ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

不具者の世界歴史(連載第16回)

2017-05-01 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

マリア・アンナと家重
 18世紀は世界史上の啓蒙的な画期点と言える百年であったが、不具者の世界歴史においても、なお悪魔化の時代を引きずりながら、特に支配者階級の障碍者のありように変化が現れ、保護され、尊重された障碍者が出ている。その中でも、異彩を放つ事例をヨーロッパと日本から一人ずつ取り上げてみたい。

 ヨーロッパでは、オーストリア帝国皇女マリア・アンナである。彼女は、著名な啓蒙専制君主マリア・テレジアの次女であり、フランス王家に嫁ぎ、革命で処刑されたマリー・アントワネットの姉にも当たる。
 長女だった姉が夭折したため、弟のヨーゼフが誕生するまでは一時的にオーストリア皇位継承者であった時期もあるマリア・アンナは生来病弱であり、成長するにつれて背骨の彎曲が進行したため、身体障碍者となっていった。
 そうした事情から、生母マリア・テレジアの愛情を受けることができず、むしろ父の神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの庇護の下に学芸の道に励むようになった。中でも当時はまだ草創期だった自然科学への関心である。特に鉱物や昆虫のコレクションを持ち、後にフランツ・ヨーゼフ1世が創立した自然史博物館のコレクションの基礎となった。
 その他、マリア・アンナは考古学的な発掘調査に私財を投ずるなど、19世紀以降に隆盛化する西洋近代科学の先取り的な事業にも着手するなど、まさに啓蒙時代の宮廷パトロンとしての役割を果たした。
 ただ、こうした知的な貢献は当時の時代意識には合致しておらず、世間の風当たりは強く、生母、さらには弟のヨーゼフからも冷遇された。特にマリア・テレジアの没後、帝位に就いた弟のヨーゼフ2世は姉を宮廷から修道院へ追いやった。
 しかし、かえってマリア・アンナはこの機をとらえ、病院の整備や貧困者救済などの社会福祉活動を新たに始め、こうした分野でも近代的な社会事業の先駆者となり、民衆の支持を得た。
 晩年は車椅子生活だったマリア・アンナは生涯独身のため、フランス革命勃発の年1789年に没した時、その全遺産は、最終的に姉を受け入れた弟帝の計らいで修道院に寄贈された。

 他方、時代は一世代ほど遡るが、いわゆる鎖国により西洋啓蒙思想からは遮断されていた日本でも、18世紀には言語障碍を持つ将軍徳川家重が出ている。家重は享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗の長男である。
 家重の障碍の内容については諸説あるが、脳性麻痺説が有力である。彼が健常的な弟たちを押さえて将軍に就けた事情については、能力より長幼序を優先した封建時代の思想に由来するとも考えられる。しかし、父吉宗が幕閣内や他の息子の間にもくすぶっていた廃嫡論を排して家重への継承を主導した背景には、家重の知的な能力を問題視していなかったことも考えられる。
 より想像をたくましくすれば、洋書輸入規制の一部緩和を実行するなど、歴代将軍の中でも最も「啓蒙的」であり、小石川養生所の設立など福祉政策にも関心のあった吉宗は、あえて障碍者将軍を誕生させるという進歩的決断をしたのかもしれない。
 実際、家重が側近を通じてながら職務を全うし得た点からすると、知的障碍を伴わない構音障碍者だったとも考えられる。ただ、言語障碍はかなり重度であったようで、彼の言葉を聞き取れるのは幼少期から近侍した側用人の大岡忠光のみであったいうのはよく知られた説である。
 その他、家重には原因不明ながら頻尿の持病もあり、外出時の対策として江戸城から将軍家菩提寺の上野寛永寺へ出向く道中に多数の専用便所を設置していたとされるほどの重症だったようであり、言語障碍と合わせ、肉体的なハンディは大きかったと見られる。
 それでも、家重は父吉宗の威信と改革の遺産を背景に、会計検査制度の刷新や財政経済改革をさらに進めるなどの成果を残した一方、家重の治世では享保改革以来の増税策に起因する百姓一揆の頻発などの混乱も起きた。特に岐阜の郡上藩で発生した郡上一揆では異例の幕府上層部の処分を決断を示したのも家重である。
 しかし、障碍者将軍ゆえか、幕府を軽んじるような風潮も一部に見られ、京都では蓄積していた幕府の朝廷抑圧への反発もあって尊王論が蠕動し始める。その結果、1759年には京都で尊王論者が摘発される宝暦事件のような事案も発生している。
 このような不穏事象はあったものの、家重の治世は大岡ら側近者の手腕もあって比較的安寧のうちに、嫡子家治への継承を実現した。その点、幕府の公式史書『徳川実紀』にあっても、「万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院殿(吉宗)の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」との肯定評価がなされていることは注目に値する。
 しばしば家重に対してなされてきた俗世の暗愚評には、現代ですらつきまとう障碍者=無能力者というバイアスが内包されていたのかもしれない。

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不具者の世界歴史(連載第15回)

2017-04-19 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

中近世日本の盲人組織
 中近世日本の障碍者の中で、視覚障碍者は特別な地位を持つようになっていた。いわゆる盲官の制度化である。その起源は9世紀、視覚障碍者を集めて琵琶や詩歌を教授していた自らも失明者の皇族人康〔さねやす〕親王の没後、近侍していた視覚障碍者らが盲官に任命されたことにあるとされる。その最高職を検校〔けんぎょう〕といった。
 さらに室町時代、足利一門でもあった明石覚一検校が幕府公認の盲人互助組織として当道座を創立したことで、視覚障碍者の組織化が進んだ。ただし、当道座は女性の加入を認めなかったため、女性視覚障碍者専用の座として瞽女〔ごぜ〕が組織された。
 こうした視覚障碍者の組織は楽器演奏を中心とする芸能組合的な性格が強く、欧米のフリーク・ショウほどの派手さや興行性はないものの、互助的な一種の職能組合として発達を遂げていった。特に当道座は検校を頂点に複雑な階級制をもって規律される日本的な身分制組織となる。
 ちなみに、映画『座頭市』で知られる座頭も当道座の上位階級の一つであり、まさに中世的職能組合である「座」の性格を反映した名称と言える。
 江戸時代には民衆統制の手段として、幕府は当道座を保護し、視覚障碍者の加入を奨励したため、座は隆盛を極めた。統率者たる検校の地位と権限は高まるとともに、階級の売買慣行により金銭腐敗も進んだ。また金融業務さえ認可されたため、武士相手の高利貸となる検校も現れるなど、当道座には当初の目的を越えた逸脱も見られた。
 もちろん、検校の中には本業である音楽や鍼灸で名声を博した「正統派」検校も多数いた。中でも独特の地位を築いたのは国学者となった塙保己一検校である。彼は検校となるに必要な素養である音楽や鍼灸などの本業が苦手だったため、やむなく視覚障碍者ではハンディーの多い学問の道に進み、そこで才覚が花開いた稀有の人であり、視覚障碍を持つ学者の先駆けでもあった。
 一方、瞽女は当道座のように幕府の公認を受けなかったため、地方ごとの民間芸能集団としての性格が強く、三味線演奏を中心に地方巡業の旅芸人一座として活動した。一部は地方の藩から屋敷の支給や扶持などの公的庇護を受け得た一方で、収益のためいかがわしい性的サービスに依存することもあったようである。
 いずれにせよ、こうした盲人の組織化は中世的な座の形態の限界内ではあれ、視覚障碍者が手に職を身につけ、生計を立てるための手段としてはほぼ唯一のものであった。それを幕藩体制が公認・庇護した限りでは、これも障碍者保護政策の先取りと言える側面を持っていたのである。

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不具者の世界歴史(連載第14回)

2017-04-18 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

芸人としての障碍者
 不具者が悪魔化された時代とまだ並行する形ではあるが、欧州では障碍者が娯楽としての見世物に動員されるような潮流が起きてくる。大衆芸能の誕生である。大衆芸能のすべてが障碍者によって担われたわけではもちろんないが、初期大衆芸能で、障碍者は重要な役を演じた。その中心は、重度身体障碍者である。
 例えば、イタリア人の結合双生児ラザルスとヨアネスのコロレド兄弟は欧州各地からトルコまでツアー活動をした。英国チャールズ1世の宮廷にも招聘されたかれらの活動はまだ大衆芸能として明確な形を取っていなかったが、かれらより少し後の世代になるドイツ出身の芸人マティアス・ブヒンガーは、障碍者大衆芸人の草分けである。
 ブヒンガーは生まれつき両手両足を欠く重度障碍者であった。そのような障碍にもかかわらず、彼は練達の手品師でもあり、カリグラファー(西洋書道家)、楽器演奏家でさえあった。彼は当初、北ヨーロッパの王侯貴族相手の芸人として活動した後、渡英し、ジョージ1世の御目見えを願うも実現せず、アイルランドに移って大衆芸能活動を開始したのである。彼はたちまち大人気を博し、時の人となった。
 ブヒンガーは重度障碍にもかかわらず、四回結婚し少なくとも14人の子を残したほか、多数の愛人との間にも婚外子を残したと伝えられるほど、私生活もまさしく派手なる芸人であった。おそらく現代まで含め、ブヒンガーは障碍者芸人として最も成功した人物である。
 こうした障碍者芸人をはじめ奇抜な見世物で大衆を沸かせるショウはフリーク・ショウと呼ばれるようになるが、フリーク・ショウの発祥地はテューダー朝時代の英国だったと言われている。その後、フリーク・ショウは資本主義の発達とともに、19世紀の英国と米国で隆盛化し、ショウ・ビジネスとして確立されていく。
 その時代のことは後に別の形で言及するが、こうしたフリーク・ショウに動員される障碍者は上述のように重度身体障碍者が多かった。これは、重度身体障碍者の外見が悪い意味で大衆の興味を引いたからにほかならない。
 その面だけを眺めれば、フリーク・ショウは現代的基準では人権上も人道上も許容できない障碍者差別的な興行と言えるが、障碍者福祉の観念もなく、まだ悪魔化の時代も去っていなかった状況下、それまではほぼ自宅に閉じ込もるか、最悪抹殺されていた重度障碍者たちにとって、大衆芸能は生き延びる手段であった。
 その意味では、フリーク・ショウは障碍者にとってはある種の「社会参加」の萌芽であり、それが隆盛化していく時代―見世物の時代―とは、障碍者を「保護」する次代への架け橋ともなるような新時代であったとも言えるのである。

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不具者の世界歴史(連載第13回)

2017-04-17 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

高貴な醜形者たち
 容姿の美醜評価は文化的な美意識の規準によるところが大きいとはいえ、当該民族集団の価値尺度に照らして明らかに醜形とまなざされる人間は、社会的には不具者に等しい扱いを受ける運命にあってきた。悪魔化の時代には、まさに悪魔とみなされたかもしれない。
 これについても、一般庶民の実例は記録に残らないため、何も語ることはできないが、ここでは歴史上記録に残された高貴な醜形者のうち、成功者と失敗者をそれぞれヨーロッパと日本の事例から二人ずつ取り上げてみよう。

 まずヨーロッパからは、いずれも大国の王妃の事例である。一人は、英国テューダー朝ヘンリー8世の四番目の王妃となったアン・オブ・クレーブスである。彼女はドイツのプロテスタント上流貴族の娘で、反カトリックの宗教改革を断行したヘンリー8世にふさわしい妃をという重臣トマス・クロムウェルの差配で嫁いできた。
 ところが、事前に宮廷画家ハンス・ホルバインに美しく描かせたアンの肖像画と食い違う醜形であったことに激怒したヘンリーにより半年で離婚となり、クロムウェルは責任を問われ処刑、ホルバインも追放という宮廷を揺るがす大醜態に発展してしまう。
 写真の発明がまだ遠かった時代ゆえの悲劇と言えるが、実際のアンはさほど醜形ではなかったとの証言、単に身勝手なヘンリーの好みに合わなかっただけという説もある。少なくともアンは性格は善良で、離婚後も死去するまで英王族として遇され、ヘンリー自身も罪悪感からかアンに所領と年金を保障して面倒を見たのであった。
 一方、スペインのボルボン朝カルロス4世の王妃マリア・ルイサ・デ・パルマは醜形を逆手に取って成功者となった。彼女も元来はさほど醜形ではなかったとされるが、度重なる出産と加齢により次第に容色が酷く衰えたとされる。
 実際、著名な宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけたマリア・ルイサの肖像画は王妃の肖像画としては異例なほど醜さを強調したものとなっている。マリア・ルイサは弱体な君主である夫に代わって宮廷を支配し、事実上女王のごとく傲慢に振舞っており、国民の評判は悪かった。
 ゴヤの筆致はそうした彼女の悪性格を率直に反映したものとも言われるが、マリア・ルイサ自身はゴヤの筆致に立腹するどころか、満足していたと言われる。自身の権勢への絶大なる自信からかもしれない。
 しかし、晩年のマリア・ルイサはナポレオンのスペイン支配に屈し、退位を強いられた夫とともに国外に亡命、フランスを経て、イタリアで客死する運命をたどった。

 日本からは、まず大成功者として豊臣秀吉が挙げられる。秀吉の容姿に関しては様々な説があるが、「猿」という有名な蔑視的異名からしても、醜形だったと考えられる。ある程度客観的な外国人による描写でも、ポルトガル人司祭ルイス・フロイスは、秀吉の容姿について「低身長かつ醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった」と記している。
 価値尺度の異なる外国人からも、秀吉は醜形とまなざされていたことになる。ちなみに六本指とは手足の先天性形状異常である多指症を示唆するものであり、これが真実とすれば秀吉は軽度ながら身体障碍者でもあったことになろう。
 とはいえ、日本人にとってはよく周知のとおり、秀吉はこうしたハンディーをものともせず天下人となり、全国の大名にその威令を行き渡らせたのであった。彼自身、「予は醜い顔をし、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と誇ったと伝えられるように、醜形を逆手にとって成功者となったようである。
 秀吉とは対照的に失敗者となったのは、徳川家康の六男松平忠輝である。彼は武将として有能だったが、終生にわたり父家康からその容貌を理由に嫌悪されたと言われる。その容貌とは、生まれた時、「色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげ」というもので、家康はそのために忠輝を捨て子扱いしたと伝わる。
 これは脚色まじりの中近世特有の大袈裟な悪魔化描写であり、信憑性は疑問である。ただ、伊達家との姻戚関係構築のため、幼い忠輝を伊達政宗の娘と政略的な幼児婚に供したのは、ある意味で「捨て子」であった。
 ちなみに、家康は同じく疎外した次男結城秀康が梅毒の進行で鼻が欠けてしまったのを付け鼻で隠しているのを知り、「病気で体が欠損することは自然であり、恥でない。武士は外見ではない。ただ精神を研ぎ、学識に富むことこそ肝要」と諭したと伝えられる。
 これは伝説的な逸話に近いが、「見目より心」の格言にも通じる武士道的な価値基準を示している。家康が別の息子の忠輝を容貌のゆえに疎外したとすると、逸話とも矛盾するので、忠輝疎外には他の理由があったのかもしれない。
 疎外されながらも、やはりプリンスであった忠輝は越後高田藩75万石の大大名に栄進しているが、家康死去の直後、兄の2代将軍秀忠によって大坂夏の陣の際の遅参等を理由に改易されてしまう。以後は長い配流余生を静かに送り、最期を諏訪で迎えるが、享年92歳は近世異例の長寿で、家康の男女多子の中で一番最後まで生き延びたという点では、忠輝は「成功者」だったのかもしれない。

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不具者の世界歴史(連載第12回)

2017-04-05 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

「乱心」の徳川プリンスたち
 前述したように、日本でも精神障碍を「狐憑き」とみなすようなある種の悪魔化が広がっていたが、中世以降には主として武家法で精神障碍者を仕置き(監禁)するという一種の慣習法が現れ、これが近世江戸時代になるとしばしば大名統制の手段としても利用されるようになる。
 すなわち「乱心」(これ自体は江戸後期の用語という)は幕府が藩主を強制的に交代させたり、藩を改易したりする際の手段となり、また藩のレベルでも家臣団による一種のクーデターである主君押込の理由とされるなど、「乱心」が政治的な含意を持ち始めたことも特徴的である。
 そうした事例として、ここではいずれも徳川家康の孫に当たる徳川プリンスでありながら、「乱心」し、地位を追われた三人の大名について取り上げる。
 まずは2代将軍徳川秀忠の三男で甲府藩主徳川忠長である。彼は幼少年期には秀才をもって知られ、両親の寵愛を独占し、後に3代将軍となる同母兄家光のライバルとなった。家臣団も二派に分かれて対立したが、最終的には家光の強力な乳母春日局の家康直訴により家光後継で決着を見た。
 結局、忠長は甲府を安堵され、甲府藩主に収まるが、次第に異常な粗暴性を見せ始める。具体的には、家臣や近侍者に対する理由なき数々の残酷な虐待・殺害行為であった。
 時の将軍家光は忠長を諌め、更生のチャンスを与えるも、結局行状は改まらず、蟄居、改易、最終的に幕命による自刃という運命をたどった。この一件には忠長をライバル視する兄家光による政治的排除という解釈もあるが、長幼序関係から言っても将軍後継問題は既に決着済みであることや、家光が更生のチャンスも与えていたことに鑑み、病名はともかく、忠長の「乱心」は事実であったのだろう。
 次は、家康の次女督姫を母に持つ赤穂藩主池田輝興である。母方から家康の孫に当たる彼も元は聡明な英君であり、前領地の播磨平福でも、移封された赤穂でも政治手腕を発揮している。特に赤穂では先駆的な水道整備に尽力して名を残した。
 にもかかわらず、1645年突然発病し、正室ほか侍女ら奥女性ばかりを理由なく斬り殺すという行為に出て、わずか5日後に改易処分が下されたのである。結果として赤穂藩は後に赤穂浪士事件の元を作った浅野氏に渡ることになる。
 最後に、家康の次男結城秀康の長男松平忠直である。彼は父が安堵されていた福井藩主を若くして継いだが、藩主としての統治能力には欠け、重臣らの権力闘争を抑え切れず、1612年から翌年にかけて、いわゆる越前騒動を起こしている。
 しかし部将としては手腕を発揮し、大坂夏の陣では名将真田幸村を討ち取り、大坂城一番乗りの軍功を上げるも、論功行賞が芳しくなかったことへの不満から、反幕的態度に転じ、ついには叔父の将軍秀忠の娘でもあった正室勝姫の殺害を企てて失敗すると、今度は家臣を理由なく成敗するなどの粗暴性を見せるようになった。
 しかし、秀忠は忠直を改易とはせず、隠居を命じたうえ、九州の豊後府内藩預かりとする比較的穏便な処分を下した。論功行賞に不満を持った甥への同情もあった可能性があるが、家康直系御家門の福井藩を取り潰すことへの躊躇いもあったのだろう。
 ちなみに福井藩主の「乱心」事例はこれで終わらず、第6代松平綱昌も「乱心」で地位を追われている。彼は上記忠直の弟の子孫で、家康のやしゃごに当たる人物であった。彼もまた藩政が混乱する中、叔父から藩主を継いで間もなく、家臣を理由なく殺害するような粗暴さを見せたため、江戸に蟄居処分となった。ここでも福井藩の格式から、忠直の前例に従い、藩は改易されなかった。
 このように大名の「乱心」事例は家臣や家族など周辺者への突然の理由なき殺人という過激な暴力的形態を取ることが多く、武士の行動心理を含め、その正確な病態や病名に関しては精神病跡学的な検証の余地が残されているだろう。

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不具者の世界歴史(連載第11回)

2017-04-04 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

心を病む君主たちの苦難
 現代では為政者の在職要件として心身の状態が執務に適することを法で定めることが多いが、前近代にあっては世襲の君主制が圧倒的に多く、そこでは執務能力より血統が優先されたため、精神疾患を発症した君主を廃位することは容易でなかった。
 中世ヨーロッパではしばしば精神障碍に苦しむ大国君主が現れたが、いずれの治世も困難を極め―逆に、国難が精神疾患の発症・増悪にも作用したかもしれない―、国の歴史を大きく変える契機となっている。ここでは、そうした四人の君主を取り上げる。
 まずは「狂王」の異名を持つフランスのヴァロワ朝第4代シャルル6世である。シャルルは12歳ほどで即位したが、20歳を過ぎた頃から精神疾患の症状を示すようになった。年代記にはその異常な言動が多く記録されているが、自身がガラスでできているとか、自分を聖ゲオルギオスであるなどと錯認する妄想、自身や王妃の名前や顔を失念するといった記憶喪失、被害妄想による下僕への暴力などが見られる。
 シャルルの症状は改善と悪化の波を繰り返しながら、結局40年以上在位したが、当然執務は取れず、宮廷はブルゴーニュ派とアルマニャック派の二大派閥に分裂し、熾烈な権力闘争から事実上の内乱に陥った。
 それに付け込んでフランス王位を主張し介入してきたのが百年戦争の相手イングランドであり、時のイングランド国王ヘンリー5世はフランスを破ってシャルル6世の娘を娶り、フランス王位を認めさせることに成功した。
 ところが、ヘンリー5世は間もなく世を去り、後を継いだのが幼少の息子ヘンリー6世であったが、このヘンリー6世も精神疾患に苦しんだ。ヘンリーは温和な平和主義者であったが、30歳を過ぎた頃から統合失調症と見られる症状を示すようになり、内に閉じこもり、周囲の状況に反応できなくなった。
 ヘンリーの症状にも波があったが、彼もまた母方の祖父に当たるシャルル6世と同様、中断をはさみ40年に及ぶ長い治世の中で指導力を発揮できず、ランカスター派とヨーク派の内戦が激化した。政治の実権はマーガレット王妃に握られた末、英仏戦争にも敗れ、自身も内戦渦中で敵のヨーク派の手に落ち、廃位のうえ最期はロンドン塔に監禁され、死亡した。
 他方、大帝国を築く直前のスペインでは、「狂女フアナ」の異名を持つフアナ女王が知られる。彼女はスペイン王国の基礎となったカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の結婚で生まれたまさにスペイン誕生の所産であった。
 女王はハプスブルク家出身のブルゴーニュ公フィリップを王配としたが、美男子をもって知られた夫の浮気を契機に精神疾患の症状を示すようになり、夫の急死後に症状は悪化、夫の埋葬を許さず、棺を馬車に乗せて国内を流浪するような常軌を逸した行動を示したため、父により修道院に幽閉され、死去するまで40年以上を過ごした。
 ただ、フアナとフィリップの息子カルロス1世は1516年以降、母の存命中から共治の形で実質的に政務を取っており、強力な手腕を持つ彼の治下で「太陽の沈まない」スペイン大帝国が築かれることになる。
 このカルロス1世に始まるアプスブルゴ(ハプスブルク)朝スペインは17世紀まで続いていくが、その最後の王が1世と同名のカルロス2世であったことは歴史の皮肉であった。このカルロス2世には重複障碍があった。
 残された肖像画からも極端に顎の長いカルロス2世は先端巨大症と見られるほか、精神障碍に知的障碍も合併していたと考えられている。時の人はこうしたカルロスの重複障碍を悪魔化して「呪われたもの」と冷たくまなざしていたが、それを理由に廃位することはできなかった。
 カルロスはまともに執務できず、3歳で即位した彼の治世の大半を母のマリアナ王太后が摂政として政務に当たった。彼は二度の結婚によっても世子を残すことはできなかったため、死の直前の遺言により、ブルボン朝フランス国王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップに譲位するとした。これにより、フィリップがフェリペ5世として即位し、以後のスペインはボルボン(ブルボン)朝となる。
 しかし、このフランス主導の王位継承に異を唱えた本家のハプスブルク朝オーストリアは反仏派のイギリスやオランダを引き入れてスペイン‐フランスに対し、戦争を発動する。これが北アメリカをも舞台に1714年まで続いたスペイン継承戦争である。

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不具者の世界歴史(連載第10回)

2017-04-03 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

精神障碍という観念
 今日では、いわゆる心の病を指す用語として普遍的に用いられる精神障碍という観念は身体障碍と比べても、各文化によりその把握の仕方に相当の違いが見られる。例えば中国では伝統医学(中医)において、古代から精神疾患を身体疾患と関連づけた一つの病として治療の対象とした。
 また律令制では精神障碍者の犯罪行為に特別の規定が置かれ、日本初の律令法典・大宝律令及びそれを継いだ養老律令にも精神障碍者による犯罪の減免に関する規定が存在するなど、意外にも近代を先取りするような処遇が定められていた。
 古代ギリシャにおいては、西洋医学の祖ヒポクラテス名義の著作に精神疾患に関する記述が見られるとともに、社会的にも精神疾患を神がかったインスピレーションの表出としてポジティブに見ようとする傾向があった。
 こうしたギリシャ的観念は古代ローマにも継承されたが、キリスト教はここでも悪魔化を行なっている。すなわち精神障碍を悪魔に取り憑かれた状態と解釈し、医学より道徳の問題として把握して精神障碍者を迫害の対象とするようになった。正確な統計はないものの、中世ヨーロッパで隆盛化する異端審問や魔女裁判では少なからぬ精神障碍者が誤審の犠牲になったと想定される。
 この時代も精神障碍に対する「治療」が否定されていたわけではないが、それはヒポクラテスに始まる古代ギリシャ医学の「四体液説」をベースとした非科学的な理論に基づくものにとどまっており、また多分にしてキリスト教的な解釈が加えられていた。
 こうして教義宗教の発達は精神障碍に関しても悪魔化を助長したが、イスラーム教ではいささか事情が異なる。イスラーム圏ではギリシャ医学が取り入れられるとともに、独自の医学理論が発達し、8世紀初頭のバクダッドを皮切りとして中東各地に精神医療施設が開設された。
 それらは近代的な意味での病院ではなかったとはいえ、施設では薬物療法のほか、水浴療法、音楽療法、作業療法など近代的精神医療を先取りするような取り組みがなされ、中世イスラーム圏は精神医療の先進的地域となったのである。
 ちなみに、日本では律令制が崩壊した平安時代頃より精神障碍を「狐憑き」とみなして加持祈祷の対象とする傾向が全国的に広まり、また中世以降、精神障碍者を「仕置き」するような慣習法も現れた。ある意味では近代先取り的だった古代より後退したとも言えるが、この背景には神仏習合的な独特の形で発達した日本仏教の影響が伺える。
 なお、広義の精神障碍には知的障碍も包含されるが、知的障碍という概念把握の歴史は浅く、17世紀以降のことであり(後述)、それ以前の知的障碍者はその程度に応じて愚か者や半人間ないし動物扱いされ、重度者は施しの対象とされるばかりであった。

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不具者の世界歴史(連載第9回)

2017-03-22 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

宮廷道化師たち
 道化は現代では大衆芸能化しているが、本来の道化は単なる見世物ではなかった。特に王や貴族に近侍する一種の公務員としてのお抱え道化師(以下、宮廷道化師で代表させる)は古代エジプトやペルシャに発祥したとされ、壁画などに残されたその姿にはすでに身体障碍者と見られる者が認められる。
 道化師の役割は滑稽な言動によって人々を笑わせることにあるが、滑稽さを醸し出すには健常的で均整の取れた容姿であるよりは、醜形を含めた不具者であるほうがインパクトがあるため、宮廷道化師には成人しても著しい低身長となる小人症のような身体障碍を持つ者が少なくなかった。
 しかし、その一方、宮廷道化師は身体芸とともに音楽や詩などの文芸的素養をも要求される高度な専門職であり、時に奇矯な言動をしてみせるも、それは現代のコメディアンのように意図的な笑いを取る芸であって、身体障碍者ではあっても知的障碍者や精神障碍者では務まらない職であった。
 フランスの政治人類学者バランディエによれば、「(宮廷)道化師の性格は、醜さ、動物性、怪物性の側に属するのであるが、一方、身体の技によって彼の肉体そのものが言語となる。外見からすると、彼は正気の者とは思えない。しかし、彼は、彼一流のしかたで言葉を操る力をもち、言葉を道具としているのである」。(渡辺公三訳)
 つまり、宮廷道化師は小人症のような目に見える身体障碍のゆえに好奇の視線を浴びつつ、時には王をも茶化す不敬な話芸をもって人々を楽しませる免責特権を許された、小気味よい小悪魔的な存在だったと言える。
 こうした高度な能力を要する宮廷道化師の選抜訓練は厳正であったから、すべての身体障碍者が宮廷道化師になれたわけでないのはもちろん、宮廷道化師のすべてが身体障碍者というわけでもなかったようである。
 とはいえ宮廷道化師の地位は低く、記録も十分に残されていないが、宮廷道化師が最も古くから、しかも政治的にも重要な役割を担った中世フランスではフランソワ1世に仕えたトリブレという道化師がよく知られ、文豪ユゴーの戯曲『王は愉しむ』の題材にも利用されている。
 記録によれば脊椎側彎症だったと見られるトリブレは王の御前会議にも出席し、王に助言する政治顧問的な役割も負っていたとされ、単なる道化師を越えた重臣的存在にまで上昇していたようであるが、最後は王妃にまつわる冗談を禁ずる王命に違反したため、死罪は免れたものの、追放された。
 より成功した宮廷道化師としては、英国のヘンリー8世に近侍したウィル・ソマーズがいる。肖像画からすると小人症と見られる彼は、重臣や王妃をも安易に処刑する衝動のあった気難しいヘンリーを癒す存在として終生近侍し、その没後はヘンリーの二人の娘メアリー1世・エリザベス1世両女王の時代まで勤め上げ、無事引退している。
 こうした宮廷道化師とは別に、民間の道化師という職能もあったが、こちらは後に、曲芸を披露する軽業師などとも混淆し、近現代の見世物としての大衆芸能に発展していったと見られるが、これについては章を改めて論ずる。

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不具者の世界歴史(連載第8回)

2017-03-21 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

英国王リチャード3世と身体障碍
 2012年9月、英国中世史上画期的な新発見があった。英国中部レスター市の駐車場地下から中世期の人骨が発見され、鑑定の結果、15世紀末の英国ヨーク朝君主リチャード3世の遺骨と断定されたのである。その法医学的鑑定は多岐にわたるが、本稿との関連で注目すべきは身体障碍の件である。
 リチャード3世と言えば、シェークスピアの代表作のタイトルロールとして知られてきたが、そこでも描かれているように彼は背骨が彎曲していたという伝承があった。発見された遺骨からも重度の脊椎側彎症の痕跡が認められたことで、伝承の真実性がほぼ裏付けられたのである。
 一方で、それは被服などで隠せないほどの彎曲ではなかったとも指摘されているが、リチャード3世を倒したテューダ―朝や同朝治下で活躍したシェークスピアによる誇張・脚色はあったにせよ、彼の障碍は後世にも伝えられた公然の秘密であり、身体障碍を持つ君主だったと言ってよいだろう。
 実在のリチャード3世は兄王エドワード4世が死去した後、兄の子で甥に当たる後継の少年王エドワード5世の摂政となりながら、策略をもって5世と幼い王弟ヨーク公リチャードの兄弟をロンドン塔に幽閉し、事実上のクーデターで王位を簒奪した野心的な人物である。
 その後間もなく、幽閉されていた兄弟は忽然と姿を消したことから、リチャード3世が兄の直系子孫を断絶させる狙いから二人を謀殺した疑惑がリチャード在位中から浮上していた。そのため、リチャード3世は生前から罪深い暴君との悪名が立っていたと見られる。
 リチャードの時代から100年以上後に書かれたシェークスピアの前記作品でも、そうしたリチャード3世=暴君説をベースに、リチャードをよりいっそう狡猾にして極悪非道な暴君として描写している。その際、シェークスピアは、以下のモノローグに象徴されるように、リチャードを自己の身体障碍に対する強いコンプレクスを動機として悪行を成す屈折した人格として提示するのである。

この俺は━美しい均整を奪い取られ、
不実な自然の女神のぺてんにかかり、
不細工にゆがみ、出来損ないのまま
月足らずでこの世に送り出された。
・・・・中略・・・・
どうせ二枚目は無理だとなれば、
思い切って悪党になり
この世のあだな楽しみの一切を憎んでやる。
(ちくま文庫版・松岡和子訳)

 このようにシェークスピアがリチャード王の身体障碍と極悪人性を結びつけた背景には、前回見たようなキリスト教的な障碍者の悪魔化が投影されていた可能性がある。今日であれば、このような題材の扱い方はいかに文学作品であっても差別的とみなされるところであろう。
 現実のリチャード3世の遺骨からはまた、戦場で負ったと見られる傷害の跡が見られ、とりわけ脳内に達した頭蓋骨損傷が致命傷となったものと解析されている。このことは、リチャード3世がボズワースの戦いで、後にヘンリー7世としてテューダー朝を開くヘンリー・テューダー率いる反乱軍に敗れ、戦死した史実とも合致する。
 このことはまた、リチャードが如上の身体障碍にもかかわらず、騎乗し戦闘する武人としても機能し得たことをも裏書きするが、同時に身体障碍が戦闘上ハンディーとなり、敵兵に狙われやすかった可能性をも示唆するであろう。
 いずれにせよ、リチャード3世は中世における悪魔化の時代の身体障碍者としては最も高い地位に上り詰めた人物として注目される。同時代人にとっても、彼の身体障碍は悪魔的というより、実力で君主に上り詰めた王位簒奪者のある種凄みとして認識されていたかもしれない。

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不具者の世界歴史(連載第7回)

2017-03-20 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

教義宗教の障碍者観
 前章では、不具者が神秘的に受容されていた時代を見たが、それはおおむね先史から古代にかけての時代的特徴だったと言ってよい。このある意味では不具者にとって幸せな時代を終わらせる転機となったのは、教義宗教の発達という新現象であった。
 教義宗教とは、伝統的なアニミズムあるいはそこから発展した多神教の習俗的宗教に対し、特定の開祖を持ち、体系的な教義や戒律をもって信者を教化する宗教のことであり、その代表例が中東に発祥したキリスト教やイスラーム教、アジアの仏教などである。
 これらの教義宗教は、規範性を欠き、叙事的な性格が強い多神教的宗教とは異なり、あるべき完全な人間像を提示する規範性を志向するため、心身の健常さを欠く者に対しては必ずしも好意的ではない傾向があり、それまでおおらかだった人々の障碍者観にも大きな変化をもたらした。
 ただし、宗教教義は各宗教により、また細かくは各宗教内宗派によっても差異があるため、すべてを包括して議論することは不可能であり、上掲の代表的な三大宗教もそれぞれに障碍者観は異なっている。
 とはいえ、これら宗教の名誉のために予め言っておけば、どの宗教においても初めから意図的に障碍者を差別・排斥する教義を持っていたわけではなく、むしろ後世における後付け的な宗教思想が差別の根源を成している。
 このうちキリスト教では、中世において悪魔思想と結びつき、障碍者をサタンの子とみなしたり、悪行に対する神の審判の結果などと否定的に解釈するような差別思想が普及するようになった。中でも精神障碍者はまだ「精神障碍」という医学的な把握の仕方が想定外であった時代にあって、その一見奇矯な言動が容易に悪魔化される運命を回避できなかった。
 他方、仏教では因果応報の観念が障碍者差別の要因となったと見られる。障碍は前世での悪行に対する報いといった観念からすれば、障碍者は忌避すべき存在となり、その親族にとっても恥辱的な罪業ということになりかねない。
 もっとも、前章で見たとおり、古代の神話には生まれた障碍児を遺棄するというストーリーもまま見られるので、障碍児を忌避する風潮は古来なかったわけではないようであるが、障碍に対する否定的な意味づけが発達したのは教義宗教の普及以後のことである。
 これらに対し、イスラーム教教義は趣きを異にする。イスラームは因果応報に代表されるような輪廻思想やキリスト教的な原罪思想も認めず、あらゆる事象を神の意思にかからしめるという徹底した神意予定論であることから、障碍もまた神の意思によることであり、ありのままに受容すべきものとなる。
 このようにイスラームでは障碍が悪や恥と認識されることはないとはいえ、障碍者はイスラーム的な相互扶助の義務に基づき施しを受けるべきものとされ、必ずしも完全対等な扱いを受けていたわけではない。
 こうして、イスラーム教を除く二大教義宗教の普及は障碍者にとっては受難の時代―ここでは「悪魔化の時代」と規定する―を招来することになったと言えるが、このことは障碍者が完全に排斥されたことを意味するものではない。

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不具者の世界歴史(連載第6回)

2017-03-08 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

盲目の吟遊詩人たち
 人類が神話に包まれていた時代にあって、記録に残りにくい被支配者層の障碍者の存在性の中で、唯一そのありようを垣間見せるのは視覚障碍者である。特に古代ギリシャにその実例が見られる。
 古代ギリシャにおける最高の芸術家であった吟遊詩人は、その多くが盲人であったとされる。中でも巨匠ホメロスである。ホメロスについては、その生存年代すら不詳とされ、実在性を疑う説も強く、その存在自体が伝説的であるが、伝承は一様にホメロスを盲人としている。
 そもそもギリシャ・東欧圏には「吟遊詩人は盲人である」というある種の定式が存在していたようであり、そうした定式の根拠になったのは、実際に視覚障碍者が生計の手段として吟遊詩人となることが多かったという社会的事実であったと考えられる。
 吟遊詩人とは卓上で詩を書く文学者としての詩人とは異なり、旅をしながら詩に節をつけて歌って聴かせる一種の楽師であり、旅芸人でもあった。ギリシャ語で吟遊詩人を意味するアオイドスの原意が歌手であるのは、そのことを示唆する。従って、アオイドスは全盲でも就くことのできる数少ない職業であったはずである。
 そうした社会的事実を基礎に、吟遊詩人=盲人の定式が生まれると、今度はそれが神秘化され、盲人には特殊な能力があるとみなされるようになった。実際、アリストトレスは視覚の喪失と記憶力とを結びつけている。たしかに吟遊詩人にとって、記憶は重要な能力であり、古代ギリシャでは盲目であることは詩人の絶対条件であるとみなす考えすらあった。
 一方で、視覚の喪失は予知能力やより深遠な洞察力といったある種の超能力と結びつけられることもあり、全盲の予言者もいた。また原子論で知られる哲学者デモクリトスがより洞察力を高めるべく自ら目を潰し失明したと伝えられるのも、そうした超能力論を信じた末の自傷行為だったかもしれない。
 ところで、盲人が吟遊詩人となる実例は日本にもあり、琵琶法師がよく知られている。その起源は琵琶の伴奏で経文を詠ずる中国の盲僧(盲僧琵琶)にあるとされるから、中国では視覚障碍者が僧侶となる習慣があったと見られる。
 こうした盲僧琵琶が日本に伝えられると、当初は地鎮祭や竈祓いなどで経文を詠ずる神仏混淆的な儀礼で活動したが、こうした宗教儀礼では盲僧が醸すある種の神秘性が大いに発揮されたのであろう。
 一方では、宗教性を喪失した世俗的な物語を弾き語りする潮流も生まれた。こうした「語りもの」という新ジャンルは経文を詠ずる宗教的な盲僧琵琶と比べ低級とみなされ、「くずれ」とも蔑称されたが、やがてここから平家物語を朗吟して回る平家琵琶が生まれる。
 こうして旅芸人化した琵琶法師は中世の日本において視覚障碍者が生計を立てられる数少ない職業の一つとして確立され、近世日本の独特な盲人階級制度である検校制度にも結びついていくが、これについては稿を改める。

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不具者の世界歴史(連載第5回)

2017-03-07 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

障碍者王ツタンカーメン
 人類が神話に包まれていた時代にあって、実在の障碍者はどうだったのであろうか。残念ながら、庶民層の障碍者の存在性は記録に残りにくいものだが、支配者層となると記録がある。例えば、古代エジプトの少年王として著名なツタンカーメンである。
 ツタンカーメンに関しては、歴代エジプト王(ファラオ)の中でも異例の10代での急死の死因をめぐり諸説が提起されてきたが、21世紀に入るとミイラに対する医学的調査が進み、いくつかの新発見があった。
 一つは歩行障碍の可能性である。これはツタンカーメンの骨の検査から、彼の左足に重症のケーラー病(足舟状骨の血行障害から骨が壊死する疾患)の痕跡が発見され、足の変形と痛みから生前の王は歩行障碍に苦しんでいた可能性が出てきた。副葬品として出土した大量の杖も、儀仗ではなく、医療用杖であった可能性が高いとされる。
 それ以外にも、ツタンカーメンに関しては発作転倒を繰り返しやすい側頭葉てんかんや重篤な貧血、骨壊死を引き起こす遺伝性の鎌状赤血球症の可能性を指摘する所見も出され、これらも合併していたとすれば、少年王はかなり重度の障碍者・病者であった可能性も出てくる。
 そうした身体条件にもかかわらず彼が王に即位できたのは、能力より血統が優先考慮される世襲君主制の結果である。実際、もっと後世の諸国の君主制においても障碍者君主は輩出されている。
 ただ、古代エジプト王制では王家の純潔を守るという大義から兄妹間等での近親結婚が繰り返されたことで、先天性病者・障碍者が誕生する確率はいっそう高かったと考えられる。実際、ツタンカーメンは父アクエンアテンと同父母姉妹の夫人との間に生まれた子であったことが、ツタンカーメン生母のミイラのDNA調査から判明している。
 ちなみに父のアクエンアテンに関しては、その胸像やレリーフに描かれた王の体型に関し、長すぎる指、極端な面長・尖顎、腹部脂肪の膨張など独異な特徴が指摘されてきたが、従来は宗教改革者であった王自身も指導したアマルナ改革の一環としてのアマルナ美術の芸術的誇張と解釈されてきた。
 しかし近年、それらの体型的特徴を医学的観点からとらえ直し、遺伝性のマルファン症候群の兆候としてとらえ直す説が提起されている。また、アクエンアテンについても息子のツタンカーメンと同様、側頭葉てんかんの可能性を指摘する説もある。
 アマルナ美術は伝統的な様式美よりも自然主義・写実主義による傾向が強いとされていることからすれば、アクエンアテンはあえて自身の病気ないし障碍を隠さず、むしろそれを芸術的表現に混ぜ込ませることで、大改革を推進する自身の神秘化のために利用したとも考えられるところである。
 一方、ツタンカーメンの障碍が同時代的にどうとらえられていたかは不明だが、年少ゆえに父王のようなカリスマ性を持ち得ず、側近者に操られていたとはいえ、黄金マスクで飾られた少年王のミイラには同時代人の神秘化された敬愛が投影されているようにも見える。 

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不具者の世界歴史(連載第4回)

2017-03-06 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

荘子の不具者観
 前回は神話の中の障碍者像を見たが、神話と思想の境界で独特の不具者観を示しているのが、中国古典『荘子』である。この書では、筆者とされる荘子の原典に最も近いと言われる「内篇」に収められた「徳充符篇」の中で不具者を話の中心に据えた逸話風の論が集中的に展開されている。
 ちなみに「徳充符篇」の一つ前の「人間世篇」でも、第七段で「支離疏(しりそ)」なる障碍者の逸話が見える。「支離疏」は人名というよりは、「身体的に支離滅裂な人」という趣意で、意訳すれば重複障碍者のことかと思われる。
 そのいささか比喩的に誇張された身体描写によると、彼は「顎がへその辺に隠れ、両肩は頭頂部より高く、頭髪のもとどりは天をさし、内臓は頭の上にきて、両腿は脇腹に当たっている」というまさに重度の身体障碍者である。
 「支離疏」は軍務や土木の徴発を免除され、病人への穀物や薪の施しも受けているが、自身は裁縫で生計を立て、米のふるいわけもこなして十人を養えるという今日的に言えば自立した障碍者である。逸話は、こうして身体的に不完全な者でも世間の害を受けず、身を養って天寿を全うできるのだから、その心の徳が不完全な者はなおさらのことだと結ぶ。
 この逸話を含む「人間世篇」はより世俗的な処世の秘訣を論じる節であるので、こうした自立した身体障碍者像を引き合いに出しつつ、健常的だが心の徳のない者でも安泰に生きていけるのだという励ましである。
 これに続く「徳充符篇」では、一歩進んで障碍者ながら有徳者の理想像がいくつも紹介されている。その典型例は、「徳充符篇」第五段に見える「闉跂支離無脤(いんきしりむしん)」と「甕盎大癭(おうおうたいえ)」の逸話である。「闉跂支離無脤」は背と足の曲がった三つ口の人、「甕盎大癭」とはごつい瘤だらけの人という趣意で、人名というより、前者は口蓋裂と身体障碍の合併者、後者はおそらく顔面腫瘍の障碍者像を示したものと思われる。
 荘子によると、前者は衛の霊公に、後者は斉の桓公に道(老荘哲学における「道(タオ)」)を説いたところ、両公はすっかり気に入り、それからは五体満足の普通の人を見ると、首が細く、弱弱しく見えるようになったという。その理由として、両障碍者は内面の徳がすぐれているため、外見の変異などは忘れられてしまうのだといい、世人は忘れてよい外見を忘れず、忘れてならない内面を忘れているが、これを真の物忘れというとして、世人の外見優位の価値観を痛烈に批判している。
 この逸話を含む「徳充符篇」とはまさに内面の徳が充実している人間のあり方を説く節であり、そうした人間の理想像として外見上は醜いと差別されがちな障碍を持つ有徳者の姿を逸話の形で紹介、説示しているのである。
 同様の趣旨から、「徳充符篇」では刑罰としての体刑によって身体障碍者となった者(兀者)の逸話が複数紹介されている。いずれも荘子最大の論敵である孔子を越えるような有徳者として描かれているが、第一段で紹介される王駘はその典型例であり、彼は「仮象でない真実を見究め、現象的事物に動かされることなく、事物の転変を自然の運命とわきまえ、現象の根本にわが身を置いている」超越者―老荘思想における理想者―として描写されている。
 さらに第四段では、「世界中をびっくりさせるほど」の醜男だという衛の人・哀駘它(あいたいだ)の逸話が見える。彼はそれほどに容姿醜悪でありながら、いっしょに住み込んだ男たちは彼を慕って離れようとしないし、一般には醜男に見向きしないであろう女たちですら、「他人の妻になるより、彼の妾になりたい」と父母にねだるというほどの人気者だという。
 また哀駘它はぼんやりして自己主張せず、他人に同調するだけなのに人望厚く、魯の哀公は彼を宰相に起用しようとまでしたが、彼は固辞して去っていった。こうした哀駘它の人物像として、逸話は孔子の口を借りるという筆法で、心の徳が外に現れない平衡感覚の体得者として説明している。
 このように、荘子はしばしば障碍者や容姿醜形者を有徳者として、ほとんど神秘化に近いほど理想化させた短い逸話を通じて論を展開することを好んだが、ここには外見より内面の徳に優位性を置く内面性の哲学・倫理学としての荘子思想の特色が認められる。
 しかし、これは同時代の古代中国にあっても必ずしも世間常識とは合致していなかったからこそ、荘子はとりわけ外面に儀礼的に表出される礼節の徳を強調する儒学―その視界に不具者はとらえられていない―に対抗する批判哲学として自論を展開しようとしたものと思われるのである。
 ちなみに、荘子思想をもその源流の一つとするとされる道教に傾倒していたと言われる日本の飛鳥時代の女帝・斉明天皇には建皇子〔たけるのみこ〕という言語障碍児の孫がいた。天皇は皇子の心が美しいことから溺愛し、彼が8歳で没した時は悲しみが深く、激しく慟哭したといい、皇子を偲ぶ歌も残している。
 公式史書『日本書紀』に記録されたこのエピソードも、荘子思想との直接的な関連性はともかくとして、幼い障碍児と女帝の心の交流を題材とした内面性の哲学・倫理学の表出例として読み解くことができるかもしれない。

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不具者の世界歴史(連載第3回)

2017-02-22 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

神話の中の障碍者
 古代における障碍者は、神話の中に文学的な形でその存在性が記録されている。例えばギリシャ神話には様々な障碍を持つ人物が登場するが、中でも興味深いのは炎と鍛冶の神ヘーパイストスである。ヘーパイストスは最高神ゼウスと後妻ヘーラーの子だが、両足に先天障碍を持って生まれたため、天から海に捨てられたとされる。
 この逸話からは、古代ギリシャでは先天性障碍児を捨て子にする習慣があったとも推測できるが、類似の例は日本神話にも見られる。すなわち国産み神であるイザナギとイザナミの夫婦神の第一子(または第二子)ヒルコは障碍児であったため、葦舟に乗せて海に流してしまったとされる。
 もっとも、ギリシャ神話のヘーパイストスは海の女神に救われ、養育された後、天に帰ったとされるから、ここからは障碍児を引き取って養育するような習慣の存在も推測できるところである。成長したヘーパイストスは武器製造者となったことで、炎や鍛冶の神とされた。
 ちなみに、鍛冶や鋳物の神々はヘーパイストスに限らず、ドイツのフォルンド、フィンランドのワンナモイネンなど多くは身体障碍を持っているが、これは古拙な鍛冶技術の限界から労災により障碍者となりやすかったことを象徴しているのかもしれない。
 日本の天目一箇神(あまのまひとつめのかみ)も、鍛冶職人が鉄色で温度を計測するのに片目をつぶることからとする説のほかに、片目を失明する職業病を象徴するとする説があるが、後者とすれば視覚障碍者を象徴する神であろう。
 一方、北欧神話やケルト神話には隻腕の神が登場するが、これは戦争の多発による傷痍者が多かったことを象徴するものであろう。特にケルト神話に登場するヌアザ神は戦闘で片腕を失ったため、身体欠損者を王位不適格とするケルトの掟により王位に就けなかったとされるが、ここには身体障碍者を欠格者とみなすある種の差別政策の芽生えを読み取ることもできる。
 もっとも、ヌアザ神は医神ディアン・ケヒトの製作した義手を得て、最終的にはディアン・ケヒトの子神ミアハの治療で腕が復活し(!)、王位に就けたとされる。これは医療的なリハビリテーションの萌芽とも言える神話的記述である。
 全般に、諸民族の神話中の障碍者は必ずしも忌むべき者としては描かれておらず、むしろ特別な存在として位置づけられ、神秘化されていると見ることもできるであろう。

醜女と醜男
 ところで、日本神話には、醜女(しこめ)と醜男(しこお)という対関係の特徴的な神名が登場する。前者は正式には黄泉醜女(よもつしこめ)といい、黄泉国に住む鬼女とされる。イザナギが亡きイザナミの後を追い、黄泉国まで赴いた時、約束を違えて腐敗したイザナミの姿を見てしまったため、イザナミが黄泉醜女らに逃げるイザナギを追跡させたという。
 醜女とは文字どおりに取れば、容姿の醜い女という趣意で、現代語としては女性に対する容姿差別的表現としてほぼ死語に近い。しかし神話の中の黄泉醜女は単に醜いのではなく、実際に鬼の形相をした鬼女であり、かつ一飛びで千里走れるという俊足の持ち主ともされる。
 他方、醜男のほうは出雲神の大国主の多数ある別名の一つとして、葦原醜男(あしはらのしこお)として登場する。葦原とは高天原と黄泉国との中間の世界、すなわち日本の国土を指し、この場合の醜男とは勇者を意味する。直訳すれば、「日本の勇者」という趣意で、大国主に対する一種の英雄称号である。
 「醜男」という文字にかかわらず、勇者を意味することから、別途「色許男」と真逆的とも言える表記をされることもある。実は、「醜女」も9代開化天皇の皇后とされる伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)のように「色許売」と表記される場合がある。
 伊迦賀色許売命は、この年代の天皇と同様に実在性を確証できない伝説的な人物ではあるが、正史上は8代孝元天皇の側室の一人であるとともに、開化天皇との間に御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる10代崇神天皇を産んだとされ、皇統上は重要な人物である。おそらく「色許売」にも、勇者に相応する女傑のような含意があるのだろう。
 このように、文字どおりなら容姿の醜悪さを示す悪名と思われる醜女/醜男が同時にポジティブな含意の別表記に置換されることもあるという事実は、醜形を単に劣等視するのでなく、むしろ強さやそこから湧出するある種の神秘的な色気(?)のような側面を両義的に表現しているようにも読み取れるのである。

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不具者の世界歴史(連載第2回)

2017-02-21 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

先史人類と障碍者
 先史時代の人類が不具者をどのように待遇していたのかについては文字史料に欠けるため、決定的な確証はおそらく永久に得られないだろうが、出土した古人骨にかすかな手がかりが残されている。
 例えば絶滅種であるネアンデルタール人の人骨から介助を受けなければ生活できないほど重症の身体障碍を持ったものが発見されているが、かれらには死者を埋葬し、供花する慣習も認められ、ごく初歩的な宗教的意識が芽生えていたと考えられる。宗教的意識は人道主義の有力な発生源でもあるから、ネアンデルタール人は障碍を負った同胞を介護するような習慣を持っていたのではないかと推測することも可能である。
 現生人類についても、同種の事例がアメリカ大陸から中東、欧州、日本と世界の広い範囲で散見されている。想定される症例も、下半身麻痺から脊椎障碍、小人症まで多様である。またポリオ(急性灰白髄炎)が広く見られたようで、中東や日本の縄文時代前期の人骨の中からもポリオが疑われる事例が発見されているという。ポリオはウイルス性の脊髄・延髄疾患であり、後遺症として重篤な運動障碍を引き起こすことから、後天的に身体障碍者となり得る。
 全般に医療行為が存在しないか、存在しても呪術の域を出なかった先史時代には、病気の後遺症としての障碍は少なくなかったはずで、先史時代には障碍者は普通に存在していたとも推測できるところである。
 もちろん、そこから介護のような行為慣習の存在を直ちに想定できるわけではないが、多くの人骨が障碍を抱えたまま相当年数生きていたことが証明できることを考えると、何らかの介助を親族や同胞から受けていたと推測することは必ずしも飛躍的ではないだろう。
 少なくとも、障碍者に対する思いやりのような素朴な感情の芽生えは、歴史が始まる以前の相当早い段階から現生人類に生じていたと見られる。それは、歴史の黎明期には神話の中に形象化されていっただろう。

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