ザ・コミュニスト

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戦後ファシズム史(連載第40回)

2016-06-07 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐3:ウガンダの場合
 ウガンダでは1970年代、擬似ファシズムの形態ながらアミンの暴虐な独裁体制下で多大の犠牲を出したことは以前に見たが(拙稿参照)、アミンがタンザニアの軍事介入によって打倒された後も、ウガンダでは混乱が続いた。
 一度はアミンによって追放されていたオボテ大統領が復帰するも、アミンさながらの暴虐に走り、81年以降は内戦状態となる中、85年には軍事クーデターで再び政権を追われた。翌年、この混乱を収拾したのは、ヨウェリ・ムセヴェニに率いられた反政府ゲリラ国民抵抗軍であった。
 ムセヴェニは元マルクス主義者にして、第一次オボテ政権時代の情報機関員も務めたが、アミンのクーデター後、タンザニアに逃れ、反アミン闘争に没入した。79年のアミン打倒作戦にも参加したが、第二次オボテ政権とは対決し、反オボテ闘争を開始する。
 86年に武力で全土を制圧した国民抵抗軍(国民抵抗運動)が樹立した体制は革命政権の性格が強く、各地区に設置された抵抗評議会が地方の政治経済を担う機関とされ、政党ベースでの選挙参加を禁ずるある種の草の根民主主義の形が取られていた。
 そうした体制下で、ムセヴェニは世界銀行やIMFの構造調整政策をいち早く取り入れて、長年の独裁と内戦により崩壊状態にあったウガンダ経済の建て直しと経済開発に取り組み、ウガンダを安定化させることに成功した。
 このように、国民抵抗運動体制には政党によらない民主主義の実験とも見える一面があったが、一方で北部を中心になお完全には鎮圧できない反政府勢力への対抗上、体制は次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていく。
 その頂点に立つムセヴェニ大統領は革命10周年の96年まで大統領選挙を行なわずに統治した。96年の選挙で圧勝したムセヴェニはその後も5年ごとに多選を重ね、今日に至るまで30年に及ぶ政権を維持している。
 この間、2005年以降ようやく複数政党制が導入されたが、国民抵抗運動は議会において圧倒的な多数を占めており、政権独占状態は不変である。
 ムセヴェニの国民抵抗運動体制は、親米欧かつ新自由主義的な構造調整にも積極的なことから、ムセヴェニはアフリカの新世代指導者として称賛され、国際的な非難を受けることは少ないが、少なくとも初期の草の根民主期を除けば、90年代以降の実態としては、開発ファシズムの傾向も伴った管理ファシズムの性格を強めていると言える。
 また90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけザイールのモブトゥ・ファシスト政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、侵略主義的な傾向も見せ始めた。
 近年になると、NGOの活動の制約や、公共秩序法による集会の自由の制限、さらにはアフリカでは成功例とされるエイズ対策に仮託した同性愛者厳罰法などの管理主義的な立法が累積されてきている。
 政権の長期化に伴う汚職も深刻化しているが、全体主義的管理体制が独立以来混乱続きのウガンダに相対的な安定をもたらしていることも事実であり、体制が大きく揺らぐ気配は現状では見られない。

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戦後ファシズム史(連載第39回)

2016-06-06 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐2:エジプトの場合
 エジプトでは、ナセルに率いられた自由将校団による1952年の共和革命後は、アラブ社会主義を掲げたナセルの親ソ社会主義体制が敷かれたが、ナセルが1970年に急死した後は、革命の盟友でもあった後継者サダトの下で脱社会主義化が図られる。 
 サダト政権はイスラエル国家の承認という画期的な外交政策の転換に踏み切ったが、政権としては過渡的で不安定な性格が強かったところ、サダト大統領は81年、イスラーム原理主義者の一将校により暗殺された。
 その非常事態下で登場したのが、ホスニ・ムバーラクであった。彼は空軍パイロットの出身で、若くして空軍司令官となり、73年の第四次中東戦争における功績から、75年以来、サダト政権の副大統領の座にあった。
 ムバーラクは以後、2011年、「アラブの春」の一貫としての民衆革命で政権を追われるまで、エジプト共和制史上最長の30年にわたって大統領として権力を維持した。
 この間のムバーラク体制は、サダト暗殺事件後の非常事態宣言を恒常的に維持し、常時非常大権を掌握しながら、全体主義的な社会管理を徹底するというものであった。とりわけ、サダト暗殺にも関与したイスラーム原理主義勢力に対しては封じ込めを徹底した。
 統治のマシンとしては、サダト時代の与党として設立された国民民主党が利用された。この党は元来、ナセル時代の与党・アラブ社会主義同盟が社会主義色を薄めて再編された中道左派政党であったが、ムバーラク時代にはムバーラクのマシンとして、各界に根を張る支配政党に作り変えられていた。
 従って、この党も本来的なファシズム政党ではないが、ムバーラク体制下における実態としては、全体主義的な包括政党の性格が濃厚であり、その点でムバーラク体制は不真正ファシズム型の管理ファシズムであったと考えられる。
 ムバーラク体制は外交上は親米(対イスラエル宥和)の立場を堅持し、冷戦終結後は湾岸戦争やアフガン戦争でも対米協力を行い、米国を後ろ盾につけて体制保証としていた。国内的には、秘密警察を活用した抑圧を敷く一方で、サダトの脱社会主義化路線を継承して経済開発を進め、80年代前半には高い経済成長を示した。
 2000年前後から、新自由主義政策の施行により民営化など市場主義的な改革を推進し、再び経済成長を軌道に乗せるが、一方では長期政権に伴う腐敗の蔓延や自身を含む一族の蓄財が体制を内部から腐食させていた。
 そうした中、チュニジアに発した民衆革命「アラブの春」は磐石と思われたムバーラク体制にも波及してきた。2011年1月末以降、エジプトでも民衆デモが拡大し、これを強権的に弾圧することを断念したムバーラクは2月、大統領辞職を表明した。
 こうしてムバーラク体制は幕を閉じ、翌年実施された史上初の直接大統領選挙では、長年の野党ムスリム同胞団系のムハンマド・ムルシーが選出された。市民殺害などの罪で起訴された高齢のムバーラクは、終身刑判決を受け、収監された。
 この流れを再び覆したのは、2013年、イスラーム主義的な改憲を強行しようとして反発を招いていたムルシー政権を軍事クーデターで打倒したアブドルファッターフ・アッ‐スィースィであった。当時国防相だったスィースィは治安回復を名目に大量処刑・拘束を断行し、形式的な民政移管プロセスを経て、2014年に大統領に選出された。
 スィースィはムバーラク時代に立身した職業軍人であり、スィースィ政権の性格はムバーラク体制の継承者である。ただし、ムバーラク時代の与党国民民主党は解体されており、現時点でスィースィは標榜上無所属である。
 そのため、スィースィ政権の性格はなお不確定であり、ファシズムというより管理主義的な擬似ファシズムと言えるかもしれない。ただ、長期政権化すれば、新たな包括与党が結成され、第二の管理ファシズムが明確に出現する可能性はある。

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戦後ファシズム史(連載第38回)

2016-05-25 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐1:シンガポールの場合
 管理ファシズムの最も洗練された範例を提供しているのは、東南アジアの都市国家シンガポールである。シンガポールは1965年にマレーシアから華人系国家として独立して以来、一貫して人民行動党の支配体制が続いている。
 人民行動党は、独立前、華人系左派政党として弁護士出身のリー・クアン・ユーらによって結党された。リーは日本のシンガポール占領時代には日本の協力者だったこともあるが、戦後は英領復帰後のシンガポールで労組系弁護士として台頭し、政界に転身して30代で自治政府首相となった。
 リーはやがて左派を排除し、人民行動党を反共右派政党に作り変えたうえで、自身の政治マシンとして利用していく。ただし、完全な一党支配ではなく、野党の存在は認めるが、野党活動を統制し、与党有利の選挙制度によって選挙結果を合法的にコントロールしつつ、与党が常時圧倒的多数を占める体制を維持するという巧妙な政治体制を構築した。この点で、シンガポールは「議会制ファシズム」とも呼ぶべき形態の先駆けでもあった。
 リーは自治政府時代の59年から建国をはさみ、90年まで現職の首相であり続けたが、この間のシンガポールは経済開発に重点を置いた開発ファシズムの一形態であった。その点では、同時期に経済成長を遂げ、共に「新興工業経済地域」と称されるようになった台湾や韓国とも共通根を持っていた。
 ただ、シンガポールは政治と労使の協調に基づく官製労働関係、二人っ子政策や優生思想に基づく高学歴女性の出産奨励策などに象徴される人口調節策など、都市国家ならではのきめ細かな管理政策に特徴があり、これが高度な社会統制の秘訣となってきた。
 こうしたソフトな施策ばかりでなく、広範な予防拘束の余地を認める内国治安法や団体の結成を規制する結社法などの強権的治安・言論統制法規、体刑や死刑のような厳罰の多用、些細な迷惑行為も罰則で取り締まる秩序法規などのハードな施策による巧みな社会統制装置が備わっている。
 その意味で、シンガポールには当初から「管理ファシズム」の要素が備わっていたと言えるが、経済開発が一段落し、リーが上級相に退いて一種の院政に入って以降は、開発ファシズムから管理ファシズムに転形したと言える。
 現在のシンガポールは、2004年までのリー院政下でのゴー・チョク・トン首相の中継ぎを経て、リー子息のリー・シェン・ロン首相の世襲体制に入っているが、シェン・ロンは父の施策の踏襲を基本とし、目立った民主化の動きは見せていない。
 2015年に91歳で死去したクアン・ユーは「家父長的」とも評されるカリスマ的権威をもって指導したが、弁護士出身のプラグマティックな一面も持ち合わせており、まさに管理ファシズムの権化的存在であった。
 ファシズム体制はカリスマ的指導者の権威に支えられる面が大きいため、世襲には必ずしも適していないが、プラグマティックな管理ファシズムではそれが可能な場合も考えられる。アフリカのトーゴのケースと並び、今後の展開が注目される。

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戦後ファシズム史(連載第37回)

2016-05-24 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2:管理ファシズム
 前回述べたように、現代型ファシズムはイデオロギー色を薄め、全体主義的な社会管理を志向するプラグマティックな権威ファシズムの性格を持つが、このような型のファシズムをここでは「管理ファシズム」と呼ぶことにする。
 元来、ファシズムは国民統合を高度に実現するための強権的な社会管理体制であるので、すべてのファシズムの本質に管理主義がある。従って、ファシズムの反共イデオロギー色を薄めていくと、後には管理主義が蒸留されて残ることになる。
 他方で、マルクス‐レーニン主義その他の社会主義イデオロギーを脱して、旧一党支配体制を再編するに当たって、変節的に管理ファシズムに到達することがある。このように、管理ファシズムには、ファシズムのイデオロギー的脱色化と脱社会主義イデオロギーの双方からのコンヴァージェンスとしての意義がある。
 このような管理ファシズムは、成立したばかりの新興国家、もしくは大規模な体制変動を経験した直後の再編国家を安定化させるうえで有効な面もあるため、冷戦終結以降の新興国家や再編国家においてかなり広がりを見せている。とりわけ、ロシアを含む旧ソ連構成諸国から独立した新興諸国において管理ファシズムが集中していることには一定の理由があり、これらは旧ソ連の体制教義マルクス‐レーニン主義からの変節化形態の事例でもある。
 管理ファシズムは、政治制度上は必ずしも議会主義を否定せず、むしろ「独裁」批判を回避する狙いからも議会制の形態をまとうことが少なくないが、議会では政権与党が圧倒的な多数を占め、野党は断片化・無力化されているのが通例である。
 また管理ファシズムにおける社会管理は何らかの差別的社会統制を通じて行なわれるが、大虐殺のような非人道的手法は慎重に回避されることが多く、その実態は外部からは見えにくい。ちなみに、近年は管理ファシズムの共通政策として反同性愛政策を執行することが多い。
 またカリスマ的指導者の存在は管理ファシズムに関する一つのメルクマールであるが、それも真正ファシズムに見られるような超越的指導者ではなく、一定以上の実務的な手腕を持つテクノクラート出身者が多い。これは戦後ファシズムではよく見られる現象であり、管理ファシズムにおいてその傾向は一段と増す。
 現時点における管理ファシズムの分布域は、アジア、アフリカが圧倒的な中心であるが、欧米や日本においても、反移民国粋ファシスト勢力が政権を獲得すれば、これらの「先進」地域にも拡散する可能性は十分にあると考えられる。

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戦後ファシズム史(連載第36回)

2016-05-23 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

1:現代型ファシズム
 
第四部で取り上げるのは、現代型ファシズムである。このような用語自体、「ファシズムは過去のものである」とする国際常識的な命題に反しているため、論議を呼ぶ可能性がある。しかし、序説でも述べたとおり、ファシズムは決して過去のものではなく、現在進行形であり、また近未来形の事象でもある。
 となると、「戦後ファシズム史」という表題での歴史的な叙述の中に現代型ファシズムを混ぜ込むことはいささか矛盾しているようにも感じられようが、現代型ファシズムが成立したのも、あるいは近未来のファシズムの芽が生じたのも、現時点から見れば過去の時点のことであるので、現代史・同時代史的な意味で、これらの事象も歴史的な叙述に含めるものである。
 ところで、現代型ファシズムは従来型のファシズム以上に、ファシズムとは認識し難いことが多い。従来のファシズムは例外なく、反共主義をイデオロギー的な核心としており、ファシズムとは最も強度な反共主義の表現と言ってもよかった。しかし、現代型ファシズムにこのような定式は当てはまらず、イデオロギー的な曖昧化が進んでいる。
 イデオロギー的曖昧化は冷戦終結後のあらゆる政党・政治党派に共通する現象であるが、現代型ファシズムにあっては、従来のファシズム体制が共通して反共主義をイデオロギー的核心としていたのとは対照的に、反共主義は解除され、むしろマルクス主義やその他社会主義からの変節化形態が極めて多いことが特徴である。
 こうしたことから、現代型ファシズムは、すべてが綱領上明確にファシズムをイデオロギーとしない政党ないし政治集団を通じた不真正ファシズムの形態を採っており、しかも「独裁」批判を回避する目的から、表面上は議会制形態を維持することがますます多くなっている(議会制ファシズム)。
 総じて、現代型ファシズムはイデオロギー要素が希釈され、全体主義的な社会管理を志向するプラグマティックな権威ファシズムの性格を持つと考えられる。そのため、外観上も、ファシズムの域に達しない反動的権威主義との鑑別が困難になっており、実際、当該体制の為政者自身もファシズムを自覚していない場合や、個別的な政策綱領で本性を隠蔽する偽装ファシズムの形態を採る場合もあり得る。
 従って、ある体制がファシズムに分類できるか否かは、全体主義的社会管理の有無、差別的社会統制の強度やカリスマ的支配の有無・程度を基準にして識別する必要がある。さらに、現時点ではファシズムの域に達していないが、ファシズムへの移行可能性を潜在的に持つという限りで、「ファッショ化要警戒事象」というような概念を導入する必要性もあろう。
 他方、近未来につながる現代型ファシズムの別種として、イスラーム原理主義を核とするイスラーム・ファシズムが見られる。後に詳しく見るが、これは単なるイスラーム原理主義を超え、より過激かつ全体主義的な体制として構築されたイスラーム支配形態である。
 このイスラーム・ファシズムとそれがしばしば手段とする国際テロルに対抗する形で、欧州を中心にイスラーム教徒移民の排斥と社会浄化を呼号する反移民国粋ファシズムの潮流が起きている。また、同様の志向を伴った日本における国粋ファシズムの潮流も見られる。ただし、これらはまだ体制化されておらず、近未来ファシズムの萌芽にとどまっている。

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戦後ファシズム史(連載第35回)

2016-05-10 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

7:ルワンダ内戦と人種ファシズム
 1990年代の旧ユーゴ内戦と同時並行的な事象として、アフリカの小国ルワンダで発生した内戦がある。この内戦渦中では、最大推計で100万人(国民の約20パーセント)と言われる大虐殺が生じ、世界に衝撃を与えた。
 ルワンダ大虐殺という事変そのものについては、20年以上を経過した現在、まとまった資料も存在しているため、それらに譲るとして、ここではそのような事変の根底にあった人種ファシズムについて取り上げる。ルワンダで極めて悪性の強いファシズム現象が発生したことには歴史的な淵源がある。
 ルワンダにおける民族構成は、他のアフリカ諸国とは異なり、大多数をフトゥと呼ばれる民族が占め、少数派としてトゥツィとトゥワが存在するという比較的単純な構成である。独立王国時代には少数派トゥツィが王権を保持しており、続くベルギー植民地時代にもトゥツィが優遇され、中間層を形成する社会構造が出来上がっていた。
 ベルギーがトゥツィを優遇するに当たっては、「トゥツィ=ハム族仮説」なる人種的優越理論を根拠にしたとも言われるが、それだけではなく、当時の支配層がトゥツィ系であったため、それをそのまま植民統治にも平行利用したとも考えられる。
 このような少数派優位の構造が覆るのは、独立直前の1961年に起きたフトゥ系による共和革命以降であった。この革命は当時トゥツィ支配層と衝突し、フトゥ系支持に転じていた旧宗主国ベルギーの承認のもとに実行されたものだった。
 革命により初代大統領に就いたグレゴワール・カイバンダは反トゥツィ政策を実行し、その政権下では多数のトゥツィが殺害され、あるいは難民として隣国へ逃れた。その際、フトゥ支配層は先の「トゥツィ=ハム族仮説」を逆手に取り、トゥツィを「侵略者」に見立て、仮説上の原郷であるエチオピア方面へ送還すべきことを主張した。言わば、差別者と被差別者が攻守逆転し、旧被差別者であったフトゥが反転的な差別に出た形であり、この力関係の逆転は「フトゥ・パワー」と呼ばれる優越思想を生み出した。
 このフトゥ主導共和体制は、73年の軍事クーデターでカイバンダ政権を転覆したジュベナール・ハビャリマナによって、若干の軌道修正を施された。彼はフトゥ・トゥツィ両族の融和を一定進める一方で、経済開発を重視する政策を採り、開発国民革命運動なる反共右派政党を政治マシンとして、91年に複数政党制に移行するまで一党独裁支配を維持する。この間のハビャリマナ体制は開発独裁的な性格を伴ったが、それは未だファシズムの域には達していなかった。
 しかし、こうしたハビャリマナの融和的姿勢に反発したフトゥ強硬派の間では、より過激な「フトゥ・パワー」の思潮が高まった。その集約が1990年にフトゥ系雑誌に掲載された「フトゥの十戒」なる言説であった。トゥツィをルワンダ社会から系統的に排斥すべきことを主張するこのプロパガンダは、ナチスの反ユダヤ主義をより通俗化して応用したような差別煽動言説としてフトゥの間で急速に普及した。
 一方では、ウガンダに支援されたトゥツィ系反政府武装組織・ルワンダ愛国戦線が87年に結成され、90年以降政府との間で内戦状態となっていたが、92年に和平が成立し、翌年には連立政権が発足する運びとなった。しかし、フトゥ強硬派は反発を強めていた。
 そうした中、94年にハビャリマナ大統領が同様の民族構成を持つ隣国ブルンディのンタリャミラ大統領(フトゥ系)とともに搭乗していた航空機が撃墜され、両大統領が死亡した。この暗殺事件の真相は不明であり、ルワンダ愛国戦線犯行説とフトゥ強硬派軍部犯行説の両説が存在する。
 いずれにせよ、この事件を最大限に利用したのは、フトゥ強硬派であった。近年の調査研究によると、かれらはあたかもナチスのホロコーストのように、極めて計画的・組織的にトゥツィ絶滅政策を立案・実行しており、ルワンダ虐殺が自然発生的な民衆暴動ではなかったことが判明している。
 ただし、ナチスのような絶滅収容所での秘密裏の抹殺ではなく、ルワンダ大衆にとって最も身近なメディアであるラジオを通じたプロパガンダ宣伝を巧妙に展開し、憎悪を煽り、民衆暴動の形でフトゥ民衆がトゥツィを殺戮する―あおりで最小勢力の被差別民族トゥワも30パーセントが殺戮される被害が及んだ―ように仕向けたのであった。
 一方で、虐殺当時は20年以上独裁体制を維持したハビャリマナ大統領の暗殺直後の政治空白期であり、この時期には明確な指導者が存在しなかったことも特徴である。今日では、大統領暗殺後に危機管理委員会を率いたテオネスト・バゴソラ大佐が重要な役割を果たしていたことが知られるが、虐殺は主としてハビャリマナ時代の軍精鋭と与党傘下の民兵組織が主導しており、ナチスのような真正のファシズム体制は樹立されていなかった。
 わずか100日余りで人口の2割近くが殺戮されるという異常な暴虐は、94年7月、攻勢を強めたルワンダ愛国戦線の全土制圧により終止符を打たれた。改めて連立政権が発足した後、2000年以降は愛国戦線指導者でもあるトゥツィ系ポール・カガメ大統領が安定政権を維持し、復興が進められてきた。―カガメ大統領がほぼ無競争で多選を重ねる中、近年はカガメ政権の独裁化も指摘され、新たな現代型ファシズムの兆しがなくはない。
 一方、虐殺の責任追及に関しては、国連ルワンダ国際戦犯法廷が設置され、2015年まで首謀者級の審理が行なわれた。同法廷で、先の「フトゥの十戒」主唱者と目されるジャーナリストのハッサン・ンゲゼやバゴソラは終身刑の判決を受けている(控訴により、ともに禁錮35年に減刑)。
 しかし、民衆暴動の形を取った虐殺への関与者は余りに膨大であるため、末端実行者級については、国民和解もかねて、01年以降、ルワンダの慣習的な民衆司法制度の下で審理されている。

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戦後ファシズム史(連載第34回)

2016-05-09 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

6:内戦期のユーゴ・ファシズム
 20世紀末における世界的悲劇として、旧ユーゴスラビア連邦崩壊過程でのユーゴスラビア内戦があるが、この内戦渦中であたかもナチを再現するかのような集団的民族浄化を伴うファシズムが現われた。
 この時期、旧ユーゴを構成した主要民族が多かれ少なかれ、自民族優越主義的なファシズムに傾斜していたため、この現象は包括して「ユーゴ・ファシズム」と呼ぶのが最も公平であろうが、中でもイデオロギーの点ではセルビアまたはセルビア人勢力によるそれが際立っていた。
 そうしたセルビアン・ファシズムが最初に発現したのは、一連のユーゴ内戦中でも凄惨を極めたボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦においてである。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナは元来、ユーゴ連邦を構成した八共和国の中でも、ボシュニャク人(イスラーム教)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)という宗派を異にする三つの主要民族が共存する複雑な構成を持っていた。
 そうした中、ユーゴ連邦の解体過程でボシュニャク人及びクロアチア人はボスニア‐ヘルツェゴヴィナの独立に賛成したが、セルビア人はこれに反対、セルビア民主党を主体にボスニア‐ヘルツェゴヴィナからの独立を宣言し、セルビア系スルプスカ共和国の樹立を宣言した。
 これを契機に始まった内戦では、三民族それぞれが独自の武装勢力を擁して、まさしく三つ巴の戦争となったが、中でもユーゴ連邦の中心にあったセルビア共和国を後ろ盾とするセルビア人勢力が優位にあった。
 その主力は、内戦前に結成されたセルビア民族主義政党セルビア民主党であった。かれらは精神科医出身で、セルビア民族主義のイデオローグでもあったラドヴァン・カラジッチを最高指導者に擁し、優越的な軍事力を背景に、その支配地域内のボシュニャク人やクロアチア人に対する民族浄化作戦を展開した。
 中でも、セルビア人勢力参謀総長ラトコ・ムラディッチが作戦指揮した内戦末期のスレブレニツァ虐殺事件では、最大推計で8000人のボシュニャク人が殺戮されたとされ、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦を象徴する惨劇として記憶されている。
 この時期のスルプスカ共和国の実態は、戦前期にナチスを後ろ盾に成立したクロアチア独立国のセルビア人版と言えるような、限りなく真正ファシズムに接近した体制だったと評し得るだろう。
 こうしたセルビアン・ファシズムの後援者となっていたのが、「本国」セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領であった。彼は旧ユーゴ時代の支配政党だった共産主義者同盟幹部として台頭した人物で、表向きはマルクス主義者とされていた。
 しかし、ミロシェヴィッチは1990年にセルビア共和国大統領に就任すると、セルビア民族主義を主要なイデオロギーとするファシズム体制を作り上げた。その政党マシンは左派的なセルビア社会党を名乗ってはいたが、実態としては極右的民族主義政党であった。
 ミロシェヴィッチはセルビアにあって、他の旧ユーゴ構成共和国内のセルビア人勢力を強力に支援・介入していた。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦への介入はその代表的な一例である。他方で、セルビア領内のイスラーム系アルバニア人自治地域コソボの独立運動を武力弾圧し、民族浄化作戦を展開した。
 ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦が終結した後、96年から本格化したコソボ紛争は99年、最終的にNATO軍によるユーゴ空爆という軍事介入により終結した。翌2000年に大統領再選を狙ったミロシェヴィッチに対して市民の大規模な抗議デモが発生する中、彼は退陣に追い込まれ、10年余りに及んだミロシェヴィッチ体制は終焉した。
 コソボ紛争を含む一連のユーゴ内戦では多くの戦争犯罪、反人道犯罪が横行し、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦ではクロアチア人勢力やボシュニャク人勢力、コソボ紛争でもアルバニア人武装勢力による犯罪が行なわれた。
 それらについては、国連が設置した旧ユーゴ国際戦犯法廷で現在もなお審理が続いている。ちなみにミロシェヴィッチも同法廷に起訴されたが、審理中の06年に病没した。カラジッチは長年の逃亡の末、08年にセルビア領内で拘束・起訴され、2016年3月に禁錮40年の判決を受けた。ムラディッチも11年に拘束され、現在審理中である。
 その意味で、この旧ユーゴ国際戦犯法廷はユーゴ・ファシズム全体を包括的に審理する法廷として、ナチス犯罪を審理した第二次大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判に匹敵する歴史的意義を持つとも言える。

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戦後ファシズム史(連載第33回)

2016-04-26 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐7:マラウィの開発ファシズム
 コードディボワールのウフェ‐ボワニ体制と類似する体制として、アフリカ南東部マラウィで1964年の独立から94年まで続いたヘイスティングズ・カムズ・バンダを指導者とするマラウィ会議党体制がある。
 バンダは医師の出身で、医療関係から出た点でもウフェ‐ボワニと類似する。バンダは旧英領ローデシアの一地方であったニヤサランド(現マラウィ)の反英独立運動闘士として台頭した。独立前には投獄も経験したが、釈放後は独立後の初代首相に就く。66年には初代大統領に選出されると、71年以降は終身大統領となり、瞬く間に強固な独裁体制を築いた。
 彼の政治動員マシンとなったのが、マラウィ会議党である。この党は元来、旧ニヤサランド独立運動組織を母体とする民族主義政党であり、ファシズムを直接の綱領としていない点では、ウフェ‐ボワニの民主党と同様であり、ともに不真正ファシズムに分類できる。
 しかし、バンダ体制はウフェ‐ボワニ体制以上に全体主義的性格の強いものであった。まず成人は全員が自動的に党員とされ、かつ党員証の常時携帯・提示義務まで課せられた。またナチ親衛隊に近い青年武装組織が監視や迫害の最前線を担った。バンダへの個人崇拝も強制されたほか、服装規制を国民のみならず外国人にも強制するなど、生活統制も徹底された。
 イデオロギー的には強固な反共主義者であったバンダは、国内的な弾圧より対外的な反共介入工作に向かったウフェ‐ボワニとは対照的に、国内反体制派への苛烈な弾圧を実行し、30年に及んだ彼の政権下ではおおむね人口1千万人前後で最大2万人近くが殺害されたとする推計も存在する。
 バンダの体制のもう一つの特徴として、経済開発への傾斜がある。彼はアメリカの経済学者ウォルト・ロストウの経済発展段階理論に依拠して、国家主導での資本主義的成長政策を実践しようとしていた。
 そのため、バンダ政権はいくつもの国策企業を設立したが、特に主要な役割を担ったのが、71年に設立された国営の農業発展市場開拓公社である。これはタバコを中心としたマラウィの農産品の海外販路の開拓を通じた農業開発を担う国策企業であった。
 この会社は当初こそ効率のよいビジネスモデルとして評価されていたが、バンダ独裁下で支配層の利権絡みの汚職にまみれていった。80年代には国際的なタバコ価格の下落による打撃を受けたうえ、最終的に世界銀行の借款支援体制の下、機能縮小を余儀なくされた。
 一方、バンダ政権は道路建設をはじめとする都市開発も進めるため、首都開発公社を設立し、人種差別政策を敷く南アフリカをブラックアフリカ諸国中、唯一承認し、外交関係を正式に築いたうえ、その資金援助を受けるといったプラグマティックな政策でも際立っていた。
 こうした開発ファシズム体制は輸入代替産業の構築による経済的な自立を目指す野心的なものではあったが、70年代の石油ショック後の経済危機にはうまく対処できず、一方ではバンダとその取り巻きたちの蓄財のシステムと化していき、87年以降は世銀とIMFの構造調整プログラムの適用を受けることとなった。 
 92年には大規模な食糧難に陥ったことを契機に、ドナー諸国及び国内からの民主化圧力が高まり、複数政党制の移行を認めざるを得なくなった。すでに推定90歳を超えていたと見られるバンダはなおも権力に執着し、94年の大統領選挙に出馬したが、野党候補に大敗し、ついに政界引退に追い込まれたのであった。
 その後のマラウィでは定期的な大統領選挙が実施され、比較的安定した民主主義が定着しつつあるが、経済的には一人当たりGDPが200乃至300ドル台とアフリカ諸国中でも下位にあり、全世界でワースト10に入る低開発国である。その点からすると、バンダ時代のマラウィは開発ファシズム体制としては最も失敗に帰した事例と言えるだろう。

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戦後ファシズム史(連載第32回)

2016-04-25 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐6:コートディボワールの開発ファシズム
 開発ファシズムは戦後に独立した東アジア・東南アジアの後発国に比較的集中した不真正ファシズムの体制であるが、同様の状況にあったアフリカ大陸にも少ないながら開発ファシズムに該当する体制が出現している。
 その一つは西アフリカのコートディボワールで、独立年の1960年から99年まで二代の大統領をまたぎ40年近く存続したコートディボワール民主党‐アフリカ民主大会議(以下、民主党と略す)の支配体制である。
 この党は、初代大統領で「国父」とも称されるフェリックス・ウフェ‐ボワニによって創設された。二重的な党名の後段にあるアフリカ民主大会議は46年の結成から58年の解散までやはりウフェ‐ボワニが代表を務め、当初フランス領西アフリカ及び赤道アフリカに属した各地域の独立運動‐汎アフリカ主義諸政党の連合として結成された超域的民族政党であり、コートディボワール民主党もその加盟政党であった。
 ウフェ‐ボワニ自身はフランス植民地時代の医学校に学んだ医療助手を本職とし、農民運動を基盤とする文民政治家として独立運動に貢献したベテランで、60年の独立と同時に初代大統領となった時にはすでに50歳を越えていた。
 アフリカの多くの独立運動家たちが社会主義者を名乗り、親ソ姿勢を見せる中、ウフェ‐ボワニは彼らと一線を画し、反共主義と旧宗主国フランスを含む親西側の立場を当初から鮮明にしていた。この路線の違いは、アフリカ民主大会議の分裂と解散につながった。
 とはいえ、彼も西欧的な民主主義は峻拒した。自身が起草を主導した憲法は、大統領に強力な権限を付与する一方、議会は単なる法案・予算案の形式的な認証機関に格下げされ、民主党による一党支配制の下、議員はすべて党員中から大統領によって事前に公認された者で固められた。また全成人が自動的に民主党員とされ、民主党は単なる政党を超えた政治動員マシンとして機能した。
 ウフェ‐ボワニは政権発足直後には多数の秘密裁判を実施し、政敵を排除したが、そうした一連の政治裁判が一段落した60年代半ば以降は、抑圧的な政策を緩和する一方で、反共主義の立場からソ連や中国を敵視し、周辺諸国の社会主義政権に対する転覆操作に向かった。
 ウフェ‐ボワニがもう一つ注力したのは、経済開発である。同時代のアフリカとしては珍しく、自由経済を志向し、西側先進諸国からの外国投資を呼び込んだため、政権中期までは高い経済成長を記録し、「イヴォワールの奇跡」と称賛された。
 しかし、農業政策では主産業のカカオとコーヒーに依存したモノカルチャーに偏ったため、80年代にカカオとコーヒーの国際価格が下落すると打撃を受け、対外債務も増大して経済危機に陥る。一方で、経済危機による庶民の生活難を尻目に、ウフェ‐ボワニ自身の故郷の町に遷都し、そこに巨額の国費を投じて大規模な聖堂を建設するなどの濫費や蓄財も批判を浴びた。
 民主化圧力も強まる中、90年、ついに複数政党制の導入に踏み切るが、民主党は独裁党時代に築いた基盤を利用して圧勝、ウフェ‐ボワニも大統領として七選し、政権を維持した。しかし、すでに80歳を越える高齢のうえ、癌が進行していたウフェ‐ボワニは93年、任期半ばにして死去した。
 後任には80年から国会議長の座にあったベテランのアンリ・ベディエが就いた。ベディエは主要野党がボイコットした95年の大統領選に圧勝するが、ウフェ‐ボワニ政権末期に首相を務めたアラサン・ワタラとの政争が激化する中、99年に軍事クーデターで政権を追われ、民主党体制は終焉した。
 以後のコートディボワールでは地域的な民族対立も絡んだ党派抗争が激化し、二度にわたる内戦を経験するなど、政治経済の混乱が続いた。こうした根深い対立はウフェ‐ボワニ存命中には彼の権威によって巧妙に抑止されていたが、その死後、集中的に噴出してきたものと言える。
 結局のところ、「イヴォワールの奇跡」の成果の大半は内戦期を通じて失われ、同国の開発ファシズムは長期的な成功を収めることなく、失敗に帰したと評さざるを得ない。

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戦後ファシズム史(連載第31回)

2016-04-13 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐5:ペルーの「フジモリスモ」
 フィリピンのマルコス体制が民衆革命で打倒されて数年後、南米のペルーでマルコスの手法をなぞるような体制が出現する。日系フジモリ大統領が主導した体制である。1990年の民主的な大統領選挙で政権が成立してから、「自己クーデター」と呼ばれる非常措置発動をはさんで10年間続いたこの体制は、言わば「遅れてきた開発ファシズム」であった。
 貧困な農業国だったペルーでは、1968年から75年まで続いた左派軍事政権以来、政治の左傾化が周辺南米諸国と異なる特徴となっており、フジモリが登場する直前も社会民主主義系アメリカ人民革命同盟のガルシア政権であった。
 しかし、ガルシア政権は銀行国有化や対外債務の一方的な帳消しなどの左派的政策が国際的な不信を招き、外国投資の停止にハイパーインフレが重なり、経済は壊滅状態に陥った。そうした中、ガルシア大統領の任期満了に伴う90年大統領選に登場したのが、当時政治経験のなかった農業工学者出身のフジモリであった。
 彼は、貧困層に訴える公約により、当時南米諸国でモードとなっていた新自由主義的な経済改革策を掲げ、知名度では圧倒的に勝る作家のバルガス‐リョサ対立候補を破って当選を果たした。日系人が多い南米でも歴史上初となる日系大統領であった。
 政権発足後のフジモリは公約を大幅に修正し、IMFと協調した経済改革を進め、従来の社会主義的な資源開発規制の撤廃を実現していった。ここまでなら、急進的な新自由主義政権であった。ところが、フジモリは92年、突如非常事態宣言を発し、憲法を停止したうえ、独裁権を掌握したのである。
 その口実とされたことの一つは、マルコスの場合と同様に左翼ゲリラの活動であったが、真の目的は議会で多数派を占める反大統領派を排除して、強権的な国家改造を進めることにあった。この手法は、ちょうどその20年前にフィリピンでマルコスが断行したのと酷似していた。
 この戒厳体制に等しい非常事態政府の下、トゥパク・アマル革命運動とセンデロ·ルミノーソという二大左翼ゲリラ組織の指導者の拘束に成功した。しかし一方で、国軍特殊部隊による一般市民の虐殺事件など後にフジモリ自身も罪に問われる弾圧事件が続発した。
 フジモリは93年に憲法を改正したうえ、95年の大統領選で圧勝し、形式上民主政に復帰した。しかし、実際のところは秘密警察機関(国家諜報局)を通じた盗聴やメディア統制などの全体主義的な統治が行なわれたほか、人口調節を名分とした30万人にも及ぶ先住民女性への強制避妊のような民族浄化政策も断行された。後者には米国や日本の団体も手を貸している。
 このようなフジモリ体制(フジモリスモ)はフジモリ自身が創設した「変革90‐新多数派」なる政党を基盤とするものであったが、この政党は明確なイデオロギーを持たないフジモリの政治マシンの性格が強く、ファシスト政党とは言えない。しかし、フジモリ政権の施策は実質的に経済開発を至上価値とするアジア的な開発ファシズムの性格が濃厚であったと言える。
 フジモリは自身が制定した93年憲法における三選禁止規定をかいくぐって2000年の大統領選にも出馬し、不正投票の疑いから対立候補がボイコットする中、三選を果たした。だが、直後に側近の実質的な諜報機関トップによる野党議員買収が発覚したことを契機に大統領にも疑惑が向けられる中、フジモリは外遊先から日本へ事実上亡命、これを受け、ペルー国会はフジモリを罷免し、フジモリスモは終焉した。
 ペルーでは民衆革命こそ起きなかったが、不正投票による多選狙いから失墜する終わり方も、マルコスの場合と類似していた。大きく異なるのは、フジモリはその後、ペルー司法当局から在任中の組織的人権侵害について刑事責任を問われ、禁錮25年の判決を受けたことである。この点に関しては、南米のいくつかの国で反共擬似ファシズムの軍事独裁政権指導者が2000年代以降に刑事責任を問われた先例が踏襲されたものと言える。
 また大統領側近による武器の不正取引、麻薬取引などの汚職や不正蓄財が発覚し、その一部についてはフジモリ自身も有罪となり、開発ファシズムに伴いがちな政治腐敗の体質も認められた。
 一方で、フジモリ失墜後のフジモリ支持勢力は娘のケイコ・フジモリが率いる保守系野党「人民の力」に再編され、ペルー国会で二大政党の一方を占めており、ケイコ自身が立候補した2011年の大統領選では決選投票まで進み僅差落選するほどの存在感を示した。なお、ケイコは16年大統領選にも再び立候補し、第一回投票で首位につけたが、またも決選投票で僅差落選した。

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戦後ファシズム史(連載第30回)

2016-04-12 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐4:フィリピンのマルコス独裁期
 インドネシアの近隣諸国の中で、インドネシアに続いて開発ファシズムが現われたのはフィリピンであった。フィリピンは戦後の独立後、早くから旧宗主国アメリカの制度にならった大統領共和制が定着し、東南アジアにあっては民主的な体制が整備されていた。
 そうした中、1965年の大統領選挙でフェルディナンド・マルコスが当選した。彼は弁護士出身で、若くして国会議員となった少壮政治家であった。彼は選挙戦で大戦中の日本軍とのゲリラ戦の功績を宣伝して回ったが、その公称経歴の大半は疑わしいものであった。
 とはいえ、民主的政治家として登場した彼は、すでにこうした大衆煽動的手法の片鱗を見せており、69年にはフィリピン史上初めての大統領再選を果たした。当時の憲法では三選は禁止されており、二期目は73年で満了、退任となるはずだった。 
 ところが、マルコスは72年9月、突如戒厳令を布告して憲法を停止し、独裁権力を握った。口実とされたのは、70年代に入って目立っていた左翼学生運動の急進化や貧しい農村に浸透していた毛沢東主義の共産党武装組織・新人民軍のゲリラ活動の活発化であった。
 反共主義者のマルコスはこうした情勢を共産主義者の脅威と宣伝し、国家社会の防衛を名目とした戒厳独裁統治を正当化した。このように、当初は民主的な選挙で政権に就きながら、非常措置を発動して独裁制へ移行させる手法は、ナチスのヒトラーのそれと類似していた。
 戒厳令発動以後のマルコスは、「新社会運動」なる翼賛政党を組織して、政権基盤とした。この政党には国家主義的な色彩も見られたことから、ファシスト政党に近い側面を持っていた。そのため、72年戒厳後のマルコス体制を真正ファシズムと見る余地もあるが、「新社会運動」は明確なイデオロギーを持たず、マルコス独裁体制のマシンとしての役割が大きかったことから、不真正ファシズムに分類しておく。
 一方、マルコスは文民出身ながら、ミンダナオ島のイスラーム分離独立運動も対象に加わった対ゲリラ戦の必要上、軍の増強を進め、その規模は最大20万人に膨れ上がった。さらに警察軍や自警団組織を動員した超法規的処刑などの手法で共産主義者とみなされた者の抹殺を行うなど、組織的な人権侵害が横行した点では、インドネシアと類似する。
 そうした抑圧体制の下、マルコスは表向きは工業化と農村の経済開発に重点を置き、華僑を中心とした伝統的な経済支配層の特権に切り込むポーズを見せたが、その裏では日本をはじめとする開発援助の利権を一族や側近集団がむさぼる汚職が蔓延していた。
 マルクスは81年に戒厳令を解除するが、民主化はなされず、形式的な議会選挙と大統領選挙により、新社会運動を基盤とする事実上の一党支配体制を作出した。体制の性格・実態は変わらず、83年には野党指導者ベニグノ・アキノの暗殺事件が起きている。
 晩年のマルコスは健康問題を抱える中、事実上の終身執権を狙って86年の大統領選にも出馬したが、この時、組織的に行なわれた不正投票によりアキノ未亡人のコラソン・アキノ対立候補を破り、「当選」したことが国防省・軍部の一部の反乱、そしてこれを支持する民衆デモを誘発した。
 事態を収拾できなくなったマルコスは、後ろ盾のアメリカからも引導を渡される形でハワイへ脱出し、代わってアキノが大統領に就任した。こうして、フィリピン開発ファシズムは劇的な民衆革命によって終焉した。インドネシアより10年以上早い幕引きであったが、これはフィリピンに根付いていた民主主義のバネが働いたためであった。
 フィリピンの開発ファシズムは期間の相対的な短さ(72年戒厳令布告以降の14年間)、晩期における大統領の弱体化や極端な縁故政治などの諸事情から、インドネシアとは対照的に、持続的な成功を収めることなく終わったのである。

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戦後ファシズム史(連載第29回)

2016-04-11 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐3:インドネシアの「ゴルカル」体制
 インドネシアは、戦後の独立後、独立運動指導者スカルノ大統領による権威主義的な統治が20年近く続いたが、スカルノは民族主義、イスラーム主義、共産主義の三者を協調させるバランス政策を基調としていた。
 しかし、50年代後半以降、共産党が伸張し始めると、元来左派ナショナリズムの傾向を持っていたスカルノは、非党員ながら、共産党に軸足を置き始めた。結果として、外交政策上も反マレーシア、親東側路線が鮮明となった。
 そうした中、1965年、近代インドネシア史上の転換点となる大事変9・30事件が発生する。この事件の全貌は未だに不明ながら、通説的には共産党を支持する左派少壮軍人らがスカルノの下で革命政権を樹立する目的で企てたクーデター事件とされる。
 この時、軍部側で鎮圧の指揮に当たったのが、当時陸軍戦略予備軍司令官の地位にあったスハルト将軍であった。彼は配下の精鋭部隊を動員してクーデターを迅速に鎮圧するとともに、下克上的に軍内の実権を握った。直後から翌年にかけて、スハルトはクーデターの背後にあると目された共産党に対し、党員やシンパもろとも抹殺する徹底的な壊滅作戦に乗り出し、最大推計100万人に上る犠牲者を出す大虐殺を断行した。
 この一連の強権的な事変処理を主導したスハルトは、容共的なスカルノ大統領にも圧力をかけて徐々に実権を奪い、67年には辞任に追い込み、自ら大統領に就いた。以後、スハルトは98年の民衆デモで自らも辞任に追い込まれるまで、30年に及ぶ独裁体制を固守する。
 スハルト体制は、スハルトの出身母体である軍部を基盤としながらも、社会の末端まで張り巡らされたゴルカルと呼ばれる翼賛政治組織によって下支えされていた。ただ、ゴルカルの綱領的原則は、スカルノ時代の建国理念パンチャシラ(信仰・人道主義・統一・民主主義・社会的公正)に置かれ、真正のファシスト政党ではなかった。
 とはいえ、スハルト体制はスカルノ体制を転換する「新秩序」を掲げつつ、大統領の独裁的指導の下、反共親米路線に沿って政治的安定と経済開発を至上価値とする全体主義体制として、アジア的な開発ファシズムの最も長期的な成功例となった。それを支えたのはスハルトの共産党壊滅作戦にも協力し、最大の後ろ盾となった米国と、経済援助・投資を集中的に注ぎ込んだ日本である。
 こうして、スハルト体制下では恒常的な反体制派・民主化運動への弾圧を伴いつつ、急速な工業化と都市開発が進み、著しい経済発展を遂げることとなった。しかし、その裏ではスハルト一族を含む体制幹部層の不正蓄財・汚職が蔓延していった。
 スハルト大統領は、ゴルカルを通じた翼賛選挙により98年までに六選を重ねたが、前年のアジア通貨危機はインドネシア経済に打撃を与えた。有効な対策が打てない中、鬱積した国民の不満は恐怖支配を乗り越え、大規模な民衆デモに発展した。
 体制内からも辞任圧力が発せられるに及び、スハルトは同年5月、ハビビ副大統領に禅譲する形で大統領を辞任した。事実上の民主化移行政権となったハビビ政権下で、一定の民主化措置が矢継ぎ早に打ち出された結果、99年の総選挙では野党連合が勝利、野党系のワヒド大統領に交代して、ゴルカル体制は正式に終焉した。

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戦後ファシズム史(連載第28回)

2016-03-29 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐2:韓国の開発ファシズム(続)
 1979年の朴正煕大統領暗殺事件は、韓国にとって60年の李承晩政権打倒以来、およそ二十年ぶりにめぐってきた民主化のチャンスであった。しかし、これに対して、全斗煥将軍ら朴に忠実な右派軍人グループが介入する。
 全斗煥は朴体制下で中央情報部と並ぶ政治弾圧機関であった国軍保安司令部の司令官職にあったが、この立場を利用して、陸軍参謀総長ら軍上層部を拘束または退役に追い込み、実権を掌握した。この過程は「粛軍クーデター」と称されるが、実態は下克上的クーデターであった。
 軍の実権を握った全は翌年、朴暗殺事件後に敷かれていた非常戒厳令を拡大し、民主化運動を力で阻止した。この過程で、光州では戒厳軍が学生デモを武力鎮圧し、200人以上が死亡または行方不明となる事件が発生した。
 一方で、社会的不良分子の一掃を名目に数万人を検挙し、軍内に設置された特別教育隊で矯正訓練を受けさせ、肉体的・精神的な拷問に等しい虐待を組織的に行なうなど、朴政権でも見られなかったナチスばりの社会浄化政策が断行された。
 こうして民主化のチャンスはまたしても軍部によって奪われ、80年8月には全が大統領に就任、朴時代の憲法を修正したうえで、翌81年以降、全が改めて大統領に就任して全政権が正式に発足する。
 新憲法では大統領権限が若干制限され、再選禁止規定も盛り込まれるなどの修正が加えられたものの、朴政権下での政治弾圧において猛威を振るった反共法は国家保安法に統合・拡張されたほか、言論統制法も整備され、ある面では朴政権のファッショ性をいっそう強化する面も見られた。
 政治的には、新たな政権与党として民主正義党が組織された。朴時代の与党民主共和党に比べると「正義」のイデオロギー色が増した観はあるが、包括的右派政党としての機能の点では大差ないものであった。経済面でも、朴時代の末期にマイナス成長に転じていた経済を改善させるため、開発政策をより大統領主導で推進したため、全政権は基本的には開発ファシズム体制の延長という性格を帯びていた。
 ただ、全が朴と決定的に違ったのは、憲法の大統領再選禁止規定を遵守したことであった。80年憲法では任期七年とされていたが、全はこの規定に従い、88年に大統領を退任したのである。これは独立・建国以来初めて大統領が任期満了をもって平穏に退任した例であり、以後任期五年に短縮された今日までこの先例が踏襲されているのは、民主化を準備した全政権の「功績」と言える。
 その伏線は前年6月に全の最有力後継候補だった同期軍人出身の盧泰愚が大統領直接選挙制への(再)改憲を含む八項目から成る「民主化宣言」を発したことにあった。これには学生らの民主化要求デモの高まりと88年の開催が決定していたソウル五輪という内外事情が作用していたと考えられる。
 87年12月の大統領選挙では野党陣営の分裂にも助けられて盧泰愚が比較多数の得票で当選を果たした。盧政権は軍出身ながら漸進的な民主化移行政権の性格を持ち、続く93年の野党金永三政権の発足をもって朴体制以来の開発ファシズムは正式に終焉したのである。
 金永三政権下では、全・盧の両氏が80年の粛軍クーデターや光州事件に関連し、首謀者として訴追され、有罪判決を受け、開発ファシズムに対する一定の清算がなされた。なお、両氏は不正蓄財についても法的追及を受けたが、これは開発ファシズムに伴いがちな利権汚職の一面を示している。

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戦後ファシズム史(連載第27回)

2016-03-28 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐1:韓国の開発ファシズム
 韓国現代史上1961年の軍事クーデターから87年の「6.29民主化宣言」までは軍部が政治の中心にあったが、このおよそ四半世紀を仔細に見ると、単純な軍部独裁体制ではなく、経済開発を至上価値とする不真正ファシズムの特徴を認めることができる。
 その出発点となったのが、1961年の朴正煕将軍を中心とする少壮軍人によるクーデターであった。これは前年の「学生革命」により独立・建国以来の李承晩政権が倒れ、民主化移行期にあった中で、社会の左傾化を恐れる少壮軍人らが仕掛けた反革命的な政変であった。
 「革命公約」なるものを掲げた軍事政権は、その筆頭に「反共体制の再整備」を挙げ、これを軸とした国家体制の全体主義的な再編を狙っていたことからも、この政権は反共擬似ファシズムの性格を示していた。革命公約は最後に「革命事業の完遂後、清新な政治家への政権移譲」を挙げていたが、クーデターから二年後の63年には、朴自身が軍を退役して自ら民選大統領に就任し、形式上民政移管を実行した。
 これ以降の朴体制は出身の軍部を基盤としながらも、包括的右派政党の性質を持つ民主共和党を与党とする民政に衣替えして79年まで継続していくが、それは南北分断状況の中で、北韓(北朝鮮)との対峙を名目に、民主化運動や野党を弾圧する不真正ファシズムの体制であった。
 対外的には一貫した反共親米政策の下、とりわけベトナム戦争で異例の全面的な協力体制を取り、同盟国中では最大規模の支援部隊を派遣した。結果として、韓国軍は米軍とともにいくつかの反人道的作戦の協同者ともなった。
 一方、経済的には旧宗主国日本からの経済援助をベースに、ベトナム戦争特需も加わり、短期間での急速な経済開発・成長を主導した。そのために、国内の反対を押して65年には韓日国交正常化を果たし、対日請求権を放棄する策に出たことは、慰安婦問題の積み残しなどの禍根を残すこととなった。
 ただ、朴政権下の60年代後半から70年代にかけて、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長が見られたことは事実である。その面から言えば、韓流開発ファシズムは成功例の一つに数えられるが、それは抑圧体制下での多大な人的犠牲を代償としていたことも否定できない。
 朴は自身が制定した憲法の多選禁止規定を消去し、落選の危険のない大統領間接選挙制を導入するため、72年に非常戒厳令を発動して国会を翼賛機関化する憲法改正を強行し、事実上の終身政権への道を開いた。これ以降の朴政権(いわゆる維新体制)は真正ファシズムに限りなく接近し、この間、野党指導者金大中(後に大統領)拉致事件をはじめとする弾圧・冤罪事件が続発している。
 しかし磐石に見えた朴政権は79年、大統領暗殺という衝撃的事件によって突如終焉した。犯人が側近の金載圭中央情報部長だったことも衝撃を倍加した。中央情報部こそは、朴体制を支える中心的な政治弾圧機関だったからである。
 金載圭はスピード審理で死刑判決を受け、翌年には処刑されたため、背後関係を含めた事件の詳細な真相は不明のままであるが、彼の決死行動は結果として民主化の機会をもたらした。「ソウルの春」とも呼ばれたこの民主化チャンスはしかし、故・朴大統領子飼いの全斗煥将軍を中心とする少壮軍人グループによる新たなクーデターにより奪われた。
 1961年クーデターをなぞるような過程をたどって80年以降全斗煥政権が樹立されるが、この政権は朴政権の事実上の後継政権としての性格と民主化準備政権としての性格を併せ持つ両義的なものであるので、項を改めて見ることにする。

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戦後ファシズム史(連載第26回)

2016-03-15 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5:開発ファシズム
 戦後、帝国日本や欧米の植民地支配から解放され、独立したアジア・アフリカ諸国では、低開発状態から急速な経済開発・成長を達成するために、あえて独裁的な体制を構築する例が少なくなかった。
 その中でも、ソ連型ないしは「独自」の社会主義的な志向性を持った体制は別として、反共・資本主義路線を志向した体制は、左派勢力を排除しつつ、国家主導による経済開発を上から強力に推進するため、国家絶対の全体主義的な体制を構築する傾向があった。
 こうした体制は東アジアから東南アジアにかけて1960年代以降林立するようになり、しばしば漠然と「開発独裁」と指称されたが、「開発独裁」とは仔細に見れば、資本主義的な経済開発を一元的な至上価値として国民を政治的に動員する「開発ファシズム」と呼ぶべき実質を備えていた。
 その嚆矢の一つが前回見た台湾における60年代以降の国民党ファシズム体制であったが、それ以外にも、韓国、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどに順次類似の体制が構築されていった。このうち、シンガポールは開発ファシズムから現代型の管理ファシズムに転形された現在進行形の事例でもあるので、続く第四部に回し、第三部ではその余の事例を取り上げることにする。
 これら開発ファシズムの権力基盤は軍人が主導する場合は軍部に置かれたが、長期支配を可能とするために形式上民政移管したうえで翼賛的な政党を結成し、政治動員マシンとして活用するのが通例であった。文民主導の場合も含め、開発ファシズムの政党組織は綱領上ファシズムを採用せず、あいまいな包括的反共右派政党の形態を採ったので、開発ファシズムとは類型上不真正ファシズムであった。
 このような体制がとりわけ東南アジアを含む広い意味での東アジアに集中した理由を明確に言い当てるのは難しいが、一つには東アジアに共通する権威主義的な政治文化の土壌の上に成り立った「アジアン・ファシズム」という共通根を持つように思われる。
 東アジア以外の地域では、戦後、アジアよりも遅れて低開発状態からスタートしたアフリカの新興諸国にもわずかながら開発ファシズムの特徴を持つ体制が現われたが、それらは東アジアの諸体制のような成功を収めることはなかった。第二部でも指摘したように、アフリカでは多民族・多部族社会を単一の国家に束ねて国民を動員することの困難さがつきまとったからであった。
 ただ、参照的な比較のため、ここでは、最終的には失敗に終わったものの時限的な成功例に数えられる西アフリカのコートディボワールと東アフリカのマラウィの事例を個別に取り上げることにする。

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