第三部 不真正ファシズムの展開
4:台湾の国民党ファシズム
戦後、帝国日本や欧米列強の植民地支配から解放された新興アジア諸国は直ちに民主化へと向かわず、程度の差はあれ独裁的な体制が出現しがちであったが、いくつかの国では不真正ファシズムの特徴を持つ体制も立ち現われた。その嚆矢は、台湾である。
周知のように、中国では日本の敗戦・撤退後、それまで共通の敵日本に対処するため、便宜上「合作」していた国民党と共産党の対立が再燃、内戦となり、1949年に共産党が勝利、蒋介石に率いられた国民党は台湾へ敗走した。
国民党は沿革的には孫文に指導されて1912年辛亥革命を主導したブルジョワ民主主義勢力であり、ファシズムを綱領とする政党ではないが、台湾占領後の蒋介石は国民党を事実上のファシズム体制のマシンに改変してしまった。
その重要な契機となったのは、47年の2・28事件であった。これは同年2月28日、日本の撤収後に進駐してきていた国民党当局の不正や腐敗に抗議する台湾本省人による民衆デモに対して、治安部隊が無差別発砲で武力鎮圧した事件である。全島規模に拡大した騒乱の犠牲者は最大推計で約3万人に上ると見られる。
これ以降、国民党当局は87年の解除まで戒厳令を恒常的に敷き、国民党支配体制に反抗する者には徹底した弾圧を加えた。ブルジョワ民主憲法の性質を持っていた中華民国憲法は付属条項として追加された動員戡乱時期臨時条款によって事実上効力を停止され、その間、蒋介石は75年の死去まで事実上の終身総統として君臨し、個人崇拝が行なわれた。
こうした軍人蒋介石の個人的権威を核とした全体主義体制は、戦後同時期に並立したスペインのフランコ体制にも類似した権威ファシズムの特徴を濃厚に持っていたと言える。ただ、蒋介石は伝統ある国民党そのものは自己の統治マシンとして利用しつつも維持し続けた。
大陸反攻の機を窺う蒋介石体制は大陸側を支配する共産党への対抗から当然にも反共主義を内外政策の核心としていたが、大陸反攻の可能性が次第に潰え、71年には国連における地位を共産党中国に取って代えられ、後ろ盾のアメリカもついに共産党中国の国家承認に方針転換すると、蒋介石体制は台湾政権として純化されていく。
すでに60年代から米日を中心とした外資導入による経済開発が開始され、蒋介石晩年の73年頃まで「黄金の10年」と称される高度経済成長を経験していた。この頃から、国民党体制は次項で改めて見る「開発ファシズム」の性格を帯び始めていたとも言える。
この傾向は、75年に蒋介石が死去し、息子の蒋経国が後任総統に就任すると、いちだんと強まる。経国は父とは異なり文民出身であり、台湾の工業化、国際競争力の強化に重点を置き、その成果をもとに体制の民主化に着手する。皮肉にも世襲という非民主的な政権継承により体制は徐々に民主化へと向かうのである。
経国政権末期の87年には戒厳令が解除され、経国が死去した88年以降、後を継いだ本省人テクノクラート出身の李登輝総統のもと、96年に史上初の総統直接選挙、そして2000年には野党民主進歩党(民進党)への政権交代と台湾の民主化が進んだ。
現在の国民党は台湾独立論に傾斜した台湾ナショナリズムの傾向を持つ民進党と並ぶ台湾二大政党政における共産党融和派の保守系政党として存続しており、ある意味では孫文時代の原点に戻ったとも言える。
結局のところ、台湾における不真正ファシズムは蒋介石・経国父子時代における国民党独裁の時限的現象であり、それは李登輝時代の動員戡乱時期臨時条款廃止、憲法改正を経て民主的な立法院(国会)総選挙が実施された92年をもって終焉したと評価できる。