Ⅲ 見世物の時代
マリア・アンナと家重
18世紀は世界史上の啓蒙的な画期点と言える百年であったが、不具者の世界歴史においても、なお悪魔化の時代を引きずりながら、特に支配者階級の障碍者のありように変化が現れ、保護され、尊重された障碍者が出ている。その中でも、異彩を放つ事例をヨーロッパと日本から一人ずつ取り上げてみたい。
ヨーロッパでは、オーストリア帝国皇女マリア・アンナである。彼女は、著名な啓蒙専制君主マリア・テレジアの次女であり、フランス王家に嫁ぎ、革命で処刑されたマリー・アントワネットの姉にも当たる。
長女だった姉が夭折したため、弟のヨーゼフが誕生するまでは一時的にオーストリア皇位継承者であった時期もあるマリア・アンナは生来病弱であり、成長するにつれて背骨の彎曲が進行したため、身体障碍者となっていった。
そうした事情から、生母マリア・テレジアの愛情を受けることができず、むしろ父の神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの庇護の下に学芸の道に励むようになった。中でも当時はまだ草創期だった自然科学への関心である。特に鉱物や昆虫のコレクションを持ち、後にフランツ・ヨーゼフ1世が創立した自然史博物館のコレクションの基礎となった。
その他、マリア・アンナは考古学的な発掘調査に私財を投ずるなど、19世紀以降に隆盛化する西洋近代科学の先取り的な事業にも着手するなど、まさに啓蒙時代の宮廷パトロンとしての役割を果たした。
ただ、こうした知的な貢献は当時の時代意識には合致しておらず、世間の風当たりは強く、生母、さらには弟のヨーゼフからも冷遇された。特にマリア・テレジアの没後、帝位に就いた弟のヨーゼフ2世は姉を宮廷から修道院へ追いやった。
しかし、かえってマリア・アンナはこの機をとらえ、病院の整備や貧困者救済などの社会福祉活動を新たに始め、こうした分野でも近代的な社会事業の先駆者となり、民衆の支持を得た。
晩年は車椅子生活だったマリア・アンナは生涯独身のため、フランス革命勃発の年1789年に没した時、その全遺産は、最終的に姉を受け入れた弟帝の計らいで修道院に寄贈された。
他方、時代は一世代ほど遡るが、いわゆる鎖国により西洋啓蒙思想からは遮断されていた日本でも、18世紀には言語障碍を持つ将軍徳川家重が出ている。家重は享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗の長男である。
家重の障碍の内容については諸説あるが、脳性麻痺説が有力である。彼が健常的な弟たちを押さえて将軍に就けた事情については、能力より長幼序を優先した封建時代の思想に由来するとも考えられる。しかし、父吉宗が幕閣内や他の息子の間にもくすぶっていた廃嫡論を排して家重への継承を主導した背景には、家重の知的な能力を問題視していなかったことも考えられる。
より想像をたくましくすれば、洋書輸入規制の一部緩和を実行するなど、歴代将軍の中でも最も「啓蒙的」であり、小石川養生所の設立など福祉政策にも関心のあった吉宗は、あえて障碍者将軍を誕生させるという進歩的決断をしたのかもしれない。
実際、家重が側近を通じてながら職務を全うし得た点からすると、知的障碍を伴わない構音障碍者だったとも考えられる。ただ、言語障碍はかなり重度であったようで、彼の言葉を聞き取れるのは幼少期から近侍した側用人の大岡忠光のみであったいうのはよく知られた説である。
その他、家重には原因不明ながら頻尿の持病もあり、外出時の対策として江戸城から将軍家菩提寺の上野寛永寺へ出向く道中に多数の専用便所を設置していたとされるほどの重症だったようであり、言語障碍と合わせ、肉体的なハンディは大きかったと見られる。
それでも、家重は父吉宗の威信と改革の遺産を背景に、会計検査制度の刷新や財政経済改革をさらに進めるなどの成果を残した一方、家重の治世では享保改革以来の増税策に起因する百姓一揆の頻発などの混乱も起きた。特に岐阜の郡上藩で発生した郡上一揆では異例の幕府上層部の処分を決断を示したのも家重である。
しかし、障碍者将軍ゆえか、幕府を軽んじるような風潮も一部に見られ、京都では蓄積していた幕府の朝廷抑圧への反発もあって尊王論が蠕動し始める。その結果、1759年には京都で尊王論者が摘発される宝暦事件のような事案も発生している。
このような不穏事象はあったものの、家重の治世は大岡ら側近者の手腕もあって比較的安寧のうちに、嫡子家治への継承を実現した。その点、幕府の公式史書『徳川実紀』にあっても、「万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院殿(吉宗)の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」との肯定評価がなされていることは注目に値する。
しばしば家重に対してなされてきた俗世の暗愚評には、現代ですらつきまとう障碍者=無能力者というバイアスが内包されていたのかもしれない。