第二章 女性の暗黒時代
(3)封建制と女の戦争
②英国王妃たちの内戦〈2〉
フランス北西部の封建領主として大所領を持ったアンジュー伯ヘンリー2世によって開かれたプランタジネット朝の王妃には必然的にフランス出身者が多い。その中でも、政治的な野心をもって内戦に深く関与した二人に焦点を当ててみたい。
一人目は、プランタジネット朝第6代エドワード2世のイザベラ王妃である。彼女はイザベラ・オブ・フランスとも呼ばれるように、フランス王女の出身である。夫のエドワードとは政略的な幼児婚の形で英国王室に嫁いだ。
エドワードは寵臣政治の権化であり、諸侯との対立が絶えず、政情は不安定であった。当初は夫を支持していた王妃であるが、次第にフランス王室とのパイプを通じて自身の派閥を形成し始めた王妃とエドワードは対立するようになる。
特にディスペンサー父子が寵臣として権勢を持つと、これに反発した諸侯、特にウェールズ辺境領主との対立が内戦に発展した。その反国王派中心人物が、ウェールズ辺境領主ロジャー・モーティマーであった。
モーティマーはいったんは敗れて投獄されるが、間もなく脱獄し、フランスへ亡命した。彼はその地に外交行事出席のため滞在していたイザベラ王妃と愛人関係となり、両人は共謀してエドワード打倒計画を立て、1326年、イングランドに侵攻、エドワードを捕らえ廃位したうえ、ディスペンサー父子を処刑した。
こうしてイザベラ王妃は息子エドワード3世の摂政として、愛人モーティマーとともに政治の実権を握った。だが、その親仏的な政治は不評を買い、1330年、親政を開始したエドワード3世はモーティマーを拘束・処刑したうえ、母のイザベラ王太后を長い引退生活に追い込んだ。
こうしてイザベラの天下は短期で終わり、愛人とともに国政を壟断した彼女は「悪女」として名を残すことになったが、実際のイザベラは政治手腕と知性を持った人物だったと見られている。
ちなみに、夫のエドワードには同(両)性愛者との風評があり、初期の寵臣ピアーズ・ギャヴェストンをはじめ何人かの寵臣と愛人関係にあったとされるが、明確な証拠はなく、寵臣政治を批判する勢力によるプロパガンダとの見方もある。
ところで、エドワードとイザベラの息子エドワード3世は、イザベラ‐モーティマー政権とは逆に、形式上は宗主であるフランスに対して、戦争を起こした。いわゆる「英仏百年戦争」である。
この戦争はエドワード3世がフランス王に対して立てた臣従誓約を発端とする実質的な対外戦争であったが、フランス貴族出身のエドワード3世妃フィリッパ・オブ・エノーは戦争に従軍し、かつ夫が親征中の摂政としても力を発揮した。
フィリッパの事績として注目すべきは、摂政として経済政策にも注力し、フランドルから毛織物技術を導入したり、石炭採掘を奨励するなどして、遅れていた英国の産業基盤を強化したことである。彼女は、姑のイザベラとは異なる親英的な定見を持った女性政治家と呼び得る人物であった。
百年戦争が最終的にフランスの勝利で終結した後、ヘンリー6世の時代にも、強力な王妃が現れた。マーガレット・オブ・アンジューとも呼ばれるマーガレット王妃は、アンジュー家傍流の出身で、百年戦争の講和の象徴としてヘンリーに嫁いできた。その時期の英国は、プランタジネット朝傍流から出たランカスター朝の時代であったが、これに対抗するヨーク家が争ういわゆる「ばら戦争」前夜に当たった。
そうした中、精神疾患を抱えていたと見られるヘンリー6世が王として機能しないため、代わってマーガレット王妃が実権を持つようになった。内戦中の王妃は、自ら戦争指揮を執り、ランカスター派の党首にして実質的な軍司令官であった。
ばら戦争の複雑な経緯はここでの論外であるので、省略するが、一進一退を繰り返した内戦は、1471年、テュークスベリーの戦いでヨーク派が勝利し、ヨーク朝が成立したことでいったん決着する。
マーガレットは捕らえられるが、フランスからの身代金の支払によって故国に帰国し、1482年に没した。その3年後、再びランカスター派が反攻に出てヨーク朝を打倒した出来事を目撃することはなかった。
補説:エドワード2世と性的指向
エドワード2世と寵臣との関係が同性愛関係だったかどうかはそれ自体が政治的な論争点である。エドワードはイザベラ王妃との間に四人の子女をもうけているので、少なくとも純粋の同性愛者でなかったことはたしかである。
イザベラと愛人モーティマーの策謀で廃位されたエドワードは幽閉後間もなく死去しているが、秘密裏に処刑されたという説も有力である。その際、エドワードは熱した鉄棒を肛門に挿入するという残酷な処刑法で絶命せられたというが、これは男色者に対する中世の処刑法の一つであった。男性間の性愛では肛門性交の形態が選好されることへの見せしめであろうか。
しかし、果たしてエドワードが処刑されたかどうかを含め確証はなく、後世の作話の可能性も否定できない。ただ、エドワード2世の歴史的評価は低く、英国史上最低の国王と評されることもたしかであるが、それに絡めて王の同性愛習慣を示唆するのは、今日的には適切ではないだろう。