ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後ファシズム史(連載第25回)

2016-03-14 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

4:台湾の国民党ファシズム
 
戦後、帝国日本や欧米列強の植民地支配から解放された新興アジア諸国は直ちに民主化へと向かわず、程度の差はあれ独裁的な体制が出現しがちであったが、いくつかの国では不真正ファシズムの特徴を持つ体制も立ち現われた。その嚆矢は、台湾である。
 周知のように、中国では日本の敗戦・撤退後、それまで共通の敵日本に対処するため、便宜上「合作」していた国民党と共産党の対立が再燃、内戦となり、1949年に共産党が勝利、蒋介石に率いられた国民党は台湾へ敗走した。
 国民党は沿革的には孫文に指導されて1912年辛亥革命を主導したブルジョワ民主主義勢力であり、ファシズムを綱領とする政党ではないが、台湾占領後の蒋介石は国民党を事実上のファシズム体制のマシンに改変してしまった。
 その重要な契機となったのは、47年の2・28事件であった。これは同年2月28日、日本の撤収後に進駐してきていた国民党当局の不正や腐敗に抗議する台湾本省人による民衆デモに対して、治安部隊が無差別発砲で武力鎮圧した事件である。全島規模に拡大した騒乱の犠牲者は最大推計で約3万人に上ると見られる。
 これ以降、国民党当局は87年の解除まで戒厳令を恒常的に敷き、国民党支配体制に反抗する者には徹底した弾圧を加えた。ブルジョワ民主憲法の性質を持っていた中華民国憲法は付属条項として追加された動員戡乱時期臨時条款によって事実上効力を停止され、その間、蒋介石は75年の死去まで事実上の終身総統として君臨し、個人崇拝が行なわれた。
 こうした軍人蒋介石の個人的権威を核とした全体主義体制は、戦後同時期に並立したスペインのフランコ体制にも類似した権威ファシズムの特徴を濃厚に持っていたと言える。ただ、蒋介石は伝統ある国民党そのものは自己の統治マシンとして利用しつつも維持し続けた。
 大陸反攻の機を窺う蒋介石体制は大陸側を支配する共産党への対抗から当然にも反共主義を内外政策の核心としていたが、大陸反攻の可能性が次第に潰え、71年には国連における地位を共産党中国に取って代えられ、後ろ盾のアメリカもついに共産党中国の国家承認に方針転換すると、蒋介石体制は台湾政権として純化されていく。
 すでに60年代から米日を中心とした外資導入による経済開発が開始され、蒋介石晩年の73年頃まで「黄金の10年」と称される高度経済成長を経験していた。この頃から、国民党体制は次項で改めて見る「開発ファシズム」の性格を帯び始めていたとも言える。
 この傾向は、75年に蒋介石が死去し、息子の蒋経国が後任総統に就任すると、いちだんと強まる。経国は父とは異なり文民出身であり、台湾の工業化、国際競争力の強化に重点を置き、その成果をもとに体制の民主化に着手する。皮肉にも世襲という非民主的な政権継承により体制は徐々に民主化へと向かうのである。
 経国政権末期の87年には戒厳令が解除され、経国が死去した88年以降、後を継いだ本省人テクノクラート出身の李登輝総統のもと、96年に史上初の総統直接選挙、そして2000年には野党民主進歩党(民進党)への政権交代と台湾の民主化が進んだ。
 現在の国民党は台湾独立論に傾斜した台湾ナショナリズムの傾向を持つ民進党と並ぶ台湾二大政党政における共産党融和派の保守系政党として存続しており、ある意味では孫文時代の原点に戻ったとも言える。
 結局のところ、台湾における不真正ファシズムは蒋介石・経国父子時代における国民党独裁の時限的現象であり、それは李登輝時代の動員戡乱時期臨時条款廃止、憲法改正を経て民主的な立法院(国会)総選挙が実施された92年をもって終焉したと評価できる。

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戦後ファシズム史(連載第24回)

2016-03-02 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

3:南アフリカのアパルトヘイト体制
 カナダ・ケベック州の民族同盟体制と同時期に立ち現われた国家レベルでの不真正ファシズムに数えられるのは、南アフリカで半世紀に及ぶ悪名高い人種隔離政策(アパルトヘイト)を敷くことになる国民党体制である。
 南アフリカの国民党は、1910年に英国自治領として実質上独立した南アフリカの支配層である主としてオランダ系白人(アフリカーナー)の権益を護持することを目的として1915年に結成された白人至上主義政党である。その意味では民族主義的政党であり、党名Nasionale Party(英語名National Party)は本来「民族党」と訳すべきだが、ここでは定訳の「国民党」に従うことにする。
 このように国民党はナチ党やイタリアのファシスト党よりも歴史の古い政党であり、綱領上も純粋のファシスト政党とは言えない。しかし、戦前にはナチスに共鳴する幹部党員も少なくなく、思想的なつながりは強い。
 国民党は戦前にも24年から34年にかけて政権を担った経験を持つが(24年から33年までは労働党との連立)、本格的に政権を担うのは、戦後の48年総選挙で勝利して以降である。ただし、この時は従来の政権党でより穏健な連合党を5議席上回るだけの辛勝であり、選挙協定を結んだアフリカーナー党との連立政権となった。
 51年にアフリカーナー党と合併してからは、94年の史上初となる全人種参加選挙で敗北するまで、実に総選挙十連勝の常勝・政権独占政党として戦後南アに君臨する。その中心的な施策アパルトヘイトの内容については人種差別という観点からの膨大な解説・分析がすでに存在するが、その政治思想的性格については必ずしも十分に解明されているように見えない。
 アパルトヘイト政策の底流にあるのは、まさしくナチ的な白人優越思想であった。ただし、南ア社会は人口の10パーセント程度を占めるにすぎない白人だけでは維持できず、圧倒的多数を占める黒人層は安価な被搾取労働力として不可欠であったため、大量殺戮のような民族浄化ではなく、参政権を与えず、厳格な居住制限と婚姻制限をかけることで「隔離」することが主要な政策手段となった。
 そのために、政治経済の根幹に関わる黒人参政権の否定と原住民土地法、集団地域法(居住制限)が三本柱となり、これを雑婚禁止法、背徳法(白人‐有色人種間の性交禁止)、パス法(身分証明書携帯義務)といった生活統制法が支えるアパルトヘイト法体系が整備されていった。
 ちなみに、こうしたアパルトヘイト法体系とは別途、治安法規として共産主義鎮圧法という反共立法も備えていた。これは白人の共産主義者にも適用され得る汎人種的立法の形を取ってはいるが、南ア当局は同法を反アパルトヘイト運動全般に拡大適用したため、同法は本来の共産主義抑圧よりも、黒人解放運動の弾圧手段として機能していた。
 他方、この間、政体としては議会制が維持され、61年にアパルトヘイトを非難した英国への反発から英連邦を離脱し、大統領共和制へ移行してからも、大統領は議会によって選出される複選制を採用するなど、議会中心主義が保持された。従って、48年から94年の政権喪失まで南ア国民党体制は独裁者と呼ぶべき指導者は一人も出さなかった。言わば「独裁者なきファシズム」である。
 この点で、南ア国民党体制はファシズムの成立にカリスマ型独裁者の存在は不可欠と解するある種の政治常識を覆す事例だったとも言える。とはいえ、多数派黒人の参政を排除した白人オンリーの野党勢力は脆弱で、国民党の圧倒的優位という事実上の一党独裁を結果し、そうした「集団独裁」の上に成り立つファシズム体制であった。
 アパルトヘイトは表向き国際社会から非難されながらも、アフリカ有数の資源大国にしてアフリカ随一の資本主義経済大国に成長した南アとの経済関係を維持したい西側諸国―そこには「名誉白人」待遇を受けていた日本も含まれる―及び南ア経済に依存する周辺の黒人系新興諸国によっても支えられ、半世紀も生き延びることができた。
 しかし、国際社会による経済制裁や国際競技会からの締め出しなどの南ア孤立化政策が次第に功を奏し、80年代以降、徐々にアパルトヘイトの緩和が進んでいった。最終的には、ここでも冷戦終結が体制転換の決定因となる。
 90年には黒人解放運動の英雄的存在ネルソン・マンデラの27年ぶり釈放、翌年2月、当時のデクラーク大統領によるアパルトヘイト廃止宣言を経て、94年の全人種選挙での国民党敗北、マンデラ大統領誕生をもって国民党支配体制は終焉した。
 南アの国民党体制はアフリカにありながら入植白人が支配層を形成するという特異な体制下での特殊なファシズム体制であり、それ自体の復活はもはやあり得ない状況であるが、人種差別思想は決して世界から根絶されておらず、上述したように議会制に適応化した議会制ファシズムという形態の点でも、現代型ファシズムの先駆けと言えることは見逃せない。

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戦後ファシズム史(連載第23回)

2016-03-01 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

2:カナダ・ケベック州の「大暗黒時代」
 第三部で取り上げるべき典型的な不真正ファシズムの真の先駆けないし雛型と言えるのは、戦前・戦後にかけて通算19年に及んだカナダ・ケベック州の地方政権・民族同盟体制であると考えられる。
 カナダのケベック州は連邦国家カナダにおけるフランス語圏の中心州であり、伝統的にカトリックが優勢で保守的な土地柄であった。しかし州政では19世紀末以来、世俗主義のリベラル政党ケベック自由党が一貫して政権の座にあった。そうした中、自由党支配への倦怠と長期政権の腐敗に対する州民の不満を吸収する形で現われたのが、弁護士出身のモーリス・デュプレシに率いられた新たな保守政党民族同盟であった。 
 デュプレシは永年野党に甘んじていたケベック保守党と自由党を離党した反主流派グループを統合する形で民族同盟を結成し、1936年の州議会選挙に勝利して政権獲得に成功、州首相に就任したのである。
 ただ、一期目は政権基盤が確立されておらず、カナダがドイツに宣戦布告した直後に行なわれた39年の選挙では、自由党が徴兵免除を公約したことも響いて敗北、民族同盟は3年で下野することとなった。しかし、第二次大戦末期の44年に行なわれた選挙で民族同盟は政権を奪回、以後は59年のデュプレシ首相の急死をまたいで60年まで政権を独占した。
 民族同盟自体は、前述したように保守党と自由党反主流派の合同により成立した保守系新党で、この種の合同政党にありがちなように綱領には曖昧な点があったが、デュプレシ政権は一期目からその強固な反共主義とカトリック教権主義の立場をあらわにした。その象徴が37年に制定された通称パッドロック法である。
 パッドロックとは南京錠のことであるが、まさに共産主義に南京錠をかけて封じるというイメージを表わした通称である。この法律は極めてあいまいに定義された共産主義的プロパガンダを禁じる言論統制法であり、これによって州警察を動員し、共産主義的とみなされた新聞社の封鎖や出版物の没収などが実行された。
 またデュプレシ政権は反労働組合の立場を鮮明にし、警察力を使ってストを弾圧した。これは反共主義とも連動しており、54年には労組員が共産主義を支持することを禁じ、共産主義を支持するメンバーが一人でも存在する労組の法的資格を取り消すという抑圧策を導入している。
 こうした強権統治の基盤はカトリック教会と地方農村にあり、デュプレシ政権は農村ばらまき政策と同時に、聖職者に公的資金を供与して公教育や医療その他の社会サービスを委ねる一方、州は社会サービスに関与しない福祉消極政策を採った。聖職者らは選挙での支持によってこれに答え、自由党支持者を破門にするなど反デュプレシ派迫害の中心を担った。
 いつしか「首領」と通称されるようになったデュプレシの時代は、体験者の回想によれば「沈黙による服従、慣れの惰性」が支配し、否定的に「大暗黒時代」とも呼ばれている。ただし、この間、デュプレシはヒトラーのような全権執政者に就任したわけではなく、州議会制の枠内で規定どおり四年ごとの選挙に四連勝して州政権を維持している。そのため、彼の体制は単なる超保守政権にすぎないと見ることも可能であり、事実カナダ史上もそのようにみなされているようである。
 しかし、今日的な視点からとらえ直すと、デュプレシ体制は議会制に適応化した不真正ファシズム(議会制ファシズム)の先駆けないし雛型と見ることができる。もし「首領」デュプレシが急死していなければ、政権はさらに十年以上継続された可能性もあった。
 だが、59年、デュプレシは脳卒中で死去し、後継首相のポール・ソーヴェもわずか四か月で急死するという連続的な不運に見舞われた民族同盟は60年の選挙に敗北、ケベック自由党が政権を奪回した。以後は66年まで自由党政権の下、デュプレシ時代の清算と社会民主主義的な社会改革が矢継ぎ早に行なわれたため、この転換期は「静かな革命」とも呼ばれる。
 民族同盟は66年の総選挙で再び政権を奪回するも、すでに穏健化されており、70年選挙で惨敗した後はすみやかに退潮した。71年にケベック連合と党名変更した後も二度と政権に返り咲くことなく、81年以降は議席を喪失、89年に至り解党・消滅した。
 デュプレシ時代の強固な反共政策、そして民族同盟が冷戦終結と時を同じくして消滅したことからすれば、ケベックの民族同盟体制もまた反共ファシズムの一環だったと見ることもできるが、一方でデュプレシ政権がユニオンジャックに代えて制定したケベック州旗は今なお維持されているなど、ケベック地方主義の先駆けという歴史的意義も認められる。
 従って、このタイプの地方主義と結びついた「地方ファシズム」は、現代でも連邦国家や地方自治国家の内部から発現してくる可能性があるという意味では、今日的な意義も見逃すことはできない。

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戦後ファシズム史(連載第22回)

2016-02-29 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

1:不真正ファシズムについて
 
第三部では、不真正ファシズムという戦後ファシズム現象の中心的な事例を扱う。不真正ファシズムとは、「ファシズム」ではあるが、明確にファシズムを綱領とする政党ないし政治勢力を通じた真正ファシズム体制とは異なり、明確にファシズムを綱領としない政党ないし政治勢力を通じた実質上のファシズム体制を指す用語として使用する。
 第一部でも見たように、戦前のファシズム体制は真正ファシズムが主流的であった。その二大巨頭であったイタリアとドイツを敗北・崩壊させた第二次世界大戦後もファシズムの潮流そのものは消滅することはなかったが、戦後国際秩序が表向き「反ファシズム」を掲げてきた手前、ファシズムは隠れ蓑を必要とするようになった。そうした言わば「隠れファシズム」がここで言う不真正ファシズムである。
 そして、こうした不真正ファシズムは現在型(及び未来型)のファシズム体制の主流にも連なるまさに本連載の主題である「戦後ファシズム」の中心に位置するものである。ただ、不真正ファシズムは種々の隠れ蓑をかぶることから、単なる超保守主義と真正ファシズムの中間的・両義的な性格を帯びることが多く、それをファシズムと認定することへの異論も生じ得る論争的な概念である。
 特に不真正ファシズムは民主主義を偽装する隠れ蓑として議会制を利用し、議会制の外観を維持したり、完全に適応化することさえもあるため、外部の観察者やメディアからは議会制の枠内での超保守的政権(極右政権)と認識されやすい。実際、単なる超保守的体制と不真正ファシズム体制との区別はしばしば困難であり、超保守的政権が政権交代なしに長期化すれば、何らかの点で不真正ファシズムの特徴を帯びてくることが多い。
 こうした不真正ファシズムに分類可能な体制としては、つとに第一部で見た戦前ブラジルのヴァルガス体制や第二部で反共ファシズムという観点から見たパラグアイのストロエスネル体制といういずれも南米の事例があった。
 ただ、ヴァルガス体制は政党を一切排除するという変則的な体制であり、ストロエスネル体制はコロラド党という伝統的な保守政党をベースとしながらも、軍事政権の性格を併せ持つもので、いずれも不真正ファシズムとしては必ずしも好個の事例とは言えないものであった。すでに各該当箇所で論じたこれらの事例については第三部では再言することなく、ここではより典型的に不真正ファシズムの事例とみなし得る歴史的事例を取り上げていく。

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戦後ファシズム史(連載第21回)

2016-02-17 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

7:トーゴの権威ファシズム
 西アフリカのフランス語圏独立諸国では、社会主義を標榜し、ないしそれに傾斜する体制が多く現出した中で、小国トーゴには反共ファシズムの性格を持つ体制が現われた。その中心人物は1967年から2005年まで大統領の座にあったニャシンベ・エヤデマである。
 独立初期のトーゴでは共に南部出身でブラジル人の血を引くオリンピオ独立初代大統領とポーランド系ドイツ人の血を引く自治政府時代の初代首相グルニツキが政治的に対立し、これに南北の部族対立が絡み、政情不安が恒常化していた。
 そうした状況下、フランス外国人部隊出身の職業軍人で、独立したばかりのトーゴ政府軍の士官として台頭していたエヤデマは63年のクーデターでオリンピオを殺害してグルニツキを擁立すると、今度は67年の再クーデターでグルニツキを追放、自ら政権を掌握した。このような二段階のクーデターで頂点に上り詰めたやり方は、ザイールのモブトゥとも類似する。
 政権に就いたエヤデマは反共かつ親仏・西側の路線を堅持し、国内的には南北融和を追求した。79年までは軍事政権の形態を維持したが、同年の形式的な大統領選挙で民選大統領に就任して以降は、文民政権の外形をまとった。
 その際、政治マシンとなったのが独裁政党トーゴ人民大会議である。この政党はアフリカ民族主義を綱領とし、エヤデマ政権はザイールのモブトゥ政権と同様に人名や地名のアフリカ化を実行したが、事実上はエヤデマの翼賛団体であり、イデオロギー的にはモブトゥの支配政党以上に内容希薄であった。
 そのため、79年の「民政移管」後のエヤデマ体制は実質上軍事政権の偽装的延長と解することも可能だが、一応「民政」の体裁を整え、後で述べるようにエヤデマ死後に息子への世襲さえ実現したことから見ると、軍事政権時代の擬似ファシズムから一種の権威ファシズム体制へ移行したものとみなしてよいかもしれない。
 エヤデマは反共を標榜していたが、実のところトーゴにおける共産主義者の活動は不活発で、エヤデマの二人の前任者も共産主義者ではなかった。エヤデマ体制ではしばしば反政府派への弾圧が行なわれたが、たいていは「オリンピオ派の陰謀」を名分としており、反仏的だったオリンピオ派残党の影響力排除と南北融和が独裁の口実となっていたものと思われる。
 しかし、冷戦時代のエヤデマ体制は東のモブトゥ体制と同様、西側によって擁護され、その人権侵害は黙視されていた。冷戦終結がこの状況を変え、内外の民主化圧力が強まるが、この先、エヤデマのサバイバル戦術はモブトゥを含むアフリカのどの独裁者よりも勝っていた。
 彼は91年にひとまず複数政党制を認めるものの、権力基盤である軍・警察を巧みに使いながら、93年、98年、世紀をまたいで2003年と三度の大統領選を制し、05年の急死まで政権維持に成功するのである。
 05年のエヤデマの死は権力の空白をもたらしたが、忠実な軍部は憲法の規定に反して大統領の息子で閣僚のフォール・ニャシンベを後継大統領に擁立した。しかし、この一種の反憲法クーデターに国際社会の非難と制裁圧力が向けられる中、フォール・ニャシンベはいったん辞任、同年の出直し大統領選で当選を果たし、正式に大統領に就任した。彼はその後も当選を重ね、現在三期目を務めている。
 この間の大統領選挙の合法性については疑問がつきまとっているが、フォール・ニャシンベは父が遺した権力基盤に支えられ、安定した政権を維持している。この世襲体制の性格をどう評価するかは難しいが、文民テクノクラート出身のフォール・ニャシンベ体制がさらに長期化するなら、現代型の管理ファシズムの性格を帯びる可能性があるだろう。

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戦後ファシズム史(連載第20回)

2016-02-16 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

6:ウガンダの擬似ファシズム
 アフリカにおける反共ファシズム体制の中でも、とりわけ反人道性が際立ったのは、ウガンダのアミン政権である。この政権は1971年から79年までの比較的短命な政権であったが、その間に当時1千万人程度の人口で最大推定50万人とも言われる犠牲者を出した。
 政権の主イディ・アミンは英国植民地軍の兵士から叩き上げた職業軍人であり、1962年のウガンダ独立後は、新政府軍の将校として順調な昇進を重ね、独立指導者で初代首相となったミルトン・オボテに重用されて、国軍総司令官にまで栄進した。
 オボテは社会主義的な志向を持ち、アミンの手を借りて66年に大統領に就任すると、強権を発動して英国資本の国有化政策などを断行し始めたことから、旧宗主国英国をはじめとする西側陣営の警戒を招いていた。そこへオボテとアミンの個人的な亀裂が加わり、71年、オボテの外遊中を狙ったアミンが軍事クーデターで政権を奪取した。
 このクーデターは当初、アミンの本性を知らない英国や西独、イスラエルといった西側陣営からは好意的に受け止められ、またオボテ政権の強権統治からの解放を期待した国民からも歓迎されたが、かれらは間もなく裏切られることになる。
 アミンはクーデターの一週間後には一方的に大統領就任を宣言し、以後79年に政権が崩壊するまで政党は創設せず、軍事政権の形態を維持したため、アミン政権の本質は軍政による擬似ファシズムであった。実際のところ、アミンは生粋の軍人で、思想性は希薄であったが、彼は個人的にヒトラーを崇拝していたとされ、実際ヒトラーばりの民族浄化政策を断行したため、政策上はナチズムに近い様相を呈したのも事実である。 
 アミンは自身が属するイスラーム教徒の部族を優遇する一方で、オボテを支持する部族など他部族に対する大量虐殺を実行し始めたうえ、政権掌握の翌年には、「経済戦争」と命名した民族迫害政策に着手する。「経済戦争」とは当時のウガンダ経済界で重きをなしていたインド系を中心とするアジア人の追放政策であり、かれらの経済的権益を剥奪することが狙いであった。この政策によって、数万人のアジア系住民が亡命を余儀なくされた。
 こうしたアミンの暴政に西側が重大な懸念を示すと、アミンはそれまでの親西側の態度を豹変させ、72年にはイスラエルの軍事顧問団を追放、カダフィ独裁下のリビアやソ連、東独などの東側陣営に急接近を図る。こうした露骨な日和見主義はアミン政権の延命を保証すると同時に、政権の命脈を縮める要因でもあった。
 政権中期の76年に起きたパレスティナとドイツの過激派の合同グループによるエールフランス機乗っ取り事件は、アミン政権崩壊の第一歩となった。イスラエルで服役中のパレスティナ人活動家の釈放を要求する犯人グループが強制着陸させたウガンダのエンテベ空港に立てこもったこの事件で、大統領として空港を管理する立場のアミンは人質救出に当たるどころか犯人を擁護するという前代未聞の対応をとった。
 事件はイスラエル軍特殊部隊の強行突入作戦で解決されたが、イスラエルの軍事行動はウガンダの主権を侵害していたことから、アミンは国連安保理の招集を求めたが、犯人を擁護したアミン政権にも非があったため、この要求は却下された。
 事件の翌年にはすでに関係が悪化していた英国とも断交したが、この事件の前後からアミンはソ連の援助を受けて軍事力の増強を図っており、このことは隣国ケニアとの緊張関係も強めていた。
 国内的にも、暴政の中で放置された経済の崩壊が国民生活を圧迫しており、粛清を恐れた閣僚の亡命も相次ぎ、アミン政権は内部崩壊の兆しを見せ始めていた。政権政党も組織されていなかったため、頼みは増強された軍だけであったが、その軍も実のところ外国人傭兵で水増しされていた。
 そうした中、78年末に蜂起した反乱軍が隣国タンザニアへ逃げ込んだことを口実に、アミンはタンザニア侵略を図ったが、これに対してタンザニア軍が反撃、反アミンの武装勢力も合流して、戦争となった。アミンはリビアの支援を受けて抗戦したが、傭兵の多いウガンダ軍からは離脱者が続出し、79年4月、アミン政権はついに崩壊した。アミンはリビア経由で最終的にサウジアラビアに亡命、2003年に客死するまでそこで過ごした。
 アミンは人肉食の噂が立つほどの暴政で同時代の国際的注目を集め、今日に至るまで悪夢として記憶されているが、彼の最大の特異性は通常、人種差別の犠牲者であるアフリカ黒人でありながら、対抗的に人種差別的な政策を大々的に展開した点にあったと言える。
 なお、アミン政権崩壊後のウガンダではオボテの帰還・復権と再度の失権を経て、86年以降、旧反政府勢力を基盤とする管理主義的な特徴を伴った現代型の真正ファシズム体制が確立され、現在まで長期政権を維持しているが、これについては後に再言する。

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戦後ファシズム史(連載第19回)

2016-02-15 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

5:ザイールの民族ファシズム
 アフリカ大陸は、多数の部族に分かれた部族主義の伝統が強く、統一国家の形成自体が困難であるうえ、その国家を絶対化し、国民の全体主義的統合を図るファシズムはなおいっそう定着しにくい。また、反植民地主義からマルクス‐レーニン主義を含む社会主義に傾斜する体制が多かったことも、アフリカにおけるファシズムの希少性に影響したであろう。
 そうした中で、ザイール(現コンゴ民主共和国)はファシズム体制が30年以上続いた例外である。それを可能としたのも、やはり冷戦という世界情勢であった。ザイールはベルギーによる植民地支配の後、1960年にコンゴとして独立したが、その直後、南部が分離独立の動きを示し、ベルギーや国連の介入を招く動乱に陥った。
 このコンゴ動乱はアフリカにおける統一国家形成の難しさを露呈するものであると当時に、統一国家の維持を口実にアフリカにもファシズムが成立し得る可能性を示す出来事でもあった。それを証明した人物は、内戦の過程を通じて台頭したジョゼフ‐デジレ・モブトゥである。
 モブトゥは当初、ベルギー統治時代の実質的な現地軍であるベルギー公共軍で士官を務めた後、いったんジャーナリストに転身するが、独立直後、当時の政府により国軍参謀総長に抜擢され、政府軍の構築で重要な役割を果たすことになった。
 彼はそのような新政府軍最高実力者の立場を利用して、1960年と65年の二度にわたり軍事クーデターを起こして権力の座に上り詰める。一度目のクーデター時は翌年に民政移管を実現したが、二度目のクーデターで自ら大統領に就任して以降は97年の政権崩壊までほぼ自動的に多選を重ね、一貫して独裁権力を手放さなかった。
 モブトゥは先述のように軍出身とはいえ、訓練された真の職業的キャリア軍人とは言えず、どちらかと言えば文民に近かった。そのため、彼の支配体制も他のアフリカ諸国でしばしば見られた単純な軍事独裁政権ではなく、いちおう文民政権の体裁を持っていた。
 その際、基軸的な政治マシンとなったのが、67年にモブトゥによって設立された革命人民運動である。そのイデオロギーは中央集権と全体主義的国家統制という旧ファシズムに近いものであったが、アフリカ的な特徴として「真正さ」という標語によって象徴される民族主義が基調にあった。
 このイデオロギーは71年に国名を「ザイール」に改めて以降、「ザイール化」とも呼ばれ、地名や人名の「ザイール化」が強制された。実際、ベルギー風の首都レオポルドヴィルはキンシャサに改称され、モブトゥ自身の出生名ジョゼフ‐デジレもモブトゥ・セセ・セコに改名している。
 革命人民運動は、90年にやむなく複数政党制を導入するまで独裁政党であったが、全国民が出生により自動的に党員となるという徹底ぶりであり、単なる政党を超えた全体主義的政治動員機構として機能した。
 こうした特異な体制の持続を可能としたのが、モブトゥの一貫した反共親米姿勢である。彼は最初のクーデター当時、親ソに傾斜していた当時の実力者パトリス・ルムンバ首相の排除・処刑に加担したように、終始反共主義者を演じていた。そのため、冷戦時代の只中にあって、モブトゥ体制はアフリカにおける反共の砦とみなされ、旧宗主国ベルギーを筆頭とする西側からの経済援助が流れ込んだが、モブトゥはそれらの多くを私的に着服し、巨額の個人資産を形成していた。
 こうしたクレプトクラシー(窃盗政治)は程度の差はあれ、アフリカ諸国の独裁政権にはしばしば見られる共通した悪弊であり、必ずしもモブトゥ体制固有の特徴ではないが、モブトゥのそれは国家経済を破綻に追い込むほど常軌を逸していたため、その徹底した個人崇拝政治とともにしばしば戯画的に注目されたのであった。
 冷戦終結後、「砦」の役割も終焉し、内外から民主化圧力が高まると、モブトゥは90年に複数政党制移行を受け入れるが、大統領の座を手放すことはなかった。しかし、晩年に癌を患い、強権統治に陰りが見えてきた中、96年以降、反政府勢力が武装蜂起、97年には全土の大半が反政府勢力に制圧される中、モブトゥは辞任・亡命に追い込まれた。癌もすでに末期と見え、同年中に亡命・療養先のモロッコで死去した。
 こうして30年以上に及んだモブトゥ体制は、新たな内戦の中で終焉し、以後、再び改称されたコンゴ民主共和国を混迷に陥れる。結局のところ、モブトゥ体制も冷戦時代に林立した反共ファシズムのアフリカ版であり、冷戦終結を経て米国‐旧西側陣営にとっての存在価値が消滅した時点で、用済みとされたのである。

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戦後ファシズム史(連載第18回)

2016-02-02 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐6:パキスタンのイスラーム軍政
 戦後の南アジアでは、中軸国のインドが非同盟中立を旗印に独自の社会主義的な路線を歩んだため、米国の息は元英領インドとして一体的ながら、インドとは対立的なイスラーム系の隣国パキスタンにかかることとなった。
 パキスタンでは1947年の建国以来、親英米路線が既定となっており、54年に禁止された共産党の力は弱かった。従って、反共主義を前面に押し出す政権は70年代までは存在しなかった。
 潮目が変わるのは、67年にズルフィカール・アリ・ブットを中心に人民党が結党されてからであった。人民党は共産主義政党ではないが、短期間でパキスタンにおける代表的な左派政党となった。ブットは60年代には外相も経験したベテランの政治家であり、反インドのナショナリストでもあった。彼は71年のバングラデシュ独立戦争とそれに続く第三次印パ戦争での敗北という国難の中で、大統領に就任した。
 71年から73年までは大統領、73年以降は首相として政権を率いたブットは左派色を前面に出し、主要産業の国有化、農地改革、労働者の権利拡大など左派の定番的な政策を次々と打ち出した。その一方で、インドに対抗するため、中国の協力を得て核開発にも先鞭を着けた。このようなブット政権は左派ナショナリズムの性格を帯びていた。
 しかし、ブットの性急な政策的路線転換に反発が強まり、野党の抗議行動により混乱が広がる中、77年の総選挙では人民党が圧勝するも、混乱はかえって拡大し、騒乱状態に陥った。ここで、ムハンマド・ジア‐ウル‐ハク陸軍参謀総長に率いられた軍部がクーデターを起こし、ブット政権を転覆したのであった。
 ジア将軍はブットによって重用されてきた軍人であり、そうした人物が裏切りの形で選挙により成立した左派政権を転覆した経緯は、南米チリのピノチェト将軍による73年クーデターにも類似していた。ジアは戒厳司令官として全権を掌握し、ブットを政治裁判にかけ処刑した。それに続いて左派に対する不法な手段による弾圧が断行された点でも、チリの経緯と似ている。
 この77年クーデターに米国が関与した証拠はないが、クーデターの翌年、隣国アフガニスタンで親ソ派の社会主義革命が発生したことで、パキスタンは米国にとっての反共基地の意義を持つことになった。実際、ジア政権は軍諜報機関(統合諜報局)を通じてアフガニスタンの反革命武装勢力ムジャーヒディーンを援助しつつ、その見返りとして米国からの経済援助を受け、経済成長を軌道に乗せることにも成功した。
 国内的には、イスラーム法(シャリーア)を初めて本格的に導入して、イスラーム主義政策を追求した。ただし、最期まで擬似ファッショ的な軍事政権の形態を維持したジア政権はいわゆるイスラーム原理主義というよりも、イスラーム法を全体主義的統制の手段として利用したもので、その意味ではイスラームが擬似ファシズムと結びついた最初の例と言えるかもしれない。
 経済政策はジアにとって二次的関心の対象にとどまったが、ブット時代の社会主義的な政策は漸次的に撤回され、政権後期の84年布告をもって民間資本の開放、市場経済化への道筋がつけられた。
 80年代半ばに入り、民主的な総選挙の実施への要求が高まると、84年に信任投票を実施したうえ、翌85年には政党によらない官製選挙を実施し、傀儡的な文民首相を任命したが、88年には罷免した。同年、11年ぶりとなる総選挙が布告されたが、その実施前の88年8月、ジアは飛行機事故により不慮の死を遂げた。
 予定通り実施された88年総選挙では、故ブットの娘ベナジル・ブットが率いる人民党が圧勝し、べナジルがパキスタン及びイスラーム圏初の女性首相に就任するという一種の革命的な様相を呈した。
 こうしてジア軍事政権は大統領の不慮の死を機に終焉したが、その負の遺産はアフガン内戦終結後、パキスタン領内に流入した旧ムジャーヒディーン残党の過激化、そして現在もかれらを援助しているとされる軍統合諜報局の隠然たる権力として残されている。

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戦後ファシズム史(連載第17回)

2016-02-01 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐5:タイの反共軍政時代
 冷戦期における反共ファシズムは、戦後の米国が東における勢力圏として想定してきたアジアにも及んだ。先行して扱った南ベトナムはその最も初期の例であるが、インドシナ半島にもまたがるタイの反共軍政も歴史が古く、しかも長期間に及んだ。
 タイでは、第一部でも見たように、戦前から戦後にかけてすでに反共擬似ファシズムの性格を帯びたピブーンの独裁体制が見られたが、元来は立憲革命派であり、ある程度民主化への展望も持っていたピブーンが1957年の軍事クーデターで失墜した後には、明瞭な反共軍事政権が立ち現われた。
 57年クーデターの首謀者は、元来ピブーンに重用されながら不正選挙を機に袂を分かったサリット・タナラット将軍であった。ただ、健康問題を抱えていた彼は直ちに首相とならず、短期間の傀儡政権を経て、58年にCIAの後援のもと、再クーデターを起こして首相に就いた。
 サリットは単純明快な反共主義者であり、共産党やその支持者への弾圧を強化するとともに、超法規的かつ残酷な方法で刑法犯を見せしめにするなど、強権的な社会統制を導入した。同時に、インドシナにまたがる地政学的位置を最大限利用し、米国の後ろ盾を得て、上からの経済開発を推進した。戦後タイの経済成長は、タイ史上最も苛烈と評されるサリット軍政の時代に始まったと言える。
 しかし、持病のあったサリットは63年に急死、後任にはタノーム・キッティカチョーン将軍が副首相から昇格した。タノームは、57年のクーデターに参加し、58年には短期間首相も務めたサリット側近であり、タノーム政権は前政権の延長にすぎなかった。
 ただ、前任者と違っていたのは、タノームは健康で、政権維持に長けており、69年の総選挙をはさんで73年まで10年間首相の座を譲らなかったことである。この間、インドシナではベトナム戦争(及びカンボジア・ラオスにも及ぶインドシナ包括戦争)が進行しており、これにタノーム政権が全面的に反共・米国側で協力したことも、政権長期化の外的要因となった。
 しかし、軍政の長期化は政治腐敗と人権抑圧への不満を呼ぶとともに、インフレの亢進といった経済状況の悪化も重なり、73年、空前規模の民衆デモが流血化する最中(血の日曜日事件)、タノームは辞任、国外亡命に追い込まれた。
 この後、いったん民政移管されたが、民主主義の歴史がほとんどないタイでは、民政は長続きしなかった。76年にタノーム元首相が強行帰国したことへの大学生の抗議集会に治安当局が流血介入し(血の水曜日事件)、翌77年以降再び軍政の復活を許すこととなった。
 しかし、新たな軍事政権を率いたクリアンサク・チャマナン首相は政権に執着せず、80年に退任、新たにプレーム・ティンスーラーノン国防相が首相に昇格した。プレームは軍人ながら穏健で、国王ラーマ9世の厚い信任の下、漸進的な民主化を推進した。
 プレーム政権も軍事政権の範疇に含まれるが、閣内には文民も取り込み、定期的な総選挙も実施したため、「半民主主義」とも評される軍民融合政権の性格を持った。従って、プレームの退役をはさみ88年まで続いた政権は反共擬似ファシズムではなく、むしろ長期間かけて反共擬似ファシズムから脱却する民主化移行政権と位置づけるほうが正確であろう。
 こうして、タイの反共擬似ファシズムは冷戦末期88年の完全な民政移管をもっていちおう終了するのであるが、長い軍政時代に政治的な実力と経済的利権を蓄えた軍部の力はそがれておらず、冷戦終結後も今日に至るまで、激しい党派対立を繰り返す政党政治に介入する形でたびたびクーデターを起こし、軍事政権を形成する慣行は続いている。

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戦後ファシズム史(連載第16回)

2016-01-22 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐4:ギリシャの反共軍政
 ギリシャにおける反共擬似ファシズムは、戦前と戦後の二度出現している。一度目は1936年から41年にかけてのメタクサスの独裁時代である。この体制は、35年に王政復古したばかりで政情不安の中、共産党の伸張を懸念した国王ゲオルギオス2世が職業軍人出身の老政治家イオアニス・メタクサスに暫定政権を委ねたことに始まる。
 共産党が呼びかけたゼネストを阻止するために非常事態宣言が発令された36年8月4日にちなんで「8月4日体制」とも呼ばれるメタクサス独裁体制は表面上イタリアのファシズムを真似ていたが、本質上は王制の枠内にある非常事態政権であり、その点では同時代の日本に近い擬似ファシズムであった。
 しかも、第二次世界大戦では中立を保ち、ドイツやイタリアのファシスト政権とは距離を置いたため、両国からは睨まれ、侵略の危険にさらされた。41年にメタクサスが死去すると、この危険は現実のものとなり、ギリシャはバルカン半島支配を狙うナチスドイツの侵攻を受け、ドイツ軍に占領された後、ドイツ・イタリア・ブルガリアの枢軸諸国による三分割統治下に置かれる。
 戦後独立を回復したギリシャでは、レジスタンスの主力を担った共産党と反共保守勢力との内戦に陥るが、その裏で米国が反共勢力を支援しており、ギリシャは戦後冷戦体制の始まりを画する舞台ともなった。
 共産勢力の敗北によって内戦が終結した後、ギリシャ経済は「ギリシャの奇跡」とも評された順調な成長を見せるが、国王パウルス1世と後継の息子コンスタンティノス2世はしばしば不適切に政治に介入し、政局の混乱を招いていた。その混乱は65年にコンスタンティノス2世と時のゲオルギオス・パパンドレウ首相の対立で頂点に達した。パパンドレウは60年代に躍進したギリシャのリベラル政党・中道同盟の指導者であったが、その左派的改革政治は国王や保守層・軍部と衝突していた。
 しかしパパンドレウは大衆的な支持が強く、67年に予定されていた総選挙では中道同盟が第一党に就く見込みだったが、単独過半数には達せず、明確に左派の統一民主左翼と連立する可能性が高いと見られていた。
 そうした中、反共右派の牙城でもあった軍部が動く。総選挙の二週間前のタイミングを狙って、おおむね大佐級の中堅軍人らがクーデターを起こし、全権を掌握した。当初は文民を傀儡首相に立てたが、67年末に実権回復を狙ったコンスタンティノス2世が逆クーデターの企てに失敗し、国外に脱出した後、クーデターの実質的な黒幕であるゲオルギオス・パパドプロス大佐が首相に就任し、軍事独裁制の性格を露にした。
 彼はCIAの訓練を受けた後、ギリシャ中央諜報局に勤務し、米CIAとの連絡担当官を務めたこともある情報将校の出身であり、その背後には米国の影がちらつく。クーデターそのものに米国が直接関与した証拠はないが、米政府はクーデターの翌年に軍事政権を承認している。
 この軍事政権の性格は同年代の中南米に林立していた反共軍事政権と同様、共産主義の脅威を名分にあらゆる不法手段で左派を弾圧するというものであり、戦前のメタクサス体制と類似していたが、その反人道性においてはそれを上回っていた。パパドプロスはファシズム体制にならって個人崇拝の導入も図ったが、典型的に軍人気質のパパドプロスは不人気で、ある程度の大衆的支持もあったメタクサスとは対照的に、大衆的基盤を確立することは最期までできなかった。
 経済政策面では自由市場経済を掲げ、ギリシャの主要産業である観光を軸に、海外投資の誘致と工業化を目指し、当初は堅調な経済成長を見せたが、オイルショックを転機にインフレに陥る点でも、中南米の同類体制と同様であった。
 73年、パパドプロスは仕切り直しのため、事実上亡命していたコンスタンティノス2世を廃し、共和制移行を宣言、自ら大統領に就任して形式上民政移管を主導しようとするが、これに反発したクーデター同志の憲兵司令官ディミトリオス・イオアニディスがクーデターを起こし、パパドプロスは拘束され、あえなく失権した。
 イオアニディスは当時軍事政権の弾圧司令塔でもあった憲兵隊を握る最強硬派であり、彼が操る新たな軍事政権の抑圧性はいっそう高まった。対外的にも強硬策に出て、74年にはかねてよりギリシャ系住民とトルコ系住民の間で対立のあったキプロスでギリシャ系民兵組織を扇動してクーデターを起こさせ、傀儡政権を樹立した。
 これに対して、トルコ系住民の保護を名分としてトルコがキプロスへ侵攻したことをめぐり、軍事政権内部で対立が起き、元来傍流に置かれていた海軍と空軍は出撃を拒否、軍事政権は事実上内部崩壊した。この後、74年中に国民投票による王制回復否決を経て、正式に共和制での民政移管が実現する。
 中南米とは異なり、ギリシャの民政下ではパパドプロスやイオアニディスをはじめとする軍事政権首脳らは直ちに起訴された。これは彼らの軍事政権が陸軍中堅クラスを主体としており、全軍規模のものではなかったことにもよる。ナチスの「ニュルンベルク裁判」にもなぞらえられたこの一連の歴史的な裁判の結果、パパドプロスらには死刑判決が下った(後に終身刑に減刑)。
 このように迅速な司法処理がなされたことで、その後のギリシャでは軍の非政治化と議会制の回復が確定し、同種の軍事政権が再現される可能性は潰えている。しかし、現時点でもギリシャ系(キプロス共和国)とトルコ系(北キプロス・トルコ共和国)で南北に分断されたキプロスの状況は、ギリシャ軍政期の負の遺産である。

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戦後ファシズム史(連載第15回)

2016-01-21 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐3:チリのピノチェト体制
 前回包括的に扱った南米における「コンドル作戦」体制に属する反共擬似ファシズム政権のほとんどは軍部が全権を掌握する集団的独裁型であったが、チリでは一人の軍事独裁者アウグスト・ピノチェトが17年にわたり統治した点で、趣きを異にしていた。その限りで、この体制は本来のファシズムに接近することになった。
 ピノチェト政権が成立した経緯については、かつて共産党の歴史を扱った『世界共産党史』の中でも簡潔に述べたことがあるので繰り返さないが(拙稿参照)、選挙で正当に選ばれた政権をクーデターで転覆し、しかも現職大統領を自害に追い込んだ非民主性と冷酷性においては、コンドル体制の中でも際立っていた。 
 現代史的には、このクーデターに米国がどの程度関与していたのかが論議されている。現在までに明らかにされている情報による限り、米国は直接にクーデターを教唆してはいないものの、CIAは事前に計画を知りつつ黙認し、米政府はクーデター後の軍事政権を支持したという間接的ないし側面的関与があったと見られている。
 ともあれ、クーデター成功後、陸海空軍にチリ特有の警察軍を加えた全軍合同の軍事政権が成立し、そのトップに座ったのが陸軍司令官ピノチェトであった。彼はアジェンデ前大統領によって任命されていながら、クーデターに出てその信任を裏切ったのだった。
 ピノチェト政権は発足直後、共産主義者の根絶を掲げ、左派に対する収容、拷問、殺戮などあらゆる不法な手段による徹底した弾圧を断行した。マルクスやフロイトの書籍に対する焚書のようなナチスばりの思想統制も繰り出された。
 弾圧の中心に立ったのはチリのゲシュタポの異名を持つ74年設立の秘密警察・国家諜報局で、同局は軍人を含む反軍政派要人の暗殺など国際的な破壊工作も実行し、国境を越えたコンドル作戦においても司令塔的役割を果たしていた。
 しかし、ピノチェト政権がより注目されたのは経済政策の面であった。コンドル作戦体制の多くは反共の観点から自由市場経済を志向する傾向が強かったが、ピノチェト政権は特に明瞭にこの方向を目指した。
 そのため、政権はミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ学派の経済イデオロギーを採用し、今日で言う新自由主義経済政策を実験的に導入したのである。このような政策転換は当初こそ、前任のアジェンデ左派政権時代の経済失政から脱却する効果を示したため、フリードマンらによって「チリの奇跡」と称賛・宣伝された。
 こうした経済政策での「成功」が一面的に強調されることによって、ピノチェト体制の反人道性が覆い隠され、先進国ではいち早く同様の新自由主義政策を実行する英国のサッチャー首相のようにピノチェトを「改革者」として崇拝するような風潮すら生じた。このことも、他の同種コンドル体制よりピノチェト政権が延命される要因となっただろう。
 しかし、ピノチェト政権が長期化するにつれ、貧富格差の拡大などマイナス面も顕在化してくる。そのうえ、事後評価によればこの間の経済成長率もせいぜい平均3パーセント台にとどまり、80年代になるとマイナス成長に陥るとともにハイパーインフレの発現、失業率の増大など経済破綻の様相も呈し始めた。最終的には、ピノチェト政権自身がシカゴ学派を離脱してしまうのである。
 程度の差はあれ、こうした新自由主義政策の挫折と対外債務の累積はコンドル体制全般の命取りとなり、80年代以降、各国で漸次軍部の政権放棄・民政移管へとつながるが、80年代末の新自由主義経済政策の軌道修正で経済再生の兆しが見えたことに自信を強めたピノチェトは政権に執着し、88年には自身の任期延長を問う国民投票を実施するも、結果は反対多数で、やむなく90年をもって退任した。
 こうしてピノチェト独裁は終焉したが、ピノチェトは民政移管後も陸軍司令官兼終身上院議員として軍・政界に居残り、睨みを利かせていた。これには自身の政権下での人権侵害に対する責任追及を阻止する狙いもあったであろう。
 国際的には、スペインの人権法に基づく国外起訴がなされ、98年にはスペイン司法当局の要請で病気療養のため英国滞在中のピノチェトがいったん拘束されたが、英国は本人の健康状態を理由に身柄引渡しを拒否し、帰国を認めた。
 ピノチェトに対する国内での起訴は2004年になってようやくなされたが、すでに90歳に近い高齢であり、最終的には健康状態を理由に公訴棄却となり、審理を受けないままピノチェトは06年に死去した。これにより、チリではアルゼンチンとは対照的に、コンドル体制時代の大量人権侵害の真相究明と執権者処罰はなされずに終わった。
 ピノチェト体制は最期まで軍事政権の形態を変えなかったが、擬似ファシズムが限りなくファシズムに接近し、かつ戦前型のファシズムが採用した経済統制的な志向とは反対に、新自由主義的経済政策を追求した点で、記憶に残る体制であった。このような傾向性は、現在あるいは未来のファシズム体制にとっても有力な先例となる。

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戦後ファシズム史(連載第14回)

2016-01-08 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐2:「コンドル作戦」体制
 
冷戦期の南米では、1960年代から70年代にかけて、次々と親米反共の軍事独裁政権が成立していくが、やがてこれらの体制は「共産主義の撲滅」を大義名分に連携して左派に対する殺戮作戦を展開し始める。
 「コンドル作戦」と命名されたこの共同作戦は、主としてチリ、アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイの六か国を中心に断行された。そこでこれら「コンドル作戦」に参加した体制を「コンドル作戦」体制(以下、「コンドル体制」と略す)と呼ぶことにする。
 その中でも、パラグアイのストロエスネル体制については先行してすでに論じたが、それはこの体制が他のコンドル体制とは趣を異にし、軍部のみならず既成政党も利用した不真正ファシズムの特徴を備えていたためである。パラグアイを例外として、その余のコンドル体制はすべて軍部が支配する軍国的な擬似ファシズムの形態を採っていた。
 その多くは軍部による集団指導体制であったため、単独の独裁者が一貫して支配した例は少ないが、73年から90年まで続いたチリのピノチェト独裁体制はその例外であるので、次回個別に取り上げることにする。
 コンドル体制は、1954年という冷戦初期に成立していたストロエスネル体制を除けば、59年のキューバ社会主義革命とその直後のキューバ危機を背景に、米国が地政学的な「裏庭」とみなす中南米へのキューバ革命のドミノ的波及を防止するという目的から、米国を黒幕として実行された反共工作の結果として出現した。
 その際、クーデターとその後の軍事政権の中心となった軍人の多くは、米国が1946年に南方軍内に設立した「アメリカ陸軍米州学院」(現西半球安全保障協力研究所)で特殊訓練を受けたエリート将官らであった。
 この「学院」は中南米において反共軍事作戦の技術を訓練することを目的としたまさに反共教育機関であり、そこでは被疑者への拷問のような不法な人権侵害手段も教育されていたとされる。修了生らはそれらの技術を国に持ち帰り、軍事クーデターや軍事政権下での反共弾圧作戦に応用していったのである。最大推定で計8万人の犠牲者を出したともされるコンドル作戦は国境を越えたその集大成と言えるものであった。
 コンドル体制に含まれるすべての体制についてここで詳述する余裕はないが、中でもとりわけ苛烈な結果をもたらしたのは、76年の軍事クーデターで成立したアルゼンチンの軍事政権である。
 アルゼンチンでは、第一部で論じたように、旧ファシズム体制の指導者ペロンが高齢で返り咲くも急死、後継の妻イサベルも政権運営に失敗する中、76年に軍部がクーデターで全権を掌握する。当時のアルゼンチンでは左傾化したペロン主義武装組織などによる破壊活動が横行していたのは事実であり、76年クーデターもこうした騒乱状態の回復を名分としていた。
 しかし、軍事政権はそうした治安回復の目的を越えて、「国家再編プロセス」なるイデオロギーを掲げ、左派に対するあらゆる不法手段を駆使した殲滅作戦を展開した。その犠牲者数は未だに確定していないが、最大推計で3万人ともされ、一連のコンドル体制の中でもおそらく最大級の犠牲者を出したと見られる。
 英国との領有権紛争であるフォークランド戦争に敗れて退陣に追い込まれた83年まで、六代の軍人大統領をまたいで続いた軍事政権下での「国家再編プロセス」は、後に「汚い戦争」と命名され、アルゼンチン現代史上の汚点とみなされている。
 コンドル体制は、80年代の冷戦晩期に入ると、82年のボリビアを皮切りに順次退陣・民政移管がなされ、90年のチリを最後に終焉する。その共通的な背景として、経済政策での失敗と国際的な人権批判の高まりがあった。
 しかし、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理はおおむね21世紀に持ち越された。とりわけ、アルゼンチンの「汚い戦争」に関しては民政移管後の文民政権により一部指導者の裁判が行なわれたものの事実上の免責法である終結法が制定されたことで、全容解明は法的に不可能になったが、軍政時代に行方不明となった青年たちの母親グループなどが真相解明を求めて運動を続けた。
 その結果、03年に終結法が廃止され、改めて関係者の責任追及が可能となった結果、76年クーデター当時の指導者で81年まで軍政大統領を務めたホルヘ・ヴィデラ元将軍に対する審理も改めて行なわれ、2010年に終身刑判決が確定した。
 他方で、64年から85年まで20年以上続いたブラジル軍事政権下の反人道犯罪については軍政下で制定された免責法のために全く審理がなされていないなど、コンドル体制下での反人道犯罪に対する司法処理の熱意には国による温度差が大きく、なお全容解明には至っていない。

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戦後ファシズム史(連載第13回)

2016-01-07 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4‐1:グアテマラの30年軍政
 
今回以降、前回言及した反共軍事独裁ドミノ現象の範疇に含まれる多数の事例の中から六つの代表的な事例を取り上げていくが、筆頭は中米の小国グアテマラの軍政である。
 この体制は一人の独裁者に率いられた単一の政権ではなく、複数の政権の連続体ではあるものの、冷戦初期から晩期に至るまで米国を後ろ盾に長期間存続し、反人道的なジェノサイドを断行した点で象徴的な反共(擬似)ファシズム体制と言えるものであった。
 実はグアテマラの反共軍政の歴史は戦前に遡り、1931年から44年にかけてのホルヘ・ウビコ独裁政権の先例がある。ウビコはファシズム信奉者ながら米国を後ろ盾としたため、第二次大戦では連合国側に付いたが、その体制は強固な反共を軸とするファシズムの特徴を持っていた。
 このウビコ独裁政権は44年の民主革命によって崩壊し、曲折を経て50年の大統領選挙では44年革命の立役者の一人で、軍人でもあった左派系ハコボ・アルベンス・グスマンが当選する。アルベンス自身は共産主義者ではなかったが、アルベンス政権は大土地所有制の解体を軸とする農地改革を断行するなど国内保守層や米国の目には「容共的」と映る政策を遂行し始めた。
 これに危機感を抱いた米国は54年、CIAを通じて反アルベンス派武装集団を支援する形で軍事クーデターを実行させ、アルベンス政権の転覆に成功した。民主的に選挙された政権を打倒したこのクーデターは、「民主主義の旗手」を標榜する米国が黒幕的に関与するその後の中南米各国における軍事クーデターの悪名高い先例となった。
 このクーデターにより政権に就いたのは、かつてはアルベンスの友人で44年革命にも参加しながら離反していたカルロス・カスティージョ・アルマス大佐であった。カスティージョを大統領とする新たな軍事政権はアルベンス政権の政策を覆し、実質的にウビコ時代の政策を復活させた。
 カスティージョは56年に新憲法を公布し、改めて四年任期の大統領に就任するも、翌57年、警護隊員によって暗殺された。この事件の背後関係は不明のままであるが、カスティージョの急死によりグアテマラ軍政は以後、軍部内の不和も影響して不安定なものとなる。しかしカスティージョ政権が3年ほどの短い期間内に断行した強制収容、超法規的処刑や強制失踪などの不法な手段による徹底的な左派排除策は、後継軍事政権に継承されていく。
 以後、形式上文民政権の形が取られた66年から70年の間を除き、86年の民政移管まで継続されたグアテマラ軍政では長期執権の独裁者は現われなかった代わりに、歴代の軍部が集団的に統治する軍国的な擬似ファシズムの形態が採られた。
 特に1961年にアルベンス派下級将校らによって結成された反乱軍の蜂起を契機に、グアテマラ内戦が勃発すると、軍国体制は強化されていった。この武装反乱は70年代以降、グアテマラ人口の4割近くを占めながら白人支配層による大土地所有制の下、貧農の被差別階級に落とされてきたマヤ系先住民族を主体とする解放戦に移行していく。
 これに対し、軍政側は先住民集落の殲滅殺戮作戦を中心とした民族浄化政策で対抗した。この政策は軍政内の対立を背景に82年のクーデターで大統領に就いたエフライン・リオス・モント将軍の政権下で頂点に達し、大虐殺の様相を呈した。
 リオス・モントは82年末に内戦勝利を宣言したが、キリスト教原理主義者でもあり、その狂信的なまでの過激な政策が軍部内でも忌避され、翌83年のクーデターで失権する。新たな軍事政権は内戦の一段落や軍政に対する国際的批判の高まりといった内外情勢を受け、86年に民政移管を実現し、実質30年余りに及んだ軍政に終止符が打たれた。
 しかし内戦自体は民政下でも冷戦終結をまたいでさらに10年続き、96年の和平合意をもってようやく終結した。この間の犠牲者数―反政府側の手による犠牲も含む―は内戦終結前後の人口が1000万人に満たなかった中で最大推計20万人にも及ぶ20世紀における政治的惨事の一つとなった。
 救いは軍政時代の反人道犯罪が21世紀に入って国内裁判所でも審理される道が開かれたことである。特に民政移管後も国会議長に就任するなど政界実力者に復帰していたリオス・モント元大統領が2013年に至り、ジェノサイドの罪で禁錮80年の有罪判決を受けたことは画期的であった。
 ただ内戦の要因でもあった白人層が政治経済を掌握し、先住民層は貧困層を形成する非対称な社会構造は本質的に変化していない。民政移管後、旧反政府武装勢力(グアテマラ民族革命連合)も政党化され、議会参加しているとはいえ、弱小勢力にとどまる。犯罪発生率も高く、治安問題を理由に軍部が再び前面に登場してくる可能性もゼロではない。

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戦後ファシズム史(連載第12回)

2015-12-25 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

4:反共軍事独裁ドミノ
 冷戦期のアメリカは、いわゆる「ドミノ理論」に基づき、共産主義の拡散に対して強い警戒心を示したため、アメリカが世界戦略上重視する地域においては、軍事クーデターを背後で画策・誘発、もしくは黙認する手法で「反共の砦」となる同盟国を作出することに熱心だった。
 その結果、1950年代半ばから冷静終結期にかけて、とりわけアメリカが「裏庭」とみなす中南米と戦後旧大日本帝国勢力圏から引き継いだ東アジアを中心に、一部はアフリカや欧州、南アジアなどにも点在する広い範囲でアメリカないしイスラエルを含む西側陣営に後援された反共軍事独裁体制が続出する「反共軍事独裁ドミノ」と言うべき現象が発生した。
 これらの体制は、左派政権もしくは左傾化しているとみなされた前政権をクーデターで排除して成立した軍事独裁政権の形態をとるのが一般であるが、単に秩序回復のための中継ぎ的な暫定政権ではなく、アメリカ・西側陣営と連携して「反共」政策を体系的に執行するため、場合によっては数十年単位の長期に及び得る本格政権であることを特徴とする。
 その結果、これらの体制は反共イデオロギーを基盤に、国家権力を絶対化する全体主義傾向を強く帯びた体制となり、見かけ上はファシズムに近い色彩を示す。ただし、ほぼすべてがクーデター政権のため、その本質は大衆運動に基盤を置くファシズムではなく、共産主義勢力の鎮圧を最大目標に据えた一種の戦時体制であり、戦前日本の軍国体制に近い擬似ファシズムの特徴を持つ。
 このような形態の反共軍事独裁体制の事例は多数に上り、そのすべてを詳論するだけの頁数も力量もないので、ここでは、年表式で記すにとどめ、その中でも代表的・特徴的な六つの実例を次回以降改めて取り上げることにしたい。
 なお、下に掲げたもののうち、韓国とインドネシアの事例は、長期政権化する過程で当初の軍事政権形態から急速な経済開発を全体主義的な手法で追求する不真正ファシズム体制に転換されたと解釈できるので、続く第三部で取り上げることにする。

1954年
:グアテマラで軍事政権成立(~86年:66年~70年は形式上民政)

1957年
:タイで軍事政権成立(~73年)

1962年
:韓国で朴正煕政権成立(~79年:63年以降は民政標榜)

1963年
:ホンジュラスで軍事政権成立(~71年/72年~82年)、南ベトナムで軍事政権成立(~75年:67年以降は民政標榜)

1964年
:ブラジルで軍事政権成立(~85年)、ボリビアで右派軍事政権成立(~69年/71年~82年)

1965年
:ザイールでモブツ政権成立(~97年)

1966年
:インドネシアでスハルト政権実質成立(~98年)

1967年
:ギリシャで軍事政権成立(~74年)

1971年
:ウガンダでアミン軍事独裁政権成立(~79年)

1973年
:ウルグアイで軍事政権実質成立(~85年:81年までは形式上民政)、チリでピノチェト軍事独裁政権成立(~90年)

1976年
:アルゼンチンで軍事政権成立(~83年)

1977年
:パキスタンでジア‐ウル‐ハク軍事独裁政権成立(~88年)、タイで軍事政権再成立(~88年:80年以降は半民政化)

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戦後ファシズム史(連載第11回)

2015-12-24 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

3:反共国家南ベトナム
 
反共ファシズムは、冷戦時代、世界各地に拡散したが、中でも数奇な存在だったのは、ベトナムに現われた反共国家・南ベトナム(正式名称は「ベトナム共和国」だが、本稿では便宜上通称の「南ベトナム」と表記)である。
 ベトナムは、第一次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーブ休戦協定により、北緯17度線を境に、社会主義の北ベトナム(正式名称は「ベトナム民主共和国」だが、本稿では便宜上通称の「北ベトナム」と表記)と南ベトナムに分断されることになった。
 このうち、南ベトナムの前身は、北ベトナムの支配勢力であった共産党に反対する勢力が旧阮朝最後の皇帝バオ・ダイを元首に担いで49年に発足させた親仏派の「ベトナム国」であった。従って、それは初めから反共国家であった。
 しかし、ベトナム国はジュネーブ協定後、最大後ろ盾のフランスが撤退し弱体化したことから、インドシナ半島への共産主義勢力の拡散を懸念するアメリカのいわゆる「ドミノ理論」を受け、親米派でベトナム国初代首相でもあったゴ・ディン・ジエムが55年にバオ・ダイを追放して自ら大統領に就任し、改めてベトナム共和国として再編した。
 ジエムは、旧阮朝官僚として台頭したカトリック教徒であった。強固な反共主義者であった彼はアメリカの支援のもとに、北ベトナムと対峙する反共体制を短期間で作り上げた。その手法は政治警察を使った激しい弾圧であったが、それにとどまらず、彼は独自の支配政党を立ち上げた。
 それは正式には「人格主義労働革命党」(通称カン・ラオ党)と称され、表向きはジエムの弟で大統領顧問として絶大の権威を持ったゴ・ディン・ヌーが創始したとされる「人格尊厳論」をイデオロギーとした。
 この党は左派労働者政党のような名称を持つが、これはナチが「民族社会主義労働者党」を称したのと同様、標榜上の労働者政党に過ぎず、実態はフランスのファッショ的なカトリック思想家エマニュエル・ムーニエの影響を受けた反共政党であった。しかも、末端まで組織化されたその機能は、明らかにジエム兄弟独裁を支える大衆動員にあった。
 このようなカン・ラオ党を通じたジエム体制はベトナム版真正ファシズムと言ってよいものであったので、後ろ盾のアメリカにとっても、次第に疎ましいものとなり始めた。特にアメリカにリベラル派ケネディ政権が発足すると、その関係は微妙なものとなる。
 当初こそ、ケネディ政権は北ベトナムの連携武装革命組織として結成された南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)を壊滅させるべく、ジエム政権への軍事援助を強化した。反人道的・環境破壊的軍事作戦として悪名高い枯葉剤散布作戦は、ベトコンが潜むジャングルを破壊するため、ジエム政権がアメリカに提案し、時のケネディ政権が開始したものであった。
 しかし、63年、ジエム体制に反対する仏教徒の抗議運動が激化すると、政権は戒厳令を布告して、武力鎮圧を図った。僧侶の抗議焼身自殺が報道され、ジエム政権への国際的批判も渦巻く中、アメリカは南ベトナム軍内の反ジエム派を動かし、クーデターを誘発した。この軍事クーデターの渦中、ジエム兄弟は殺害され、ジエム体制はあっけなく終焉した。
 このクーデターを契機に、南ベトナムは軍部主導体制に移行する。軍部内の対立に起因する政情不安の後、65年の新たな軍事クーデターで実権を握ったグエン・バン・チュー将軍は67年以降、形ばかりの民政移管によって大統領に就任し、75年のサイゴン陥落直前に辞任・亡命するまで強権的な体制を維持する。
 チュー体制も反共主義で、体制の翼賛政治組織として「国家社会民主主義戦線」を結成したが、これは多数の政党の寄せ集めに過ぎず、この体制はベトナム内戦に対応する一種の戦時体制であり、その本質はせいぜい擬似ファシズムであった。
 こうして、南ベトナムは当初の真正ファシズムから軍部主導の擬似ファシズムへと転換された末に、結局ベトナム戦争の敗者となり、北ベトナムにより吸収・滅亡したのである。アメリカの世界戦略に沿って、反共のためだけに存在した悲劇の親米分断国家であった。

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