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良心的裁判役拒否(連載第9回)

2011-10-14 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第5章 真の「司法参加」とは?

(1)「司法参加」と「司法動員」
 裁判員制度を言わば合作した政府と法曹界は、これを民主的な「司法参加」の制度であると宣伝し、正当化を図ってきました。
 この点、裁判員制度を提言した審議会の意見書は、同時期の政治改革や行政改革、規制緩和等の経済構造改革など一連の新自由主義的諸改革と通底する「平成司法改革」に流れるエートスを「国民一人ひとりが統治客体意識から脱し、統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志」とイデオロギシュに総括しつつ、裁判員制度の意義については次のように説明しています。

「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる」

 「統治主体」とか「国民的基盤」とか聞き慣れないあいまいな言葉が登場しますが、一応これらは憲法にも定められている国民主権の理念を言い表そうとしているように読めます。しかし、果たしてそうでしょうか。

 ここで実際に出来上がった裁判員法1条を見ると、こう定められています。

「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ・・・(以下省略)」

 これと先の意見書の説明とを比べてみると、「国民的基盤」というキーワードが「国民の健全な社会常識」という語とともにそぎ落とされていることがわかります。
 この点で意見書と法1条は整合しておらず、ずれていると解することもできますが、意見書の提言を受けて制定された以上、両者を整合的に読むのが一貫するでしょう。
 そこで、法1条を踏まえてもう一度意見書の説明を読み直すと、そこで言われる「国民的基盤」とは、法1条が定める「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」という権力への理解・信頼調達に役立てる限りでの消極的な「基盤」にすぎず、国民が主権者として司法権を行使し、または司法権の運用を監督するという積極的な「参加」を意味するものではなかったのです。
 従ってまた、「平成司法改革」の総論的なキーワードとして意見書が示した「統治主体」も、法1条が規定するような権力への理解・信頼調達の対象として国民が動員された限りでの司法協力の主体性でしかないと把握できますし、裁判内容に反映されるべき「国民の健全な社会常識」なるものもそうした「司法動員」の趣旨にふさわしい「健全さ」、すなわち「犯罪との戦い」における重罪に対する厳しい処罰意識でなければならないわけです。
 このように、裁判員制度は「司法参加」ならぬ「司法動員」の制度です。この点をはっきりと弁別しなければ、「日本型司法参加」といった公式PRに絡め取られてしまうでしょう。
 この制度は「日本型司法参加」という点ではなく、法曹界をも含む21世紀の日本支配層が生み出した「司法動員」という新しい統治技術である点に独自性が認められるのです。
 その真の狙いについて、日本の良心的な法学者の一人である小田中聡樹氏(東北大学名誉教授)の言葉をお借りするなら、「国民に刑事裁判参加を義務付け強制することを通じて権力層に抱き込み、「統治主体意識」つまりは権力的意識・処罰意識を注入し、国家的な処罰・取締体制の基盤を強固なものとしていくことにある」とまとめることができるでしょう。

(2)陪審制と参審制
 それでは真の「司法参加」とは何なのでしょうか。それは一般市民(国民に限らず、永住権者など一定条件を満たす外国出身者も含む)が主権者として直接に司法権を行使し、または司法過程への参加を通して職業裁判官による司法権の行使を監督するシステムのことです。
 このうち、一般市民が直接に司法権を行使する司法参加制度の代表例が陪審制です。もっとも、直接に司法権を行使するといっても司法権のすべてを一般市民が行使するわけではなく、通常は有罪・無罪の評決が中心です。従って、陪審裁判は被告人が起訴事実を争う場合にしか開かれません。
 一方で、有罪・無罪の結論に関しては職業裁判官が陪審評決に拘束されるため、急進的な一面を持ちますが、反面で証拠の取捨選択や法律解釈、さらには量刑も職業裁判官の専権に委ねられます。
 ただし、アメリカでは死刑の当否に限っては陪審員が判断する「死刑陪審」があり、この場合は陪審員が量刑についても権限を有することになります。
 いずれにせよ、陪審制は伝統的に12人制と多人数で、かつ評議は全員一致制、いくぶん緩めても全員一致に近い特別多数決制を採ることが一般です。
 これに対して、参審制は一般市民が職業裁判官とともに審理に臨み、判決する制度です。その形態だけを見ると、裁判員制度は参審制に近いわけですが、本来の参審制は審理を裁判所(官)が主導していく職権主義の構造を前提として、裁判官の職権行使を一般市民が現場でチェックするという民主的監督の機能を期待されている制度であって、裁判員制度のように「司法動員」とは本質的に異なっています。
 従って、参審員の数は一般に少なめで、参審制の本場ドイツの場合2人だけです。しかも、陪審員のようにくじによる無作為抽出ではなく、団体などの推薦による任命制を採るのが一般です。これは、職業裁判官の「監督」という任務を果たせる人を予め精選する趣旨によるものでしょう。
 ちなみに、フランスは重罪事件の審理に限り[追記:2012年より、軽罪事件にも一部拡大]「陪審制」という名で実際上は職業裁判官3人とくじで選ばれた「陪審員」9人[追記:2012年より、第一審では6人、重罪の第二審では9人に改正]が合議で審理・判決する制度を持っていますが、これは実質上参審制にほかなりません。
 参審制という形態から見ると、日本の裁判員制度はこのフランスの制度に最も近く、模倣した形跡もなくはないのですが、有罪の評決をするには原則(重罪第一審の場合)として裁判官と陪審員を合わせた9人のうち6人の賛成を要すること、陪審員が軽罪第一審や重罪控訴審にも参加することなど、重要なところで相違点があり、両者を同列に扱うことはできません。
 そもそもフランスの場合、かつては文字どおりの陪審制を採用していた時期があり、それが言わば型崩れして現行制度に落ち着いたという歴史的経緯があるために今なお「陪審制」の名を残している点でも、前章で見たような特異な経緯でひねり出された日本の裁判員制度とは同視できないのです。

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良心的裁判役拒否(連載第8回)

2011-10-08 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第4章 「平成司法改革」の舞台裏(続き)

(2)法曹界の裏取引
 第1章で見たように、自民党の指示を受けて政府が司法制度改革審議会を設置したのは1999年です。この審議会は法曹三者を代弁する立場の人のほか、学識者、財界人、労組幹部から女性作家に至るまで、司法に関していかなる見識をお持ちなのか疑わしい人まで含むわずか13人の雑多なメンバーで構成された翼賛的な寄せ集めの臨時機関でした。(※)
 察するに、この審議会に表面的な討議をさせつつ、水面下では焦点の弁護士大増員をめぐる法曹三者間の折衝が鋭意進められていたものと見られます。その真相は、事の性質上容易なことでは明かされないでしょうから、以下は筆者自身の推察を交えた叙述となります。
 まず、2年間の予定で行われていた審議会の審議の中で、裁判員制度構想が浮上してきたのは、審議も終盤にさしかかった2001年1月。ということは、この頃までに法曹三者間で何らかの合意が非公式に形成されたものと推定できます。
 ただ、それが自民党によって誘い水的に提起された陪審制でも参審制でもなく、裁判員制度となったのはなぜでしょうか。
 まず、最高裁はかねて「司法参加」全般に否定的で、日弁連が要望していた陪審制については特に強く反対していました。それはおそらく、陪審制の場合、職業裁判官が陪審評決に拘束される点でかなり急進的な一面を持つことから、職業裁判官の間で拒否感が強いせいと思われます。
 そうした司法当局の意向を反映してか、2000年から2001年にかけて与党・自民党が介入し、陪審制に疑念を示しつつ、ドイツの制度にならった参審制の検討を指示したのです。
 このドイツの参審制とは、職業裁判官と一般市民から推薦などの方法で任命された2名の参審員が合議し判決するもので、司法参加としては最も小規模かつ裁判手続を裁判所が主導していく職権主義の訴訟構造に適合的な制度です。そのため、元来日本では司法参加の制度としてこのような参審制を主張する人はまれで、日弁連を説得する取引材料としても弱いはずでした。
 そこで、司法制度全般を所管することから司法参加問題に関しても所管官庁であり、かつ弁護士増員問題でも日弁連の直接の折衝相手となる法務省が割って入り、形態上は参審制の性格を持ちながら、陪審制のようにくじ引きによる無作為抽出の選任方式を採る折衷的な制度をひねり出し、これを陪審制でも参審制でもない「裁判員制度」と命名したものと思われます。これであれば、自民党指示を生かしつつ、陪審制もどきの外観から日弁連をも説得できそうだからでしょう。
 とはいえ、陪審制とはおよそ非なるこんな制度をなぜ日弁連が取引材料としてでも受諾できたかはなお謎ですが、おそらく審議会の指示を受けて具体的な制度設計を委ねられた政府の司法制度改革推進本部(2001年12月設置)の検討会で、裁判員の数を原則6人と裁判官の数より多くする―それによっていくらかなりとも陪審制の外観が強まると見たのでしょう―という妥協を経て、最終的な合意に達したものと推定できます。
 このように裁判員制度は弁護士大増員をめぐる政財界の意向を受けた法曹界内部の攻防を背景に、バックルームでの取引―それが明示的な取引であったか、あるいはあうんの呼吸によるトレードオフであったかは解明し切れませんが―の結果、ひねり出されたもので、その制定過程自体、国民不在の非民主的なものであったことはしっかりと認識しておく必要があります。
 特に、具体的な制度設計は先の司法制度改革推進本部の検討会で行われたわけですが、これは司法制度改革審議会のメンバーでもあった井上正仁氏(東大教授)を座長に、裁判官、検察官、弁護士のほか、ジャーナリスト、警察官僚、市長等々、政府によってセレクトされたわずか11人のメンバーから成る内輪的なパネルにすぎず、新たな国民の義務のあり方を検討すべき立法府=国会はこの間、全くカヤの外であったのです。
 こうした一連の流れを背後でコントロールしていたのは与党をバックにした政府、特に法務省ですから、最終的に出来上がった制度は当時の政治的・経済的状況を反映して、第1章で見たような「犯罪との戦い」という法イデオロギーで味つけされた特異な重罪治安裁判制度として立ち現れることとなったのでした。
 従って、この制度をめぐる最大の勝者は当時の与党以上に法務省です。特に死刑存置の牙城でもある法務省は国際社会の動向・要請に反して死刑制度を死守するうえで、死刑判決に一般国民を動員することのできる裁判員制度にこのうえないメリットを感じていることでしょう。これからは「日本では主権者国民も加わった司法判断で死刑判決が出されている」ということを死刑廃止に反対する論拠として内外に主張していけるとかれらは踏んでいるだろうからです(少なくとも国際社会では通用しないでしょうが)。
 一方、最高裁にとってこの制度にどんなメリットがあるのかわかりにくい面もありますが、ひとまず陪審制の導入を阻止できたことは小さくないメリットでしょう。また、後で不当判決と批判されても一般国民の「健全な社会常識」が反映されているのだと抗弁して、一般国民を盾に使えるということもメリットかもしれません。さらに、最高裁がかねてより推進してきた官僚主義的な視点からの公判手続の効率化を実現するうえで、裁判員の負担を口実に短期審理を錦の御旗にできることもメリットでしょうか(反面、公判前整理手続が渋滞して、全体としてはかえって裁判の長期化が起きているようです)。
 これに対して、日弁連は敗者であるはずですが、弁護士大増員という歴史的な苦渋を飲んだことの対価として裁判員制度が実現した以上、これを今さら否定することはできず、この制度を陪審制類似の「日本型司法参加」の制度だと信ずることによって自己欺瞞を演じられることには、ある種のメリットも認められるのかもしれません。
 こうして、法曹三者の裏取引の所産である裁判員制度には、三者各々の同床異夢的な思惑が刷り込まれてもいるわけです。

※審議会のメンバーは、五十音順に、石井宏治(財界人・石井鐵工所)・井上正仁(刑事法学者)・北村敬子(会計学者)・佐藤幸治(会長・憲法学者)・曽野綾子(作家)・高木剛(労組)・竹下守夫(会長代理・民事法学者)・鳥居泰彦(経済学者)・中坊公平(弁護士・元日弁連会長)・藤田耕三(弁護士・元判事)・水原敏博(弁護士・元検事)・山本勝(財界人・東京電力)・吉岡初子(主婦連)の各氏(肩書等はいずれも当時)。

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良心的裁判役拒否(連載第7回)

2011-10-01 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第4章 「平成司法改革」の舞台裏

(1)「平成司法改革」の狙い
 第1章でも初めに少し言及したように、裁判員制度は1999年に始動した大規模な司法改革―これを「平成司法改革」と呼びます―の一環として制定されたものですが、この「平成司法改革」の中で、裁判員制度は実は付け足し的な意味しか持っておらず、この「改革」の最大主眼は圧倒的に弁護士数の大増員に置かれていたのでした。
 弁護士大増員策と裁判員制度という一見して関係なさそうなものがどこで結びつくのか━。この謎を解く前に弁護士大増員の持つ意味を把握する必要があります。
 日本では明治維新後、近代国家創りを急ぐに際して、圧倒的に行政権主導の国家を目指したため、多数の行政官僚を擁する一方、弁護士や裁判官をはじめとする法曹の数は低く抑え、「小さな司法」を維持してきました。このような方向性は敗戦をはさんで戦後も続いたため、法曹共通の資格試験である司法試験は年間合格者がわずか数百人程度という超難関となり、まるで前近代中国の官吏登用試験「科挙」のような様相を呈していたのです。
 こうした状況が一変したのは、1990年代です。この時期の日本はバブル経済の崩壊を契機とする長期不況に突入しており、その打開策として規制緩和・民営化を柱とするいわゆる新自由主義の経済戦略が財界の要請をも背景に打ち出されてきました。
 この戦略は、従来とは逆に、行政権を縮小して「小さな政府」を目指す一方で、民間資本主導の経済社会を構築するために、それまであまり活用されていなかった司法を経済社会の調整役として活用しようという方向に踏み出していったのです。
 このことは、「平成司法改革」の基本法として2001年11月に制定された司法制度改革推進法第1条に「この法律は、国の規制の撤廃又は緩和の一層の進展その他の内外の社会経済情勢の変化に伴い、司法の果たすべき役割がより重要になることにかんがみ」云々と明記されていることからもはっきりしています。
 こうした新自由主義的司法改革戦略の中心は、民間資本と密着して協働する弁護士の増員策にありました。そのために、司法試験の合格者増を通じた弁護士大増員―言わば法曹資格の規制緩和―とそれを担保するための新たな法曹養成制度である「法科大学院」の創設が打ち出されたのです。
 しかし、弁護士業界、特にその代表団体である日本弁護士連合会(日弁連)は従来、弁護士大増員には強く反対していました。このことはしばしば弁護士の既得権益護持の態度として非難されがちですが、必ずしもそうとは言い切れない事情があります。
 日本では先述したように、およそ1世紀にわたり弁護士数を抑制する政策が採られてきた結果として、「弁護士要らず」の社会が形成されてきたのです。
 弁護士が少ない分、司法書士、行政書士、社会保険労務士、弁理士、税理士など特定分野に限定して一定の法的事務を処理する法律専門資格が林立しているのはその現われです。こうした特定分野の法律専門家たちは、諸外国ならば弁護士が処理するような仕事を請け負っています。また、企業・団体の法務部門も弁護士を雇う代わりに、内部養成した法務スタッフを配置して法務を担当させることが一般です。
 結果、弁護士に残された職域はほぼ訴訟代理人業務が中心となりますが、それですら民事訴訟では弁護士を訴訟代理人に立てる必要はなく、本人訴訟が広く許されている次第ですから、日本社会では現在でもなお「弁護士要らず」なのです。
 こういう状況で、単純に弁護士数だけを急増させれば、「資格あって仕事なし」のペーパー弁護士が大量に生じ、また少ない仕事の奪い合いによる収入減をもたらします。結果は、弁護士の質的劣化と悪徳化で、そのツケは弁護士を利用する私ども市民に回ってくるわけです。
 従って、日本で弁護士を大幅増員するためには、少なくとも(ア)多岐に分かれた法律専門資格を弁護士に統合すること(イ)民事訴訟に弁護士強制制度を導入することという二つの前提条件を満たす必要があるのです。
 ところが、(ア)は多数の所管官庁及び関係業界との調整・協議が必要になること、(イ)はセットで弁護士費用等を公費で援助する法律扶助制度の大幅拡充が必須で、財務省・与党の同意が欠かせないことといった困難な事情があり、現状では実現のめどが立たないことから、「平成司法改革」ではこれら前提条件の整備を回避したまま、弁護士大増員だけを実行するという乱暴な策に出たのでした。
 そういう無理を押し通すためには、日弁連を説得し倒す何らかの取引材料が必要になります。それが「司法参加」だったのです。なぜ「司法参加」が取引材料になるかと言えば、弁護士の間ではかねてより司法制度の民主的改革の切り札として陪審制の導入を望む声が根強く、日弁連もそうした提言をしたことがあるからでした。
 その点に最初に目を付けたのが、当時の与党・自民党です。同党は第1章でも紹介した1998年の司法改革に関する報告の中に、検討課題として「陪審・参審」を滑り込ませたのです。
 こうした日弁連にとっては宿願でもある司法参加の導入をちらつかせつつ、一方では弁護士増員に消極的な日弁連を「既得権益にしがみつく守旧勢力」として世論に印象づければ、日弁連を大きく揺さぶることができるわけです。
 ただ、はしがきでも述べたとおり、陪・参審制と裁判員制度は似て非なるものですから、自民党の誘い水的な提言が直接に裁判員制度に結びついたわけではありません。関係者も妥協の産物であることを認めている裁判員制度なるものが姿を現すまでには、法曹界に舞台を移しての一種の裏取引があったのです。

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良心的裁判役拒否(連載第6回)

2011-09-24 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥(続き)

(3)裁判員の口封じ
 最高裁が裁判員制度をPRするに際して公募し当選したキャッチコピーは「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というものでした。
 法に基づく法裁判にあって、それほど「私」が前面に出てきてよいのかという疑問にとらわれますが、そんな心配も無用なほど、裁判員制度は裁判員(補充裁判員を含む)に厳重な口封じをしています。
 この点、制度施行前から、裁判員経験者に対する懲役刑の制裁を伴う守秘義務が特に批判されてきました。たしかに、守秘義務は最大級の口封じですが、裁判員に対する口封じの規定は守秘義務だけではありません。評議の過程でも「服従」「整理」という形で口封じをされるのです。
 初めの「服従」とは、「法令の解釈」と「訴訟手続」については、裁判員は裁判長が示した職業裁判官の合議による判断に従わなければならないというものです(裁判員法66条3項・4項)。
 これは「法令の解釈」や「訴訟手続」に関する判断は専門性が高いため、職業裁判官の専権に委ねられるというある意味では当然のことなのですが、裁判官の示すそれらの判断が常に正しいという保証はありません。
 例えば、「法令の解釈」に関する裁判官の判断が誤っていれば、本来罪とならない行為が犯罪行為と解釈されて有罪になってしまうことがあり得ますが、それも一種の冤罪です。
 また「訴訟手続」に関する判断として重要なのは自白の任意性の問題です。自白偏重捜査が根絶されない日本では捜査段階における自白の任意性が重要な争点となりがちで、その判断が甘いと、捜査機関の違法捜査を見逃したり、冤罪に直結したりすることがあります。
 こうした場合に、裁判員に裁判官の判断への服従を義務づけ、これに従わないことを解任事由とまで規定しているのは(同法41条1項4号、43条2項)、まさに口封じにほかなりません。
 さらに、裁判長は評議に際して、「評議を裁判員に分かりやすいものとなるよう整理」する権限を与えられていますが(同法66条5項)、この一見親切な規定には裏があります。
 ここで言う「整理」とは、陪審制において評議には同席しない裁判長が法廷で陪審員に対して評議のポイントを説明する「説示」とは異なり、まさに評議の場で裁判長が「評議」そのものを「整理」してしまうのですから、これは裁判員にとっては発言に枠をはめられるに等しいことを意味します。先の「服従」に対して、よりソフトな形の口封じなのです。
 こうした硬軟両様の口封じをしたうえで、裁判員法は全裁判員に評議で意見を述べることを義務づけ(同法66条2項)、なおかつこれに違反し、沈黙を保つことを解任事由と定めているのです(同法41条1項4号、43条2項)。話すことを強制するという特異な定めです。しかし、ここで強制される「意見」とは先に「服従」と「整理」を前提としたものですから、このような発言強制は口封じの裏返しにすぎないのです。実際、先の解任事由の規定が服従義務違反と発言義務違反とを同一条項で並べて定めていることは、その何よりの証拠です。
 要するに、冒頭のキャッチコピーにもかかわらず、裁判員が下手に「私の視点、私の感覚、私の言葉」にこだわれば、解任されかねないわけです!。穿った見方をすれば、こうした「服従」と「解任」は一票差評決のような事態が実際にはほとんど起きないように、裁判長が裁判員の多くを自分(たち)の意見に誘導しやすくする仕掛けと読み解くこともできるかもしれません。
 さて、口封じの最大級のものとして問題視されてきた守秘義務ですが、実は守秘義務は現役裁判員に対するものと退役裁判員に対するものとがあります。
 このうち、現役裁判員が評議の状況等をリアルタイムで開示することを禁ずるのは裁判の公正を確保するうえでやむを得ない制約ですから、あまり問題にされていません(ただし、最大で6ヶ月もの懲役刑を科することは罪刑の均衡を失している疑いは残ります)。
 問題は退役裁判員に対する終身間にわたる守秘義務、なかでも評議における「裁判官若しくは裁判員の意見又はその多少の数」を公表することや、自らが関与した「判決において示された事実の認定又は刑の量定の当否」を述べることを守秘義務違反の罪として処罰しようとすることにあります。
 ただ、なぜ裁判員法がこのような行動に神経を尖らせるかと言えば、やはり前節で見た僅差評決法に関わってきます。つまり、重大事件の判決が5:4のような僅差であったことが暴露されれば社会的に大きな波紋を呼び、被告人ら当事者も判決に不信を持ちますから、評議における意見分布を「評議の秘密」とみなして守秘の対象としているのです。さらに、一票差評決で敗れた少数意見の裁判員が義憤や正義感に駆られて事件の判決を公に批判するといった事態を何としても避けようとしているのです。結局のところ、前節で見たような僅差評決法の持つ根本欠陥を覆い隠すためにこそ、厳重な守秘義務が用意されているわけです。
 なお、ジャーナリストや作家といった表現者が裁判員経験者に接触して、守秘義務に違反する談話をとって記事や著書で公にすれば、一般刑法上の共犯規定を介して、それら表現者も裁判員法上の守秘義務違反の罪の共犯に問われる恐れがあるという点で、口封じは報道機関その他の表現者に対しても芋づる式に及んでいくことにも注意が必要です。

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良心的裁判役拒否(連載第5回)

2011-09-17 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥

(1)糾問裁判への回帰
 あなたや私が被告人であったとして、裁判員のメンバー構成にはほとんど期待できないとしても、審理・評決法がそれなりに練られたものであれば、そこに一縷の望みをかけてもよいでしょう。しかし、そんな望みもあっさり打ち砕かれてしまうほど、裁判員制度は肝心要の審理・評決法に関しても欠陥を抱えているのです。
 まず審理法に関する最大の問題は、戦後司法改革の最大成果として憲法・刑事訴訟法の大原則となっている当事者主義の訴訟構造を大きく改変・制約してしまっていることです。
 当事者主義は、冤罪や不当な厳罰を防止すべく、戦前の裁判所主導の権威主義的な糾問裁判の方法を改め、とりわけ被告人の防御的弁論権(黙秘権を含む)を保障するところにその主眼があります。そのために、当事者主義の審理は裁判所側による被告人訊問(質問)ではなく、検察側と被告・弁護側の対論を軸に展開されていくことが基本となります。
 しかし、たくさんの争点をめぐって当事者間で対論していたら、裁判員制度が狙う数日というような超短期審理はとうてい実現しませんから、「争点を絞らせる」という名目で、新たに「公判前整理手続」なる制度を刑事訴訟法上に新設し、裁判員裁判の対象事件については必ずこの手続を経るものとし、ここで実質的な先取り審理をしてしまおうとしています。
 この手続では証人尋問を含む一定の証拠調べまで予定されているため、単なる公判準備手続の域を超え、実質的な「予備審理」の性格を持っています。にもかかわらず、この手続は完全非公開で行われるため、被告人の公開裁判を受ける権利を保障する憲法37条1条に違反する疑いも生じてきます。
 そればかりではありません。こうして非公開審理で半ば方向性の決まった事案をおもむろに裁判員裁判にかけたうえ、今度は裁判員による被告人質問を大幅に取り入れた審理をするのです。
 先に述べたように、当事者主義の審理では当事者間の対論が軸で、裁判官であれ、裁判員であれ、裁判者側の被告人質問は例外的・補充的なものにとどまります。一方、被告人には包括的な完全黙秘権が保障されています(刑事訴訟法第311条1項)。実際、裁判員法上も、裁判員による被告人質問は「刑事訴訟法第三百十一条の規定により被告人が任意に供述する場合には」という限定の下、例外的に認められているにすぎないのです(同法59条)。
 ところが仄聞するところによると、裁判員裁判では裁判員全員が被告人質問を繰り出すことが常態化しているようです。中には、相当に追及的・攻撃的な質問を向ける裁判員も存在するようです。もちろん、被告人は黙秘権を行使して応答を拒否できますが、「本当は犯人だから/反省していないから沈黙している」という印象を与えることになりかねません。
 ちなみに、裁判員裁判では裁判官と裁判員が全員、被告人の正面の法壇に横一列に着席する配置をとっていますが、原則形態では裁判官3人、裁判員6人の合わせて9人もの人間がズラリと法壇に並んで被告人を見下ろすという構図自体も威圧的で、当事者主義にふさわしいものではないように思われます。
 以上のような裁判員裁判の審理法を見ると、それは当事者主義の原則を逸脱し、旧式の追及的な糾問裁判へ回帰しようとしているとしか言いようがありません。しかし、これも裁判員制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに沿って重罪裁判で迅速な厳罰を下すことを狙った特例的制度であると理解するなら、十分にうなずける意図的な「逸脱」なのです。

(2)奇数・僅差評決法の問題性
 裁判員制度は、最終的に判決の内容・結論を決める評決法にも重大な欠陥を抱えています。それは裁判官と裁判員を合わせた奇数人員(原則9人、例外5人)で、なおかつ単純多数決によるわずか一票差(5:4または3:2)の僅差判決で有罪・死刑判決まで出せるように仕組まれていることです。
 このように非常に安易な評決法が採られているのも、もう容易に想像がつくように、最短期間で評決に達することで迅速な処罰を可能とするためにほかなりません。
 しかし一票差などというものは、メンバー構成が一人違っていただけでも全く正反対の結論に転んだかもしれない可能性が高い点で、裁判の評決としては全く信頼の置けないものです。
 その点を考慮してか、裁判員法は多数意見に必ず最低一人は職業裁判官(及び裁判員)が加わっていなければならないと定めているので(同法67条1項)、例えば有罪意見5人、無罪意見4人となった場合に、多数派5人全員が裁判員であったときは、一転して多数決ならぬ「少数決」によって無罪の結論となるのです。
 このようないささかわざとらしい変則的な規定をもってしても、僅差評決の問題性は解消されないでしょう。なぜなら、職業裁判官が一人加わったからといって、それだけで僅差の多数意見の正当性が増すわけではなく、評議が十分に煮詰まらない間に一票差で結論を出してしまう安易さに変わりないからです。
 もっとも、職業裁判官の裁判でも3人の合議で2:1の一票差評決をしているわけですが、9人制で2:1の比率に相当するのは6:3です(5人制の場合は2:1に分けることが数学的にできないので、4:1とするしかない)。6:3は9人制では特別多数決の最低ラインですから、せめてこれくらいの規準は定めておくべきなのに、それすらしようとしないのは、裁判員制度がどこまでも迅速さを至上命題としていることの表われです。
 本来からいけば、有罪評決や死刑評決のように、被告人の運命を決定づけるような評決をするには全員一致制を定めておくのが真摯な立法態度ではありますが、こと裁判員制度に関する限り、そんなことを期待するのは無駄のようです。

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良心的裁判役拒否(連載第4回)

2011-09-10 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第2章 強制と排除(続き)

(3)六つの排除システム
 前回見たように、裁判役は強制的性格の強い義務ですが、その一方で当局から見て「好ましからざる人物」を排除する仕掛けを何重にも用意しています。このように、裁判員制度は「強制と排除」を本旨とする極めて抑圧的な制度なのです。
 本節が主題とするのは、排除のシステムですが、この点、裁判員法は実に六種類もの排除装置を用意しています。その六種類とは、(A)無資格者排除(裁判員法13条)(B)欠格者排除(同法14条)(C)不適格者排除(同法17条・18条)(D)就職禁止(15条)(E)〔特に検察側からの〕忌避(同法36条)(F)解任(同法41条・43条)です。
 各々の詳細の説明は省きますが、こうした排除装置によって裁判役から排除される者のカテゴリーは、おおむね(ア)外国人(イ)未成年者(ウ)障碍者、無学歴者等(エ)犯歴者、被疑者・被告人等(オ)危険思想分子(カ)事件の当事者等といった人たちです。
 このうち、事件の当事者等が裁判員となるべきでないことは当然ですから、(カ)のカテゴリーは排除というよりも除外事由になります。その他、(エ)のカテゴリーのうち被疑者・被告人は自分の事件への対応に専念すべきですから、これも除外することに合理性があります。さらに、(ウ)のカテゴリーのうち、知的障碍者をはじめ、裁判員として当事者の主張や証拠を検討するだけの知能が欠如している者の除外も合理性を認めざるを得ないでしょう。
 しかし、それ以外のカテゴリー、特に(オ)の危険思想分子には当局の視点に立って「好ましからざる人物」を予め排除しようとする意図がはっきりと読み取れます。言い換えれば、裁判役には予め当局にとって都合のよさそうな人を召集したいという、一種の「選抜徴兵制」のようなコンセプトがあるわけです。
 ここで最も問題の多い危険思想分子の排除に焦点を当ててみましょう。これは先ほど列挙した六種類の排除装置のうち欠格者排除の一環を成すものです。
 裁判員法はこの点、国家公務員法上の公務員の欠格事由を準用する形で、「日本国憲法施行の日以降において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」を裁判員から排除します。
 これは国家公務員の任用の場合に準じて、特定政党・団体、とりわけ共産主義政党・団体への所属関係の有無を問題とする規定です。文言から見て、戦後版思想取締法として違憲論も根強い破壊活動防止法と連動していることがわかります。
 おそらく同法に基づいて、あるいはそれとは別途、公安当局が監視下に置く政党・団体のメンバー、元メンバーが標的にされるでしょう。「日本国憲法施行の日以降」とありますから、1947年5月3日以降という歴史的なスパンを持った排除規定であることに驚かされます。
 この規定はそれに該当する人物は絶対的に排除する趣旨ですから、裁判所は呼び出した全裁判員候補者について該当性を判断しなければなりませんが、そのために裁判所は公安情報を蓄積している公安調査庁・公安警察等の政治警察機関へ秘密裡に照会を取る必要があります(裁判員法12条参照)。ということは、裁判員制度は政治警察機関とも連係しながら運用されていくものだということがわかります。まさに治安装置なのです。
 もっとも、そんな破壊活動団体の関係者は裁判員から排除されて当然だと思われるかもしれません。しかし、一方で指定暴力団組織のメンバーが排除されていないことは不可解です。それをおいても、破壊活動団体に該当するかどうかは、公安情報に基づき裁判所が判断することですから、自分では平和的団体に所属しているつもりでも、裁判所には破壊活動団体だと認定されてしまうことは十分にあり得ます。
 また、直接には先の要件に該当しない者でも、裁判所が「不公平な裁判をするおそれがあると認めた者」は不適格者として予め排除されるか(不適格事由)、いったん裁判員に選任されても事後的に解任されます(解任事由)。
 「不公平な裁判をするおそれ」という極めてあいまいな文言で、裁判所が一方的に特定の裁判員候補者または現役裁判員を排除できるため、この規定を通じて死刑相当事件では死刑廃止論者を排除したり、一般的に警察・検察・裁判所などの公権力に対して批判的な思想を持つ者を排除したりする目的で利用される可能性が指摘されています。
 いずれにせよ、先の六種類の排除装置は単独で、あるいは複合的に作動して「好ましからざる人物」を排除するように仕組まれているわけです。

(4)最後に残る人々
 以上のような「強制と排除」の結果、最後に裁判員として残るのはどんな人たちなのでしょうか。
 まず免除特権が認められる社会上層の人たちはそもそも召集もされないのですから、裁判役を課せられるのは初めから庶民層の一般国民(有権者)です。
 そこから先の排除装置によって排除されていく人たちを差し引くと、さしあたり残るのは体制に従順な庶民層の一般国民となるでしょう。
 もっとも、先に見たように、例外的に「辞退」という名の個別免除が認められやすい人たちがいます。その筆頭は「無理由辞退」が認められる70歳以上の高齢者や学生・生徒です。大まかに言えば、老人と若者は免除されやすいということになるでしょう。そうすると、裁判役の中核的世代は中年層に集中してきます(ここは若者中心の軍事的兵役とちょっと違うところです)。
 その中でも、「理由付き辞退」が認められやすい人とそうでない人とに分かれていきます。最も認められやすいのは、健康・体調を理由とする場合ですから、病気・病弱の人や妊産婦は免除されるでしょう。次いで、山間部など交通の便の悪い所に居住しているため、裁判所に「出頭」することが困難な人も免除されやすいと思われます。
 微妙なのは、介護・養育・付添い等の必要を理由とする場合です。おそらくこの理由で免除されるのは、介護・養育・付添い等を代わってもらえる人が容易に見当たらないような場合に限られてくると思われます。
 そうすると、結局のところ、裁判員として最後に残る人たち(原則6人、例外4人)は、おおよそ次のような顔ぶれになるでしょう。

〔取替えの利く一般労働者+各種ケアに忙殺されない有閑主婦+その他の有閑中年層〕であって、裁判員裁判が開かれる裁判所の所在する都市またはその近郊に住む健常・健康な人々

 おそらく当局はこのような人たちこそ裁判員にふさわしいと考えているのでしょう。しかし、あなたや私が被告人であったとしたら、このような顔ぶれの人たちに裁かれたいでしょうか。
 「能力」を疑うわけではありません。現代の一般庶民層の知的レベルは相対的に上がっているので、「能力」を疑うのは失礼というものです。問題は判断傾向です。上掲のような人たちの判断傾向はほぼ想像がつきます。一般には厳罰志向で、被告・弁護側よりも検察側に共感しやすい人たちです。
 実際、これまで二年余りの裁判員裁判の実績を見ても、検察側求刑をそのまま認容する「満額回答」も少なくなく、職業裁判官の裁判ではほとんど見られなかった求刑を上回る量刑をするケースも見られます。一部で減少するのではないかとの楽観もあった死刑や無期懲役刑のような重刑もどんどん出されています。また、有期懲役刑の求刑でも、従来の職業裁判官の裁判では八掛け(例えば、懲役20年の求刑に対して8割の懲役16年の判決)が相場と言われていたのが、裁判員裁判では九掛け(先の例で求刑の9割の懲役18年の判決)前後まで引き上がる傾向が出ています。
 ただ、こうした厳罰化傾向は、「犯罪との戦い」という裁判員制度のモチーフとなる法イデオロギーにはまさに合致しているのですから、現状は立法者のもくろみどおりとなっているわけです。

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良心的裁判役拒否(連載第3回)

2011-09-03 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第2章 強制と排除

(1)出頭義務と免除特権
 裁判役の強制的性格を象徴するキーワードが「出頭」という言葉。しかも、こうした「出頭」が何重にも罰則付きで強制されるのです。刑事訴訟法では身柄を拘束されていない限り、被疑者ですら出頭は任意なのに・・・です。
 そうした出頭強制の集大成と言うべき条文が裁判員法112条です。以下、少し長いですが、一部省略のうえそのまま掲げてみます(下線筆者)。

第百十二条  次の各号のいずれかに当たる場合には、裁判所は、決定で、十万円以下の過料に処する。
一  呼出しを受けた裁判員候補者が、第二十九条第一項(第三十八条第二項(第四十六条第二項において準用する場合を含む。)、第四十七条第二項及び第九十二条第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、正当な理由がなく出頭しないとき。
二  呼出しを受けた選任予定裁判員が、第九十七条第五項の規定により読み替えて適用する第二十九条第一項の規定に違反して、正当な理由がなく出頭しないとき。
三  略
四  裁判員又は補充裁判員が、第五十二条の規定に違反して、正当な理由がなく、公判期日又は公判準備において裁判所がする証人その他の者の尋問若しくは検証の日時及び場所に出頭しないとき。
五  裁判員が、第六十三条第一項(第七十八条第五項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、正当な理由がなく、公判期日に出頭しないとき。

 どうでしょうか。これだけ「出頭」を振りかざされると、相当寛大な人でも腹が立ちませんか。
 しかし、裁判員法はこうした裁判役の強制性を少しでも覆い隠そうとするためか、裁判員に日当(最大で1日1万円)を支払い、裁判員をあたかも臨時職公務員のように仕立てたうえ、裁判役を「職務」と表現し、裁判役に就かされることを「就職」と表現しますが、そういうお体裁は「出頭」というキーワードと鋭く矛盾します。
 裁判役は「苦役」であればこそ、法律は特定の職業カテゴリーに属する人々には免除特権を与えて裁判役から保護しているのです。この免除特権は「就職禁止」と「辞退」というやはり問題含みの名称を与えられた二つの制度内制度の中に潜り込ませる形で定められているため、気づきにくくなっています。
 このうち「就職禁止」(裁判員法15条)とは、一定の職業カテゴリーに該当する者をおよそ裁判役に就かせないという形で一般的に免除する制度です。この中には、裁判官・検察官・弁護士といった法曹のように、元来「法律の素人」を召集するという裁判員制度の趣旨からして免除というより一般的に除外されることに合理性が認められるカテゴリーも含まれています。
 しかし、総じて国会議員や国の高給(級)公務員、自衛官といった国家公務員に対して「就職禁止」という名目の下に免除特権が与えられていることは見逃せません。
 もう一つの「辞退」については次項で改めて見ますが、本来は法令の定める一定の条件または事情が認められる場合に申し立てに基づいて個別的に裁判役を免除する制度です。
 その中に「その従事する事業における重要な用務であって自らがこれを処理しなければ当該事業に著しい損害が生じるおそれがあるものがあること」という理由で辞退が許される場合があります(裁判員法16条8号ハ)。
 この文言から想像がつくように、こうした不可代替的な用務(所用)を持つ人たちと言えば、企業・団体の長や首脳級幹部職、開業医のような自営業者、さらにスポーツ選手や芸術家・芸能人といった人たちですから、こういった人たちはこの規定の下にほぼ自動的に辞退という形の免除が認められるでしょう。
 以上を要するに、裁判員制度は国の高給公務員や企業経営者、医師、スポーツ・芸能関係者など、一般に社会的地位が高いとみなされる職業カテゴリーに属する人たちには、「仕事」を優先してもらうという名分のもとに裁判役からの免除特権を付与しようとしているわけです。
 本来の軍事的兵役もタテマエ上は国民全般に平等に決せられる国防上の義務とされていながら、実際は支配層に属する人たちに制度上ないし(海外留学のような形を取った)事実上の免除特権が与えられていることとまことに相似的な関係にあることがわかります。

(2)「辞退」の仕掛け
 「辞退」の制度については、前節で先取り的に言及しておきましたが、この「辞退」という用語にも疑問を感じられないでしょうか。
 「辞退」というと、何か好意で与えられるものを遠慮するというニュアンスですが、裁判役は強制的義務ですから、それを「辞退」するという言い方は、裁判役に就かされることを「就職」と表現するのと同様の欺瞞です。
 「辞退」とは、先ほど述べたように、個別的な免除にほかならないのですから、先の免除特権とは異なり、例外的な場合にしか認められない「恩典」に近いものです。
 それでも「辞退」はここでの主題である良心的拒否との関わりでは使い道のある制度ですので、詳しくは実践編で検討することとし、ここでは大まかにその仕掛けを見ておきます。
 まず、「辞退」には大別して(A)無理由辞退と(B)理由付き辞退の二種があります。(A)は一定の条件(地位)が認められる限り、理由を付さずに辞退が認められるもので、そこに含まれるのは、70歳以上の高齢者、学生・生徒、地方議会議員(会期中に限る)、裁判員や検察審査員を経験して間がない者です。こういった条件の人たちに無理由辞退を認めるのは当然とも言えます(学徒動員をしないのは見上げたものかもしれません)。
 問題を含むのは(B)の理由付き辞退のほうです。これは法律所定の理由があることを申立者側が証明し、それを裁判所が認めたときにはじめて免除が許されるものです、所定の理由は大きく(a)健康・体調(b)介護・養育・付き添い等の必要(c)重要な用務(所用)(d)不便・不利益の四種に分けられます。
 そのうち前節で見た隠された免除特権の性質を持つ(c)を除くと、所定の理由の存在を証明するには自己や家族の病歴や健康状態、家族を含めた生活状況、経済状況、さらには自己の思想・信条といった内面的な事柄に至るまで開示する必要が生じてしまうこと、すなわちプライバシー情報が裁判所に取得されてしまうことが最大の問題です。
 もちろん、そうした不利益を甘受してでも裁判役を免除されたいという方もおられるでしょうが、プライバシーの意識が高まった時代に裁判員法が裁判員選任手続の過程で取得される多種多様な個人情報の保護について詳細な規定を置いていないのは驚くべきことです。
 こうした人権軽視の姿勢も、裁判役がまさしく苦役にほかならないことを如実に物語るものと言えるでしょう。

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良心的裁判役拒否(連載第2回)

2011-08-27 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第1章 「裁判役」という課役

(1)「犯罪との戦い」への召集
 はしがきで、裁判役には兵役と等しい性格があると述べました。まず冒頭からこのことを検証してみます。
 このように断ずる根拠をひとことで言えば、裁判員制度は「犯罪との戦い(war on crime)」という法イデオロギーに基づいているからです。このことは同制度の制定の経緯と基本構造がはっきりと示しています。
 まず制定の経緯から見ると、裁判員制度とは元来、1999年6月に政府が設置した「司法制度改革審議会」(以下、単に「審議会」という)が2001年6月に当時の小泉内閣に提出した意見書の提言に基づいて創設されたものですが、同意見書では制度設計の基本方針として、初めから対象事件を「国民の関心が高く社会的にも影響が大きな法定刑の重い重大事件」と限定していたのです。
 「法定刑の重い重大事件」と言えば、死刑存置国の日本の場合、死刑を法定刑に持つ罪が筆頭に来ることは明らかです。加えて、死刑に次ぐ無期懲役刑か少なくとも長期の有期懲役刑が科せられるような重大事件が対象となり、結局、その大半は故意による生命侵害犯を中心としたいわゆる凶悪事件が占めることになります。
 このように、裁判員制度が初めから重大事件に対応するための特殊な制度として構想されたのは、当時の日本の政治・経済状況と深く関わっています。
 実は1999年に発足した先の審議会は、その前年に当時の与党・自由民主党が発表した『二十一世紀の司法の確かな指針』と題する報告に基づいて設置された機関ですが、同報告では21世紀に向けた新たな司法改革戦略の視座として、「司法は、安全な国民生活の確保と公正で円滑な経済活動という国家の基礎を支え、活力ある社会を維持するための基盤をなす」と規定していました。
 このテーゼ前半の「安全な国民生活の確保」というレトリックは、言い換えれば司法を「犯罪との戦い」の拠点とすることを示唆しているのです。
 どうして当時の与党・自民党がそんなことを言い出したかと言えば、90年代末という時期はちょうど90年代半ばに起きたオウム真理教教団による一連の凶悪事件、特に日本の「安全神話」を崩壊させたと言われた二つの化学テロ事件(松本及び東京地下鉄サリン事件)の衝撃がまだ冷めやらぬ時期であったことに加え、経済的にもいわゆる「失われた十年」の只中で失業率の急激な悪化の一方で、凶悪犯罪の増加という負の現象が顕著化した時期に当たっていたためと考えられます。
 そういう不穏な情勢の中で、当時の与党・政府が社会体制の引き締めを図るため、司法を拠点とした「犯罪との戦い」を発動しようと考えたことは容易にみてとれます。
 ただ、それがなぜ自民党報告では一言もされていなかった裁判員制度という形で結実したかについては法曹界の思惑も絡んだ複雑な事情があり、このことについては後で改めて取り上げることにします。
 ともかく、こうして「犯罪との戦い」という法イデオロギーに基づく司法戦略の要として立ち現れた裁判員制度は、その基本構造にもはっきりとその法イデオロギーが反映されているのです。
 実際、審議会が指示したとおり、同制度は(a)死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件と(b)裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる罪(法定合議事件)であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るものという二つの極めて限られたカテゴリーに整理された重罪事件にのみ適用されます。
 そして、「戦い」である以上、敵たる被告人の立場は考慮されません。この点、審議会の意見書がきっぱりと「裁判員制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって重要であり、裁判制度として重要である」と断じているとおり、先の二つのカテゴリーに該当する事件である限り、被告人はこの制度の適用を回避することは許されません。
 そのうえ、一般国民たる裁判員の時間的・精神的負担への配慮を口実に、裁判員裁判の審理は平均して数日程度の超短期が予定され、被告・弁護側の争う権利を極力制約するばかりか、一般国民の意識が反映された一審判決の尊重を口実に、上訴は極力棄却するという運用指針も最高裁から示されています。要するに、重大事件を迅速に処罰することを通じて犯罪を鎮圧するというまさに「戦争」の論理なのです。
 こうした刑事裁判の本則を大きく改変する制度にふさわしく、同制度は刑事裁判手続を定める一般法である刑事訴訟法ではなしに、完全に別立ての特例法「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下、裁判員法という)で定められているため、裁判員裁判は重罪事件に特化した特別治安裁判のような性格を強く帯びているのです。
 こうした「犯罪との戦い」の司法的現場へあなたや私のような一般国民が召集され、最大で死刑を含む厳罰判決を下す任務を課せられるのが裁判員制度なのですから、それは単なる比喩でなしに「兵役」―司法的兵役―と呼んでもさしつかえないのではないでしょうか。

(2)憲法違反の裁判役
 ところで、日本国憲法にはこうした裁判役の根拠となるような条文は全く見当たらないのですが、果たして裁判役のように一律的な「国民の義務」が憲法上認められるのでしょうか。
 この点、憲法はその第三章「国民の権利及び義務」の中で、納税(30条)、子女教育(26条2項)、勤労(27条1項)という三つの義務を定めていることから、「国民の三大義務」と呼ばれることもあります。裁判役はこれに四つ目の義務を追加したことになりますが、そんなことが許されるかどうかは大きな憲法問題です。
 三大義務が定められている憲法第三章は俗に「人権カタログ」とも呼ばれ、そこでは憲法上保障される基本的人権の種類・内容とそれらをやむを得ず制約する場合の根拠が示されています。
 基本的人権を制約する際の根拠としては、12条や13条に定める一般条項的な「公共の福祉」と、三大義務のように一定の行為を強制する義務付けの二種があるわけですが、一般条項的な「公共の福祉」による制約とは異なり、義務付けの方は一定の行為を意に反しても一律的に強いるという点で基本的人権を拘束する度合いが高いため、憲法は許される義務を限定的に列挙したものと理解するべきではないでしょうか。
 そうだとすると、憲法は明示的に認めている三大義務以外の義務の勝手な追加を許さない趣旨だと読むべきことになり、裁判役のような制度はむしろ憲法18条後段で禁止される「意に反する苦役」として憲法に違反すると解すべきなのです。
 もっとも、裁判員制度を推進してきた国やこの制度を支持する人たちはそうは考えておらず、憲法上根拠のない国民の義務を勝手に創設することも許されており、裁判員の任務も「意に反する苦役」に当たらず、憲法に違反しないと理解しているのでしょうが、そう断ずる根拠は何なのでしょうか。
 (一種の「ウルトラ解釈」として、27条1項の「勤労の義務」に裁判役も含まれるという解釈もあり得ますが、しかし、同条項は始めに「勤労の権利」を前提とするので、納税や子女教育のように、義務違反に対して直接に罰則は科せられないことに注意すべきです。)
 そもそも制度設計の過程でも、こうした根本的な憲法問題自体、ほとんど検討された形跡が見当たらないのは不可解と言うほかありません。
 うがった見方であることを承知で言えば、「犯罪との戦い」の制度である裁判員制度は、憲法も棚上げした特例的な一種の戒厳制度であると理解すると、その超憲法的な出自にもうなづけるというものです。

〔追記〕
最高裁判所大法廷は本年11月16日、裁判員制度は憲法に違反すると主張した被告人の上告を棄却する判決で、同制度を合憲とする初の憲法判断を示しました(全員一致)。本来中立的な立場で、あらゆる国家制度の違憲審査を担う自らの職責に反し、裁判員制度のPRを積極的に行ってきた最高裁が今さら違憲判決など出さないであろうことは予測されていたことでした。 

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良心的裁判役拒否(連載第1回)

2011-08-20 | 〆良心的裁判役拒否

はしがき

 本連載タイトル『良心的裁判役拒否』を正しくお読みいただけたでしょうか。難読漢字はありませんが、ポイントは「裁判役」。
 これを「さいばんやく」でなく、「さいばんえき」とお読みになれた方は相当な方でしょう。本連載をお読みになるまでもなく、すでにその内容をほぼ理解しておられる方だと思います。
 残念ながら、「さいばんやく」と読んでしまわれた方も、裁判員制度という新しい制度のことはご存じで、そのことが頭に浮かんだかもしれません。
 本連載はその裁判員制度を主題としていますが、ただ単に制度を批判することに主眼があるのではありません。そういう本・論稿ならすでにいくつも出ています。本連載は、裁判員制度の下で一般国民(有権者)に課せられるようになった新たな義務としての「裁判役」を自己の良心に従って拒否しようとするに際しての実践的なガイドとして企画されたものです。

 裁判員制度は、死刑が法定されている罪に係る事件を筆頭とする重大凶悪事件を中心に、くじで選ばれた一般国民が裁判官とともに審理・判決にのぞむ制度として2004年に制定され、5年間の周知期間を経て2009年5月より施行された新しい刑事司法制度です。
 本文でも詳しく見るように、この制度の下では、当局に勝手にくじで引き当てられた有権者は原則として裁判員としての役務を果たさなければならず、正当な理由なくして拒否すれば最大で10万円の過料(行政罰)の制裁が科せられます。
 こうした仕組みによって、日本国民は突如として新たに重罪裁判という課役を法的に負わされるようになったわけです。本連載ではこうした課役のことを「裁判役」と呼びます。
 「裁判役」を「さいばんえき」とお読みになれた方は、おそらく「兵役」という戦前の日本にもあり、現在でも多くの諸国に残されている軍事動員制度のこともご存じと思います。実際、「裁判役」は「兵役」に等しい性格を持っています。これは決して大げさな比喩ではなく、本文でも見るように本当にそうなのです。
 それだから、兵役と同様に、「良心的拒否」ということが問題となります。実際、制度施行前から、各種世論調査等でも「他人を裁きたくない」という理由で裁判員制度に否定的な意見は少なからず表出されていましたし、識者の間からも「隣人に隣人を裁かせる残酷な制度」という厳しい批判が出されていたところでした。
 こうした残酷さ―と言って悪ければ過酷さ―は、死刑制度を完全に存置したまま死刑判決にも裁判員を関与させる特異さによっていっそう助長されています。言わば、隣人をして隣人に対して死を命じさせる制度なのです。
 裁判員制度を推進してきた政府・法曹界は裁判員制度を、欧米に広く見られる一般市民による司法参加の制度である陪審制や参審制になぞらえて説明し、民主的な司法制度だとして正当化を図ってきました。しかし、これも本文で分析するように、裁判員制度と陪・参審制とは非なるものです。両者を意識的に混同させる論理は一種の詭弁なのです。
 本連載ではこうした詭弁を見破り、一般国民を司法資源として動員する「司法的兵役」の制度にほかならない裁判員制度を単に「批判する」のではなく、「拒否する」市民的戦略を探求していきます。
 もう始まってしまったのだからとあきらめたり、国家の強制的制度だからとひるんだりする必要はありません。自己の良心に従い、不正に手を貸すことを拒む良心的拒否は今日の世界では基本的人権の一つとして明確に位置づけられており、法的根拠も見出せるからです。ほんの少しの勇気があれば大丈夫です。

 本連載は、裁判員制度構想を知ったときから強い疑問を抱いた筆者が制度施行直前に書き上げ、某商業出版社に持ち込んでみたところ、(当然と言うべきか)にべもなく却下・返送されてきた原稿を再検討し、濃縮したうえで連載用に書き改めたものです。商業出版の道を閉ざされたことでかえって内容を凝縮的に深めるチャンスが与えられたことに感謝すべきなのでしょう。
 本連載が良心派市民の方々のお役に立てることを願っています。

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