ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第6回)

2022-02-27 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の残響
 ガリレオ裁判をめぐっては、カトリック教会は地動説そのものを迫害したわけではないとする弁護論も強力に唱えられてきたが、第二回裁判の直接的な契機となった著書『天文対話』は1822年に至るまで禁書とされたし、ガリレオ最晩年の著作で、ニュートンにも影響を及ぼした物理学書『新科学対話』もオランダで出版された。
 また、科学者ではないが、近代合理主義哲学の祖にして数学者であり、ガリレオ以上に太陽中心説(地動説)的と自負したフランスのルネ・デカルトも、ガリレオ同様に異端審問にかけられることを懸念して、著書の出版を中止し(死後出版)、また主著『方法序説』も偽名出版するなど、ガリレオ裁判には委縮効果も伴っていたことは否めない。
 教皇庁がようやくガリレオ裁判の再検証に入るのは、遠く19世紀後半、近代科学が普及し、科学文明の時代に入った後のことにすぎない。それでも、裁判結果を取り消すことはせず、最終的に20世紀も末の1992年になって、教皇ヨハネ・パウロ2世の謝罪声明によって、事実上裁判結果が撤回されたのであった。裁判から実に359年後のことである。
 とはいえ、ガリレオ裁判は近代科学全般の発展を阻害するほどの委縮効果を持ったわけではなく、宗教改革後のプロテスタント諸国では近代科学は大きく発展していくし、カトリック諸国でもフランスでは、次章で見るように、近代科学が王室の庇護を受けて国家公認の御用学問としても発展していくのである。
 その点、ガリレオより先に地動説を明確に支持していたドイツ出身の天文学者ヨハネス・ケプラーは、自身プロテスタントにして、勤務地はカトリックのオーストリア帝国という複雑な環境の中でも、弾圧されることなく、むしろ当時の公的な天文官であった宮廷占星術師としての地位を獲得している。
 もっとも、プロテスタントの祖の一人であるマルティン・ルターも地動説に批判的であったが、プロテスタント側には異端審問制度が存在しなかった。その代わりに魔女裁判が展開され、ケプラーの母で民間療法師だったカタリナ・ケプラーもドイツのヴュルテンベルグで魔女裁判にかけられ、ケプラー自身が弁護を買って出て無罪を勝ち取るという一件もあった。
 なぜケプラーの母が目を付けられたは必ずしも定かでなく、深層には高名な天文学者である息子との絡みで母親が魔術を行使しているという疑いをかけられた可能性はあるが、表面上は、この件はケプラー自身の問題ではなく、母の問題であり、ケプラーの科学的な所論は何ら争点ではなかったので、ガリレオ裁判とは性質の異なる事案であった。
 結局、ガリレオ裁判とは、勢力を増すプロテスタントに対するカトリック側の対抗宗教改革の中で、教会にとって脅威と映る所論を抑圧せんとするカトリックの保守的な宗教政治の文脈の中で、当時革新的な科学者として際立つ存在だったガリレオが目を付けられ、ある種の生贄に供された一件として理解されるべきなのかもしれない。

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近代科学の政治経済史(連載第5回)

2022-02-12 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開②
 ガリレオが前回裁判から17年も経た1633年に再び告発された理由としては、前年に公刊した『天文対話』が大きく関わっていた。前回見たとおり、この書は地動説を直接に講術しない対話の形式を取り、かつ事前に教皇庁の許可も得ていたにもかかわらず、告発されたのは、地動説を放棄し、今後論じないとした1616年の免責条項に違反したからというのであった。
 しかし、おそらく教皇庁にはめられたと感じたガリレオは、地動説を放棄するという誓約はしていない旨の反論を行ったが、このような弁明はかえって教皇庁の心証を悪くしたようであった。当時すでに前回裁判時の裁判官ベラルミーノ枢機卿は世を去っており、裁判官が入れ替わっていたことも事情を複雑にした。
 頼みは時の教皇ウルバヌス8世がガリレオのパトロンでもあったことであるが、期待に反し、ウルバヌスはガリレオを擁護しようとしなかった。その背景として、『天文対話』で天動説論者として登場する架空人物がイタリア語で「頭の鈍い者」を意味する名前を与えられていたことを自身への風刺とみなした教皇が憤慨したためとする説もある。
 それは穿った見方だとしても、『天文対話』が対話形式を取りつつも、実質上は地動説を正当とするニュアンスで書かれていることは否めないところであり、その点で、前回裁判当時の免責条件に違反したとみなした教皇庁側の立場にも一理はある。
 もう一人の頼みは、ガリレオのパトロンでもあったメディチ家のトスカーナ大公フェルディナンド2世の存在であった。実は『天文対話』もトスカーナの首府フィレンツェで出版され、好学のフェルディナンドに献呈されたものであった。
 しかし、当時のトスカーナ大公国はすでに衰退期にあり、往時の権勢を失い、教皇庁にも押されて北イタリアの小国に落ちていたため、教皇に対して何らの影響力も発揮できなかった。
 こうした不利な情勢の中、ガリレオは異端の有罪宣告を受け、明示的に地動説の放棄を誓約する文書を強制されることとなった。当初の刑は死刑を免れたものの、無期監禁刑であったが、直後に軟禁刑に減刑されたのは、教皇庁としてガリレオの学者としての名声に最大限配慮した結果かもしれない。
 とはいえ、終生にわたる軟禁であり(後にフィレンツェでの自宅軟禁が許される)、全役職を剥奪されたうえ、キリスト教徒としての埋葬も許されないという完全な社会的抹殺が強制されたことに変わりない。当然、ガリレオ著『天文対話』も禁書目録に搭載された。 
 ガリレオ裁判はすべての異端審問と同様、不公正な一方的糾問裁判であったが、それが科学者とその科学学説を対象としたという点で、特異なものであった。これにより、教皇庁は科学学説であっても、教理違反とみなす限り抑圧できるという先例を作ったことになる。このような先例の存在は、来たる近代科学の発展において、大きな制約となるであろうことは確実であった。

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近代科学の政治経済史(連載第4回)

2022-02-11 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開①
 通説によると、ガリレオは二度にわたり裁判にかけられたとされる。一度目は1616年のことであるが、最初にガリレオに対する教会教義の観点からの糾弾に動いたのはドミニコ会修道士らであった。
 しかし、そうした科学の素人からの教義的な非難よりも、カトリック司祭で教会法律家でもあったフランチェスコ・インゴーリから学問的な論争を挑まれたことのほうが重要な伏線となったようである。
 インゴーリは保守的な論客であったが、天動説を護持していたわけではなく、天文学もかじった知識人として、むしろ太陽と月が地球を周回し、同時に惑星が太陽を周回すると主張するデンマークの天文学者ティコ・ブラ―エの天動‐地動折衷説の支持者として、ガリレオを批判したのであった。
 この論争は本来科学的なものであるはずであるが、インゴーリは地動説批判を純粋に科学的な観点からではなく、神学的な観点からも整理し、地動説の反聖書的な性格を非難しており、教皇庁としても看過できなくなったと見られる。
 ただ、1616年に始まった審問は本格的なものではなく、裁判官ベラルミーノ枢機卿は、ガリレオが地動説の所論を放棄し、今後一切論じないことを条件に審問手続きを打ち切ることを持ちかけた。これは今日で言えば、司法取引に基づく不起訴処分のようなものであった。
 そのうえで、教皇庁は地動説の流布を禁ずる布告を発し、その典拠であるコペルニクスの『天球の回転について』を閲覧禁止とした。しかし、禁書として確定させたわけではなく、間もなく、地動説は天体観測をより容易かつ正確にする手段にすぎないと解釈する限りでは教会教理に服するものでないとして、閲覧禁止措置を解除したのであった。
 こうしたガリレオへの寛大な処分と地動説に対する第三者的な態度を見る限り、この時点でも、教皇庁は天体の動きに関する論争にはまだ積極的な関心を抱いておらず、科学論争に直接介入する意思もなかったと理解される。
 これにて落着していれば何も問題はなかったはずであるが、それから十数年後、ガリレオは再び告発され、今度こそ本格的な異端審問にかけられる羽目となる。そのきっかけは、ガリレオが長い沈黙を破り、1632年に公刊した『天文対話』であった。
 この著書は地動説を直接に展開するのでなく、タイトルの通り、仮想の人物の対話という形式を取って、地動説と天動説、さらに折衷説に近い中立説を対比させた解説書のようなものであり、地動説の講説を禁じられた先の免責条件に沿いつつ、かつ教皇庁の出版許可も得たうえでの公刊であった。
 そのように用意周到に準備したはずのガリレオが何故に再び告発されたのか。そこには、ガリレオの科学者としての信念と、当時の対抗宗教改革時代のローマにおける宗教政治とのまさしく相克が関わっていた。

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近代科学の政治経済史(連載第3回)

2022-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ・ガリレイと科学的方法
 近代科学原理に基づく考察の手順、すなわち今日にいわゆる科学的方法には、特定の偉大な創始者が存在するわけではないが、最も早い時期にそれを実践した代表者がイタリア人のガリレオ・ガリレイであったことは確かである。
 ガリレオは有名な地動説裁判のゆえに天文学者として名を残しているが、彼の本来の専門は数学及び物理学であり、各地の大学で数学教授を務め、出身地トスカーナ大公国で大公付き数学者という栄誉ある地位も得ていた。
 次の章で取り上げるように、当時のトスカーナ大公メディチ家は近代科学のパトロンでもあり、とりわけガリレオを子弟の家庭教師に雇うなど、強力に援助しており、黎明期の近代科学には世俗王侯と結ばれた御用学術という側面があった。
 ガリレオが何処で科学的方法論を修得したかについては定かでないが、本業の呉服商のかたわらセミ・プロ的な音響学者として数学的な方法論を開拓していたという父ヴィンチェンツォの影響が指摘される。いずれにせよ、ガリレオは実験に基づく数学的手法を用いた考察、さらには第三者による追試再現の奨励、その前提となる実験結果の積極的な公表という、今日の科学界では常道となっている方法の先駆者となった。
 総じて、ガリレオの方法論は、従来、哲学者によって兼業されていた思弁性の強い自然哲学を哲学から分離し、自然科学という新たな学術分野に整備する先駆けとなったと言えるが、このような方法論は、思弁性の極致でもあったカトリック神学とはいずれどこかで衝突する運命にあったとも言える。
 その点、ガリレオが活動した時代には、プロテスタント運動に対抗するカトリック側による対抗宗教改革が隆起していたことが、迫害の土壌を形成していた。対抗宗教改革の内実は多岐に及ぶが、教皇パウルス4世の時代に導入された禁書目録制度は、近代科学者にとっても脅威となり得る思想言論統制であった。
 禁書目録は、パウルス4世治下の教皇庁によって1564年に初めて公式に定められたが、奇しくも、この年はガリレオの生誕年でもあった。禁書の対象は何と言っても神学に関わりのある思想書が多く、近代科学を特に標的としたわけではなかったが、カトリック神学と近代科学はその方法論が真逆と言ってよいものであり、いずれ科学的著作が禁書指定される可能性は大いにあった。
 禁書目録とともに、教皇庁膝元のローマにも異端審問所が設置され、異端に対する取締りが強化されたことも、黎明期の近代科学にとっては脅威であった。ガリレオは、このような時代に近代科学の開拓者として登場したのだった。

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近代科学の政治経済史(連載第2回)

2021-12-05 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ

近代科学の出発点を成す地動説。地球は宇宙の中心で静止し、太陽その他の惑星が地球の周囲を周回しているのではなく、地球が他の惑星とともに太陽の周囲を自転・公転しているのであるとする地動説は、その原論を作った学者の名を取って「コペルニクス的転回」と呼ばれるほど、それまでの普遍的な常識を覆す新理論であった。しかし、この理論は、後にカトリック教会によって抑圧されることになる。


地動説と教会当局

 近代科学の出発点に据えられる地動説の原点は元来、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが16世紀前半に構想をまとめた理論であるが、彼自身はその集大成となる主著『天球の回転について』の出版を長く渋り、死の直前1543年になって発表された。
 コペルニクスが出版をためらった理由は不明であるが、宗教上の理由よりも、従来、千年以上にわたって自然哲学上の常識化した定説であった天動説をひっくり返すことによって起きる学界からの猛批判を恐れたものと見られる。
 実際のところ、地動説は後に改めて地動説をより科学的な方法で証明したガリレオ・ガリレイ(以下、通例に従いガリレオと表記)が宗教裁判にかけられたことで、教会当局による禁止学説であったと理解される傾向にあるが、実際のところ、教会が天動説を公式見解としたことはなく、コペルニクスの主著も出版当初は教皇庁から禁書とされることはなかった。
 その点、コペルニクス自身もカトリック聖職者であったが、正式の司祭ではなく、終生下級職にとどまっており、その研究もほぼ科学的な分野に限定されていたことで、教会当局の特段の注意を引くことはなかったものと思われる。
 教会当局が地動説の抑圧に踏み出したのは、コペルニクスの没後、半世紀近くを経た教皇庁の膝元イタリアの司祭兼哲学者ジョルダーノ・ブルーノに対する異端審問が契機であった。ブルーノは当時の哲学者の常道として神学からスタートしているが、次第に汎神論的な宇宙観を提唱するようになり、教会当局から異端視されるようになる。
 ブルーノは天文学者ではなく、哲学者であったが、哲学的考察から宇宙論にも及び、その仮説的な性格から当時はまだマイナー学説であったコペルニクスの地動説を支持しつつ、宇宙の無限性を主張した。このようなブルーノ哲学は教会教義への挑戦とみなされ、ブルーノは異端審問にかけられることになる。
 ただし、ブルーノ告発の理由は、地動説そのものよりも、彼の神学理論や哲学体系全体にその重点があった。ブルーノがカトリック公認修道会ドミニコ会の司祭でもあったということも、身内の反逆として教会の逆鱗に触れる要素であったのだろう。
 結局、ブルーノは1592年に逮捕され、異端審問に付せられることになるが、審判が開始されたのは1600年に入ってからであった。異端審問の常として結論先取りの茶番であったから、自説の撤回に応じない限りは有罪であった。ブルーノは断固撤回を拒否したため、型通りに火刑に処させられた。
 この後、1603年に教皇庁はブルーノの全著作を禁書目録に登載したが、ブルーノも参照したはずのコペルニクスの著作は禁書とされなかった。結局のところ、ブルーノ裁判の時点では、教会当局はまだ地動説そのものの抑圧は意図していなかったということである。
 それが、後に地動説そのものを裁くかのようなガリレオ裁判に踏み込む理由は必ずしも明らかではないが、一つ注目されるのは、ブルーノ裁判の裁判官として有罪を宣告したロベルト・ベラルミーノ枢機卿がガリレオ裁判(第一回)も担当していることである。
 ベラルミーノは保守派の神学者としても知られた理論派の高位聖職者であり、特にプロテスタントの攻勢の中、プロテスタントとの論争の最前線に立ちつつ、カトリック改革に尽力したとして、20世紀に列聖されているほどの人物である。
 当初、地動説そのものに関心のなかった教会当局が地動説自体の抑圧に動くに当たっては、当時第一級の教会イデオローグであったベラルミーノのカトリック改革政策という教会政治上の動向が影響していたと考えられるところである。

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近代科学の政治経済史(連載第1回)

2021-11-14 | 〆近代科学の政治経済史

 近代科学(以下、単に「科学」という)は、16世紀から17世紀に欧州で誕生して以来、今日までたゆまぬ発展を見せてきた知的な体系であり、営為でもある。それは外部の政治経済とは無縁に、数学や実験を通じて純粋に自然界の法則に迫ろうとする象牙の塔の産物のように見える。
 ところが、仔細に見れば、全くそうではなく、実際のところ、科学は、科学者が望むと望まざるとにかかわらず、政治経済に巻き込まれ、そうした外部環境と持ちつ持たれつの関係にもある。そのことは、まさに現在当面している感染症パンデミックでも露になっている。
 平素は、地味な、まさに象牙の塔の中で行われるウイルス学のような典型科学が、グローバルなパンデミックに際して政治経済の中に投げ出され、政治家や資本家によって都合よく利用され、もみくちゃにされている姿が目撃されてきた。このような経験は、近代科学始まって以来、初のことと言えるかもしれない。
 しかし、科学の歴史を通覧してみれば、科学が何らかの形で時の政治経済に巻き込まれていくことは、その草創期から今日まで変わらぬ宿命のようである。その意味で、科学は近代以降の社会構造全体の中で、経済の下部構造に対し、政治と並んで上部構造を成す主要素であるとも言える。
 本連載は、そうした科学と政治経済との絡み合いに関して、科学の草創期から今日に至るまでの軌跡を検証する試みである。その際、科学の創始期をガリレオ・ガリレイの地動説の提唱に置くことにする。
 実際のところ、科学の創始期をどこに取るかについては諸説あるようだが、地動説はそれまでの自然界に対する人間の見方を根底から変革する意義を持つ学説であり、まさに科学の出発点にふさわしいからである。
 ガリレイと言えば、その学説が問題視されて宗教裁判にかけられたことでも著名であるが、この「ガリレオ裁判」がまさに当時のイタリアにおける宗教=政治動向とも密接に連動していたのであり、まさに科学は草創期から政治経済に巻き込まれていたのであった。
 一方、本連載の終点は、現在進行中のパンデミック問題がふさわしかろうが、この件はまだ歴史の中に収められていないので、詳しく言及することは避け、むしろ科学が公衆衛生対策を通じて社会統制の道具として利用されるようになってきた近現代的潮流の一環として触れるにとどめる。
 なお、科学といった場合、自然法則の発見を目的とする「自然科学」とともに、広義には経済学に代表されるような「社会科学」も包括されるが、これはその対象分野や方法論とも自然科学とは異質であるので、錯綜を避けるためにも、社会科学は検討対象から除外する。


※以下に、予定されている章立てを示す(変更の可能性あり)。

一 近代科学と政教の相克Ⅰ

二 御用学術としての近代科学

三 商用学術としての近代科学

四 近代科学と政教の相克Ⅱ

五 軍用学術としての近代科学

六 電気工学の誕生と社会革命

七 医薬学の発展と製薬資本の誕生

八 科学の政治的悪用

九 科学と政治の一体化

十 核兵器と科学

十一 宇宙探求から宇宙開発へ

十二 情報科学と情報資本の誕生

十三 科学と社会統制 

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