ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第27回)

2016-06-01 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

②英国王妃たちの内戦〈2〉
 フランス北西部の封建領主として大所領を持ったアンジュー伯ヘンリー2世によって開かれたプランタジネット朝の王妃には必然的にフランス出身者が多い。その中でも、政治的な野心をもって内戦に深く関与した二人に焦点を当ててみたい。
 一人目は、プランタジネット朝第6代エドワード2世のイザベラ王妃である。彼女はイザベラ・オブ・フランスとも呼ばれるように、フランス王女の出身である。夫のエドワードとは政略的な幼児婚の形で英国王室に嫁いだ。
 エドワードは寵臣政治の権化であり、諸侯との対立が絶えず、政情は不安定であった。当初は夫を支持していた王妃であるが、次第にフランス王室とのパイプを通じて自身の派閥を形成し始めた王妃とエドワードは対立するようになる。 
 特にディスペンサー父子が寵臣として権勢を持つと、これに反発した諸侯、特にウェールズ辺境領主との対立が内戦に発展した。その反国王派中心人物が、ウェールズ辺境領主ロジャー・モーティマーであった。
 モーティマーはいったんは敗れて投獄されるが、間もなく脱獄し、フランスへ亡命した。彼はその地に外交行事出席のため滞在していたイザベラ王妃と愛人関係となり、両人は共謀してエドワード打倒計画を立て、1326年、イングランドに侵攻、エドワードを捕らえ廃位したうえ、ディスペンサー父子を処刑した。
 こうしてイザベラ王妃は息子エドワード3世の摂政として、愛人モーティマーとともに政治の実権を握った。だが、その親仏的な政治は不評を買い、1330年、親政を開始したエドワード3世はモーティマーを拘束・処刑したうえ、母のイザベラ王太后を長い引退生活に追い込んだ。
 こうしてイザベラの天下は短期で終わり、愛人とともに国政を壟断した彼女は「悪女」として名を残すことになったが、実際のイザベラは政治手腕と知性を持った人物だったと見られている。
 ちなみに、夫のエドワードには同(両)性愛者との風評があり、初期の寵臣ピアーズ・ギャヴェストンをはじめ何人かの寵臣と愛人関係にあったとされるが、明確な証拠はなく、寵臣政治を批判する勢力によるプロパガンダとの見方もある。 
 ところで、エドワードとイザベラの息子エドワード3世は、イザベラ‐モーティマー政権とは逆に、形式上は宗主であるフランスに対して、戦争を起こした。いわゆる「英仏百年戦争」である。
 この戦争はエドワード3世がフランス王に対して立てた臣従誓約を発端とする実質的な対外戦争であったが、フランス貴族出身のエドワード3世妃フィリッパ・オブ・エノーは戦争に従軍し、かつ夫が親征中の摂政としても力を発揮した。
 フィリッパの事績として注目すべきは、摂政として経済政策にも注力し、フランドルから毛織物技術を導入したり、石炭採掘を奨励するなどして、遅れていた英国の産業基盤を強化したことである。彼女は、姑のイザベラとは異なる親英的な定見を持った女性政治家と呼び得る人物であった。
 百年戦争が最終的にフランスの勝利で終結した後、ヘンリー6世の時代にも、強力な王妃が現れた。マーガレット・オブ・アンジューとも呼ばれるマーガレット王妃は、アンジュー家傍流の出身で、百年戦争の講和の象徴としてヘンリーに嫁いできた。その時期の英国は、プランタジネット朝傍流から出たランカスター朝の時代であったが、これに対抗するヨーク家が争ういわゆる「ばら戦争」前夜に当たった。
 そうした中、精神疾患を抱えていたと見られるヘンリー6世が王として機能しないため、代わってマーガレット王妃が実権を持つようになった。内戦中の王妃は、自ら戦争指揮を執り、ランカスター派の党首にして実質的な軍司令官であった。
 ばら戦争の複雑な経緯はここでの論外であるので、省略するが、一進一退を繰り返した内戦は、1471年、テュークスベリーの戦いでヨーク派が勝利し、ヨーク朝が成立したことでいったん決着する。
 マーガレットは捕らえられるが、フランスからの身代金の支払によって故国に帰国し、1482年に没した。その3年後、再びランカスター派が反攻に出てヨーク朝を打倒した出来事を目撃することはなかった。

補説:エドワード2世と性的指向
 エドワード2世と寵臣との関係が同性愛関係だったかどうかはそれ自体が政治的な論争点である。エドワードはイザベラ王妃との間に四人の子女をもうけているので、少なくとも純粋の同性愛者でなかったことはたしかである。
 イザベラと愛人モーティマーの策謀で廃位されたエドワードは幽閉後間もなく死去しているが、秘密裏に処刑されたという説も有力である。その際、エドワードは熱した鉄棒を肛門に挿入するという残酷な処刑法で絶命せられたというが、これは男色者に対する中世の処刑法の一つであった。男性間の性愛では肛門性交の形態が選好されることへの見せしめであろうか。
 しかし、果たしてエドワードが処刑されたかどうかを含め確証はなく、後世の作話の可能性も否定できない。ただ、エドワード2世の歴史的評価は低く、英国史上最低の国王と評されることもたしかであるが、それに絡めて王の同性愛習慣を示唆するのは、今日的には適切ではないだろう。

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「女」の世界歴史(連載第26回)

2016-05-30 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

①英国王妃たちの内戦〈1〉
 封建制とは、一面では戦士が主導する恒常的または断続的な内戦状態の社会であった。戦士は専ら男性の社会的役割であるから、必然的に戦士社会は男性主導社会である。そういう中にあっても、一部の女性たちは、自ら戦士となることは稀だったとはいえ、内戦に主体的に関与することがあった。
 そのような事例は、中世イングランドでしばしば見られる。ここでは多くの場合、夫である国王が弱体な状況下で、王妃が内戦当事者として前面に出てきていた。その最初の例は、ノルマン朝三代目ヘンリー1世没後の後継問題をめぐって出現する。
 ヘンリー1世にはウィリアム王太子がいたが、彼が船舶事故で急死したため、もう一人の嫡子で、元神聖ローマ皇后である娘マティルダ(以下、愛称でモードという)を後継指名したのであった。彼女がそのまますんなり即位していれば、英国史上初の女王となったはずであるが、そうはならなかった。ヘンリーの甥で、モードの従兄に当たるブロワ伯エティエンヌ(スティーブン)が介入して自ら即位したからである。
 スティーブンは従前、モードの即位に同意していたにもかかわらず、事後に翻意した王位簒奪者であった。モード側はこれを不当として、スティーブン政権に武力抵抗したことで、20年近く続く長期の内戦に突入した。
 スティーブン体制は諸侯や教会の支持に基盤があったため、不安定であった。その隙を突いてマティルダ側は1139年にイングランド上陸を果たし、41年にはいったんスティーブンを捕虜とすることに成功したが、ロンドン市民からは支持されず、ロンドン入城は果たせなかった。これを見て立ち上がったのが、マティルダ王妃である。
 英語名では敵首領のモードと同名の彼女は42年、自ら軍を率いて反攻に出た。王妃は事実上の軍司令官として、モード側のロンドン包囲陣を撃破して、モード軍の司令官だったグロスター伯ロバート(ヘンリー1世の婚外子)を捕虜にし、スティーブンと交換の形で夫を救出してみせた。こうしてスティーブンの復位には成功したものの、モード側の抵抗は続き、内戦そのものはマティルダ王妃没後の1154年まで延々と続くこととなった。
 しかし51年にモードが再婚相手で内戦中の後ろ盾でもあったアンジュー伯ジョフロワを失い、スティーブンも53年に長男ユースタスを失ったことで転機が訪れた。スティーブンとモード側の間で協定が成立し、モードとアンジュー伯の間の息子アンリを後継王に内定することで、内戦は終結したのである。
 こうして1154年、アンリがヘンリー2世として即位し、フランス系のプランタジネット朝が新たに開かれた。血統上はモードの子孫が以後の歴代英国王となっていったという限りでは、元神聖ローマ皇后マティルダvsイングランド王妃マティルダの対決は、前者の勝利に帰したと言えるかもしれない。

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「女」の世界歴史(連載第25回)

2016-05-17 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

⑤朝鮮王朝の女性権勢家たち
 14世紀末に成立した朝鮮王朝は仏教を排し、儒教を国教・国学に据えたことから、以後の朝鮮では女権は著しく制約され、女性の政治関与は本来タブーであった。しかし、王朝存続を保証するため、前国王の后(通常は現国王の生母)が大妃として年少の国王を後見して実権を握る中国的な垂簾聴政が15世紀後半以降、慣習化された。
 こうした垂簾聴政は臨時的とはいえ、事実上の公式的な制度であったため、垂簾聴政を取る大妃は女傑というより正式の摂政に近い存在であったが、これとは別に、正式の地位を持たずに政治介入を企てた女傑も存在する。しかし、こうしたタブー破りの女傑の政治介入はたいてい悪政を結果したため、これらの女傑は「悪女」視されることが多い。
 その典型例として、15世紀末に出た張緑水がいる。妓生出身の彼女は第10代燕山君の側室として王の寵愛を独占し、宮中で権勢を持つようになり、身内を栄進させる縁故政治を展開したほか、暴君と評された夫の燕山君に勝るとも劣らぬ横暴な振る舞いを見せた。結果として、燕山君が廃された宮廷クーデター(中宗反正)により、処刑された。
 次いで、16世紀中ばには、弱体な歴代王の下で女性が政治を主導した「女人天下」と呼ばれる女性政治の時代が現われるが、その中心人物が鄭蘭貞である。彼女は第11代中宗の外戚尹氏の妻として中宗晩年から夫とともに国政に介入し、中宗没後に垂簾聴政を行なった尹氏出身の文定王后の側近として権勢を誇ったが、王后の没後、親政を試みた第13代明宗の改革策により追放・問責され、自殺に追い込まれた。
 16世紀前半には朝鮮王朝史上燕山君と並び、廟号・諡号を与えられない暴君とみなされてきた第15代光海君の女官となった金介屎(金尚宮)が知られる。詳しい出自や半生も不明だが、金尚宮は光海君の父である第14代宣祖の寵愛を受け、光海君の即位に尽力し、その後も、光海君のライバルだった異母弟永昌大君の処刑にも関与したと言われる。
 しかし、光海君が廃された宮廷クーデター(仁祖反正)により、追放・処刑された。金尚宮も前代の張緑水と同様の運命をたどったわけだが、今日では光海君の治世が再評価されつつあるのに対応し、その治世を後宮から支えた金尚宮についても再評価がなされる可能性はある。
 しばしば通俗的に、張緑水、鄭蘭貞と並ぶ「朝鮮三大悪女」に数えられるのが、第19代粛宗の後宮で、一時は王后でもあった張禧嬪である。彼女は、中人と呼ばれる中産階級の出自から女官となり、やがて最高位の側室たる嬪に昇格する。
 彼女は粛宗時代に激化していた宮中での西人派と南人派の二大党争に絡み、南人派の党首に押し上げられ、世子を産めなかった西人派の仁顕王后を廃位し、自ら継妃に納まる策動を展開した。だが、南人派の増長を懸念した王自身の介入により、廃位され、最終的には仁顕王后の死を呪詛したとする罪で処刑された。
 野心的な策動家ではあるが悲劇的な刑死を遂げた張禧嬪は朝鮮支配階級の両班より低い階層に出自した朝鮮王朝史上唯一の王妃となり、世子で後の第20代景宗を産むという異例の栄進でも注目されてきた人物でもある。
 張禧嬪を最後に、朝鮮史上女傑と目される女性権勢家は輩出されなくなる。おそらく粛宗以降、短命に終わった景宗をはさみ、もう一人の息子(景宗異母弟)である第21代英祖、英祖の孫に当たる第22代正祖と強力な王による長期安定治世が18世紀を通じて続き、女傑の政治介入の余地が封じられたためであろう。

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「女」の世界歴史(連載第24回)

2016-05-16 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

④武家政権の女性権勢家たち
 日本型封建主義が支配した武家政権時代は、女性にとっては男尊女卑社会を生きた暗黒時代とくくることもできるが、全体として600年以上の長きにわたったこの時代の女権のあり方には変遷が見られ、その節目ごとに象徴的な女傑が現われている。
 そもそも武家政権時代を拓いた鎌倉幕府の最初期には、女性も幕府から所領を安堵され、女性地頭が存在していたことが知られている。記録に残る代表例としては、主として下野国寒川を安堵された寒川尼がいる。彼女は下野最大の武士団であった小山氏の妻として、源頼朝が反平氏で挙兵するに際し、小山氏を源氏方に付かせるに当たり重要な役割を果たした功績の恩賞として、夫とは別途地頭としての地位を与えられたものと見られている。
 しかし、鎌倉時代初期における最大級の女傑は、何と言っても頼朝の正室北条政子である。彼女は伊豆で流刑中の頼朝の監視役だった北条時政の息女で、頼朝側近に寝返って鎌倉幕府樹立に貢献した父とともに初期の幕府体制を支えた。
 政子は「尼将軍」の異名を取ったが、これは自身の息子でもある第2代頼家、第3代実朝の両将軍が相次いで暗殺された後、京都から迎えた最初の摂家将軍藤原頼経の後見役として、実権を握ったからである。しかし、政子はあくまでも例外者であり、北条氏執権による幕府の体制が固まると、女傑の政治介入も見られなくなる。
 続く室町時代に入ると、室町将軍家の外戚として有力化していた公家の日野家出身の日野富子が出る。彼女は第8代将軍足利義政正室及び息子の第9代義尚生母として幕府の実権を握り、特に義尚が生前譲位によって将軍に就いてからは、まさにかつての北条政子のように幕府の実権を握るとともに、地位を悪用した蓄財にも執心し、ある種の窃盗政治(クレプトクラシー)の象徴ともなった。
 室町時代後半期に始まる戦国時代になると、武将の正妻は夫の出征中、家中を預かる代行者を務めることが多くなるが、そうした中でも最大級の女傑は、豊臣秀吉の正室高台院(ねね)である。彼女はマイナーながら武家(杉原氏)の子女であり、出自身分の低かった夫の引き立て役でもあった。
 秀吉が関白に昇進すると、北政所の称号を与えられた高台院は、朝廷との交渉役となり、黒印状の発給権も持つなど、政治行政的に相当の実権を夫と分有していたと見られる。前代の政子や富子とは異なり、世子を産めなかったにもかかわらず権勢を保ったのは、実力主義的な秀吉治世にふさわしく、彼女の実質的な能力によるところが大きかったと見られる。
 しかし、こうした女傑も男尊女卑思想が強まった近世には、姿を消す。日本の封建時代最後の女傑と言えるのは、徳川第3代将軍家光の乳母として権勢を持った春日局であると思われる。美濃の大名斎藤氏の出である彼女(本名斎藤福)は家光の将軍就任により、将軍様御局という地位を与えられ、徳川将軍家の言わばハレムである大奥制度の整備を主導した。
 これにより、将軍家の女性たちは大奥にまとめられ、表の政治からは遠ざけられることになった。春日局自身は表の政治にも関わり、家光との個人的なパイプを生かして老中を上回ると言われるほどの権勢を持ったが、以後、彼女のような女傑は見られなくなる。
 とはいえ、大奥は完全に政治的無力化されることはなく、時に集団的な政治力を発揮することがあった。ここでは立ち入らないが、幕府にとって最初の存続危機とも言える第7代将軍家継夭折時や幕末の体制動揺期には大奥も大いに政治的な影響力を行使したのである。

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「女」の世界歴史(連載第23回)

2016-05-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

③オスマン帝国の「女人政治」
 16世紀以降、イスラーム世界の覇者となったオスマン帝国では、女性スルタンこそ輩出されなかったものの、16世紀から17世紀にかけて、スルタンの夫人や生母が権勢を持つ「女人政治」の時代が出現した。
 それは、この時期、後見役を必要とする若年の弱体なスルタンが続いたこともあるが、そればかりでなく、女性たちがその権力基盤としたハレムが、帝国の領域拡大に伴い大規模化していたこともあると考えられる。
 オスマン帝国のハレムは、人身売買によって帝国版図・勢力圏の東欧・カフカース地域から連行されてきた女性奴隷たちが一定の教養を授けられた後、侍女として入職し、やがてその一部がスルタンの寵姫に抜擢される仕組みであった。
 そのため、彼女らの多くは人種的に白人コーカソイドであり、スルタンの寵姫となって子女を産むことで、オスマン家が本来のモンゴロイド系からコーカソイド化され、ひいてはトルコをヨーロッパ化させていく触媒的な役割をも担っていた。
 オスマン帝国の手が届く東欧・カフカース地域の女性たちにとっては、いつ帝国に捕らわれ、奴隷化されるかわからない恐怖と隣り合わせであったと同時に、幸運に恵まれれば、ハレムからスルタンの寵姫に栄進する階級上昇のチャンスもあった。
 とはいえ、スルタンの寵愛を得ても、彼女らは奴隷身分のままで、スルタンの正式な妃となることはできなかった。そうした状況を変えたのは、オスマン帝国全盛期を築いたスレイマン1世の第一夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)である。
 ヒュッレムはポーランド出身のスラブ系出自と言われ、やはり奴隷として売られてきた一人である。彼女は慣例を破って、スルタンの正式な夫人の地位を得ることに成功し、スルタンとの間に五男一女をもうけ、その寵愛を独占した。同時に、これも慣例を破り、スルタンを補佐して政治に介入した。そのため、ヒュッレムをもって「女人政治」の創始者とみなすことが多い。
 また大宰相に嫁いだ彼女の娘ミフリマーも、母とともに政治に関与したと見られる。母娘はスレイマン1世の後継問題でも暗躍し、ヒュッレムの息子たちの中から次期スルタンを出すように画策、別の妃が産んだ最年長の王子を処刑させることにも成功した。その結果、後継者となったのが三男のセリム2世であった。
 しかし、セリムは政務に無関心・無能であったため、政治の実権はセリム2世の寵愛を受けて後継者のムラト3世を産み、ヴァリデ・スルタン(母太后)の称号を得て摂政となったヌールバヌの手に委ねられた。彼女はエーゲ海のパロス島を領したヴェネツィア貴族の出と言われ(異説あり)、やはりオスマン帝国に捕らわれ、ハレムに売られてきた。
 彼女は祖国と目されるヴェネツィアとの友好関係を重視し、一貫して親ヴェネツィアの外交路線を取った。また同時代フランスの女性実権者カトリーヌ・ド・メディシスと通信し合っているのも、同じイタリア出身者の好だったかもしれない。
 ムラト3世時代には、ヌールバーヌと同じヴェネツィア貴族の縁戚と思われるサフィエがヴァリデ・スルタンとして権勢を誇った。サフィエの後も、嫁のハンダン・スルタン、その嫁キョセム・スルタン、さらにその嫁トゥルハン・スルタンと実に四代にわたり、姑嫁関係にあるヴァリデ・スルタンによる女人政治が続いた。
 わけてもオスマン帝国における「女人政治」の頂点を極めたのは、義母のキョセムと権力闘争を繰り広げた末に彼女を暗殺し、メフメト4世の母后として1651年から65年まで摂政として実権を持ったトゥルハンである。
 彼女はウクライナ人またはロシア人と目され、ハレム入りした経緯は先行者たちと大差ない。しかし、彼女は息子のメフメト4世から正式に共同統治者として認められ、事実上はオスマン帝国史上唯一の女王(女性スルタン)とも言うべき権力を持った点で、先行者たちを上回っていた。とはいえ、為政者としての彼女の能力はその権力の大きさには見合っていなかった。
 トゥルハンの時代は、クレタ島の領有をめぐるヴェネツィアとの20年以上に及ぶ戦争に直面していた。最終的にオスマン帝国は勝利するものの、多額の戦費から財政問題も生じていた。そうした中、1656年にアルバニア系キョプリュリュ家のキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就任すると、トゥルハンは事実上の権力移譲と引退を余儀なくされた。
 オスマン帝国における「女人政治」は制度的なものではなく、慣習的なものであるので、それがいつ終焉したか明言することは困難だが、トゥルハン以降、ヴァリデ・スルタンの権勢は低下していく。
 元来、女権忌避的なイスラーム社会では、女性の政治関与は好感されておらず、先のヒュッレム・スルタンなどは「ロシアの魔女」呼ばわりされたことすらあった。また「女人政治」の時代には、ハレムが権力闘争の場と化し、当事者の不審死も相次ぐなど、政情不安のもとともなったのである。
 一方で、オスマン帝国の全盛期にヨーロッパ出身のハレム出身女性たちが巨大化した帝国の政治外交を管理し得たことは、当時の歴代男性スルタンたちの無力さを考え合わせると、帝国の持続性を確保するうえで鍵となっていたとも言えるだろう。

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「女」の世界歴史(連載第22回)

2016-05-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

②二人のメディシス女傑
 サリカ法の解釈により女王が輩出せず、かつヨーロッパ封建制の中心地でもあった中世のフランスでは女傑も容易に出現しなかったが、中世末期から近世前期にかけて、王に匹敵する権力を行使した女傑が出た。
 その一人はヴァロワ朝末期のアンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシス、もう一人はヴァロワ朝に続くブルボン朝の初代アンリ4世妃マリー・ド・メディシスである。その名のとおり、共にメディシス、すなわちイタリアのメディチ家出身のイタリア人であった。このようにフランスにおける二大女傑が共にイタリア出身者であったことは、イタリアの比較的な自由な気風を考えると、必ずしも偶然とは言い切れないかもしれない。
 最初のカトリーヌはフィレンツェの統領ロレンツォ2世の娘で、両親を早くに亡くして孤児となった後、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世とフランス王室の間の取り決めにより、14歳でアンリ王子に嫁いだ。名門とはいえ、商人出自のメディチ家の息女が王室に嫁ぐのは、異例の階級上昇であった。
 兄の急死を受けて王太子に昇格し、やがて国王に即位したアンリはしかし、イタリア人の王妃を「出産機械」としか見ておらず、10人もの子女を作るも、その愛情は専ら愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに向けられていた。このディアーヌはアンリより20歳も年長のフランス貴族女性で、アンリの家庭教師として王子時代から仕えるうちに愛人関係に発展していたのだった。彼女は知的で、王となったアンリにしばしば政治的な助言をし、公文書に共同署名するほどの実力を持つ女傑的人物でもあった。
 カトリーヌが実権を握るのは、アンリが馬上試合での負傷がもとで死去した後、ディアーヌを宮廷から追放してからのことである。その後は、相次いで王位に就いたフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世という三人の息子たちを後見する形で、カトリーヌの天下となった。
 ただ、カトリーヌの時代は、宗教改革の波が保守的なカトリック国であったフランスにも押し寄せ、新旧両教派の対立が激化する中、その対応に追われる日々であった。そうした状況で起きたのが、多数の新教徒ユグノー派が全土で殺戮された1572年のサン・バルテルミ虐殺事件である。
 新旧融和の観点からカトリーヌがセットしたユグノー派盟主ブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)と自身の娘マルグリットの政略婚を引き金として発生したこの事件に対するカトリーヌの関与については、議論の余地があるが、事件を予期しながら止めなかった責任は免れないと考えられている。
 この事件の結果、カトリーヌは冷酷な女独裁者として後世に悪名を残すこととなったが、一方ではメディチ家出身者らしく、人文主義的な素養を持った芸術の擁護者という一面も備えていた。
 晩年のカトリーヌは、お気に入りの息子ながら、新教に傾斜気味だったアンリ3世の下で勃発したカトリック強硬派とユグノー派を絡めた三つ巴の内乱を制御することができないまま、没した。
 彼女の死から間もなく、継嗣のなかったアンリ3世も暗殺され、ヴァロワ朝は断絶する。新たな王朝を開いたのは、カトリックに改宗した遠縁ブルボン家のアンリ4世である。この時、マルグリットと離婚したアンリの継妃として嫁いだのが、やはりメディチ家出身のマリー・ド・メディシスであった。彼女はメディチ家傍流トスカーナ大公家の出身だったが、成立したばかりのブルボン朝にとっては巨額の持参金が目当ての政略婚であった。
 アンリは女色家で、マリーを放置して浮気に走ったため、彼女は孤独な宮廷生活を送っていたが、アンリが1610年に暗殺され、幼年の息子ルイ13世が即位すると、マリーは摂政として政治の実権を握った。
 しかし、アンリ4世からもその明敏さを認められたカトリーヌとは異なり、マリーは政治的な手腕に欠け、硬直した側近政治に走り、アンリ4世が出した宗教寛容令(ナント勅令)に基づく国内の安定を守り切れなかった。
 1617年、成長した息子ルイ13世の手で排除、幽閉されるが、脱出後、反乱に失敗してからは、ルイの宮廷でマリーに代わって実権を握るようになったリシュリュー枢機卿との政争を繰り広げた。しかし、結局、老獪なリシュリューには勝てず、フランスを追放され、42年にケルンで客死した。
 かくして、メディチ家出身の遠縁関係にあったカトリーヌとマリーは、フランスが国内における新旧両教派の対立であるユグノー戦争を経て、新旧両教派の国際戦争三十年戦争に巻き込まれ、男性王権が揺らいだ困難な時期に輩出された例外的な女傑であったと言えよう。

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「女」の世界歴史(連載第21回)

2016-05-02 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

①娼婦マロツィアと聖女オリガ
 女権が体系的に抑圧された女性の暗黒時代にあっても、非公式な立場から政治介入を試みる例外女性権力者―女傑―は存在していた。ヨーロッパでは共に10世紀前半、封建制が弱く、比較的自由なイタリアと独自的な封建制が確立される前のロシア(キエフ大公国)で、そうした事例が見られた。
 
 まず10世紀前半のローマでは、テオドラとマロツィアの母娘が約30年にわたり権勢を張り、教皇の選出まで左右した。この時期のローマ政治は娼婦が政治を支配したという趣意で、しばしば「ポルノクラシー」(娼婦政治)とも呼ばれる。
 しかし、テオドラとマロツィアの母娘は決して本来の意味での娼婦ではなく、共に女元老の称号を持ち、当時のローマで最有力なトゥスクルム伯家の貴族女性であった。母娘は共にその美貌と資産を利用して、男性政治家や教皇をも操り、事実上ローマ政治を壟断し、混乱と腐敗を引き起こしたことから、後世批判を込めて「娼婦政治」と称されたものであろう。
 特に娘のマロツィアは母テオドラの画策により教皇セルギウス3世の愛人におさまり、婚外子として後の教皇ヨハネス11世を産んだとされる。彼女は、最初の夫と死別した後、再婚に異を唱えた時の教皇ヨハネス10世―テオドラと愛人関係にあったとされる―を捕らえ、獄死させたうえ、息子のヨハネス11世を擁立して教皇庁をも支配した。
 しかし、このようなマロツィアの専制は、最初の結婚で産まれたもう一人の息子アルベリーコ2世によって終止符が打たれた。彼は932年、クーデターにより母とその三番目の夫を追放し、息子の手で投獄されたマロツィアは数年後に獄死した。
 こうして「娼婦政治」は終焉するが、アルベリーコ2世は20年近くローマを支配し、その息子でマロツィアの孫に当たるヨハネス12世も後に教皇となるため、テオドラとマロツィアの血統的な流れはヨハネス12世が自ら授冠した初代神聖ローマ皇帝オットー1世によって廃位された963年まで続いたとも言える。
 
 ローマの女傑政治はたしかに悪政であったが、10世紀前半のロシアではキエフ大公妃オリガの善政が現われた。オリガはロシアの母体となるキエフ大公国の2代大公イーゴリ1世の妃であったが、夫が945年に暗殺された後、幼少の息子スヴャトスラフ1世の後見役として実権を握る。そのため、彼女は「摂政」とも称されるが、大公国初期に摂政の制度が公式に存在していたかは疑わしく、大公生母としての非公式な政治関与と思われる。
 いずれにせよ、オリガはまず夫の暗殺に関わったスラブ系ドレヴリャーネ族に民族浄化的な徹底した報復を断行し、これを服属させた。そのうえで税制改革を行い、大公直属の税務機関と徴税人を置き、大公国の集権体制と財政基盤を強化した。さらには自らキリスト教に改宗し、当時東欧のキリスト教大国であったビザンツ帝国からの庇護と援助を獲得することにも成功した。
 一方で、神聖ローマ皇帝に即位する前の東フランク王オットー1世にも接近を図るそぶりを見せ、偽りで司教の派遣を要請したとする西方の記録もあるが、これが事実とすれば、オリガは東西両教会を天秤にかけようとしていた可能性もある。
 オリガは息子のスヴャトスラフ1世を改宗させることには成功しなかったものの、スヴャトスラフの息子でオリガの孫に当たるウラジーミル1世以降、ロシアは東方正教会系のキリスト教国として確定することになった。そのため、オリガはウラジーミルとともに、東方正教会の聖人に当たる「亜使徒」に叙せられているところである。

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「女」の世界歴史(連載第20回)

2016-04-19 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

⑥両義化される「男色」
 男性同士の同性愛は、古代国家の時代にはそれを禁忌とする意識は薄く、性愛慣習として広く行なわれていたと見られるが、古代国家を過ぎると状況が変わり始める。ことにユダヤ教・キリスト教やイスラーム教のような中東発祥の一神教は、ほぼ一致して男色を宗教的な禁忌とみなすようになったのである。
 中東系一神教がなぜ反同性愛と結びつくのかについて、明確な解答は困難であるが、一つにはこの砂漠地帯独特の遊牧的家父長制が生み出した父性化された唯一神を崇拝する宗教体系が、血縁家族の維持につながらない同性愛行為を忌避するようになったとも考えられる。
 ことに異端者弾圧を積極的に行なうようになるキリスト教では、しばしば男性異端者に「男色家」の烙印を押して弾劾し、男色者に残酷な死罪を科した。ところが、その厳粛なるキリスト教聖職者がしばしば侍童や聖歌隊少年、見習い修道士などと性的関係を持つ習慣はまま見られたようである。
 また同様の関係は騎士と見習い騎士、従者との間にも見られた。一般庶民間の状況は不明であるが、おそらく西欧ではキリスト教化された後も、ギリシャ‐ローマ的な少年愛の慣習がまだ残されていたのであろう。
 今日では最も厳格に反同性愛の立場を取るとみなされているイスラーム世界にあっても、男性同士の性行為は表向き禁忌とされながら、少年愛の慣習が見られたようである。ことにイスラーム世界としては後発のイランやオスマントルコでは男色が盛んに行なわれていたことが確認される。
 全般に中世封建的社会は騎士や武士としての男性が社会を主導する編制を持っており、武芸に秀でた肉体的男性を理想化するマチズムの風潮が強かったが、一方で、騎士や武士の間では宗教的規範に反する隠された慣習としての男色も広く行なわれていた。
 この点で、より興味深いのは日本の場合である。実は日本の神道においても男色は「阿豆那比(あずなひ)」という罪に当たると認識されていたようであるが、これが厳守されていた形跡はない。また最大の外来宗教である仏教は「不淫戒」を掲げるにもかかわらず、日本仏教は戒律の遵守にかけてはルーズと言えるほど消極的であり、「女犯」・妻帯が多発する一方で、僧侶と稚児等の間の男色慣習も見られたようである。
 中世以降には武士と小姓の間の男色が慣習化され、ことに戦国武将の多くが精神的な関係のものも含めて半ば公然たる恋男を持っていた。こうした男色は近世江戸時代には「衆道」の名において性風俗文化にさえなり、町人の間にも広がっていった。
 このようにマッチョな世界にあって男色が習俗化されていた社会に共通するのは、女性が排除された「男社会」の空間で代替的に男色が取り込まれるという関係である。言わば「男社会」における擬似的な男女関係であり、その関係において年少の男性は半女性化されていたのである。
 このようにおおむね中世における男色は、建て前上は宗教規範的に禁忌とされながら、事実上黙許された慣習としてかなり広範囲に行なわれており、言わば両義化されていたと言える。男色の禁忌としての側面の強化は、一見奇妙なことに、近世・近代以降における女性の地位の向上と反比例する形で現象してくるのである。

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「女」の世界歴史(連載第19回)

2016-04-18 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

⑤儒教諸国家と女権
 東アジアでは中国発の儒教が広く伝播し、とりわけ朝鮮と日本では中世以降、仏教と並び、もしくはそれを凌ぐ宗教道徳的な社会規範として定着していくことになる。
 儒教では「家に在りては父に従い、人に適(嫁)ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」(三従:『大戴礼記』)に代表される女性の男性従属性を規範とする貞淑論により、女性の地位は厳しく制約される傾向があった。
 その点、中国では、以前に見たように(拙稿参照)、殷から周への体制変動の過程で、女権忌避的な風潮が強まったと見られるが、このような女権忌避は儒教創始者孔子が周時代の社会秩序を範として思想を体系化したことで、儒教にも刻印されたと考えられる。
 そして、ついに漢民族女性は纏足のような物理的拘束を受けるようにまでなる。纏足が始まった理由は定かでないが、足を小さく見せるという美観とともに、結果として逃走や遠出することが困難となることから、女性を家庭の奥に束縛するという活動制限も念慮されていたことは間違いない。
 この風習は北宋時代から広がったと言われるが、興味深いことに、宋は王后による垂簾聴政が盛んに行なわれた王朝であり、北宋第3代皇帝・真宗の没後、第4代仁宗の幼少期から青年期にかけて10年以上にわたり垂簾聴政を行った章献太后劉氏を筆頭に、北宋・南宋を通じて計8人の垂簾聴政者を出すなど、「女人政治」の時代でもあった。
 一方、纏足風習はモンゴル系元の支配を脱した後、明の時代に隆盛化したと言われるが、この過程は漢民族王朝において儒教が国教的な地位を確立していく過程でもあり、明朝では保守的な朱子学が国定学問としても定着した。
 朱子学は同時代の李氏朝鮮王朝にももたらされ、国学となった。そのため、朝鮮でも女権は制約され、女王は輩出されないが、王后による垂簾聴政の事例や王の側室として権勢を張る女性は存在した。
 この時期の朝鮮で注目すべき女性として、申師任堂がいる。彼女は16世紀の著名な朱子学者である李珥の実母でもあるが、自身も儒学の素養を備えた書画家として活躍するとともに、儒教的な良妻賢母の模範として崇敬された。しかし師任堂は号であり、名前が記録されていないのは、当時の中産階級以下の朝鮮女性の地位を物語ってもいる。
 他方、日本では儒教の伝播は飛鳥時代より以前と見られながら、仏教に押されてその定着は遅かった。女性天皇が絶えた平安時代の女性には、紫式部や清少納言のように高い素養を持った女官として文学的な足跡を残す者も少なくなかったが、見方を変えれば、女性は文学方面に追いやられていたとも言える。彼女らもまた、名前が記録されていない。
 日本で儒教が社会規範としても普及するのは、武家時代以降のことである。武家社会は戦士階級の男性の主導性が強い軍事封建社会であり、儒教的な貞淑女性観とは親和的であったのだろう。
 とはいえ、いずれ見るように、武家社会にあっても当主の正室として政治的な実権を持つ女性も見られ、戦国期には事実上の女性城主・大名として足跡を残した者もあったことは、中世日本の特筆すべき特質である。
 こうした状況が変わるのは、日本でも保守的な朱子学が国学化された近世・江戸時代に入ってからのことであるが、そうした時代にあっても、江戸城大奥のように女性たちはしばしば非公式の政治的発言力を示すことがあった。

補説:章献太后―第二の呂武后
 上述した北宋の章献太后劉氏は幼い頃に父を失い、蜀の銀細工職人と幼年婚をし、夫とともに首都・開封に移った後は歌や太鼓の芸人をしていたが、貧困な夫により後に真宗となる皇子・趙恒宅に売られた。そこで趙恒に見初められて、当初は秘密の側室となり、趙恒の即位に伴い皇帝側室、次いで皇后に昇進するという当時としては異例の階級上昇者であった。
 しかし、子どもには恵まれなかったところ、男子がなく世継問題に悩んでいた真宗がまだ側室だった劉氏付きの侍女に産ませた男子(後の仁宗)を皇帝承認のもとに実子として宣言し、養育するというある種の代理母に近い異例の奇策にも関与している。
 中国歴代王朝にあっても、平民出自の皇后は極めて稀有であったが、劉氏は政治にも通じ、真宗在位中から病弱な皇帝に代わり政務を取った。真宗没後は幼少の仁宗に代わり垂簾聴政を行ったが、仁宗が成人後も自らの死没まで政権を返上せずに居座り、ついには皇帝の衣を着用して皇帝霊廟へ赴いたことで、前漢の呂后や唐の皇后から新王朝を建て史上唯一の女帝となった武后になぞらえられるが、章献太后は優れた人材を集めて平穏な統治を行い、「呂武の才があるも、呂武の悪はない」という高評価を残している。

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「女」の世界歴史(連載第18回)

2016-04-05 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

④女性スルターンの受難
 ムハンマド没後のイスラーム教団は預言者ムハンマドの代理人を意味するカリフを首長とする祭政一致共同体として発展をしていくが、初期には選挙で選ばれたカリフの適格条件として、男性であることが前提とされた。
 前回触れたように、ムハンマド存命中のイスラーム教団は女性の活躍・寄与が大きかったにもかかわらず、ムハンマド没後の教団はすみやかに女権排除体制として確立されていったのであった。従って、ウマイヤ朝以降、カリフが事実上の世襲君主化してからも、カリフ体制が続いた間、女性カリフというものは一人も輩出されなかった。
 他方、4代カリフのアリーから分岐したイスラームの第二勢力シーア派では、アリーを初代とするイマームを最高首長と仰ぐが、正統的なイマームはアリーとその妻で預言者ムハンマドの娘ファーティマ(生母はハディージャ)の子孫でなければならないとされる。その限りでファーティマの血統を規準とする母系的な発想をとるが、女性イマームは認めない。
 こうした女権排除体制に小さな風穴が開いたのは、カリフ体制が形骸化し、その下で西欧の皇帝に相当するスルターンが実権を握るようになってからである。特に、主にトルコ系の解放奴隷軍人マムルークが歴代スルターンを務めたマムルーク系王朝は、その実力主義的な風潮から女性スルターンを輩出した。
 その初例は、北インドに興ったデリー・マムルーク朝5代スルターンのラズィーヤである。彼女は、3代スルターンの父イルトゥトゥミシュから実力を認められ、後継指名されていたが、女性に反発する貴族や宗教者らの策動により、1236年の父の死に際し、兄のフィールーズ・シャーに後継の座を奪われた。
 しかし、スルターンとしては暗愚だったフィールーズ・シャーに対して各地で反乱が発生すると、ラズィーヤはこの機会を利用して民衆革命を煽動、1236年中にスルターン位を奪取した。父の指名があったとはいえ、ほぼ実力での即位である。
 ラズィーヤはスルターンの女性形スルターナで呼ばれることを拒否し、イスラーム女性の風紀である顔面の覆いもせず、男装で執務したと言われる。しかし、女性スルターンへの風当たりはなお強く、その治世は政情不安に満ちていた。
 治世末期には大規模な反乱が同時発生し、ラズィーヤ自ら鎮圧に向かうも、鎮圧軍中で反乱が発生し、ラズィーヤが拘束される中、貴族らはラズィーヤを廃位し、ラズィーヤの弟バフラーム・シャーを擁立した。ラズィーヤは反攻に出て、デリーに進軍するも敗れ、敗走途中農民の強盗に襲撃され、殺害された。
 1240年のラズィーヤの死から10年後、エジプトでシャジャル・アッ‐ドゥッルが本格的なマムルーク朝を創始した。バグダッドのアッバース朝カリフの後宮奴隷女官からエジプトに興ったクルド系アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの正室に栄進した彼女は、夫の急死後、マムルーク軍団(バフリーヤ)を動員して十字軍を撃退する功績を上げた。
 その後、サーリフを継いだ義理の息子をクーデターにより殺害してアイユーブ朝を滅ぼし、1250年、マムルーク軍部の支持を得て自ら即位、マムルーク朝を樹立したのであった。シャジャル・アッ‐ドゥッルは「ムスリムの女王」を称するなど、ラズィーヤと異なり、自らの女性性を隠すことはしなかったようである。
 彼女は即位後、十字軍との戦後処理を手堅くこなしたが、女性君主に対する男性陣の反発に抗し切れず、マムルーク軍人アイバクと再婚したうえ、夫に譲位したのである。わずか3か月ほどの在位ではあったが、シャジャル・アッ‐ドゥッルはマムルーク朝の支配という中世イスラーム世界の新たな歴史を開いたのであった。
 しかし、再婚相手アイバクとは確執が深く、1257年に夫を暗殺する挙に出たが、直後、アイバク配下のマムルークによって報復、殺害された。
 彼女が夫を暗殺した動機は夫がモースルの領主の娘を妻に迎えようとしていたことを裏切りと感じたことにあるとされるが、一夫多妻制ではあり得ることであり、真の動機は高齢で政治的にも優柔だったアイバクを排除して自ら再登位することにあったのかもしれない。
 こうして、中世イスラーム世界では二人だけの希少な女性スルターンはともに悲劇的な最期を遂げている。ともに男性にひけをとらない政治手腕を備えていたが、実力主義的な風潮の強いマムルーク系王朝ですら、女権排除の策動を免れなかったのである。

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「女」の世界歴史(連載第17回)

2016-04-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

③イスラーム教と女性
 今日、女性差別の象徴のようにも受け取られるイスラームであるが、その出発点においては女性の活躍と寄与が見られた。中でも開祖ムハンマドの妻たちである。
 ムハンマドは記録上生涯に13人の妻を持ったが、最初の妻ハディージャはムハンマドよりも10歳以上年長の未亡人であり、夫の遺産を相続して自らラクダ隊商貿易を営むビジネスウーマンでもあった。早くに両親を亡くし、ハディージャの商業代理人として就職していたムハンマドのほうが富裕な妻から経済的に援助される側の「逆玉婚」であった。
 ムハンマドがイスラームを創唱したのも、ハディージャとの結婚後であり、彼女は最初のイスラーム信者となって、当初は迫害も受けた夫の教宣活動を支えたのであった。ムハンマドはこの元雇い主の年上妻には終生頭が上がらず、彼女が存命中は新たな妻を迎えようとしなかった。
 このように、ムハンマドの「逆玉」初婚は現代風の一夫一婦婚であり、一夫多妻が慣習の当時としては異例のものだったに違いない。このような婚姻はムハンマドの宗教活動を可能にする物心両面での基盤となったと同時に、ムハンマドにある種の女性コンプレクスを生じさせたかもしれない。
 その反動からか、ハディージャ没後のムハンマドは一転して多数の妻を持つようになるが、三人目の妻アーイシャはわずか6歳か7歳ほどで50歳を超えていたムハンマドに嫁いだとされる。初婚とは対照的な幼児婚であるが、これも当時のアラブ社会では政略婚の一種としてまま見られたようである。
 成長したアーイシャもムスリムとなり、発展するイスラーム教団を支え、反イスラーム勢力との戦闘に際しては、自らも夫に同行し戦場に出るという女傑的な性格もあった。彼女はムハンマド没後も、教団の精神的な支柱として発言力を保ち、対立する4代カリフのアリーと交戦した656年の「ラクダの戦い」では自らラクダに乗って出陣したとされる。この戦いに敗れたアーイシャは一線を退き、余生はムハンマドの言行を記録するハディースの伝承に努めることで、宗教としてのイスラームの確立にも貢献している。
 このように、初期イスラームにおいては女性の活躍と寄与が他宗教と比べても大きかったにもかかわらず、その後のイスラームが女性差別的な方向へ流れていくのは不可解とも言えるが、それにはいくつかの要因が想定される。
 一つには、イスラーム創唱以前のアラブ社会ではハディージャのように経済的に自立した富裕な女性も存在した一方で、女性を家畜のように相続・交換する慣習もあったとされ、イスラームはそうした悪習を正し、女性を人間として保護しようとしたことである。ムハンマドがハディージャ没後に迎えた多数の妻たちも、幼児婚のアーイシャを除き、寡婦だったと見られることから、彼の多妻婚には寡婦の救済という保護的な側面があったとも考えられる。
 もう一つは、砂漠という苛酷な環境を生活場としてきたアラブ民族における男性優位的な家父長制共同体構造の制約である。このような制約は、アラブ社会から発祥したイスラームも免れることはできなかったのであろう。
 第一の側面と第二の側面が合わさり、家父長制共同体での女性の保護となれば、それは夫への服従と家庭の奥への束縛と引き換えの「保護」という性格を強く帯びたはずである。

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「女」の世界歴史(連載第16回)

2016-03-23 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

②ゲルマン王権とサリカ法典
 西ローマ帝国がゲルマン人傭兵によって滅ばされて以降、西欧社会はゲルマン人を軸とした騎士封建社会を迎えるが、その中心を担ったのは、多岐に分かれたゲルマン人諸部族の中でも強力なフランク族であった。
 フランク族系統一王国の嚆矢となったメロヴィング朝は、その開祖クロヴィスの時代にサリカ法典と呼ばれる重要な基本法を制定した。この法典を有名にしたのは、女子の土地相続権を否定する条項である。フランク族を含むゲルマン民族の部族慣習によると、土地は父系男子の間で分割相続されたことから、サリカ法典にもこうした規定が明文をもって引き継がれたと考えられる。
 ただ、これはあくまでも不動産としての土地の相続に関する条項であるところ、拡大解釈されて、王権の継承にも適用されるようになった。おそらく国土は包括して王に属すると観念されるところから、このような拡大解釈が生まれたのであろう。
 その結果、ゲルマン系諸王朝では女性または女系子孫の王位継承は法律違反として禁じられることになった。この原理はフランク族の流れを汲むカペー朝の血統が続いたフランス王国では暗黙裡に最も厳格に貫徹され、結局、他の多くの欧州諸国とは対照的に、フランスでは市民革命を経て19世紀の最終的な王制廃止に至るまで、一人の女王も輩出することはなかった。
 このような女権排除は当然にも、先王に男子がない場合には深刻な後継者問題を生じさせることになる。この問題が最初に現実化したのは、カペー朝12代のルイ10世が1316年に死去した時である。10世の死後に出生した息子のジャン1世も生後間もなく死去したことで、男子継承者が断絶した。
 そこで重臣らの間ではルイ10世の娘ジャンヌを初の女王として推す声があったが、ジャンヌは生母の不倫による子ではないかとの疑惑が存在したことから、ルイの弟フィリップがサリカ法を持ち出してジャンヌの王位継承を阻止、自らフィリップ5世として即位した。
 ちなみに、フランス王位を外されたジャンヌは父からスペインのナバラ王国の王位を継承し、夫のフェリペ3世とともに共治女王フアナ2世となった(夫の死後は単独女王)。バスク系のナバラ王国にはサリカ法典の制約は及ばなかったからである。
 次により大きな動乱のもととなったのは、フィリップ5世を継いでいた弟のシャルル4世が1328年に男子継承者なくして死去した時であった。シャルル4世には末弟がいたが、すでに早世しており、サリカ法典を厳格に適用する限り、カペー朝はいよいよ断絶するはずであった。
 しかし、シャルルの従弟がフィリップ6世として即位することでつなぎとめ、カペー朝分流のヴァロワ朝を改めて創始した。ところが、これに対してイングランド国王エドワード3世が異議を唱え、自らフランス王位を請求したことで、英仏百年戦争が勃発する。
 エドワードの生母はシャルル4世の姉イザベラであり、母系を通じてフィリップ4世の孫に当たることが王位請求の根拠であったが、これはサリカ法典上王位継承が認められない女系子孫であり、法律的には難があった。
 中世欧州の大戦争であった英仏百年戦争は、フランスに勝利をもたらす女性戦士ジャンヌ・ダルクという稀代の女傑を生むが、これについては後に別項で論じることにする。

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「女」の世界歴史(連載第15回)

2016-03-22 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第二章 女性の暗黒時代

[総説]:男性優位社会の確立
 古代国家の時代、女性の地位はすでに後退していたが、古代国家には女王・女帝の姿も見られた。しかし、古代を過ぎると女性の地位はいっそう低下し、「魔女狩り」のような大量的な女性抑圧事象も経験する暗黒時代となった。
 そうなった要因として、ポスト古代国家は戦士の時代だったことがある。欧州では騎士が社会の主役となったし、極東の日本でも武士の台頭が見られた。イスラーム世界も、イスラーム教団そのものが同時に戦士団でもあった。
 戦士は身体能力的に専ら男性の仕事である。そうした戦士が中心に立つ社会は必然的に男性主導型社会となり、女性には家庭の奥にあって夫を支える内助の功が求められる。女権はタブーとなり、「女性権力者=悪女」というイメージも高められたであろう。
 こうした女性の周縁化は、女神も活躍する古代の多神教に代わって、キリスト教やイスラーム教のように父権的な性格の強いセム系一神教の創唱と国際的な普及によっても後押しされ、男尊女卑思想も広まっていった。
 しかし、そうした中でも例外的に台頭し得た女傑は存在する。女傑たちは正式の政治的・軍事的な地位を得られなくとも、事実上の権勢家あるいは自ら戦士として男性たちを導くことさえあった。だが、そのために悲劇的な代価を支払わされることもあった。
 第二章ではこうした女性抑圧体制の世界歴史的な諸相と、その中にあって存在感を示した東西の女傑たちの事例を取り上げ、暗黒時代における「女」の姿をとらえていく。

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(1)女権抑圧体制の諸相

①キリスト教と女性
 ヨーロッパ中世における女性の受難を最初に予告した事件は、ローマ帝国東西分裂後の西暦415年に起きた女性哲学者ヒュパティアの虐殺事件であった。
 ヒュパティアは、プトレマイオス朝時代以来の伝統を持つエジプトのアレクサンドリア図書館の最後の館長を務めた天文学者・数学者にして哲学者でもあったテオンの娘にして、自身も文理にわたる広範な学識を持つ新プラトン主義の哲学者であった。
 ヒュパティアはアレクサンドリアの新プラトン主義の学園で哲学の講義を行っていたが、父と同様、天文学や数学に通じていた彼女の教えは、迷信を排し、自ら思考することの大切さを説くある種の科学的なものであったがゆえに、危険視された。
 というのも、時はローマ帝国がテオドシウス帝の治下、キリスト教を国教化して間もない頃で、キリスト教会の権勢が強まっていたからである。ヒュパティアの学問は、キリスト教の見地からは異端的であった。
 412年、原理主義的なキュリコスがアレクサンドリア総司教に就任すると暴力的な異端排撃の風潮は最高潮に達し、ついに415年、ヒュパティアの虐殺が起きる。学園への出勤中、武装した修道士に襲撃された彼女は、馬車から引き摺り下ろされ、教会内に連れ込まれて牡蠣の貝殻で生きたまま肉を骨から削ぎ落とすという残酷な方法で殺害された。明らかに見せしめのリンチ殺人であった。
 ヒュパティアの虐殺はアレクサンドリアの知識界に衝撃をもたらし、学者たちの亡命とギリシャ学問の終焉のきっかけとなったと評されるが、ヒュパティアがここまでむごたらしく見せしめにされたのは、女性だったこともあっただろう。ギリシャ哲学の長い伝統の中でも、女性哲学者は極めて異例であり、その異端性を倍加させていたからである。
 ヒュパティアの時代にはまだ「魔女狩り」は起きていなかったが、女性でありながら男性を相手に堂々と学問を説く彼女の存在は、キリスト教徒男性にとって魔性的な脅威と映ったはずである。
 一般的に、キリスト教は教義上女卑的であるわけではなく、原初教会には女性司祭も少なくなかったとされるが、ヒュパティア虐殺事件のあった5世紀頃までには女性司祭は排除されていたという。これは教義上よりも教会制度上の変化である。
 ちなみに、新約聖書でイエスの女性従者とされるマグダラのマリアも、その出自に関する確証はないにもかかわらず、カトリック教義ではいつしか「悔い改めた娼婦」であるとされるようになったのも、女卑観に基づくものと言えるかもしれない。

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「女」の世界歴史(連載第14回)

2016-03-08 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑥奈良朝「女帝の時代」
 前回触れたように、日本の奈良朝時代は「女帝の時代」として、日本史上はもちろん、同時代の世界史上も稀有の一時期となっている。この時代は藤原京から平城京への遷都に始まるが、その当時の天皇が女帝の元明天皇であったから、まさに女帝の治世で始まっている。元明天皇は天智天皇を父に持ち、藤原京を完成させた持統天皇の異母妹にして息子の嫁でもあった。
 そのような血脈から、草壁皇子との間の子であった文武天皇が夭折した後を受けて即位した。皇后を経ず即位し、生涯非婚を通した最初の女帝であり、かつ前天皇の生母が即位した唯一の例でもある。しかも、元明天皇は715年、やはり草壁皇子との間の娘である元正天皇に譲位した。女帝が二代連続したのも皇位が母から子へ譲位されたのも唯一の事例であり、この時代の異例さがわかる。
 ここまで異例の皇位継承が続いた実際的な理由は、「本命」である文武天皇の遺児・首皇子〔おびとのみこ:後の聖武天皇〕がまだ年少であったこともあろうが、それ以上に持統天皇によって作り出された女権尊重の風潮が強かったことも考え合わせなければ、十分な説明はつかない。
 満を持して724年に即位した聖武天皇は久しぶりの男帝であったが、正妃光明子は藤原不比等と橘三千代の間の娘であり、彼女が史上初めて皇族以外から立后されるに当たっても母の三千代が何らかの関与をしたと思われ、二代の女帝時代から続く女性官僚三千代の権勢は皇后生母としてさらに増強されたと考えられる。
 熱心な仏教徒だった光明皇后は悲田院や施薬院の創設に代表されるように、国家による救貧・医療政策の先駆けとなる施策を主導したが、こうした民生重視の姿勢には史上初の人臣出身皇后としての視点も読み取れる。
 聖武天皇は病弱だったと言われ、在位中から政治的な野心が強かったらしい光明皇后の影響下にあったようである。聖武天皇と光明皇后の間には男児も生まれたが夭折したため、738年、長女の阿倍内親王を皇太子とした。これは史上最初にして唯一の女性皇太子である。この立太子には光明皇后の意向も強く働いたと見られ、ここにもまた女権の強い奈良朝の異例さが現われている。
 阿倍内親王は749年、聖武天皇の譲位を受け、即位する(孝謙天皇)。しかし、母の光明皇太后は皇后の家政機関であった皇后宮職を紫微中台と改称し、野心家の甥藤原仲麻呂を長官に抜擢して、天皇の後見人の立場で政治の実権を握った。
 この間、孝謙天皇は光明皇太后存命中の758年に天武天皇の孫に当たる大炊王〔おおいおう:淳仁天皇〕にいったん譲位し、上皇に退くが、女帝の時代はこれで終わらなかった。764年、孝謙上皇は淳仁天皇の下で専横していた仲麻呂を討ち、天皇を廃位・配流に追い込んだうえ、自ら天皇に復位したからである。
 こうして事実上のクーデターで重祚を果たした孝謙上皇改め称徳天皇の治世がさらに770年まで続く。この第二次治世は怪僧道鏡が天皇側近として権勢を持つ専制的な寵臣政治に陥り、有名な宇佐八幡宮神託事件をはじめとする政治的怪事件や皇族への粛清が続発する不穏な時期であった。
 しかし、生涯非婚で継嗣のない天皇が770年に病没すると、道鏡も下野薬師寺別当に左遷され、次代天皇は天智天皇の孫に当たる男帝の光仁天皇となった。これ以降、女帝は江戸時代初期の明正天皇に至るまで、実に859年もの間途絶する。

補説:女帝回避時代
 古代日本の「女帝の時代」は称徳天皇をもって終焉したが、この後も近代になるまで女性天皇は法制上否定されることはなかった。にもかかわらず、900年近くも女帝が回避された理由は定かでないが、称徳天皇の治世があまりに専制化・不穏化したため、「女帝では治まらない」という意識が朝廷に定着し、後世にも悪しき先例として参酌されたことがあるかもしれない。ちなみに称徳天皇と道鏡は愛人関係にあったという風説もあり、実際そう疑われても不思議はないほどの密着ぶりではあったが、確証はなく、これも後世、女帝回避の名分として創作された「醜聞」であった可能性がある。

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「女」の世界歴史(連載第13回)

2016-03-07 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑤古代日本の女権
 古代日本は中国から多くの文物を摂取したことは周知のとおりであるが、中国王朝とは対照的に、かつ同時代の古代国家としても異例なほど女帝を多く輩出した。当時の日本の女権に関する観念は、東アジア全体でも相当に異質的であったようである。
 記録上、日本最初の女性君主と目されるのは邪馬台国の女王卑弥呼である。邪馬台国の主要な情報源である中国史書『魏志』によれば、本来は巫女である彼女が登位した経緯は通常の王位継承によるものではなく、その宗教的な権威を利用して小国間の内乱を平定し、ある種の連邦国家を創設するためとされる。
 従って、邪馬台国自体が一種の平和条約体制であったと考えられ、卑弥呼の役割は統合の象徴的なもので、政治的な実権はほとんどなかったとも想定できる。卑弥呼の没後はいったん男王が継いだが、再び内乱となったため、卑弥呼の親族に当たる台与が女王に就いたとされる。しかし台与の治世及びその後についての詳細な記録はなく、邪馬台国の情報は途絶える。
 その後300年以上を経て、いわゆるヤマト王権が確立された6世紀末に出た推古天皇(当時まだ天皇号はなかったが、ここでは便宜上天皇呼称に従う)を皮切りに、8世紀の奈良朝にかけてのべ八代(実数では六人)の女性天皇を輩出する時代を迎える。なかでも奈良朝時代はのべ四代、通算で32年にわたり女性天皇の治世を経験した「女帝の時代」でもあった。
 対照的に女性天皇が法律上否定されている今日からすると、時代が逆転しているかのように古代日本に女性君主が多数輩出された理由は、定かでない。ただ、弥生時代に属する卑弥呼は別として、飛鳥・奈良時代の女性天皇の出自をみると、いくつかの特徴がある。
 まず飛鳥時代の推古、皇極=斉明(重祚)、持統の三天皇はいずれも皇后を経験している。言わば、皇后からの昇格型である。ただし、推古朝では聖徳太子及び蘇我馬子、皇極朝では蘇我入鹿、斉明朝では中大兄皇子といった男性執政者が実権を持ち、女性天皇に実権はほとんどなかったようである。筆者は、推古天皇については自身も王位に就いた蘇我馬子との共同統治、皇極=斉明天皇は正式の「天皇」ではなかったとする異説に立つが、ここでは行論上『日本書紀』をベースとする通説に従っておく。
 しかし、持統天皇は夫の天武天皇から早世した実子の皇太子草壁皇子の遺子(後の文武天皇)につなぐまでの中継ぎのように見えながら、上皇時代を含めた自身の治世では律令的天皇制国家の確立を主導するべく、専制的な権力を振るっており、中継ぎ以上の「本格派」女帝であった。
 持統天皇はまた女性官僚の登用にも熱心で、藤原氏隆盛の基盤を築く藤原不等比と再婚して光明皇后を生んだ橘三千代のような有力女性官僚を輩出させた。奈良朝の三人の女帝はいずれも持統天皇の血縁者たちであり、奈良朝はフェミニスト持統天皇によって開かれたとも言えるかもしれない。

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