。このように軍事強国化を導いた点では、マリア・テレジアもロシアのエカチェリーナ2世と共通する。
 啓蒙政策に関しても、ロシアのエカチェリーナ同様、マリア・テレジアも改革志向ながらやや保守的な面があり、このことは、ほとんど実権のなかった夫フランツが1765年に他界し、急進改革派の息子ヨーゼフ2世が即位して母との共同統治に入ると、ヨーゼフとの確執として現れた。
 マリア・テレジアはフランス革命前の1780年に没したため、親フランス政策の一環としてフランスのルイ16世に嫁がせた余りに名高い娘マリー・アントニア(アントワネット)がフランス革命の渦中で処刑される運命を知ることはなかった。
 オーストリアでは最期まで女子の皇位継承は認めず、正式の女帝が輩出されることはなかったが、ヨーゼフ2世以降、1918年の革命で王朝が崩壊するまで、オーストリア君主はすべてマリア・テレジアの子孫から出ている。

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「女」の世界歴史(連載第36回)

2016-07-12 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(3)ロシアの女帝時代

 東ヨーロッパの大国ロシアでは、17世紀初頭、300年にわたり、近世ロシアを演出することになるロマノフ朝が登場する。この王朝下では、18世紀に入り、断続的ながら四人の女帝が出現した。
 従来、ロマノフ朝以前のロシアでは女王(女性君主)は事実上のタブーであり、正式な女王は一人も輩出されていなかったところ、ロマノフ朝になって女帝が出現した理由は、ロシアにおいても、ピョートル1世の手により遅れて西欧的な近世帝国の建設が始まったことと関連しているかもしれない。
 ただ、ロシアの女帝時代を直接に切り拓いたのは、年少で即位したイヴァン5世及びピョートル共同皇帝時代の摂政となったピョートル異母姉ソフィア・アレクセーエヴナ(イヴァン同母姉)であったと思われる。野心的なソフィアは、それまで皇族女性が宮殿の奥に事実上隔離されて暮らしていた慣例を破り、自ら政治の表舞台に登場する先例を作った。これは、限定的ながらロシアにおける女性解放の最初の一歩であった。
 元来は異母弟ピョートルの登位を阻止するため実権を握ったソフィアは7年間の摂政期に内政外交でいくつかの成果を上げ、結果的にピョートル時代を準備する中継ぎの役割を果たしたが、ピョートルが成長するとその地位は揺らぎ、1689年、ピョートル派の圧力により摂政の座を退き、修道院に隠棲したのだった。
 正式にロシア最初の女性君主となるのは、1725年から27年まで短期間だけ女帝の座に就いたエカチェリーナ1世であった。彼女は、農民の娘から時の皇帝ピョートル1世側近アレクサンドル・メンシコフ将軍家の女中となり、さらにピョートルに「献上」されたのをきっかけに皇帝の愛人となり、ついには皇后に昇格するという異例の階級上昇を遂げた女性である。
 ピョートルには前妻として貴族出身の皇后エヴドキヤ・ロプーヒナがいたが、彼女は保守的で、ピョートルが推進する西欧化改革に反対する勢力の代表者となっていたため、不仲のまま離婚に至り、二人の間の長男アレクセイも粛清されていた。ピョートルが後継指名しないまま1725年に没した時、保守派はアレクセイの遺子ピョートル・アレクセーエヴィチを推したが、改革派及び近衛隊はクーデターを起こし、皇后エカチェリーナを帝位に就けた。
 このような政情不安の中で、ロシア初の女帝は誕生したのだった。即位の経緯からしても、エカチェリーナ1世は夫ピョートル大帝の路線を継承する中継ぎ的な役割に限定され、実権もかつての雇い主メンシコフに握られていたが、唯一、軍事大国を目指した大帝時代に膨張し過ぎた軍事費の削減だけは女帝主導で断行するなど、気骨あるところも示した。
 エカチェリーナが治世2年で病没すると、メンシコフの策により12歳になったピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位するが、彼は14歳で夭折、後継には、ピョートル大帝の姪に当たるアンナ・イヴァノヴナが就いた。ここで再び女帝の登場である。
 彼女に白羽の矢が立ったのは、保守派がピョートル直系を嫌い、女帝を傀儡化しようとしたことにあるとされるが、即位後のアンナは傀儡を拒否し、ピョートル時代の専制体制を復活させた。ただ、アンナの治世は凶作や疫病が相次ぐ中、重税策もあり、しばしば「暗黒時代」とみなされるが、アンナ女帝はドイツ人顧問らに実務を委ねつつ、基本的にはピョートル大帝の西欧化・近代化政策を継承する手堅さも見せた。
 10年の治世の後、アンナが没すると、次帝はアンナの遺言に従い、アンナの姉の孫に当たるわずか生後2か月の幼帝イヴァン6世となったが、ここでピョートル大帝の娘にして野心家のエリザヴェータ・ペトロヴナが近衛隊を動かしてクーデターを断行、イヴァンを廃して、自らロシア三人目の女帝に就く。
 彼女の母はエカチェリーナ1世で、母はエリザヴェータを後継者に望んでいたが、エリザヴェータの出生時、母はまだ愛人であったため、婚外子とみなされ、実現しなかった。しかし、大帝の娘として、エリザヴェータは常に有力な帝位継承権者であり続け、特にアンナ女帝からは警戒されていた。
 即位後のエリザヴェータは実務を有力な側近らに委ね、自らは関心の高かった文化事業に没頭した。また啓蒙君主の先駆け的な存在でもあり、特に即位時の公約として治世中死刑の宣告を停止する進歩的な政策を採った。
 他方では、クーデターで得た自身の正当性を欠く帝位を守るため、エリザベータは廃位に追い込んだ幼い前皇帝イヴァン6世を匿名で要塞監獄に生涯拘禁し、その両親・きょうだいもイヴァンから引き離して別途監禁するという徹底した非情さも持ち合わせていた。
 20年以上にわたったエリザヴェータ女帝の治世は、農奴制の強化という悪制や多数の愛人の存在といったライフスタイルを含め、様々な点でロシア女帝の集大成とも言うべき後のエカチェリーナ2世の時代を準備する役割を果たしたと言えるであろう。
 エリザヴェータ後継者の甥ピョートル3世の皇后からロシア四人目の女帝となるエカチェリーナ2世は啓蒙専制君主の代表格としても名高く、その事績も多岐にわたるため、改めて次回にまわすことにする。

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「女」の世界歴史(連載第35回)

2016-07-11 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(2)マレーの女性君主たち

 欧州の近世帝国で女帝が現れ始めた時代に前後して、パタニとアチェという東南アジアの二つのマレー系有力港市国家で、連続的に女王が出現したことがあった。両国は当時イスラーム化されていたため、これら女王はイスラーム圏では稀有の女性君主ということになる。
 この時代、イスラーム圏の東の辺境に当たる場所で連続的に女性君主が輩出された理由は明らかでないが、大航海時代以降、西洋列強の進出に直面する中、これらマレー系港市国家にも権力再編の必要性が生じていたということが想定できる。
 このうち今日のタイ深南部に位置したパタニ王国は周辺諸国の中でも早くからイスラーム化した先駆国であったが、港市国家としては先行のマラッカが16世紀初めにポルトガルにより滅ぼされて以降、イスラーム商人の交易中心がパタニに遷移したことで、繁栄するようになった。
 そうした中、王室の内紛を経て1584年に即位した最初の女性君主であるラトゥ・ヒジャウは、その30年余りの治世で、ポルトガル、オランダなど西洋列強から購入した西洋式兵器によりパタニを宗主的地位にあったタイのアユタヤ朝から防衛しつつ、西洋列強との貿易、さらに豊臣→徳川時代初期の日本との朱印船貿易も推進し、パタニをマレー半島最有力の貿易国に押し上げた。
 こうした強い指導力を発揮した点で、彼女は近世女帝的な性格を最も帯びていたと言えるかもしれない。ラトゥ・ヒジャウが1616年に没した後も、ラトゥ・ビルとラトゥ・ウングという二人の妹が連続して王位を継ぎ、さらに後者の娘ラトゥ・クニンが継承した。 しかし、ラトゥ・クニンの時代になると、オランダはすでに貿易拠点を台湾に移転し、日本も鎖国政策に入っており、パタニの貿易中心としての地位は著しく低下していた。
 加えて、勢力を回復したアユタヤ朝の脅威も増すなか、ラトゥ・クニンは隣国クランタン王国の介入的クーデターにより追放され、敗走中に死亡したとされる。彼女の死をもって、パタニ王室は断絶し、以後はクランタン系の王朝となる。
 このパタニと商業上のライバル関係にあったのが、現インドネシアのスマトラ島北端に位置したアチェ王国である。パタニの女性君主たちは、ラトゥ(首長)とのみ称し、スルターンを名乗らなかったが、アチェの女性君主たちはスルターンを名乗り、明確に女性スルターンとして君臨した。
 アチェ最初の女性スルターンは1641年に即位したタジュ・ウル‐アラムである。彼女は先々代スルターンの娘にして、行政改革によって王権を強化した先代イスカンダル・サニの王妃から即位した。その経緯は不明だが、イスカンダル・サニの改革に反発した貴族層の反改革として、実権を持たない女王が望まれたとも言われる。
 実際、タジュ・ウル‐アラムはほぼ象徴的な存在にとどまり、政治の実権は世襲制の地方首長に握られていた。しかし、彼女は当時の年代記やオランダ人の証言によっても、精神的に気高く、尊敬に値する人物とされ、30年以上に及んだその治世は平和と繁栄を享受したとされる。
 当時のアチェは貿易でも栄えたが、それ以上にイスラーム教学・文学における東の中心地としての声望を高め、タジュ・ウル‐アラムは統治者としてよりは文化的な後援者として事績を残したようである。
 タジュ・ウル‐アラムの没後、奇しくもパタニと同様、さらに三代続けて女性スルターンが継ぐが、最後のザイナトゥッディーン・カマラット・シアの時代には、女性スルターンへの不満が高まっていた。
 最終的に、1699年、女性スルターンはイスラムの原理に反するとする聖地メッカの裁判官からのファトワに基づき、カマラット・シアは廃位され、アラブ系末裔の男性スルターンに取って代えられた。こうして、アチェでも四代60年近くにわたって続いた女性スルターンの時代は終わりを告げたのである。
 同時に、パタニとアチェの女性君主時代の終わりは、両国が次第に衰退し、やがて前者はタイの、後者はオランダの支配に下る時代の始まりでもあった。なお、アチェはオランダから独立したインドネシアの一部として、最終的にインドネシアに組み込まれることとなった。

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「女」の世界歴史(連載第34回)

2016-06-30 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(1)近世帝国と女帝

③スウェーデン女王クリスティーナ
 スウェーデン最初の女王であるクリスティーナはスウェーデンを大国に押し上げたグスタフ2世アドルフの娘であり、父が深く関与した三十年戦争で戦死するという国家的危機の中でわずか6歳にして即位した。
 グスタフ・アドルフが急死した時、彼には婚外子の男子がいたが、嫡子は娘クリスティーナのみであったため、クリスティーナが王位を継ぐことになったのであった。当然、幼女に政務は取れず、父の最側近者だった宰相アクセル・オクセンシェルナが実権を持った。
 オクセンシェルナは、引き続き三十年戦争を継承し、プロテスタント側盟主として、スウェーデンを最終勝利へ導いた。しかし、成長したクリスティーナは三十年戦争の要因ともなったカトリックとプロテスタントの対立の止揚を理想とし、オクセンシェルナとは対立するようになる。彼女はオクセンシェルナを次第に遠ざけ、引退に追い込んだ。
 女王は、戦勝国ながら、敗戦国を寛大に遇する宥和政策で自身の理想を追求しようとしたのだった。その点、クリスティーナは自己の信念を貫く意志の強さを持ち合わせていた。しかし、女王の柔軟対応の結果として、戦後処理を決するウェストファリア条約は円滑に成立し、講和が導かれた。近代国際法の先駆として重要な成果となった同条約には、クリスティーナの平和思想が反映されているとも言える。
 思想面では、グロティウスやデカルトらの啓蒙思想家と交流するなど、当時は支配階級女性でも異例な高い教養を持つ自由思想・啓蒙思想の持ち主であり、その宮廷には欧州の第一級知識人が出入りした。
 ちなみに、男装を好んだクリスティーナ女王は同性愛者だったと見られているが、歴史上も女性同性愛者の女王は稀有である。クリスティーナは主として政情不安への警戒から非婚を通した英国のエリザベス1世とは異なり、同性愛者として女性の役割固定化に否定的な観点から非婚を通したと見られ、その点でも当時の女性としては異例の先駆者であった。
 統治者としては、放漫財政により財政難を招くなどの失政もあったが、権力欲を持たない好学の君主であった。そのため治世初期から生前退位の意思を持ち、20年ほどの在位の後、27歳で従兄カール10世に譲位した。 
 退位後、カトリックに改宗するという異例の決断をしたが、改宗後のクリスティーナはスウェーデン女王への復位を宣言したり(後に撤回)、ポーランド国王選挙に立候補するなど、前半生とは異なる権力欲を見せ始める。しかし、いずれも失敗して以後は、ローマに住み、学問研究などの自由な暮らしを続け、当地で客死した。
 クリスティーナには偉大な父王が命をかけて築き上げたスウェーデン帝国を弱体化させたという否定的な評価もあるが、彼女から王位を継承したカール10世は改めてスウェーデンをバルト海域の大国に押し上げている。

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「女」の世界歴史(連載第33回)

2016-06-29 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(1)近世帝国と女帝

②テューダー朝の姉妹女王
 イングランドでは12世紀、ヘンリー1世の娘マティルダが女王になり損ねて以来、女王を輩出することはなかったが、16世紀のテューダー朝で初の女王を輩出した。
 テューダー朝は、ウェールズの一貴族出身の創始者ヘンリー7世が前代の封建的な内戦ばら戦争を終結させ、その息子ヘンリー8世の時代を経てイングランドを中央集権国家に再編した王朝である。
 ヘンリー8世はしばしば専制君主の象徴とみなされる強力な君主であったが、幼年でその後継者となった一人息子エドワード6世は病弱で、在位6年ほどで夭折した。ヘンリー8世には他に男子がなかったことから、後継問題に直面した。
 ヘンリーは遺言をもって王位継承順をエドワードからエドワードの異母姉メアリー、エリザベスへと定めており、すでに女王の誕生を想定していたが、エドワード6世時代の実権者だったノーサンバランド公ジョン・ダドリーはこれを恣意的に変更し、自身の息子をエドワードの遠縁に当たるジェーン・グレイと結婚させたうえ、ジェーンを後継者とする旨の遺言をエドワードに強要した。
 しかし、いよいよジェーンの即位が宣言された時、ヘンリー8世の長女メアリーとその支持勢力が決起し、これが民衆反乱に発展して、ジョン・ダドリーは失墜、息子やジェーンともども反逆罪で処刑された。
 こうして一種の革命により王位に就いたのが、英国史上初の女王メアリー1世である。メアリーの生母は前回見たスペインのイサベル1世とフェルナンド2世の娘であり、従って母方を通じてスペイン両王の孫に当たる。その関係から、彼女は強固なカトリック教徒であった。このことは、父ヘンリー8世が強引に進めたイングランドの脱カトリック・国教会樹立の宗教改革に反したため、反発と政情不安を引き起こした。
 カルロス1世の息子フェリペ2世を王配に迎えたメアリーはプロテスタント迫害政策を展開し、数百人のプロテスタントを火刑に処する弾圧を断行したため、「流血メアリー」の汚名を着ることになったが、メアリー自身は信念を持つ自立的な女性だったという評価もある。
 メアリーはスペイン王となったフェリペとも別居状態のまま、世子を残さず治世5年余りで病没したため、続いてメアリーの異母妹エリザベスが即位した。英国史上でも女王が二代続くのは、これまでのところ、これが唯一の事例である。
 エリザベスは父と愛人アン・ブーリンの間にできた婚外子であったため、姉メアリーからも憎まれ、不遇の少女時代を過ごしていたが、当時は支配階級女性としても異例の高い教養を有していた。
 統治者としてのエリザベス1世は、姉とはすべてにおいて対照的であった。宗教的には国教会派と見られるが、姉とは異なり、宗教的信念を持たず、中道的な宗教政策を採ったことが、統治者としての成功につながった。
 対外的にも、その出自から親スペインであった姉とは対照的に、私掠船を用いてスペインに対抗する海外進出を展開した。その結果が1588年のアルマダ会戦であるが、スペインの無敵艦隊を破って勝利したこの戦争は、次世紀以降、イングランドを帝国に押し上げる契機となった。
 エリザベスは結婚を匂わせながら男性側近者を巧みに操る人身掌握術にも長けており、有能な男性側近者らに補佐されながら、カリスマ的支配者として君臨したエリザベスはルネサンス型女帝の集大成的な代表格と言える。
 しかし、政情不安を警戒して生涯独身を通し、世子を残さなかった彼女をもってテューダー朝が終焉すると、以後、英国女王は名誉革命後にオランダから招聘されたウィリアム3世の共治女王となるステュアート朝メアリー2世まで途絶える。
 

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「女」の世界歴史(連載第32回)

2016-06-28 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第三章 女帝の時代

[総説]:権力の女性化
 本章では、近世黎明期に現れた専制的な女王たちを「女帝」と呼ぶが、これは正式の呼称に関わりなく、専制的な女性君主全般の総称として用いることにする。
 このような強力な女帝を輩出した国自体は限られているが、いずれも当時の有力国であり、しかも女帝の時代は当該国の全盛期もしくは次代の全盛期を準備する役割を果たしていることが特徴である。
 このように近世の入り口の段階で女帝が出現し、権力の女性化現象が生じた理由としては、中央集権国家の発達が想定される。それ以前の時代、特に封建時代は各地に割拠した領主らが武力で自衛し、抗争し合った時代であり、中央権力は弱く、文官を擁する行政機構も未発達であった。それは本質的に、武装した男性権力を必要としていた。
 しかし中央集権制が発達してくると、権力頂点の最高執権者=君主には高い権威の象徴としてのカリスマ性が要求され、かつそれで十分であるため、女性でも資格が生まれる。そのため、一定の状況下で女帝が許容されるようになったと考えられる。
 とはいえ、〈序説〉でも述べたとおり、女帝は適任の男性候補が存在しない場合の代替的存在であるにすぎず、偉大な女帝の没後に女帝が長く途絶えたり、以後は輩出されなかったケースも多い。

**********

(1)近世帝国と女帝

①イサベル1世とレコンキスタ
 欧州における女帝の先駆けとなったのは、ルネサンス期の有力諸国、中でもスペイン、イングランド、スウェーデンに現れた女帝たちである。
 文化革命としてのルネサンスは女権の拡大を含んではいなかったが、古いキリスト教思想を革新した文化的・精神的な改革気風は、結果的に女帝を許容したとも考えられる。そうした近世帝国におけるルネサンス型女帝の初例と言えるのは、スペインのイサベル1世である。
 イサベルはイスラーム勢力からスペインを奪回するレコンキスタ運動の拠点であったカスティーリャ‐レオン王国のフアン2世の娘として生まれたが、幼くして父王が他界すると、後継の異母兄エンリケ4世により生母ともども追放され、不遇の時代を過ごした。
 しかし、エンリケはある種の性的不能者であったと見られ、継妃フアナとの間に生まれたとされる王女フアナは母の不倫による子であると噂された。そこで、有力者らはイサベルの同母弟アルフォンソを担ぎ出そうとする動きを見せたが、イサベルはこれに反対し、エンリケ在位中の後継論争を封じ込めた。
 さらに、イサベルは自身をポルトガル王妃として政略婚させようとする動きも拒否したうえ、当時地中海方面の大国となりつつあったアラゴン‐カタルーニャ王国の王子フェルナンドとの婚姻を目指し、交渉を重ねて結婚に漕ぎ着けた。そのうえで、エンリケ死去を受けて、夫とともに共同国王の座に就いた。
 こうしたイサベルの行動のすべてが必ずしも自身の自主的な判断によるものとは言い切れないとしても、イサベルには若年の頃から、当時の女性としては異例の自立的な精神が備わっていたように見える。
 イサベルは、夫フェルナンドとともに先のフアナを王妃に迎えたポルトガル王アフォンソ5世の軍事介入を退けたうえで、カスティーリャとアラゴンが統合して建国された新生スペイン王国の集権体制の基盤作りを推進した。
 そのうえで、夫とともにレコンキスタの完成に向けた解放戦争も主導し、1492年、最後まで残ったイスラーム勢力グラナダ王国を破り、800年に及んだレコンキスタに終止符を打った。この功績から、時のローマ教皇アレクサンデル6世によって夫妻は「カトリック両王」の称号を授与された。
 個人的にも強固なカトリック教徒であったイサベルは、内政面でもカトリック厳格政策を敷き、数多くの異端審問やユダヤ教徒、イスラーム教徒ら異教徒の弾圧を実行する圧政者としての一面もあった。
 その一方で、イサベラは大航海者コロンブスの後援者となり、スペインの大帝国時代を準備する役割をも担った。彼女は夫フェルナンドに先立って没したが、夫妻の娘フアナもフェルナンドの没後に女王となる。しかし彼女は精神疾患にかかり、長い間女子修道院に収容される境遇に置かれた。
 その間、息子カルロス1世は共同国王として政務を主導し、「日の沈まない国」スペイン帝国を築き上げたのであった。ただ、保守的なスペインでは、フアナ女王の没後、女王は19世紀のイサベル2世に至るまで途絶える。

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「女」の世界歴史(連載第31回)

2016-06-27 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

〈序説〉
 
第Ⅰ部で見た女性にとっての長い暗黒時代は、おおむね中世と呼ばれる時代―「中世」区分がない諸国の歴史においても、近代に入る手前の段階―まで続いていく。
 しかし、ようやく16世紀頃から、まずは欧州で女権の黎明期を迎える。といっても、庶民階級レベルではなく、さしあたりは最高権力のレベルで、専制的な女性君主―女帝―が登場し始めるのである。この時代の欧州には歴史上著名な女帝が何人も輩出する。
 とはいえ、女帝はなお例外的存在であり、女帝の出現は女権全体の向上に直接の影響を何ら及ぼすものではなく、女帝は適任の男性候補が存在しない場合の代替的存在であるにすぎなかったという点では、古代国家に見られた例外女王の制度の延長とも言える。
 こうした女権=女性権力の許容を超えた、庶民階級をも含めた女性の権利としての女権の黎明は、いわゆる西洋近代が始まる18世紀末から19世紀を経て、20世紀初頭を待つ必要があった。
 この時代には、欧州で市民革命や社会主義革命などの大規模な社会革命が継起するが、そうした革命運動も多くは男性が主導していた。とはいえ、社会革命は女性の地位にも変動をもたらし、女権拡大運動も徐々に芽生えていく。
 その点、アジアでは全般に封建的な男尊女卑思想が根強く残り、近代に至っても女権の黎明は限定されていたが、日本を含む東アジアにおいては、西洋近代の波を受けた近代化革命・運動の過程で女権の黎明期を迎えている。
 こうした時代を扱う「第Ⅱ部 黎明の時代」では、まず近世帝国における女帝の出現を俯瞰した後、現代にもつながる近代化過程での女性の権利の萌芽をとらえる。
 他方、中世時代までは洋の東西を越え、両義化されながらも慣習的に許容されてきた同性愛(特に男色)に関しては、宗教道徳の近代的な再編によって、むしろ禁忌とされ、法律的にも取り締まりを受ける傾向が強まった。
 このような近代における反同性愛の反動現象は、女権の向上とは全く逆の方向性を取るものであるが、これについても、第Ⅱ部第四章の最終節で論及する予定である。

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「女」の世界歴史(連載第30回)

2016-06-15 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

⑤女性戦士ジャンヌ・ダルク
 イタリアの愛国者とも言うべきトスカーナ女伯は出自上貴族階級であったが、フランスの愛国者ジャンヌ・ダルクは農民階級から出て、しかも戦場で戦士として戦闘参加もしたという点において、例外中の例外であった。
 ジャンヌ・ダルクの父ジャックはフランス北東部ロレーヌ地方はドンレミ村の土地持ち農民にして徴税人という中農的な存在であった。そのような当時のフランスではごく普通の庶民家庭に生まれたジャンヌがどのようにして専門的な戦闘能力を体得したのかは、謎である。
 少なくとも、神秘的な「神の啓示」だけで説明が付くものではなく、おそらくジャンヌの戦闘能力については伝説的な過大評価が含まれているのかもしれない。元来、彼女は当時英仏百年戦争で窮地に陥っていたフランスの敗北を予見したある種の預言者として登場し、当時の国王シャルル7世の知遇を得た。
 戦場でのジャンヌの活躍については、様々な伝説があるが、実際の戦闘行為そのものよりも、宗教的・精神的な鼓舞の面で貢献していたものと思われる。その点では、同じような働きをしていたイスラーム教創始者ムハンマドの妻アーイシャに通ずる一面もある。
 しかし、当時の封建軍隊ではまさしく紅一点の女性戦士の立場は弱く、後の異端審問で問題とされたように、ジャンヌは男装で通していたが、これは男性兵士からの性的暴行被害を避けるための策だったと見られている。
 英仏戦争におけるフランスの最終勝利がすべてジャンヌの功績というわけではないが、彼女が参加して以降、戦局が変わり、フランス優勢に傾いたことはたしかである。この功績により、彼女と一族は貴族に列せられた。
 にもかかわらず、愛国者ジャンヌは最終的には祖国に裏切られる形になった。ジャンヌがフランス国内で激化したシャルル7世と反シャルルのブルゴーニュ派との間の内戦にシャルル派側で参加し、ブルゴーニュ派に捕らわれた時、シャルルは釈放の努力をせず、ブルゴーニュ派がかねて通じていたイングランドへ引き渡されるのを阻止できなかったからである。
 こうして敵イングランドの手に落ちたジャンヌは異端審問の結果、異端者として火刑に処せられ、短い生涯を終えた。この審問は結論先取り的なある種の茶番劇であり、イングランドに屈辱を与えた不可解なフランス人少女を見せしめにすることが狙いであった。
 ジャンヌ救出のために何もできなかったことを後悔したらしいシャルル7世は、ジャンヌの刑死後、20年以上を経て、フランスで復権裁判を支援し、彼女の名誉回復を図っている。
 ジャンヌのような事例は、後にも先にも、欧州ではもちろん、世界的に見ても稀有であり、全くの奇跡的存在であったが、それを可能としたのはフランスの亡国危機という非常事態であったのだろう。

補説:魔女狩り
 イングランドがジャンヌに課したのは被告の性別を問わない異端審問裁判であって、魔女裁判ではなかった。欧州で魔女の概念が生じたのは、ちょうどジャンヌが生きた15世紀前半頃とされるが、ジャンヌ存命中はまだ魔女狩りは本格化していなかった。
 ただ、当時の男性たちの通念からすると異例尽くめの神秘的で不可解な女性ジャンヌに対する裁判には魔女裁判的な要素もあったと言えるかもしれない。
 悪魔と契約して妖術を用い、禍をもたらす者という意味での「魔女」概念が確立し、該当者の告発と裁判が欧州で組織的に行なわれるようになったのは、続く16世紀から17世紀の時代にかけてであった。
 この時代は西洋史上、中世を過ぎ、近世に入ってきた頃であり、ルネサンスと科学的な思考が芽生え始めた時代である。そういう時代に迷信的な魔女狩りが隆盛となったのは一見不可解ではあるが、合理主義と非合理主義の共存現象自体は、「科学の時代」とされる現代でも続いていることである。
 魔女は定義上イコール女性ではなかったのだが、特に女性、中でも貧しい女性が狙われたのは、男性主導によるキリスト教会制度の確立に伴い、キリスト教における女性蔑視の思想が高まったことによるものと考えられる。
 ただし、実際の魔女狩りによる犠牲者数については、研究の進展により、従来想定されていたよりも少ない推定が主流化し、おおむね数万人であり、地域による差異も顕著であったと考えられるようになっている。また、同時代のアジアなどでは見られなかった現象である。
 とはいえ、魔女狩りは女性の暗黒時代の到達点とも言える象徴的なジェンダー弾圧事象であったが、同時に、その終息が女権にとっての近代的な黎明期の出発点ともなったのである。

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「女」の世界歴史(連載第29回)

2016-06-13 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

④トスカーナ女伯の戦い
 封建制の時代、女性が内戦に関与することは時にあったが、外戦となるとさすがに稀有である。そうした中で、イタリア北部カノッサを本拠に、神聖ローマ皇帝の侵略に抵抗したトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサは例外的な存在であった。
 彼女は今日でもイタリア北部ロンバルディアにその名を残すゲルマン系ランゴバルド人を祖とするトスカーナ辺境伯家の出身であったが、幼少期に父を暗殺により失った後、母の再婚相手ロートリンゲン公ゴドフロワ3世の息子で、後の下ロートリンゲン公ゴドフロワ4世と幼くして婚約、後に結婚した。
 当時、堕落・腐敗したローマ教皇庁の権威が失墜していたことに付け入り、実力をつけ始めたドイツ王にして神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征に乗り出していた。これに対し、イタリアの実力者だったゴドフロワ3世は抵抗し切れず、家族を捨てて本拠ロートリンゲンに逃亡した。
 その結果、マティルデは母とともにハインリヒ3世に捕らわれてしまう。その間、跡取りの兄が急死したことから、マティルデがトスカーナ伯相続人となった。間もなく、ハインリヒ3世死去に伴い釈放され、しばらく平穏な生活を送った後、義父ゴドフロワ3世の死去を受けた69年にゴドフロワ4世と正式に結婚した。
 しかし、結婚生活は幸せなものではなかった。生まれた男児をすぐに失ったばかりか、政治的にも教皇支持派のマティルデに対し、夫はハインリヒ3世を継いだ神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を支持していた。夫妻は間もなく別居状態となった。
 ゴドフロワ4世は76年に暗殺されたが、この件にマティルデ自身が関与していたという説もあるほどである。いずれにせよ、マティルデが軍権も持った強力な女性領主として台頭してくるのは、夫の暗殺後、単独の女伯として大所領を手にしてからである。
 当時のローマ教皇グレゴリウス7世は「グレゴリウス改革」として知られる一連の教会改革によって教会の権威の回復に努めつつ、父の遺志を継いでイタリア支配を図るハインリヒ4世との激しい叙任権闘争を展開していた。
 この間、マティルデは終始一貫してグレゴリウスを支持し続けた。それを象徴する事件が、1077年、ハインリヒ4世がマティルデの居城カノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世による破門措置の解除を請うため、城門で裸のまま断食と祈りを続けたという「カノッサの屈辱」であった。この件で、マティルデはグレゴリウスを庇護するとともに、赦免の仲介役も務めたとされる。
 しかし、ハインリヒ4世の謝罪はうわべだけのもので、カノッサ事件後、イタリア遠征を再開した。これに対し、マティルデは教皇派を束ねて武力抵抗した。その結果、いったんは所領の大半を喪失する敗北を喫したが、間もなく反攻に転じ、1095年頃までに皇帝軍をイタリアから撃退した。
 1111年には、ハインリヒ4世を継いだ息子のハインリヒ5世との間で和議が成立、ハインリヒはマティルデに「皇帝代理兼イタリア副王」の称号を授与した。これによって、マティルデにイタリアの実質的な最高実力者の地位が認められたのであった。
 こうして生涯を教皇防衛戦争に捧げたマティルデは1115年、相続人なくして死去した。その結果、彼女の遺産の所領は教皇領と皇帝領とに分割されたうえ、諸都市は自治都市として事実上独立し、後のルネサンス諸都市へとつながっていく。
 さらに、マティルデ死後の1122年には、長年にわたった叙任権闘争に終止符を打つ「ヴォルムス協約」が成立し、曖昧さを残しながらも、叙任権は教会に留保され、皇帝は俗権のみ掌握するという一種の政教分離原則が確立されたのである。

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「女」の世界歴史(連載第28回)

2016-06-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

③戦国日本の女性城主たち
 封建的な社会体制において、どこよりも激しい内戦状態を経験した日本の戦国時代にあっても、女性城主として主体的に内戦に関与する者たちがいた。おそらく記録に残らない例まで含めればかなりあると見られるが、ここでは記録されている著名な例をやや箇条的に見てみる。
 まず最も初期の例として、赤松政則の後室だった洞松院がある。彼女は室町時代守護大名で、管領として強大な権力を持った細川勝元の娘で、弟の政元の差配により尼僧から還俗して、嘉吉の乱で一度没落した播磨守護大名赤松氏を中興した赤松政則に嫁いだ。
 しかし、男子を産めず、年少の娘婿赤松義村の後見人として、事実上の城主格となる。以後、洞松院は20年以上にわたり、自ら文書を発給し、単なる城主を越えた女性戦国大名として自他共に認めていたようである。
 だが、成長した義村と対立し、家臣の浦上氏と組んで義村を暗殺した。このような策動は、洞松院の没後、浦上氏に下克上され、赤松氏が衰亡する要因を作った。
 次いで、織田信長台頭期になると、信長の叔母でもあったおつやの方がいる。彼女は、武田、織田両氏に両属する美濃の中小国人領主である岩村遠山氏に嫁いだが、子どもを残さなかった夫の死後、信長庶子勝長を養子とし、後見役として事実上の岩村城主となる。
 彼女は、当時勢力争いをしていた武田信玄と自身の甥信長との間に入って、微妙なバランスを維持した。しかし、武田方から攻め込まれると、信長を裏切って武田方武将と再婚したことから、信長に岩村城を落とされた際、残酷に処刑される運命をたどった。
 おつやの方の同時代には、今川氏親正室の寿桂尼も活躍した。彼女は公家出身ながら、夫の死後、二人の息子氏輝、義元、さらに孫の氏真の各代にわたって後見役として実権を保持し、女性戦国大名とみなされていた。
 彼女は特に行政的な手腕に優れていたようで、夫が病床にあった頃から、今川氏家政を指導し、息子義元の時代を頂点とする今川氏の全盛期を演出した。それは外交上、武田氏との連合関係によって保証されていたが、寿桂尼の没後は武田氏との関係が断絶、孫の氏真の失政などもあり、武田‐徳川氏の侵攻を受けて没落することとなった。
 もう一人の同時代人に、遠江発祥の国人領主井伊氏の女性当主井伊直虎がいる。彼女に関する史料は乏しいものの、宗家が今川氏の攻勢により存亡危機にあった時、一度は出家した身から還俗し、男性名直虎を名乗って、当主となったとされる。
 直虎は「女地頭」の異名をとるほど、領国経営で手腕を発揮するとともに、今川、武田の両雄の狭間にあって、何度も本拠井伊谷城を奪われながら、そのつど奪回・復権してみせた。彼女は、当時台頭していた徳川家康と結ぶ先見の明もあったことから、井伊氏は弱小ながら徳川譜代に昇進し、近世には彦根藩を領する譜代大名筆頭に列した。
 以上の例は、いずれも当主幼少等の事情から家系継続のため中継ぎ的に登場した女性城主たちであったが、九州の有力武将家立花氏のぎん千代は7歳にして正式に立花家女性当主となった稀有の例である。当時の立花氏は九州の有力大名大友氏の配下の城督という方面司令的立場にあった。
 ぎん千代は動乱状態の九州にあって、自ら女性軍団を組織したと言われるほど、戦士的な性格もあったようである。彼女は短命ながら、立花氏を主家大友氏から独立させるうえで貢献した。不仲だった婿養子の夫宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につきながら赦免され、旧領で復権した唯一の大名となり、立花氏は近世柳河藩の大大名に栄進した。
 こうした女性城主の最後を飾るのは、豊臣秀吉側室の淀殿である。よく知られているように、浅井氏から秀吉に「保護」されて側室となった彼女は、秀吉死後、実子秀頼の後見役として、事実上の大坂城主格となる。彼女の生は徳川時代初期にまでまたがるが、形としては、戦国時代型の女性城主である。
 淀殿の政治手腕については賛否があるが、少なくとも、権力を確立しつつあった徳川氏に対して挑発的な姿勢を貫いたことは、幕府の豊臣討伐を早める契機となったであろう。
 その点では、城主ではなかったが―晩年を過ごした京都新城の城主と見る余地はある―、秀吉正室の高台院が交渉力に長け、豊臣家滅亡後も徳川氏から丁重に遇され、兄と甥は秀吉から与えられた木下姓のままそれぞれ西日本の小大名として存続を許されたのとは対照的である。

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