ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第21回)

2022-10-02 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

アメリカの反進化論法と進化論裁判
 ダーウィン進化論は科学界でも論争を招いたが、次第に受容されて、公教育における理科教育でも先進的な生物学理論として教授されるようになっていった。こうした動きに対して最も強い反作用を示したのが、アメリカにおけるプロテスタント系福音主義者である。
 福音主義にも種々の流派があるが、聖書の記述を絶対化する聖書無謬論の立場を採る原理主義派は、聖書における天地創造説話を歴史的な真実とみなす立場から、ダーウィン進化論に強く反発し、教育の場で進化論を教授することに反対する運動を展開した。
 こうした反進化論運動をより政治的な運動に高めたのは、政治家ウィリアム・ジェニングス・ブライアンであった。彼は三度にわたり民主党大統領候補ともなったリベラルな政治家であり、女性参政権や累進課税の導入運動などでも活動する一方、宗教的に福音原理主義派に近い立場から、進化論に反対した。
 ブライアンの反対理由には、宗教保守的な解釈と、社会進化論が人種差別や優生学を正当化する理論として悪用されることへのリベラル派としての懸念がないまぜになっていたが、後者はダーウィン進化論とその派生理論としての社会進化論の混同という誤謬に発している。
 しかし、ブライアンは宗教的・思想的批判を超えて公教育で進化論を教授することを禁止する州法の制定を求める運動を展開したことで、問題は一気に政治化することになる。実際、南部のいくつかの保守州では、ブライアンの運動に呼応して反進化論法が現実に制定された。
 中でも、テネシー州では反進化論法に反して進化論を教えた無名の理科教師ジョン・トマス・スコ―プスが刑事訴追されるという弾圧事件―通称モンキー裁判―に発展した。
 1925年に行われたこの裁判では、弁護側を有力な憲法人権団体である自由人権協会が支援し、著名な弁護士クラレンス・ダロウが付いたことで全米的な関心を集める憲法裁判となったが、陪審評決は有罪であり、スコープスには罰金刑が科せられた。
 州最高裁は形式的な理由によるスコープスへの有罪判決を取り消したものの、反進化論の合憲性は承認したため、反進化論法は1967年の廃止まで存続することとなり、スコープスも教職を追われた。
 その後、反進化論法は、1968年のアーカンソー州反進化論法裁判で、合衆国最高裁が反進化論法を表現の自由を保障する憲法修正第1条に違反すると断じたことで、ようやく廃止の流れが生じた。
 しかし、福音原理主義派は1980年代以降、創造論を「科学」とみなし、進化論と均等な時間で教授することを要求するなど、形を変えた反進化論運動を展開し、21世紀に入って再び反進化論法制定運動を活発化するなど、アメリカにおける進化論と政教の相克は現代まで続いている。

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近代科学の政治経済史(連載第20回)

2022-09-18 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

社会進化論と資本主義・帝国主義
 ダーウィン進化論は、そこから社会科学分野の派生的な理論として、社会進化論を生み出した。これは、英国の哲学者、社会学者、人類学者にして生物学者でもあったほぼ独学の多彩な知識人、ハーバート・スペンサーの提唱にかかる社会理論である。
 本連載は、広義の「科学」の中でも、いわゆる社会科学は論外に置く方針であるが、社会進化論の提唱者であるスペンサーは自身、生物学者でもあり、ダーウィンから直接的な触発を受けて理論を構築したため、通常は社会科学理論と目される社会進化論については、論究しておくことにする。
 スペンサーの社会進化論は、ダーウィンの自然選択説を「適者生存」と解釈し直したうえ、これは自然のみならず、人類の社会にも適用することにより、人類の社会もまた適者生存によって進化していくとする理論である。
 それだけにとどまらず、スペンサーは旧進化論者であるラマルクにも触発されつつ、人類社会の進化(進歩)を単純さから複雑さ、あるいは単一性から多様性への進歩ととらえつつ、多様性の極限が人類社会の理想的到達点であるとし、社会に過剰な介入をしない自由な国家こそが理想の国家体制であるというレッセ・フェールの自由主義政治経済思想を導き出した。
 このようにレッセ・フェールを進化論で根拠づける立論は、19世紀末から発達し始めた独占資本主義の拡大に理論的な根拠を与えたことは見やすい道理である。実際、当時新興資本主義国として台頭してきたアメリカの資本家の間では、より通俗化した社会進化論に基づいて独占資本主義を正当化しようとする議論が興った。
 ロックフェラーやカーネギーといったこの時代の産業資本家の多くが社会進化論者であり、独占企業体により市場支配は適者生存の帰結であるとして正当化され、また国家が産業活動に干渉することも社会の進歩を妨げることとして忌避されたのである。
 実際のところ、自然選択説は単純な弱肉強食論ではなく、場合によっては弱者が適者として生存し、強者が適応できず淘汰されることもあり得るということが眼目であったが、通俗化した社会進化論にあってはそうした機微な議論は排除され、弱肉強食による淘汰理論が風靡したのである。
 他方、通俗化した社会進化論は国際政治の分野にも拡大され、弱肉強食論が国家間にも適用されて、欧米列強や強勢化した日本による帝国主義的植民地支配を正当化する立論にまで到達するが、これはスペンサーの自由主義的国家観からも逸脱した俗流社会進化論の最も危険な帰結であった。
 こうして、進化論は社会進化論に〝進化〟して政財界では大いに風靡する理論となったが、他方で、本家本元のダーウィン進化論は聖界では依然として否定的であった。
 奇妙なことに、社会進化論の聖地ともなったアメリカでは公教育において進化論を教授することに反対するプロテスタント系福音主義派の運動が隆起して、20世紀初頭以降、いくつかの州では反進化論法が制定されるという分裂した現象が生じたのであった。

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近代科学の政治経済史(連載第19回)

2022-09-09 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

優生学の誕生
 ダーウィンの進化論は宗教界ではおおむね不評であったが、世俗政治においては、俗流に歪められた形で受容されることとなった。そのきっかけを作り出したのが、母方からダーウィンの従弟に当たるフランシス・ゴルトンである。
 ゴルトンは遺伝学者・統計学者として知られるが、その名を著名にしたのは優生学の創始者としてである。優生学はダーウィン進化論を遺伝学と結びつけ、人類集団の遺伝的な質を向上させることを目的とする学問とされる。
 ゴルトンは人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものであるとし、動物の品種改良と同じように、人間にも選択交配を適用すれば高い才能を作り出し、ひいては良い社会が形成されると主張した。
 裏を返せば、障碍という能力制限的特質も遺伝によってもたらされるものであるから、そうした負の遺伝要素についてはこれを淘汰することで人類社会は改善されていくということになり、実際、ゴルトンは後にこうした意味で、優れた遺伝子を保存し、劣った遺伝子を淘汰する優生思想へと到達したのである。
 実は、ダーウィン自身も『人間の由来』という別著の中で、弱者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘しており、優生学の萌芽はダーウィンの所論にも見られていた。しかし、ダーウィンは弱者への援助を控えることは人類の同情の本能を危険にさらすとも指摘して、人道思想を支持した。
 これに対して、ゴルトンは弱者保護政策は弱者を人類社会から廃絶すべきはずの自然選択と齟齬を来たすとして、弱者保護に反対した。

優生学の政治利用
 実際のところ、ゴルトンの所論はダーウィン理論の形式的・皮相的な二次加工であって、同時代的にも批判者はあったが、その単純さゆえに科学の素人にもわかりやす過ぎるという危険性を内包していた。
 そのためか、ゴルトン自身は弱者淘汰のための政策的手段、中でも絶滅のような強権的手段は何ら提示しなかったにもかかわらず、優生学は科学的究明よりも政策的手段の開発へと突き進んでいく。
 特に、米国が優生学研究の先端地となった。米国有数の優生学者であったチャールズ・ダベンポートが設立した優生記録所が米国における優生学研究の拠点となり、彼の著書・論文が多大な権威を持った。
 また、公民権法会改革前の米国では、優生学が人種差別に対する新たな科学的根拠として援用され、ダベンポートの『人種改良学』がその理論書となった。その結果、20世紀の二つの大戦間期の米国では、ダベンポート理論に沿って、移民制限や人種隔離のような人種差別的政策が連邦レベルでも追求された。
 同時に、知的障碍者・精神障碍者の結婚を制限する婚姻制限政策が州レベルで立法化され、さらに、障碍者への強制不妊手術を正当化する断種法の制定も1907年のインディアナ州法を皮切りに相次いだ。
 こうした断種政策は、その後、北欧諸国からスイス、カナダ、オーストラリア、日本など同時の先進/新興諸国にも拡散し、中でもドイツでは後にナチスによる大規模な障碍者抹殺にまで行き着くが、この究極点は政治による科学の悪用事例として後に別途見ることにする。

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近代科学の政治経済史(連載第18回)

2022-08-27 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

ダーウィン進化論とカトリック界
 ダーウィン進化論に対するカトリック界の反応は、必ずしも明確ではなかった。これはダーウィンが英国国教会の優勢なイギリスの科学者であったことも影響しているのであろうが、『種の起源』公刊後の1869年‐70年に開催された第一バチカン公会議でも、進化論には言及されなかった。
 このような沈黙は、17世紀にガリレイを宗教裁判にかけて迫害し、その後、彼の著作を禁書とした強硬措置に比して対照的である。実際、地動説は明確に聖書の記述と矛盾するものではないが、進化論は天地創造説に抵触することを考慮しても、こうした対応はいささか不可解である。
 その点、ダーウィンの『種の起源』が出た19世紀後半には、カトリックといえども、近代科学を否定することはもはやできない段階に達しており、科学学説に対して直接に介入し、科学者を断罪するという所作を差し控えるようになっていたのかもしれない。
 とはいえ、個別的には進化論を否定するような対応がいくつかなされている。公刊翌年の1860年には、ドイツのカトリック司教会議がダーウィン進化論は聖書と信仰に反するとする声明を発している。
 また、1876年にはスペインのカナリア諸島で活動した人類学者グレゴリオ・チル・イ・ナランホが、ダーウィン進化論を擁護したかどで、カナリア諸島の司教から破門されたのは最も踏み込んだ措置であるが、これとて地方司教区レベルの対応にとどまる。
 ダーウィンの没後には、カトリック聖職者の立場で進化論を擁護した司祭や司教がバチカンからの非難や圧力を受け、著作の回収や持論の撤回に追い込まれたこともあるが、バチカンとして公式に進化論を否定する立場表明には至っていない。
 こうしたバチカンの沈黙政策の中、創造説と進化論を両立させ、神は進化を含む自然法則に従って生物種を創造したと解する有神的進化論が提唱され、プロテスタントを含め、かなりのキリスト教徒に抱懐されるようになっており、科学と信仰の対立をある程度まで止揚する思考的試みがなされている。

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近代科学の政治経済史(連載第17回)

2022-08-26 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

ダーウィン進化論と宗教界の反発
 チャールズ・ダーウィンがその著名な主著『種の起源』を公刊したのは、旧進化論者ラマルクの没後30周年に当たる1859年であった。著書の公式タイトルは『自然選択、すなわち生存競争における有利な種の保存による種の起源』という長いものであった。
 著書の全体論旨を見事に凝縮した明快なこのタイトルには、ラマルクの用不用論のような素朴な進化論を超えて、自然選択という新たな視座を提唱しつつ、かつ天地創造説のような神学的な創世論を否認し、生物種の起源に関する科学的な理論を定立せんとするダーウィンの企図が込められている。
 ちなみに、ダーウィン自身は英国では正統派の国教会教徒であり、父は彼を牧師にするため、ケンブリッジ大学で神学を学ばせた。科学の道に転身してからも、ダーウィンは無神論者ではなく、聖書の無謬性も信じていたとされるが、博物学者としての研究旅行の中で、科学と信仰の相克に悩み、事物の本質認識を不可能とする不可知論に傾斜していたようである。
 しかし、彼の研究集大成でもあった『種の起源』では、まさに種の起源について天地創造を否定するに至ったため、宗教界からの反応は概して否定的であり、ダーウィンの恩師にして、国教会聖職者・地質学者でもあったアダム・セジウィックもダーウィン進化論の論敵となった。
 また、ヴィクトリア女王の宗教顧問でもあったサミュエル・ウィルバーフォース主教もダーウィン進化論に対する強力な反対者となり、ダーウィンをナイト爵の候補者に推薦することに反対した。そのため、その学術上の業績からすればナイト爵を授与されても然るべきダーウィンは生涯、国家的栄典に浴しなかった。
 しかし、そうした公的な冷遇を超えて、ダーウィンが17世紀のガリレオのように直接に迫害を受けるようなことがなかったのは、英国国教会のある程度までリベラルな体質と、17世紀以降近代科学の先進地であった英国の自由な知的風土のゆえであろう。

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近代科学の政治経済史(連載第16回)

2022-08-14 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ

近代科学は17世紀の最初期に地動説をめぐり宗教政治に巻き込まれ、抑圧されたが、19世紀以降は、進化論が大きな論争の的となる。地動説が天文・物理学分野のパラダイム転換をもたらす画期的な科学理論だったとすれば、進化論は生物学分野におけるパラダイム転換をもたらす画期的科学理論であったが、それは聖書における天地創造説と直接に対立するため、相克関係はより深刻なはずであった。


旧進化論者ラマルクの不遇

 今日単に「進化論」と言えば、英国の博物学者チャールズ・ダーウィンが提唱した自然選択説を指すが、このような新しい進化論の登場には、フランス革命期の博物学者ジャン‐バティスト・ラマルクが提唱した用不用説が先行していた。
 ラマルクは「生物学」という用語そのものの創案者でもあり、従来、生きとし生けるものすべてを神が創造したと思念する天地創造説(創造論)が支配的で、生命体を科学的な究明対象とすること自体タブーであった状況を打破した革新的な科学者であった。
 ただし、ラマルクの進化論とは、生物がよく使う器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の獲得形質が子孫に遺伝すると論じる素朴な理論であった、このような古い進化論はダーウィンの進化論によって現在では克服され、失効している。
 ラマルク自身は神を創造主とするキリスト教信仰を捨ててはいなかったが、用不用論にも創造論に抵触する面があるため、創造論者からの攻撃を受けることになった。中でも時の皇帝ナポレオンが熱心な創造論者であったため、ラマルクを迫害し、彼が創刊した気象学の学術誌まで廃刊に追い込まれた。
 ラマルクはまた、プロテスタントながら同じく創造論者の生物学者で、ナポレオンからも重用されてフランス科学界の重鎮となっていたジョルジュ・キュヴィエからも攻撃を受け、晩年は研究活動もままならず、貧困状態に置かれた。
 ちなみに、キュヴィエ自身は生物の変遷を創造論と矛盾しないよう天変地異の影響で説明する天変地異論者であった。天変地異論も今日では克服されているが、キュヴィエは実証的な古生物学や比較解剖学の祖としては名を残す科学者で、皮肉にもその業績はダーウィンの進化論に影響を及ぼしたと言われる。
 ラマルクは地動説のガリレイのように宗教裁判にかけられることこそなかったが、カトリック保守主義のフランスでは不遇をかこつこととなった。その点、19世紀生まれの新進化論者ダーウィンは、異なる時代と環境に恵まれていた。

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近代科学の政治経済史(連載第15回)

2022-07-30 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

機械工学とサービス資本
 機械工学はおよそ機械であればあらゆる種類のものに及ぶ極めて広汎な学術であるが、18世紀産業革命との関わりでは、交通機関、中でも船舶や鉄道の分野でも飛躍的な進歩を促した。これもまた蒸気機関の開発・改良と直結している。
 ただし、蒸気船や蒸気機関車という新たな交通手段の登場自体はおおむね19世紀初頭以降にかかるので、これは18世紀産業革命の仕上げ段階のことであるが、18世紀における蒸気機関の開発・改良なくしては次の世紀の交通革命もなかったことは確かである。
 先行したのは、古代から存在した伝統的長距離輸送手段である船舶の革新、すなわち蒸気船の発明である。これは米国人の発明家ロバート・フルトンの功績であるが、当初画家志望だったフルトンが発明家に転じたのも18世紀後半の渡英経験がきっかけであったので、彼も英国産業革命の申し子の一人である。
 フルトンが開発した最初の実用的な蒸気船は外輪を使用するタイプのもので、河川航行にほぼ特化した船舶であったが、後に同じ米国人発明家ジョン・スティーブンスが外洋航行可能な本格的な蒸気船の開発に成功した。ただし、まだ伝統的な帆船も高速改良されたうえで併存したが、いずれ蒸気船に取って代わる運命であった。
 他方、陸の交通手段としての蒸気機関車の発明は1804年、英国人機械技術者リチャード・トレビシックによるが、これは実用性のない試作品であり、実用的な蒸気機関車の開発は同じ英国人機械技術者ジョージとロバートのスティーブンソン父子による。
 こうして蒸気機関車の発祥地となった英国では、1830年代以降に鉄道網の整備が大きく進展し、世界最初の鉄道大国となるが、このことが高速での長距離物流を可能にし、先行の工業資本の飛躍に寄与したことは当然である。
 そればかりでなく、蒸気船の開発と合わせ、新しい交通手段の開発は運輸という無形サービスを定型的に提供するサービス資本という近代的な資本の形態を誕生させた。鉄道企業や水運(海運)企業がその先駆けである。
 それはまた、鉄道発展期の英国で亡命生活を送ったマルクスが『資本論』で当時の鉄道会社の過酷な労働条件を特記しているように(拙稿)、有形的な製品を生産する工場労働とも異なり、時間に直接拘束される無形的剰余労働の形態をも産み出したのである。

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近代科学の政治経済史(連載第14回)

2022-07-29 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

機械工学と工業資本
 産業学術としての基盤とも言えるのが工学であるが、現代まで永続的な成果を保っているのが、機械工学である。機械工学は主に物理学を応用して機械の設計から製造、運用に至る技術を研究する学術であり、あらゆる産業分野で何らかの機械工学が適用されている。
 18世紀産業革命では、発明家によって種々の画期的機械が考案され、まさに革命的な変化を促したのであるが、それまでの職人技に支えられていた家内工業を解体して、労働力を集約した工場で特定の製品を大量生産するという現代では常識となった生産様式が現れ、工業資本が台頭したのも、機械工学の成果である。
 中でも織機・紡績機と動力機械の発明は、両者あいまって生産様式を激変させる効果を持った。織機・紡績機に関しては、以前に見た特許紛争で悪名高いアークライトの水力紡績機が画期的であった。
 これにより紡績工場で多数の工員を雇い、綿糸を大量生産することを可能としたが、同時に熟練した機織り職人を必要とせず、未熟練労働者を安く使った集約的工場制度を作り出したという点では、まさに「女工哀史」の世界をもたらした原点でもある。
 しかし、水力紡績機は水力を用いるという点では生産速度に問題を残す旧式の機械であったが、蒸気機関の発明に伴い、蒸気を動力とするカートライトの力職機が出ると、生産速度が飛躍的に伸び、生産効率の向上、ひいては生産余剰を生み、資本主義の本質である剰余価値の形成・増大を後押しした。
 その意味で、動力機械の開発は工業資本の形成の下支え的な意義を持った。最初の実用的動力機械は、産業革命前の発明家であるトマス・ニューコメンの蒸気機関であったが、これは効率が悪く、ワットが熱交換機能を持つ復水器を開発したことで、エネルギー効率が向上するとともに、水力に依存しないため、工場は水源から離れていてもよく、立地条件も拡大した。
 蒸気機関はまた、当時最も有力な燃料であった石炭の需要を増大させ、炭鉱開発を促進したが、排水ポンプに蒸気機関を応用することで炭鉱の排水効率が向上したことは石炭の増産を促すというように、経済的にも技術的にも鉱業資本の発達に寄与している。

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近代科学の政治経済史(連載第13回)

2022-07-17 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

産業学術としての工学
 産業革命を促進した発明はアカデミズムではなく、職人階級出自の発明家たちの経験的な実学的知見に発したものであったが、一方で、各種産業技術の理論的な基礎を成す実践科学としての工学が勃興してきたのもまた、産業革命渦中の英国においてであった。
 そうした産業学術としての工学の草分けと言えるのが、ジョン・スミートンである。もっとも、スミートンも初めからアカデミズムに身を置いたわけではなく、元は科学的な測定器具や航海器具の発明からキャリアをスタートさせており、発明家と言える人物である。
 しかし、スミートンは他の発明家のように起業して資本家となる道は行かず、理論家となった。彼が創始した学術はcivil engineeringと呼ばれるが、これは日本語では「土木工学」が定訳となっている。
 しかし、スミートンがcivil engineerという新語を創案した際に念頭に置いていたのは、軍の工兵(military engineer)との対比であったから、civil engineerは土木技術者に限らず、非軍事的な民生分野の技術者全般であり、その名詞形であるcivil engineeringも本来は「民生工学」と訳すべきものであったろう。
 従って、スミートンの専門分野は土木工学に限らず、各種の機械工学にも及んでいたのであるが、重要なことは、彼が1753年に王立協会フェローに選出されたことである。王立協会はニュートン会長時代以来、理論科学に偏っていたが、スミートンを受け入れたことで、実用科学としての工学もアカデミズムから認知されたのであった。
 また、スミートン自身、1771年に民生技術者協会(Society of Civil Engineers)を結成、この組織は彼の死後、1818年に民生工学会(Institution of Civil Engineers)と改称し、工学分野の学会として今日まで存続している。
 こうした専門学会組織の誕生は、工学が単なる経験のみの実学にとどまらず、実用的な学術として社会的に認知され、発展する社会的基盤を与えられたことを意味している。
 スミートン自身、工学者として、理論のみならず技術者としても橋や水路などの土木開発、揚水機や水車、風車の開発、さらには法廷での専門家証人など、産業学術としての実践的な工学の発展に大きな足跡を残している。
 また、同時代には、産業革命の中心地の一つでもあったバーミンガムで、多分野の科学者や資本家らが集まって情報交換をし合うルナー・ソサエティ(月光協会)なる非公式のサロン風会合がもたれ、スミートンも貢献しているが、これは最も初期の産学連携の形態とも言える。

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近代科学の政治経済史(連載第12回)

2022-07-03 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

発明家と知的所有権テーゼ
 18世紀産業革命の原動力となる発明家が発明資本家階級となるに際しての法的な担保は、特許権であった。18世紀のブルジョワ社会思想において、所有権、わけても土地所有権が最大の自由として謳われる中で、知識をも無形の所有物とみなす知的所有権の観念が現前してきた。
 このような知的所有権テーゼはしかし、18世紀当時はまだ不備な点が多く、発明家の中には紛糾する特許訴訟を抱え込む者もいた。中でも、同姓同名の二人のジョン・ケイである。
 一人目のジョン・ケイは前回も名を挙げた飛び杼(フライング・シャトル)のジョン・ケイである。彼が開発した飛び杼は伝統的な手織り機にローラーの付いた杼を取り付けることで短時間かつ職工一人で織れるようになるという便利なもので、多くの織物業者がまさに飛びついた。
 ところが、業者は特許料を支払わず無断使用したため、ケイは業者を提訴して争ったが、業者側もシャトルクラブなる互助団体を結成して対抗したため、ケイは裁判費用がかさみ破産状態となり、フランスへ移住した。
 当時海外からの発明家移民を歓迎していたフランスではケイに年金を保障することで囲い込みを図ったが、フランスでも無断使用にさらされ、特許料を得ることはできないまま、ケイは失意のうちにフランスで没した。
 もう一人のジョン・ケイはリチャード・アークライトとともに水力紡績機を開発した人物である。アークライトは元理髪師兼かつら職人であったが、紡績業に転じた後、時計職人ながら紡績機械の改良研究をしていたケイと共同で水力紡績機を開発した。これは伝統的な糸車を水力で動かす機械式ローラーに置換する画期的な機械であった。
 実のところ、アークライトは発明そのものより、広範囲な特許を元手とする経営手腕に長けていた人物であるが、目玉製品である水力紡績機の特許を独占するべく、ケイを排除して単独で特許を取得した。これに憤慨したケイはアークライトを提訴し、二人は決別することとなった。
 後に、別の特許裁判でケイが証言したところによると、元来のアイデアはケイの共同開発者トマス・ハイズのもので、それをケイが無断でアークライトに流したというのであった。紡績機に関しては、アークライトもケイも本来素人で、ハイズこそは織機職人であったので、あり得べき筋であった。
 しかし、専門的な特許裁判の制度が確立されていなかった当時、結局のところ、原開発者は特定できないまま、民事陪審はアークライトの特許を無効とする評決を下したため、ハイズの特許は認められなかった。
 一方、蒸気機関の改良者として名を残すジェームズ・ワットは実業家のパートナーであるマシュー・ボールトンとともに創立したボールトン・アンド・ワット社を通じて特許権侵害訴訟で実質勝訴し、自身いくつもの単独特許を取得するなど、近代的な特許権の成功者でもあった。

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近代科学の政治経済史(連載第11回)

2022-07-02 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

発明資本家階級の誕生
 18世紀産業革命の原動力となる実用科学の分野は、多くは職人階級に属した発明家の出現に支えられていた。中でも、英国における輩出が際立っていたことが、同国を産業革命の発祥地としたのであった。
 それらの人士を逐一挙げていれば限界がないほどであるが、産業革命全体の端緒ともなった綿織物工業分野では、飛び杼(フライング・シャトル)を発明したジョン・ケイ、ジェニー紡績機を発明したジェームズ・ハーグリーブス、水力紡績機を発明したリチャード・アークライト(ただし、疑義あり)、ミュール紡績機を発明したサミュエル・クロンプトン、蒸気機関を利用した力織機を発明したエドモンド・カートライトなどがいる。
 また、最初の大容量動力源として広汎な応用性を示した蒸気機関の改良で名を残すジェームズ・ワットも、後の蒸気船や蒸気機関車といった最初の人為的な動力交通手段の開発につながる貢献をしている。
 さらに、産業革命を促進したもう一つの分野である製鉄関連でも、コークス製鉄法を開発したエイブラハム・ダービー(及びその子孫)、攪拌精錬法(パドル法)を開発したヘンリー・コートを挙げることができる。
 これらの発明家たちは、エドモンド・カートライトのように旧家の出でオックスフォード大卒(ただし、当初は牧師)というエリート出自の例外はあったが、ほとんどが職人階級出自であり、高等教育を受けた科学者ではなかった。
 しかし、実地で学んだ工学的知識に基づいて各種の発明をし、かつ自身が特許権を法的手段としつつ、起業するという形で資本家ともなった。18世紀の発明家の多くが、こうして言わば発明資本家階級という新しい社会階層を形成した。
  かれらは王立学会の威光とは無縁の者たちばかりであったが、まだ未発達だった不安定な特許権に支えられつつ、発明収入で一財産築き、ブルジョワ階級に上昇する資本主義的起業家の元祖ともなった。
 その点、自らコンピューターソフトやアプリケーションを開発しつつ、それをもとに起業する現代の情報資本家にも通ずるところがあり、かれらは18世紀発明資本家の現代的バージョンと言えるかもしれない。

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近代科学の政治経済史(連載第10回)

2022-05-29 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学

近代科学は、18世紀以降、理論科学と実用科学に分岐しつつ、後者は産業技術の飛躍的な進歩を促進し、産業革命の主要な動因となる。近代科学なくして産業革命もなかったことは間違いないが、産業学術としての近代科学の発展は近代科学が純然たる学問的探究の世界を脱して経済界と結びつき、産学複合を形成する契機ともなる。


理論科学と実用科学の分岐
 近代産業社会の幕開けとなる産業革命が18世紀の英国に発したことは広く知られているが、英国が産業革命の発祥地となったのは、その一世紀前の17世紀における近代科学の創始と深い関連性がある。
 前章でも見たように、英国では近代科学がチャールズ2世の庇護を受け、御用学術として発展していくが、その象徴である王立学会は形式上御用機関でありながら、プロイセンやロシアの同種機関のように完全な御用機関とはならず、民間の自由な研究組織として発展していった。
 ただし、王立学会が直接に産業技術の母体となったわけではない。王立学会はロバート・フックが指導していた当初こそ、実用性をも伴った実験科学―ガリレオ以来、近代科学の伝統であった―を主流としたが、若き日にはフックの論敵でもあったアイザック・ニュートンが会長職に就き、以後24年間も「君臨」すると、ニュートンの嗜好を反映し、思弁性の強い理論研究が主流となったからである。
 このことは、理論科学(基礎科学)と実用科学(応用科学)とが分岐する最初の契機となったかもしれない。理論科学を代表する王立学会はニュートン自身もごく短期間、庶民院議員を務めたように、政界とのつながりを強め、歴代会長には一定の科学的バックグランドを持ちながら政界にも身を置く人物(貴族を含む)の任命が増し、権威を高めた。
 こうした理論科学と実用科学の分岐によって、後者からは工学が誕生した。中でも社会基盤整備の物理的な土台を成す土木工学の分野である。その重要な先駆者であるジョン・スミートンも英国人である。
 とはいえ、実用科学としての工学は当初においてはアカデミズムの外部にあった発明家によって開拓されていくのであるが、後に改めて論及するように、工学者として名を成すスミートンも、そのキャリアのスタートは職人であった。

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近代科学の政治経済史(連載第9回)

2022-05-08 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学(続き)

プロイセン科学アカデミー
 ドイツ語圏において御用学術としての科学を象徴する組織は、1700年にブランデンブルク選帝侯立科学協会の名称で設立されたプロイセン王立科学協会である。この組織は当時のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が哲学者で数学者でもあったゴットフリート・ライプニッツの提案を容れて設立したものである。
 ライプニッツ自身は科学者というよりは総合的知識人といったタイプの人物であったが、先行の英国王立学会やフランス科学アカデミーに触発され、招聘されたベルリンで、同種のアカデミーの設立をブランデンブルク選帝侯に進言したのであった。そして、時の選帝侯フリードリヒ3世が1701年にプロイセン王フリードリヒ1世となったことで、プロイセンの御用学術機関に格上げされた。
 ただし、この機関の設置に際しては、フリードリヒ1世自身よりも二番目の妃であったゾフィー・シャルロッテの影響が強かったと見られる。好学の彼女はベルリンにサロンを開き、多くの学者や芸術者を集めており、ライプニッツとも文通関係にあった。
 プロイセン王立科学アカデミーは自然科学のみならず、人文科学もカバーしていた点で、英国王立学会やフランス科学アカデミーより幅が広く、1710年以降、自然科学部門と人文科学部門とに二分された。これは、学術の文理分割、とりわけ自然哲学からの自然科学の分離の先駆けでもあった。
 プロイセン科学アカデミーは第3代プロイセン王で啓蒙専制君主であったフリードリヒ3世の治下、未解決の科学的問題の解決に対して金銭的報酬が支払われることとなり、御用研究機関としての性格を強め、天文台や解剖施設、医学研究施設や植物園、実験施設などの附属組織が順次整備されていき、本格的な王立研究機関となった。

ロシア科学アカデミー
 同様の御用機関は、ロシアでも1725年に設立されている。設立者が当時のピョートル1世(大帝)であったことは不思議でない。彼は言わばロシアの啓蒙専制君主として、ロシアの西欧的近代化を邁進しようとしていたからである。ただし、ピョートルは1725年の開設を目前に死去した。
 開設当時のロシアの科学界は全く未発達であり、当初のアカデミーは数学者・物理学者のレオンハルト・オイラーや、ダニエル・ベルヌーイ、発生学者のカスパー・ヴォルフといった主としてドイツ語圏のお雇い外国人に依存していた。
 しかも、開設を前にピョートルが死去したこともあって、アカデミーは発展することなく、次第に形骸化したが、この状況を変えたのが女帝エカチェリーナ2世である。完全なドイツ人であった彼女はロシアの文化的発展に注力し、その一環として、停滞していた科学アカデミーの院長に側近女官エカチェリーナ・ダーシュコワ公爵夫人を任命した。
 ダーシュコワは科学者ではないが、高い教養を備えた才女として知られ、同様に教養人であったエカチェリーナ女帝の議論相手としても最側近者となっていたことから、女帝はアカデミーの再建を彼女に託したのであった。
 1783年から96年まで院長を務めたダーシュコワは手腕を発揮し、論文集や教科書の出版事業で得た収益を活用して基金を設け、数学や物理学、化学等の公開講座を開設、下級貴族子弟らへの教育・啓蒙活動を行った。こうして、ロシア科学アカデミーは女帝と女官という二人の女性の手により再興されたことは注目に値する。

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近代科学の政治経済史(連載第8回)

2022-04-09 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学(続き)

英国王立学会
 メディチ家の実験アカデミーが設立されて間もなくの1660年、英国では王立学会(ロイヤル・ソサエティー)が設立された。正式名称は「自然の知識を促進するためのロンドン王立学会」という長名であるが、要するに自然科学学会である。
 とはいえ、当初のメンバーの中で科学者と呼び得るのは三分の一程度で、その余は政治家や法律家を含めた他分野の専門職らであり、メンバー構成としては知識人会といった趣のある団体であった。
 この団体の特徴は、王立の名辞にもかかわらず、民間人の発案にかかる民間団体であったことである。ただし、箔付けのため、時の国王チャールズ2世の勅許を得たことから、国王の認証する準公的団体となった。
 その点で、王立学会は純粋の御用学術機関ではないが、勅許を与えたチャールズ2世は少年期に物理、化学や数学の家庭教育を受けたことから、個人的に科学を好み、自身でも天文台や化学実験室を設立するなど、終生科学研究に助成を行ったため、王立学会も形式的な認可ではなく、自身の関心から積極的に勅許を与えたのであった。
 王立学会の初期の最も著名な会員は、弾性に関するフックの法則で名を残したロバート・フックである。彼は王立学会の主任実験助手として雇われた後に会員となり、後に事務局長として王立学会の初期の活動で足跡を残した。
 王立学会も、メディチ家の実験アカデミーと同じく、実験科学の発展を当初の目的とし、公開実験などを積極的に行ったが、次第に学問的な討論の場となり、まさに「学会」に変化した。その結果、王立学会は今日まで持続する最古の科学学会となった。

フランス科学アカデミー
 英国王立学会に続き、フランスでも1667年に科学アカデミーが設立された。その経緯は英国王立学会とは大きく異なり、時の財務総監ジャン‐バティスト・コルベールの発案に基づき、時のルイ14世が創設したもので、1699年に正式に王立機関となった。
 このように、フランス科学アカデミーはルイ14世からの下賜金を元に初めから御用機関としてスタートしたが、財政再建に辣腕を振るっていたコルベールがこのようなコストのかかる御用機関の設置をあえて提案したのは、科学技術の発展が国家の繁栄につながるということに着眼していたからであった。
 しかし、当時フランス科学はまだ発展途上であったため、オランダの優れた物理学者クリスティアーン・ホイヘンスを外国人会員として招聘し、研究拠点を与えた。ホイヘンスが特に名を残した光の波動に関する原理を発見したのも、フランス時代であった。
 御用機関であることを反映し、フランス科学アカデミーは会則に基づいて運営され、幾何学や機械学などを含む部門に分けられるなど、組織性が明確であったことに特徴がある。その点では、現代の国立科学研究機関の草分けとも言える存在である。
 実際、フランス科学アカデミーは革命前の旧体制下で発展し、当時の欧州における科学研究の最前線にあったが、それだけに革命後は旧体制の象徴として敵視され、いったん廃止となり、後にフランス学士院の一つとして再編され、今日に至っている。

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近代科学の政治経済史(連載第7回)

2022-03-20 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学

近代科学はその出発点においてカトリック聖界との摩擦を引き起こしたものの、俗権との関係は良好であった。それどころか、近代科学草創期の王侯貴族は新しい思潮である科学に関心を抱き、積極的にこれを擁護し、パトロン的な立場に立つことすらあった。おそらく、科学を統治に利用できる可能性を想定してのことであろう。このことは、近代科学の最初期の発展において強い追い風となった。
 

メディチ家の「実験アカデミー」
 地動説を開陳したがゆえに異端審問により弾圧されたガリレオであったが、郷里のトスカーナでは大公メディチ家から厚遇されており、メディチ家が事実上のパトロンであった。ことに第4代大公コジモ2世によって宮廷数学者に任命された縁で、ガリレオはトスカーナ宮廷の権威を借りて研究活動を展開することができた。
 コジモ2世を継いだ息子の第5代大公フェルディナンドも父親以上に科学に関心を持ち、ガリレオの影響ないし教示により、密閉ガラス温度計を自ら発明したとされている。しかし、彼の時代、トスカーナ大公国は斜陽化し、フェルディナンド自身も統治能力の不足から、斜陽化に拍車をかけた。
 そのため、彼はガリレオの救援に何らの助力もできなかったが、有罪判決を受けた後、郷里での自宅軟禁を許されたガリレオを慰問するなど、フェルディナンドは終生にわたり、ガリレオを後援し続けた。
 フェルディナンドは、ガリレオの没後も、その高弟で、物理学的な意味での真空の発見や流体力学の基本公式トリチェリの定理の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリの後援者となっている。
 さらに、フェルディナンド同様に科学趣味のあった末弟レオポルドは、1657年、兄とともに学術団体アカデミア・デル・チメント(実験アカデミー)を設立するに至った。これは正式な科学学会としては最も先駆的なものである。
 この学会の特徴は、単なる名誉的な集団にとどまらず、種々の実験器具の開発や測定基準の制定、さらには先駆的な気象観測まで行うなど、名称どおり、実験に徹した実践的な活動を展開した点で、一種の科学研究所の先駆けであり、正確な器具と単位を用いた実験とその結果の公表という科学的プロトコルの開発者でもあった。
 しかし、この学会は長続きせず、共同創立者レオポルドが枢機卿に叙任された1667年に解散された。創立からちょうど10年の節目であった。解散の経緯は複雑であったようであるが、決定的だったのは解散が枢機卿叙任の条件とされたことのようである。そうした政治的経緯には、なお近代科学に敵対的な聖界との相克が透けて見える。

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