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連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第51回)

2023-03-06 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙飛行の空想と理論
 ケプラー、ニュートンを経て天文学は天体観測を中心とした天文学から物理学の一環としての天体物理学へと昇華されたが、そこから宇宙空間に無人もしくは有人の飛翔体を飛ばして宇宙を探査する段階へ進むにはなお歳月を要した。
 最初の手がかりとして、天体望遠鏡の発達がある。ここでもケプラーとニュートンの寄与は大きく、ケプラーがそれ以前の低倍率のガリレオ式望遠鏡を革新する望遠鏡の原理を発明すれば、ニュートンは鏡を組み合わせた反射式望遠鏡を発明し、天体観測の精度を向上させた。
 こうして高倍率の望遠鏡で天体をより視覚的に観測できるようになると、宇宙空間への実地探査という着想も生まれる。しかし、飛行機さえも空想の域を出なかった時代、宇宙飛行は科学ではなく、文学的空想であった。
 その点、17世紀フランスの作家シラノ・ド・ベルジュラックは『月世界旅行記』でロケットによる月面探査という空想を文学として描き、サイエンスフィクションの先駆けを成したが、19世紀には同じくフランスのSF作家ジュール・ヴェルヌが『月世界旅行』で同様のモチーフをより疑似科学的に描いた。
 1902年にはヴェルヌ作品にも触発され、月旅行を映像化したサイレント映画としてフランスのジョルジュ・メリエス監督による『月世界旅行』が公開され、話題作となり、宇宙飛行がより視覚的なイメージでとらえられる契機となった。
 しかし、科学的な宇宙飛行理論に関しては、帝政ロシアの物理学者コンスタンチン・ツィオルコフスキーが1897年にロケット推進原理に関する数理的な公式(ツィオルコフスキーの公式)を発表したのが嚆矢である。
 ツィオルコフスキーは引き続いて、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型ロケットの設計や宇宙ステーションの構想などを科学的な予想理論の形で提起するが、そのあまりに先駆的過ぎた理論は海外ではもちろん、ロシア国内ですらソヴィエト時代まで顧みられることはなかった。
 他方、有人飛行機が発明されたアメリカでは、1919年に工学者・発明家ロバート・ゴダードがツィオルコフスキーとは別個に、液体燃料ロケットによる月旅行の可能性を科学的に構想した。彼は理論予想にとどまらず、1926年には実際に初の液体燃料ロケットを発明し、その打ち上げに成功した。
 もっとも、これは飛翔時間約2.5秒、飛翔距離約56メートル、高さにして約12.6メートル程度という完全にモデル実験的な「打ち上げ」であったが、液体燃料ロケットを飛翔させることが原理的に可能であることを初めて示したのである。
 一方、ドイツでも工学者ヘルマン・オーベルトが1923年に論文『惑星間宇宙へのロケット』を発表したことを機に、1927年には様々な人士を擁するドイツ宇宙旅行協会が設立され、ドイツがロケット技術で先行する契機となった。

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近代科学の政治経済史(連載第50回)

2023-03-03 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ

天体の観測に始まる宇宙探求は近代科学が創始される以前から主に占星術と結びついて発展したが、同時に近代科学の出発点とも言えるものである。実際、近代科学への道を拓いた画期的な理論の一つである地動説は太陽の観測に由来する理論であるし、地動説を提唱したコペルニクスやガリレイをはじめ、近代科学黎明期の科学者の多くは天文学者でもあった。当初は純粋に宇宙への科学的関心に根ざした宇宙探求も、20世紀後半以降は軍事目的からの国家間競争を助長する宇宙開発へと転化していき、さらに21世紀になると、宇宙旅行や宇宙間移住まで視野に収めた商業目的の宇宙開発も立ち現れる。かくして、宇宙科学は政治経済が絡む生臭い領域となってきている。


科学的宇宙探求の始まり
 広い意味での宇宙科学の中でも最も歴史の古い分野は宇宙空間に存在する天体の観測を中心とする天文学であり、それは自然科学全体の中でも最も古い学術分野に属している。エジプトをはじめ、古代文明圏のほとんどすべてが何らかの形で天文学を発達させている。
 しかし、それらの古代天文学はいまだ科学の体を成しておらず、天文学と占星術の区別はほぼなかった。しかも、占星術はしばしば権力者が政策決定の基準とすることすらあったため、前近代的な占星術はそれ自体政治性を帯びていた。
 占星術を離れた科学的な天文学が現れるのは、ようやく西欧ルネサンス時代のことである。コペルニクスやガリレイはそうした科学的天文学の始祖でもあるが、惑星の運動全般をより理論的に法則化したのはヨハネス・ケプラーであった。
 彼が発見した楕円軌道の法則・面積速度一定の法則・調和の法則の三法則に整理される「ケプラーの法則」は地動説を数学的にも証明する法則として現在まで確立されており、おそらく史上最初の科学的な法則理論でもあった。
 彼の理論の画期性は、コペルニクスやガリレイでさえ円運動と誤認していた惑星の運動軌道について、正しくは楕円運動と定式化した第一法則にある。とはいえ、ケプラーも神秘的思想と絶縁していたわけではなく、ピタゴラス学派や新プラトン主義の哲学を信奉していた。
 ケプラーの立てた法則をより物理学的に純化し科学理論として凝縮させたのがアイザック・ニュートンであり、彼の恒久的な業績である万有引力の法則は、ケプラーの法則が成立する根拠を万有引力として説明し直したものとも言える。
 ニュートン以前、天体を含む物体の運動は何らかの流体や媒質の作用によって媒介されるとするルネ・デカルトの渦動説がとりわけ大陸ヨーロッパで有力であったため、ニュートンの万有引力論が当初「オカルト的」という批判を浴びることになったのは皮肉なことである。
 もっとも、ニュートン自身、オカルト的な研究も並行的に行っており、万有引力についてもその根本原因については何らかの非物質や神の介在を思念していたと言われ、ニュートンでさえ、純粋の科学的思考によっていたわけではなかった。
 とはいえ、主としてケプラーとニュートンによって拓かれた科学的天文学はその後の宇宙科学の理論的な土台として恒久的な意義を持つことになるが、それは政治過程に組み込まれていた古代占星術とは異なり、政治から切り離された純粋科学としてスタートした。

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近代科学の政治経済史(連載第49回)

2023-02-24 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核兵器科学の発達
 日本の広島・長崎への原爆の実戦使用は世界に衝撃を与えたが、その衝撃効果は核兵器廃絶とは真逆に、核開発の拡大的連鎖反応をもたらし、世界への核兵器の拡散を結果した。
 まず連合国内でマンハッタン計画から外されていたソ連が計画のインサイダーからの漏洩情報を利用して核開発を急ぎ、1949年に核実験を成功させた。さらに連合国のイギリスやフランスも続き、東側陣営では中国も1964年に核実験に成功、結果として国際連合の五大国すべてが公認の核兵器保有国となった。
 一方、核兵器の先発国となったアメリカでは戦後、原子爆弾を上回る爆発力を有する核爆弾の研究開発が進められ、マンハッタン計画にも参加したアメリカの化学者ハロルド・ユーリー(1934年度ノーベル賞受賞者)が1931年に発見した重水素の核融合反応を利用した水素爆弾が開発された。
 ただし、この水素爆弾は純粋のものではなく、併用される原子爆弾を起爆しつつ、その核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用し、重水素や三重水素の核融合反応を誘発することにより、対日使用された原爆の数百倍もの爆発力を発揮させるという原理によるものであった。
 アメリカは1952年、南太平洋のエニウェトク環礁で人類初の水爆実験を実施、史上初の水爆の起爆実験に成功した。しかし、この水爆は大型過ぎて、実戦使用不能のものであったところ、1953年にはソ連がリチウムを利用した小型水素爆弾の実験に成功したと自称宣言した。
 これに触発され、アメリカはその翌1954年に、ビキニ環礁、エニウェトク環礁の二つの環礁で実施した一連の水爆実験により、実戦使用可能な小型水素爆弾の起爆に成功した。この時、日本の遠洋漁船第五福竜丸が被ばくする事故が起き、日本は原爆・水爆双方の被爆国となった。
 こうして、核兵器開発に奉仕する物理・化学の体系―核兵器科学―が確立されていく。1955年には科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言が発せられたが、理念的な効果以上のものはなかった。
 核兵器の原理がひとまず確立された1960年代以降は、核兵器の一層の小型化と可動化、特にミサイルなどの弾道兵器に登載する核弾頭技術の開発に焦点が移ると、核兵器科学は精密工学の性格を帯びていく。

核兵器政治経済の確立
 核兵器科学が精密工学となれば、科学者のみならず、科学技術系資本の関与が不可欠となる。それにより、核兵器産業と言うべき新たな産業分野が誕生する。その先駆けとして、マンハッタン計画にも、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックのような技術系大手が参画していたことは先述した。
 その点、1961年にアメリカ陸軍出身のアイゼンハワー米大統領が退任演説で「軍産複合体」の形成に異例の警告を発したが、こうした複合体は核開発に特化したものではないとはいえ、核兵器のハイテク化は軍産複合体―大学を含めれば軍産学複合体―の存在を不可欠の基盤とする。
 アイゼンハワーは現役軍人時代には原爆の対日使用に否定的な進言を行ったが、戦後の米大統領としては米ソ冷戦下で核兵器による大量報復戦略を展開し、アメリカの核戦略の先駆けを成した張本人であり、まさしく軍産複合体の形成を助長するという言行不一致を示している。
 その後、1960年代以降、核兵器が可動的な弾頭型になるにつれて、ロッキードやボーイングのような航空産業の参入も求められ、軍産複合体は多様化していく。今日では、世界の20ほどの企業が核兵器製造企業として特定されているが、協力ないし下請け企業も含めればより多数に上るだろう。
 もっとも、ソ連やそれを引き継いだロシア、現在も社会主義を標榜する中国のような旧/現社会主義圏では、核兵器開発を政府系科学技術機関が担うことが多く、軍産は複合というより融合しているが、これも広い意味での軍産複合体に含めてよいだろう。
 こうした軍産複合体を上部構造的に統制しているのは言うまでもなく政治であるが、戦後の国際政治は冷戦下ではもちろん、冷戦終結後も、核兵器の抑止力を安全保障の究極的な担保としている現実に変わりなく、核廃絶は理念にとどまっている。
 その意味で、第二次大戦後の世界秩序そのものが言わば核兵器政治経済によって担保されていると言って過言でないが、その原理的な基盤となっているのは「死の科学」としての核兵器科学である。その是非はともかく、核兵器科学は近代科学の集大成的な結晶でもあり、現代科学の最先端の一端を成していると言える。

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近代科学の政治経済史(連載第48回)

2023-02-22 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

マンハッタン計画と死の科学
 ドイツと日本でも極秘の原爆開発計画が進められる中、連合国側も1942年からアメリカ、イギリスにカナダも加わった英語圏三国による共同開発計画に着手する。これが、いわゆるマンハッタン計画である。
 その契機となったのは先述のシラード‐アインシュタインのローズヴェルト米大統領宛て書簡だったと言われるが、この書簡自体は核分裂反応を応用した原子爆弾の製造可能性とナチスドイツによる先行開発の危険性を指摘したまでで、直接に原爆開発を促す内容ではなかった。
 ローズヴェルトも当初は積極的な関心を示さず、予備的な研究を指示したのみであったが、戦況が深まった1942年になって原爆開発計画を正式に承認したことで、具体的な開発計画が始動する。
 その拠点となったのは米陸軍であるが、ドイツや日本の計画とは異なり、科学者や研究機関、さらには技術系企業の総動員的な協力態勢が敷かれたことが計画を成功に導いた。中でも、科学者の中心人物は理論物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。
 彼はマンハッタン計画のために新設された極秘の連邦研究機関ロスアラモス国立研究所の初代所長として、まさに計画の中心にあったため、アメリカにおける「原爆の父」と称される人物である。
 それ以外にも、計画にはドイツからの亡命者を含む多国籍の科学者のほか、シカゴ大学やカリフォルニア大学などの著名大学、さらにはゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の技術系大手企業も参画した20億ドル近い資金を投入しての一大プロジェクトであった。
 こうして短期間で実戦使用可能な原子爆弾の製造に至ったマンハッタン計画とは、純粋に科学的な探求を離れ、効率的な大量殺戮を可能にする新型爆弾の開発にのみ特化した「死の科学」と呼ぶべき、科学の歴史においても異状な企てであった。
 このようなことが倫理的な検討も躊躇もなしに遂行された背景として当時の第二次世界大戦の戦況があったことは明らかであり、仮に第二次大戦なかりせば、おそらく原子爆弾は理論上の可能性にとどまっていたであろう。
 そうした「死の科学」への反省は戦後に現れ、中心人物であったオッペンハイマーはやがて反核の立場を鮮明にしたため、1950年代のアメリカ連邦議会の赤狩りキャンペーンで槍玉に上げられ、根拠のない対ソ連スパイ疑惑を理由に公職追放処分となった。
 一方、アインシュタインは計画には直接参加していなかったが、元来平和主義者であった彼は戦後、核廃絶運動に身を投じ、最晩年の1955年には哲学者・数学者のバートランド・ラッセルと共同で核廃絶や科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言を発した。

原爆開発の成功と初の実戦使用
 計画の渦中からも、原子爆弾の実戦使用への科学者の異議がなかったわけではない。1945年3月には、ドイツの核開発が進展していないことが確証されたことを踏まえ、自身もマンハッタン計画に協力していたジェームス・フランクを中心とするシカゴ大学の科学者が原爆の無警告使用に反対する提言を行った(フランク報告)。
 しかし、これとて、主として戦後の厳重な核兵器管理体制の必要を指摘し、原爆の無警告使用に反対したまでで(有警告使用には反対しない)、大戦渦中という大状況ではマンハッタン計画の歯止めとはならなかった。
 当時の科学技術の英知を結集した計画は、1945年7月、原子爆弾の実証実験を成功させる。ニューメキシコ州で実施されたトリニティ実験と呼ばれるこの実験は、実験室での核分裂実験とは根本的に異なり、人類史上初めて核爆弾の起爆に成功したいわゆる核実験の先駆として、科学技術史上の画期となった。
 試されたのは爆縮型プルトニウム原子爆弾と呼ばれるもので、後に長崎に投下された「ファットマン」の直接的な原型となるものであった。爆縮は中性子爆弾が早発的に爆発して出力が減殺されることを防止するべく、プルトニウムの密度を高めて臨界に到達させる新たな技術であった。
 この核実験の成功は引き続き、実戦使用への道を開いた。ローズヴェルト急死を経て成立したトルーマン新政権は、フランク報告をも無視して原子爆弾の対日無警告使用を決断した。こうして実現したのが周知のとおり、1945年8月の広島、長崎への連続的原爆投下であった。
 トリニティ実験の翌月という短期での実戦使用から見て、これには実戦での使用ならぬ「試用」というそれ自体に実験的な狙いもあったと推測できる。そこには、おそらく新兵器の効果を早速に試したい軍部の戦略的な意向も働いていたことは想像に難くない。
 さらに、軍部内でも抵抗を続ける日本を降伏させるうえで原爆使用は無用との意見もあった中で原爆投下が強行されたのは、連合国内の信頼できない同盟国としてマンハッタン計画から外されていたソ連向けのデモンストレーションという政治的狙いもあったであろう。
 こうした軍事的・政治的判断はもはや科学の手の届かない領域であるが、「死の科学」に手を着けた時点で、科学はすでに一線を越えていたと言える。原爆の使用を許さないためには、たとえ世界大戦という特殊状況下にあっても、そもそもそうした科学理論の非人道的な応用を自らに禁ずる必要があったのである。

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近代科学の政治経済史(連載第47回)

2023-02-20 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核兵器開発の萌芽
 核分裂反応を応用した原子爆弾の開発に関して先行したのは、シラードとアインシュタインが懸念していたように、果たして核分裂反応の発見地であったナチスドイツである。
 ドイツ国防軍は1939年には、全国の優れた物理学者を招集して、原子爆弾の開発可能性について討議させた。その理論的な中心に立ったのは、1932年度ノーベル物理学賞受賞者ヴェルナー・ハイゼンベルクであった。
 しかし、ヒトラーは原爆開発に関心を示さず、原理的な初期研究に必要な研究費を所管官庁の科学・教育・国民教化省が拠出しないなど冷遇され、頓挫しかけた。最終的に、ドイツの原爆開発計画が本格始動するのは、敗色が見え始めた末期の1943年のことであった。
 こうしたドイツの核開発計画チームはウランクラブと呼ばれ、開発の実践的な的な中心に立ったのは、原子核の結合エネルギーの質量公式ベーテ‐ヴァイツゼッカーの公式に名を残す物理学者カール・フォン・ヴァイツゼッカーであった。
 これは言わばドイツ版マンハッタン計画と言えるものであったが、ナチス体制下では、ユダヤ人追放政策のあおりで、アインシュタインをはじめ、ユダヤ系科学者が国外へ亡命を強いられていたため(拙稿)、開発計画に参加する科学者は限られており、開発チームは人材不足であった。
 そのうえ、ヒトラーは最後まで原子爆弾に積極的な関心を示さず、在来兵器の革新によって勝利できると信じていたことから、ドイツの開発は初動段階で終わった。しかし、連合国軍側はドイツによる核開発を深刻に懸念し、ドイツの研究状況の査察を目的とする英米軍合同の侵攻作戦(アルソス・ミッション)を実行した。
 その結果、ヴァイツゼッカーらの研究者を拘束し、研究資料の押収にも成功したが、精査してみると、ドイツの核開発はほとんど進んでおらず、原爆を実戦使用できる段階にないことも判明したのである。
 一方、ドイツと枢軸同盟を組んでいた日本の状況はと言えば、海軍と陸軍の双方でそれぞれF研究、二号研究と暗号名を冠された原爆開発計画が1940年代初頭から進行していた。ただ、海軍には十分な人材も実験設備も欠いており、計画の中心は陸軍の二号研究に収斂されていった。
 二号研究は陸軍系とはいえ、実質上は理化学研究所を拠点に仁科芳雄研究室が中心となって進められた軍民共同研究であった。時期的に、この研究は連合国軍側のマンハッタン計画とほぼ並行的に進められていった。
 しかし、研究が原爆の製造に必要なウラン235の分離実験段階まで進んだところで、1945年の東京大空襲により重要な実験器具が焼失したため、研究は続行不能となり、同年7月までに両計画ともに打ち切りとなった。
 皮肉にも、その直後の同年8月、マンハッタン計画に基づき先行して原爆開発に成功していた連合国軍によって、広島及び長崎に原子爆弾が投下されることになる。

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近代科学の政治経済史(連載第46回)

2023-02-17 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

核物理学の軍事化への道
 19世紀末に台頭し、20世紀前半に大きく発展した物理学の新たな潮流である核物理学自体は物理現象を原子レベルでよりミクロに考察しようとする純粋に知的な探求の結果であり、本来的に軍事と結びついていたわけではなかった。
 しかし、1933年にはアメリカの物理学者レオ・シラードが中性子を介した核連鎖反応という現象を構想し、これを新たな高性能爆弾に応用できる可能性を示唆していた。シラードは、核連鎖反応の構想を自ら特許化している。
 ただ、シラードの構想は言わば理論予想の段階で、実証されていなかったところ、1938年に核分裂反応という新たな物理現象が発見されたことは、戦争に向かう時代状況もあり、早々に核物理学が軍事と結びつく契機を作った。
 核分裂反応は、原子核が分裂し、同程度の質量数を有する2個以上の原子核に分裂する核反応であり、この現象は物理学者ではなく、オットー・ハーン(1944年度ノーベル化学者受賞者)ら数人のドイツ人化学者の共同研究によって発見された。
 これに先立ち、イタリアの物理学者エンリコ・フェルミはウランに中性子を照射すると多数の放射性元素を生成することを実証し、1938年ノーベル物理学賞を受賞していたが、フェルミはその現象を充分解明できていなかったところ、ドイツ人の化学者グループが核分裂現象として実証したのであった。核分裂は一種の化学反応でもあるため、化学者に分があったのであろう。
 この画期的な結果は早速海を越えてアメリカに伝わり、コロンビア大学を中心にさらなる実証実験が実施され、確立された物理理論となった。また、日本の理化学研究所でも、日本の原子物理学の先覚者である仁科芳雄と化学者の木村健二郎の実験により、核分裂連鎖反応が確認された。
 このような連鎖反応を一挙爆発的に発生させれば原子爆弾となり、厳重に制御しつつ漸次的に進行させれば原子炉となるというように、核分裂連鎖反応は軍用・民生用いずれにも応用範囲の広い物理現象である。
 こうした物理学上の革新が再び世界大戦の足音が近づく戦間期になされたことは、科学にとっては不幸なことであった。実際、核分裂反応が最初に発見された1938年のドイツでは、ナチスがすでに権力を固め、軍備強化を急いでいた時であった。
 翌年、ドイツがポーランドに侵攻し大規模な戦争が不可避となると、核物理学者たちは、シラードが先駆的に構想したように核分裂反応が兵器製造に利用されることを懸念して、核物理学の研究結果の公表を自粛するようになった。
 一方、共にユダヤ系であったシラードとアインシュタインは、ナチスによる核兵器開発が先行することを恐れ、時のアメリカのローズヴェルト大統領に対し、ドイツが核兵器開発を進める可能性を警告する書簡を送り、注意を喚起した。

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近代科学の政治経済史(連載第45回)

2023-02-10 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛

19世紀末以降における物理学の発達、中でも放射線の発見に始まり、原子のようなミクロな物質構成要素の解析に立ち入る核物理学の発達は、その当事者の多くがノーベル賞受賞者となる画期的研究成果とともに、時の国際情勢に影響されて、軍事科学における革新をもたらした。とりわけ、第二次世界大戦で原子爆弾が開発・実戦使用されたことのインパクトは決定的であり、以後、東西冷戦という新たな国際情勢の中、アメリカ、ソヴィエトを中心とした諸国による核兵器の研究開発競争が激化していった。当然、それには物理学、広くは科学の寄与があり、「核兵器科学」と呼ぶべき軍事科学の特殊分野が誕生したと言える。それは科学が効率的な大量殺戮に奉仕するという科学の歴史においても異状な「死の科学」の時代を画することとなった。


核物理学の誕生
 ニュートン以来発達を続けた近代物理学は当初、力学を中心にマクロの物理現象の数理的な解明に中心が置かれていたが、19世紀末に放射線という目に見えない物理現象が発見されて以来、20世紀前半にかけて、不可視的なミクロの物理現象の解明が進んだ。
 放射線の発見者はフランスの物理化学者アンリ・ベクレルであったが、ベクレルと同時に1903年度ノーベル物理学賞を受賞した同じくフランスの物理化学者学者ピエールとマリーのキュリー夫妻が放射性元素ポロニウムとラジウムを発見したことは、物理学の歴史を塗り替えることとなった。
 放射性元素の発見はそれらが放射線の放出を伴う放射性崩壊により別の元素に変化し得る性質(放射能)を有することを明らかにしたが、物質が帯有するそうした新たなエネルギーの発見は物質を原子レベルで稠密に解明する原子核物理学の誕生と発展を触発した。
 キュリー夫妻もそうした核物理学の先駆的な功労者であったが、より直接に核物理学(または原子物理学)の祖と言えるのは、イギリスの物理化学者アーネスト・ラザフォードである。彼は理論にとどまらない実証的な実験物理学者として、原子の中心部を構成し、質量を左右する原子核を発見し、1908年度ノーベル化学賞を受賞した。
 さらに、ラザフォードの理論予想に基づき、弟子の物理学者ジェームズ・チャドウィックが陽子とともに原子核を構成する中性子の存在を発見した。この中性子こそは原子核の連鎖反応を利用した原子爆弾の原理的な基礎を成すもので、その発見は直接に核兵器科学の誕生につながる。
 実際、1935年度ノーベル物理学賞受賞者でもあるチャドウィックは後に西側の原爆開発計画マンハッタン計画にもイギリス代表として関わっており、原爆の祖の一人ともなった人物である。
 とはいえ、1930年代以前の核物理学はまだ純粋の科学研究の域にとどまっており、軍事利用の兆候は見られなかった。それが急速に軍事利用へと転化していく背景には、二つの大戦の戦間期の不穏な国際情勢が決定的に関わっていた。

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近代科学の政治経済史(連載第44回)

2023-02-06 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

軍事科学への傾斜
 ソヴィエト科学において国策として最も偏重されたのは、軍事科学であった。軍事科学はスターリン時代以来、西側とりわけアメリカに追いつき、追い越すことをひらすらに追求する富国強兵的な国策の中で、軍事力の強化を支える科学的基盤であった。
 そうしたソヴィエト軍事科学の本格的な始動は、第二次大戦中/後の核兵器、特に原子爆弾の開発からである。知られているように、原爆開発は戦前からナチスドイツや軍国日本でも着手されていたが、いち早く実用化し、実戦使用したのはアメリカであった。
 これに対して、ソ連の原爆開発も第二次大戦中に始まるとはいえ、当時のソヴィエト科学の水準では対処できず完全に出遅れていたところ、アメリカが主導した原爆開発計画(マンハッタン計画)のインサイダーから漏洩された情報をもとに、核物理学者イーゴリ・クルチャトフが主導して開発を進め、1949年の核実験の成功を導いた。
 こうしたソヴィエト原爆計画の総指揮を執っていたのはスターリンの腹心で、秘密警察長官として恐怖政治の中心にあったラヴレンチー・ベリヤであった。ベリヤは彼らしいやり方で、複数の科学者チームに秘密の同一任務を割り当て、スパイの監視のもとに競合させる手法で開発計画をスピードアップさせた。
 1949年核実験に成功した勢いでソ連は水素爆弾の開発に進み、1953年にはアメリカに先駆けて世界初の実戦用水爆実験に成功する。水爆開発ではクルチャトフの下で原爆開発に従事していた若手の物理学者アンドレイ・サハロフが寄与し、「水爆の父」の異名を得た。
 こうして核物理学を基盤とする軍事科学はソヴィエト科学の最先端となったが、続いて、ソ連は宇宙開発に乗り出していく。嚆矢は世界初となる無人人工衛星の開発・打ち上げ計画であるスプートニク計画であった。
 その最初の成果であるスプートニク1号は、1957年10月に打ち上げに成功した。このことはアメリカにショックを与え、文化面にも及ぶ「スプートニクショック」なる社会現象を惹起したが、対抗上アメリカも宇宙開発に注力し、以後、世界はいわゆる宇宙開発競争の時代に入っていく。
 そうした中、ソ連は宇宙船ボストーク1号を開発し、1961年4月に宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンを擁して人類史上初の有人大気圏外宇宙飛行を成功させた。これもアメリカに先行し、スプートニクに次ぐショックを与えることになった。
 こうした相次ぐ画期的成功により、宇宙科学はソヴィエト科学の最先端分野となるが、ソヴィエト宇宙科学は軍事目的に奉仕する軍事科学の一環でもあり、総じてソ連における軍事科学の優位性が確立されていく。
 しかし、1960年代後半以降、ソ連はいわゆる停滞の時代に入り、アメリカが人類史上初の月面着陸を成功させた1969年以降は宇宙科学分野でもアメリカの優位性が高まり、ソ連は次第に閉塞していく。
 こうした閉塞状況は情報科学分野での停滞と軌を一にしており、進取の気性が見られたフルシチョフが失権し、現状維持的なブレジネフ政権が長期化する中で、共産党指導部が科学的な技術革新に関心を失ったことが大きい。
 とはいえ、ソヴィエト軍事科学はソ連邦解体まで相当な高水準を維持し、冷戦時代の軍拡競争をアメリカとともに先導したことは確かであり、中でも次章で扱う核兵器、広くは大量破壊兵器の開発と科学を結びつける役割を果たしたのである。

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近代科学の政治経済史(連載第43回)

2023-02-03 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

情報科学の進展と政治的停滞
 ソ連における情報科学の研究開発は、第二次大戦後の冷戦構造の中で、西側に伍していくうえで科学技術の進歩が不可欠とみなしていたスターリン政権の国策に基づいて本格的に始動する。1948年にソ連科学アカデミー精密機械・コンピュータ工学研究所が設立され、本格的な情報科学研究の拠点となった。
 同年には、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーが提唱し、今日のサイバースペースの基盤ともなっている生体‐機械間の相互的な情報科学理論サイバネティクスが世界で注目を集めたが、ソ連では他の西側所産の科学理論と同様、サイバネティクスも「ブルジョワ疑似科学」などとしていったん政治的に排斥された。
 しかし、情報科学の基礎理論としてのサイバネティクスはソ連でも実利的に受容され、1950年代以降、ソ連独自のコンピュータ開発が進んでいく。その嚆矢は、ウクライナ科学アカデミーのキエフ電気技術研究所を率いたセルゲイ・レベデフが開発した集積回路を持たない高速コンピューターБЭСМであった。
 БЭСМの集大成版となった半導体トランジスタによる汎用スーパーコンピュータБЭСМ6は1968年から20年近くにわたり生産され、軍用・民生用など様々な場面で長く活用された。
 БЭСМシリーズの開発をリードしたレべデフは1973年に死去したが、アメリカ電気電子学会コンピュータソサエティがコンピュータ業界における創造と活力の持続に寄与した人士を顕彰するために創設した賞であるコンピュータパイオニア賞(CPA)をソ連解体後の1996年に追贈された。
 ちなみに、同年にレべデフとともにCPAを同時追贈されたアレクセイ・リャプノフはソ連におけるサイバネティクスの浸透とプログラミング言語の第一人者としてリードした数学者・情報科学者であった。
 一方、ソ連科学アカデミーエネルギー研究所でも、全論理回路を半導体で作製したM-1コンピュータが開発されたほか、小型パーソナル・コンピュータとしては、キエフのサイバネティクス研究所が汎用性の高いミールのシリーズを開発した。
 かくして、ソ連の情報科学は1960年代にかけて大きく進歩し、当時この分野ではアメリカと並ぶか、むしろ上回る世界最先端に到達していたと見られるが、70年代以降、停滞を見せ始める。
 その要因として、ソ連では情報科学も軍事目的と密接に結びついており、機密性が強く、国際的に公開・利用されることがなかったこと、国策として国立の科学アカデミー系研究所で開発されたため、継続的な量産を予定せず、ビットや周辺機器等のスタンダードが規格化されなかったことから、更新性や互換性に欠けたことがある。
 そうした技術的な限界に加え、(おそらくは財政難から)共産党指導部が新規のコンピュータ開発を中止し、西側のコンピュータ、とりわけ米国IBM社製品の海賊版に依存するという安易な便法に走ったことで、以後の情報科学の進展が停滞したことが決定的であった。これもまた、政治と一体化されたソヴィエト科学の限界と言える。

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近代科学の政治経済史(連載第42回)

2023-02-01 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

物理学・化学の政治化の抑制
 ソヴィエト科学に対する政治イデオロギー統制は、自然科学の中でも最も基礎的な物理学と化学の分野にも及んでいった。ここでも、西側で提唱されたいくつかの有力な基礎理論が「観念論」として排斥されることとなった。
 物理学分野では、アインシュタインの相対性理論や量子力学など当時の物理学界における最先端の学説が槍玉に上げられた。中でも、アインシュタイン理論は中心的な標的とされ、アインシュタイン派学者への攻撃が行われた。
 実際、1940年代末には体制が認証する公式物理学理論の採択を目的に、物理学者の全国会議が企画された。そこでは物理学における観念論を排撃し、弁証法的唯物論に適合する物理学理論を構築すると意気込まれていたが、当時ソ連が注力していた原子爆弾の開発に際して相対性理論などの放棄は得策でないことが指摘され、会議は中止となった。
 このような経緯は、ソ連の軍拡政策に奉仕する軍事科学の優位性が戦後確立されていく中で、軍事科学の基礎理論としても有用な物理学のイデオロギー統制が内在的に抑制された事象として注目される。
 ちなみに、1940年代当時、ソ連の原爆開発を理論面でリードしていたのは今日もロシアの中心的な原子力研究機関として存続するクルチャトフ研究所に名を残す核物理学者イーゴリ・クルチャトフであったが、物理学における行き過ぎたイデオロギー統制にブレーキがかかったのも、クルチャトフの進言によるものであった。
 ちなみに、アインシュタインの相対性理論を修正する理論的な試みとして、スターリン没後、アナトリー・ログノフが一般相対性理論の代替案として相対論的重力理論を提唱したが、これは体制イデオロギーではなく、個人的な学説として提示された。ただし、国際的な認知を受けた学説とはなっていない。
 一方、化学の分野では、より明確なイデオロギー統制と迫害が行われた。ここでは特に量子力学を化学結合現象の説明に応用するライナス・ポーリング(1954年度ノーベル賞受賞者)の提唱にかかる共鳴理論がブルジョワ的観念論として槍玉に上がった。
 1951年には有機化学に関する全国会議が開催され、共鳴理論を「ブルジョワ疑似科学」と弾劾したが、これはあたかも基礎医学のイデオロギー統制を明確にした前年のパヴロフ会議の化学版であり、実際、生物学・基礎医学におけるイデオロギー統制とのリンクが意識されていた。
 とはいえ、有機化学は重化学工業を重視するソ連の産業政策に奉仕する実用科学でもあり、迫害がさほど広範囲に及ぶことはなかったが、化学のような基礎科学へのイデオロギー統制はソヴィエト科学の質の低下と立ち遅れの要因となった。

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近代科学の政治経済史(連載第41回)

2023-01-27 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

基礎医学の政治化
 生物学におけるルイセンコ学説の体制教義化は、生物学の応用分野でもある基礎医学にも波及することとなった。特にオルガ・レペシンスカヤが提唱した無生物から生物が自然発生するという非細胞生物理論はルイセンコ学説に次ぐ疑似科学理論であった。
 レペシンスカヤは医師・医学者であり、ソヴィエトにおける女性科学者の草分けの一人と言える人物であったが、ルイセンコと同様にメンデル遺伝子理論を否定しつつ、生物の発生という基礎的な問題について、如上の無生物からの発生という新理論を立てたのであるが、これも検証されず、捏造証拠に基づく疑似科学に過ぎなかった。
 無機物の結晶は核酸を添加することによって細胞に変換することができるとか、細胞が顆粒に崩壊することによって増殖し、若返り的に親細胞とは異なる新形態の細胞を生成するなどと主張するレペシンスカヤの所論はどこか2014年に発覚した日本の理化学研究所のSTAP細胞説に通ずるところがあり、理論の実証のために証拠を捏造するというレペシンスカヤの方略も論文不正が発覚したSTAP細胞問題に似る。
 レペシンスカヤ学説にも批判は向けられたが、スターリン(及びルイセンコ)から支持されたことで、スターリン時代の体制教義の地位を獲得し、反対説が封じられたのはルイセンコ学説と同様の経過である。
 これも、レペシンスカヤが革命前からの熱心なボリシェヴィキ党員・活動家として、ルイセンコ以上にソヴィエト体制と深い関係を築いていたという政治的な要因によっていた。彼女は、1944年に設立されたソ連邦医学アカデミーの実験生物学研究所でも高い地位を保持した。
 一方、スターリン政権の指示によって1950年に開催されたソ連邦科学アカデミーとソ連邦医学アカデミーの合同学術会議「パヴロフ会議」は、基礎医学系諸科学全般に及ぶイデオロギー統制の始まりとなった。
 この会議に冠せられたパヴロフとは、帝政ロシア時代の1904年にノーベル賞を受賞した生理学者イヴァン・パヴロフの名にちなんでいる。条件反射研究で名を残すパヴロフ自身は、ロシア革命後、いったんは迫害されかけ、海外亡命を申請するも、頭脳流出を懸念したレーニンによって一転厚遇され、ソヴィエト体制下でも研究活動が保証されていた。
 パヴロフは1936年に死去していたが、1950年の合同会議はパヴロフ理論を体制教義化することで西側の生理学及び精神医学に対抗するという政治的目的から開催されたイデオロギー性の強い「学術会議」であった。
 実際、この会議は反パヴロフ派と断じられた科学者を非難する糾弾大会の様相が強かった。そのうえで、パヴロフ理論がソヴィエト生物学・医学の基本理論として定められ、体制教義化された。
 特に精神病理学の分野では、西側の精神分析理論などのような心理学的潮流が排斥され、生理学還元主義が基調となったことで、ソヴィエト精神医学は薬理学的傾向を強め、向精神薬依存の治療モデルが支配的となった。
 パヴロフ会議で定立されたパヴロフ絶対化路線はその後にある程度修正はなされたものの、ソヴィエトにおける遺伝学、生理学、精神病理学等の正常な発展を数十年にわたって停止し、かえって基礎医学分野での西側からの遅れをもたらす結果となった。

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近代科学の政治経済史(連載第40回)

2023-01-24 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化(続き)

ルイセンコ遺伝学教義と迫害
 ソヴィエト科学の政治的イデオロギー性を最も如実に示す悪名高い事例は、トロフィム・ルイセンコが提唱した独自の疑似科学的な遺伝学説とその体制教義化、それを教条とする科学者の大量迫害事象であった。
 ウクライナ農民の出自であったルイセンコは元来、園芸や栽培技術を専門とする農学者としてスタートしたが、その後、遺伝学者に転じると、遺伝学のスタンダードとなっていたメンデルの遺伝子理論を否定し、ラマルクの旧進化論に基づく獲得形質遺伝説を提唱するに至った。
 ラマルク進化論もダーウィンの自然選択説に基づく新進化論によって克服されていたはずであるが、ルイセンコは自然選択説をも否定し、ラマルクの旧進化論に回帰しようとしたのであった。
 これは理論的に考察した結果というよりは、ルイセンコが農学者時代に低温によるいわゆる春化処理の技法を研究する中で、春まき小麦が秋まき小麦に、逆に秋まき小麦が春まき小麦に転化する現象を獲得形質の遺伝によるものと即断的に誤認したことによっていた。
 従って、ルイセンコ遺伝学説は科学学説と呼び得るだけの検証可能な根拠を持っていなかったにもかかわらず、ソ連では時のスターリン共産党指導部の強い支持を受け、ルイセンコ学説が一種の体制教義の地位を獲得したのである。
 このように、政治とは直接関係のない一介の生物学説に党指導部が入れ込んだ理由は必ずしも明らかでないが、一つにはルイセンコ自身が共産党員としてロシア革命後の政治的激動を巧みに乗り切り、党指導部ともパイプを築いたある種の政治力によるところが大きいようである。
 他方、スターリン指導部としても、その目玉政策であった農業集団化とその下での農業生産力の増強という政策課題を遂行するうえで、生物学者というより農学者としての知見を持つルイセンコは有用な存在だったことが大きい。
 実際、ルイセンコの正当な業績は先人のイヴァン・ミチューリンが開発した育種法であるヤロビ法を継承して春化処理の技法を確立したことにあり、これはソ連を超えて中国や日本の農法にも影響を及ぼした。
 しかし、彼の遺伝学説は当時のソ連国内でも異論が多く、論争を巻き起こしたが、ルイセンコ学説を信奉するスターリン指導部はルイセンコ学説に反対する学説、とりわけメンデル遺伝学を「観念論」「ブルジョワ思想」と断じ、反ルイセンコ派の科学者を投獄するなど激しく迫害した。
 その最も象徴的な犠牲者は植物学者・遺伝学者のニコライ・ヴァヴィロフであった。彼は遺伝的多様性理論に基づく植物の起源論で知られる科学者であったが、ルイセンコ学派から攻撃を受け、でっち上げの政治犯罪の容疑で逮捕、死刑判決を受け、減刑されたものの獄死した。
 一方、ルイセンコはソ連科学アカデミー遺伝学研究所長を1940年から1965年まで勤続し、スターリン存命中はもちろん、スターリン主義を否定したフルシチョフ指導部からも支持を得て、ソ連科学界の最重鎮として君臨し続けた。
 こうして、ルイセンコ学説はソ連体制における科学教義として一世を風靡したが、その実態は検証されない疑似科学であり、これはあたかもナチス体制下の疑似科学教義であったアーリア人学説に相当する政治的な体制教義にすぎないものであった。
 そのため、1964年にフルシチョフが党内政変で失権したのを機にルイセンコ学説も勢力を失い、翌年にはルイセンコも遺伝学研究所長を解任され、1976年に死去するまで晩年は不遇をかこつこととなった。

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近代科学の政治経済史(連載第39回)

2023-01-13 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

ソ連邦科学アカデミー
 ソヴィエト体制の存続期間中、ソヴィエト科学の総本山となったのがソ連邦科学アカデミーである。この機関は18世紀に設立されたロシア科学アカデミー(拙稿)を前身とし、ロシア十月革命から数年を経て、革命指導者レーニンが没した翌年の1925年に再編発足したものである。
 これに先立って、レーニン政権は1922年には旧帝政ロシア時代の知識人で、反ソヴィエト的とみなされた者を公職追放する措置を取り、かれらを蒸気船に乗せて国外へ追放したが、この通称「哲学者船」の乗客には科学者はあまり含まれていなかった。
 ロシア科学アカデミー(19世紀に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーに改称)は帝政ロシアにおける科学研究の基盤となり、帝政時代末期には大学を含めて多くの科学者が育ち始めていたが、帝政ロシアの科学者たちは革命政権と敵対することなく妥協し、アカデミーの再編存続を認めさせた。
 そうした激動期のアカデミーを率いて、ソ連邦科学アカデミー初代総裁となったのは地質学者・地球科学者のアレクサンデル・カルピンスキーであった。彼は十月革命前にロシア科学アカデミーの総裁に選出され、革命後も改めてソ連邦科学アカデミー総裁を1936年の死没まで務めた人物である。
 カルピンスキーはスターリン時代も迫害されることなく生き延び、ソヴィエト時代初期の科学界重鎮として90歳近い長寿を全うし、葬儀にはスターリンも参列、ソ連の切手の肖像に納まるほどの要人となった。
 一方、政治と一体化したソヴィエト科学が構築されたのも、カルピンスキーがアカデミー総裁職にあった時代である。1929年以降、アカデミーに対する党国家の統制は強化され、その幹部人事はソ連共産党が主導することが慣例となり、アカデミーはソ連政府の管理下に置かれた。
 その性格は事実上の党国家の研究機関であり、ソ連共産党のイデオロギーと政策目標に奉仕するべく定められていた。そうした条件下で、アカデミーは複数の支部組織とロシアを除く連邦構成共和国ごとのアカデミー、社会科学分野を含む300近い研究所、付属図書館のネットワークとして整備され、多数の研究者を擁する学術機構に発展し、多彩なソヴィエト科学を支えたことは確かである。
 ちなみに、医学分野に関しては1944年にソ連邦医学アカデミーが設立され、科学アカデミーとは別立てとなったが、当然ながら、その組織構造や性格は科学アカデミーに準じていた。
 科学アカデミーは最終的にソ連邦解体に至るまで7人の総裁を輩出したが、いずれも自然科学分野の研究者であり、特に戦後は核物理学や有機化学、宇宙工学、大気物理学など、ソ連政府が比重を置いていた重工業や軍需、宇宙開発に奉仕する分野の研究者が総裁職に就いていることからも、アカデミーの政治性が見て取れる。

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近代科学の政治経済史(連載第38回)

2023-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学

ナチスによる科学の政治的悪用は高度に政治化されたナチス科学と呼ぶべき特有の科学のありようを示したのであったが、ナチスの科学利用がどちらかと言えば実用的な観点からなされていたのに対し、科学そのものを政治と一体化させ、科学を体制イデオロギーに込み込んでしまったのがソヴィエト科学である。ソヴィエト科学は、ナチス体制と異なりソヴィエト体制が長期間持続したため、より本格的で多彩な展開を見せ、中でも宇宙開発を含む軍事科学の分野では一時アメリカを凌ぐ成果を出した。とはいえ、科学者もソヴィエト体制のイデオロギーに沿った理論を提唱する必要があり、科学的真理の探究は政治的に歪められ、不毛なイデオロギー論争に終始することもあった。また、しばしば科学者自身が政治的に迫害・抑圧されることもあり、科学と政治の一体化には弊害が大きかったことは確かである。


ソヴィエト科学とイデオロギー

 ソヴィエト科学における科学と政治の一体性の根源となったのは、ソヴィエトが体制イデオロギーと規定したマルクス‐レーニン主義による科学の統制である。もっとも、同主義に基づく統制は科学を含む全学術に適用され、科学への適用はその一環にすぎない。
 マルクス‐レーニン主義自体は本来、社会科学分野における理論であり、それを自然科学分野にまで拡大適用することには無理があったが、ソヴィエト体制はその無理を強制したところから、ソヴィエト科学の政治性が強まったのである。
 とりわけマルクス・レーニン主義がプロレタリア革命の理論にして、空想的な観念を排する「科学的社会主義」の理論と標榜されていたことから、「ブルジョワ的」または「観念論」とみなされた理論が排斥される傾向にあった。
 しかし、こうした基準は曖昧かつ非科学的ですらあり、結局のところ、科学理論の正当性は理論そのものよりその提唱者が体制に忠実であるか否かという政治的審査基準に帰着した。そのため、物理学者として正当な業績がありながら、反体制的な言動のゆえに長く流刑に処せられたアンドレイ・サハロフのような例も現れたのである。
 こうした政治的なソヴィエト科学の総本山は後で見るソ連邦科学アカデミーに置かれたが、ソヴィエトにおける科学研究が総じて大学よりも国立研究機関を基盤に行われたのも、統制が効きにくい大学より直接に党国家の統制と監視下に置きやすい国立研究機関が好まれたからであった。そのため、ソヴィエト時代には数多くの科学研究所が設立された。
 ソヴィエト科学におけるイデオロギー統制の程度にも時代的な変遷があり、初期の編制期を経て最も統制が強まったのは、スターリン独裁時代の1930年代から50年代初頭にかけてである。
 この時期にはスターリン自身が個人的にも興味を示した生物学・遺伝学分野で迫害を伴うイデオロギー論争が隆起したほか、物理学分野でもアインシュタインの相対性理論を「観念論」として排斥するようなキャンペーンが隆起している。
 第二次大戦後には核開発や宇宙開発といったより実用性の高い科学技術研究も活発に行われるようになり、前出サハロフも水爆開発で業績を上げているが、これらの研究は戦後の冷戦期における軍拡競争という国策に奉仕するものであった。
 スターリン死後のソヴィエト時代後半になると、ある程度イデオロギー統制が緩和されたとはいえ、科学と政治の一体化自体は体制末期の自由化によって解き放たれるまで不変であり、ソヴィエト科学の質を制約し続け、西側科学への遅れの要因となった。

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近代科学の政治経済史(連載第37回)

2022-12-23 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

交通工学と軍事工学の交錯
 ナチス科学の中でも評価が高く、今日でもその成果が継承されているのは工学分野であるが、とりわけ車両製造に関わる自動車工学や鉄道工学を含めた広義の交通工学分野である。
 ただ、ナチスにとっての交通工学はロシアをも視野に収めた欧州征服によるゲルマン帝国の建設という軍事的野望の達成と密接に関連しており、民生増進のための単なる科学技術政策の手段ではなく、軍事工学との境界線が曖昧で、両者交錯していたことを特徴とする。
 特に注力されたのは、高性能自動車の開発と自動車の普及であった。ナチス政権は最初期の1933年に早くもオーストリア生まれの自動車工学者・技術者フェルディナント・ポルシェに高性能の小型大衆車の設計を依頼、ポルシェを支援してフォルクスヴァーゲン・タイプ1の開発と量産を成功させている。
 こうした大衆車製造の中核として、ナチス政権が国策会社として設立したのが、その名も「大衆車」を意味するフォルクスヴァーゲンを冠したフォルクスヴァ―ゲン社であった。同社はナチス体制崩壊後も解体されず生き延び、現在の多国籍企業フォルクスワーゲンとして継続している。
 こうした大衆車開発と同時に、ナチスは自動車の高速化にも注力し、同じくポルシェの設計でアウトウニオン社が開発したカーレース専用車アウトウニオン・レーシングカーも開発、カーレーサーのベルント・ローゼマイヤーを擁して、カーレースの振興も図った。
 さらに、高速化した自動車が走行する自動車専用道路網として、ナチス台頭前のワイマール共和国時代から構想のあったいわゆるアウトバーンの建設計画を本格化させ、ナチ党員の土木技術者フリッツ・トートを建設総監に任命、第二次大戦開戦時までに3000キロを超える道路網の建設に成功した。
 一方、アウトバーンの鉄道版とも言える高速鉄道網ブライトシュプールバーンも計画されるが、こちらは第二次大戦開戦後の軍事目的が濃厚で、実際、この計画は征服地域の開発と密接に関連していた。それだけに、大戦の進行と戦局の悪化に伴い、未完に終わった。

ナチス軍事科学の「成果」
 前節冒頭で記したように、ナチス交通工学は当初から帝国を築くための軍事目的を濃厚に含んでいたため、戦争開始とともに、フォルクスヴァ―ゲン社やその他のドイツ自動車メーカー各社も軍用車両を開発・製造する軍需資本に転換され、工場では強制収容所のユダヤ囚人を動員した死の強制労働が行われた。
 そうした民生工学と軍事工学とをつなぐ接点となったのが、如上トートが創設したいわゆるトート機関であった。同機関は大戦前の1938年に設立されたが、開戦とともに軍需に比重が置かれ、ジークフリート線や大西洋の壁等の軍事的な防衛線や潜水艦基地などの軍事構造物の構築を指揮監督した。
 しかし、トートは科学技術者としての合理的な判断に基づき、リソースに限界のあるドイツが英米ソとの総力戦に敗北することを予見し、講和を提言していたが、所詮は技術屋で党内発言力の弱いトートの提言は無視され、失意の中、1942年の航空機事故で死亡した。
 ナチス軍事科学は、軍事科学プロパーの分野でも、陸海空軍それぞれに投入される高性能の兵器を生み出したが、中でも特筆すべきは、今日の巡航型、弾道型双方のミサイルの祖型を成すミサイル兵器の開発である。
 巡航ミサイルの祖型となるV1ミサイルはドイツ空軍が開発したもので、パルスジェットエンジンを搭載した簡素な構造を持つ低コストの飛行爆弾であり(機能的には現代の無人爆撃機の祖とも言える)、いまだ精密誘導は困難ながら、対敵報復兵器としては機能した。
 一方、V2はドイツ陸軍が開発した液体燃料による世界初の弾道型ロケットミサイルであり、その開発功労者はロケット工学者のヴェルナー・フォン・ブラウンとその先駆者でブラウンが助手を務めたヘルマン・オーベルトであった。
 オーベルトはナチス政権成立前から液体燃料ロケット開発の第一人者であったが、兵器として完成させたのは陸軍の支援を受けたブラウンと、陸軍兵器局で開発責任者を務めたロケット技術者ヴァルター・ドルンベルガーらのチームであった。
 ブランンやドルンベルガーらドイツのロケット工学者・技術者は戦後、戦犯に問われることなく、彼らの知見の流用を企図していたアメリカへの出国が許され、多くはアメリカに定住してアメリカの航空宇宙開発に寄与している。こうして、ナチス軍事科学の「成果」は、戦後、敵国によって再利用されることとなった。

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