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連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第50回)

2015-06-17 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(2)

 マルクスの利潤率法則については、その内容どおりの利潤率の低下現象が実証されないという批判が向けられている。この点、マルクス自身も現実の経済現象においては、法則どおりに運ばない諸原因が関与することを認めていた。

そこには反対に作用する諸影響が働いていて、それらが一般的法則の作用と交錯してそれを無効にし、そしてこの一般的法則に単に一つの傾向でしかないという性格を与えているにちがいないのであって、それだからこそわれわれも一般的利潤率の低下を傾向的低下と呼んできたのである。

 つまり、この法則はあくまでも「傾向法則」でしかないという形で、法則性を緩めている。マルクスはこのように法則の反対作用因となるものとして、①労働搾取度の増強②労働力の価値以下への引下げ③不変資本の諸要素の低廉化④相対的過剰人口⑤貿易の五つを挙げている。

・・・剰余価値率を高くするその同じ原因が・・・・・、与えられた一資本の充用する労働力を減少させる方向に作用するのだから、この同じ原因はまた利潤率を低下させる方向に作用すると同時にこの低下の運動を緩慢にする方向に作用するのである。

 第一の労働搾取度の増強である。マルクスは具体例として、一人の労働者に以前の三人分の労働が可能な事情の下、合理的には以前の二人分の労働が押し付けられたとして、その者が二人分の労働を提供する限りでは剰余価値率は上昇するが、三人分は提供しないから、剰余価値量は減少することを指摘している。つまり、利潤率低下をもたらす可変資本の相対的な減少が、剰余価値率の上昇により緩和され、制限されていることになる。すると、資本戦略的には、労働搾取度の増強が利潤率低下を食い止める有力な手段となる。

 なお、第二の労働力の価値以下への労賃の引下げについては、「資本の一般的分析には関係のないことで、この著作では取り扱われない競争の叙述に属することだから」という理由で、詳論は割愛されている。

・・・可変資本に比べて不変資本の量を増大させるのと同じ発展が、労働の生産力の増大によって不変資本の諸要素の価値を減少させるのであり、したがってまた、不変資本の価値は絶えず増大するにしてもそれが不変資本の物量すなわち同量の労働力によって動かされる生産手段の物量と同じ割合で増加することを妨げるのである。

 第三の不変資本の低廉化である。マルクスはこの具体例として、当時欧州の紡績労働者一人が機械化工場で加工する綿花の量は欧州の旧紡績職人一人が加工していた量に比べて著しく大しているが、加工される綿花の価値はその量に比例して増大してはいないことを挙げている。つまり、この場合も、利潤率低下をもたらす可変資本の相対的減少が食い止められていることになる。資本戦略的に言えば、技術革新による労働生産力の増大は利潤率低下を食い止める手段であり、これは産業技術が高度に進んだ晩期資本主義において、利潤率法則が実証し難い最大の要因であろう。

・・・新たな生産部門、特にまた奢侈消費のための部門が開かれ、これらの部門は、ちょうどあの相対的な、しばしば他の生産部門での不変資本の優勢のために遊離した過剰人口を基礎として取り入れ、それ自身は再び生きている労働という要素の優勢にもとづき、それから後にはじめてだんだん他の生産部門と同じ経路をたどって行く。どちらの場合にも可変資本は総資本のなかで大きな割合を占めており、労賃は平均よりも低く、したがってこのような生産部門では剰余価値率も剰余価値量も異常に高くなっている。

 第四の相対的過剰人口である。過剰労働力が吸収される生産部門は先に述べた第一の労働搾取度の増強と第二の労賃の価値以下への引下げが同時に行われるような領域であるため、こうした部門の発達は平均的利潤率の低下に対しては反対に作用する。この点、晩期資本主義では奢侈消費のためのサービス産業が高度に発達し、多くの過剰労働人口を劣悪な労働条件の下に吸収しており、また製造業など伝統的な生産部門でも非正規労働力の増加減少が見られる。これも、資本総体での利潤率低下への対抗戦略とも言えるだろう。

貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値を高くし不変資本の価値を低くするからである。

 第五は貿易である。こうした貿易の中でも、植民地貿易が先進的な本国と発展度の低い植民地における労働搾取度の格差を利用して高い利潤率を達成することが指摘されている。植民地支配が基本的に終焉した現代にあっても、先進国‐途上国間の貿易では途上国への生産拠点の移転という戦略を伴いつつ、利潤率の低下が食い止められる。

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晩期資本論(連載第49回)

2015-06-16 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(1)

・・・・・資本構成の漸次的変化が、単に個々の生産部面で起きるだけでなく、多かれ少なかれすべての生産部面で、または少なくとも決定的な生産部面で起きるということ、つまり、この変化が一定の社会に属する総資本の有機的平均構成の変化を含んでいるということを仮定すれば、このように可変資本に比べて不変資本がだんだんに増大してゆくということの結果は、剰余価値率すなわち資本による労働の搾取度が変わらないかぎり、必ず一般的利潤率の漸次的低下ということにならざるをえないのである。

 有名な「利潤率の傾向的低下法則」(以下、利潤率法則という)である。資本制企業は利潤率の向上を目指して日々企業努力をするはずであるが、それにもかかわらず、否、それゆえに利潤率は低下していくという。このような自己矛盾が生じる要因は、「不変資本の物量が増すのにつれて、同じ割合ではないとはいえ、不変資本の価値量も、したがってまた総資本の価値量も増してゆくからである」。すなわち―

資本主義的生産は、不変資本に比べての可変資本の相対的減少の進展につれて、総資本のますます高くなる有機的構成を生みだすのであって、その直接の結果は、労働の搾取度が変わらない場合には、またそれが高くなる場合にさえも、剰余価値率は、絶えず下がってゆく一般的利潤率に表わされるということである。

 このような総資本の有機的構成の高度化は、資本制企業が日々邁進している労働生産性の向上の結果であり、「この発展は、まさに、機械や固定資本一般をますます多く充用することによってますます多くの原料や補助材料を同じ数の労働者が同じ時間で、すなわちより少ない労働で生産物に転化させるということに現われるのである。このような不変資本の価値量の増大━といってもそれは不変資本を素材的に構成する現実の使用価値量の増大を表わすにはほど遠いものであるが━には、生産物がますます安くなるということが対応する」。まとめれば、労働生産性の向上による安売りが、利潤率の傾向的低下の要因を成す。

だから、一般的利潤率の漸進的な低下の傾向は、ただ、労働の社会的生産力の発展の進行を表わす資本主義的生産様式に特有な表現でしかないのである。

 マルクスによれば、「資本主義的生産にとってこの法則は大きな重要性があるのであって、アダム・スミス以来のいろいろな学派のあいだの相違はこの解決のための試みの相違にあるとも言えるのである」。しかし、マルクスの見るところ、資本構成の高度化の矛盾という点に着目しない「従来の経済学がこの謎の解決に一度も成功しなかったということも、少しも謎ではなくなるのである」。
 
・・・・資本によって充用される労働者の数、つまり資本によって動かされる労働の絶対量、したがって資本によって生産される利潤の絶対量は、利潤率の進行的低下にもかかわらず、増大することができるし、またますます増大して行くことができるのである。ただそれができるだけではない。資本主義的生産の基礎の上では━一時的な変動を別とすれば━そうならなければならないのである。

 利潤率法則の補充法則である。利潤率低下と絶対的利潤量の増加が同時発現するというのも一見矛盾的であるが、利潤率の低下をもたらす可変資本の相対的な減少は、剰余労働の絶対量の増大とは両立的であるし、不変資本=生産手段の増大は労働者人口の増加をもたらす。ここで、第一巻で論じられた相対的過剰人口論とつながってくる。すなわち━

・・・一方では、労賃を引き上げることによって、したがって、労働者の子女を減らし滅ぼす諸影響を緩和し結婚を容易にすることによって、しだいに労働者人口を増加させるであろうが、しかし、他方では、相対的剰余価値をつくりだす諸方法(機械の採用や改良)を充用することによって、もっとずっと急速に人為的な相対的過剰人口をつくりだし、これがまた━というのは資本主義的生産では貧困が人口を生むのだから━現実の急速な人口増殖の温室になるのである。

 ここで二つの方向性が示されているが、晩期資本主義の現代では、圧倒的に後者の「相対的剰余価値をつくりだす諸方法」による労働者の相対的過剰化が進んでいるが、その結果として労働者の非婚・少子化が進行し、将来的には労働者の絶対的過少人口が懸念されることから、第一の労賃の引き上げも検討せざるを得なくなってくる。しかし、労賃の上昇高騰は新たな恐慌の要因ともなるが、この件は利潤率法則の「内的矛盾」として後に議論される。

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晩期資本論(連載第48回)

2015-06-03 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(7)

商品と貨幣とはどちらも交換価値と使用価値との統一物だとはいえ、すでに見たように(第一部第一章第三節)、売買ではこの二つの規定が二つの極に対極的に分かれて、商品(売り手)は使用価値を代表し、貨幣(買い手)は交換価値を代表することになる。商品が使用価値をもっており、したがってある社会的欲望をみたすということは、売りの一方の前提だった。他方の前提は、商品に含まれている労働量は社会的に必要な労働を表わしており、したがって商品の個別的価値(および、この前提のもとでは同じものであるが、販売価格)は商品の社会的価値と一致するということだった。

 マルクスは、ここで第一巻の原理に立ち戻りつつ、改めて事例をあげて考察し直すのであるが、最後にまとめて、「一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働の範囲が、みたされるべき社会的欲望の範囲に適合しており、したがって生産される商品量が不変な需要のもとでの再生産の普通の基準に適合しているならば、この商品はその市場価値で売られる。諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的な法則である。」という法則を立てている。しかし―

一方の、ある社会的物品に費やされる社会的労働の総量、すなわち社会がその総労働力のうちからこの物品の生産に振り向ける可除部分、つまりこの物品の生産が総生産のなかで占める範囲と、他方の、社会がこの一定の物品によってみたされる欲望の充足を必要とする範囲のあいだには、少しも必然的な関連はないのであって、ただ偶然的な関連があるのみである。

 このように、現実の市場経済で原理的な価値法則が成立しないことは、マルクス自身、認めざるを得ない。興味深いことに、このすぐ後、マルクスはカッコ付き付言の形で、「ただ生産が社会の現実の予定的統制のもとにある場合にだけ、社会は、一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働時間の範囲とこの物品によってみたされるべき社会的欲望の範囲とのあいだの関連をつくりだすのである。」と、共産主義的生産様式では価値法則が現実的にも成立することを指摘しているが、この付言からすると、価値法則は『資本論』ならぬ『共産論』で説かれるべき経済法則ではないかとさえ思えてくる。
 結局、資本主義的生産様式において、価値法則は一つの原理的なモデルであって、現実の市場経済は、その法則からの偏差的状況が常態化している。よって、「この法則(価値法則)から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである。」とも釘が刺される。

需要と供給とは現実にはけっして一致しない。または、もし一致するとすれば、それは偶然であり、したがって科学的にはゼロとするべきであり、起きないものとみなすべきである。ところが、経済学では需要と供給が一致すると想定されるのである。なぜか?現象をその合法則的な姿、その概念に一致する姿で考察するためである。

 ここで批判されている現象を法則に合わせて説明しようとする本末転倒の「経済学」とは古典派経済学、とりわけ需要と供給の一致法則を説いたセイを念頭に置いた批判である。マルクスも需要供給関係を無視するものではないが、「需要供給関係は、一方ではただ市場価値からの市場価格の偏差を説明するだけであり、また他方ではただこの偏差の解消への、すなわち需要供給関係の作用の解消への傾向を説明するだけである。」と言われるように、マルクスにとっての需要供給関係は、価値法則からの偏差をもたらす要因でしかない。

・・・資本は、利潤率の低い部面から去って、より高い利潤をあげる別の部面に移っていく。このような不断の出入りによって、一口に言えば、利潤率があちらで下がったりこちらで上がったりするのにつれて資本がいろいろな部面に配分されるということによって、資本は、生産部面が違っても平均利潤が同じになるような、したがって価値が生産価格に転化するような需要供給関係をつくりだすのである。所与の国民的社会で資本主義の発展度が高ければ高いほど、すなわちその国の状態が資本主義的生産様式に適していればいるほど、資本は多かれ少なかれこのような平均化をなしとげるのである。

 ここで、マルクスは再び中位収斂化傾向を指摘し、こうした「不断の不均衡の不断の平均化」は①資本の可動性と②労働力移動の迅速性によりますます速まるとして、①と②の現象の前提を具体的に列挙している。
 すなわち①の前提としては、完全な商業の自由、独占の排除、信用制度の発達、資本家のもとへの種々の生産部面の従属、人口密度の高度化、②の前提としては、労働者の職域的・地理的移動制限法の撤廃、労働内容に対する労働者の無関心、単純労働への還元、労働者間の職業的偏見の消失、資本主義的生産様式への労働者の従属が挙げられている。
 こうした諸前提がすべて充足されているのは、まさに現代の晩期資本主義である。ということは、現代資本主義においてこそ、マルクスの言う平均化傾向は高度化していることになる。

平均価値での、すなわち両極の中間にある大量の商品の中位価値での商品の供給が普通の需要をみたす場合には、市場価値よりも低い個別的価値をもつ商品は特別剰余価値または超過利潤を実現するが、市場価値よりも高い個別的価値をもつ商品はそれ自身が含んでいる剰余価値の一部分を実現することができないのである。

 中位収斂化の中で、資本家が市場価値より低い個別的価値をもつ商品を市場価値で販売したときには、特別剰余価値としての超過利潤を取得することができる。これが優良資本の秘訣である。かくして、「市場価値(これについて述べたことは、必要な限定を加えれば、生産価格にもあてはまる)は、それぞれ特定の生産部面で最良の条件のもとで生産する人々の超過利潤を含んでいる」。

☆小括☆
以上、十では『資本論』第三巻の前提部に相当する第一篇「剰余価値の利潤への転化」及び第二篇「利潤の平均利潤への転化」の両篇を併せて、剰余価値と並ぶ『資本論』におけるキータームとなる利潤(率)の概念を見た。その立論は不安定かつ錯綜しているため、かつてマルクス経済学では種々の弥縫的な補足理論が提唱されてきたが、マルクス経済学の概説を目的としていない本連載では立ち入ることをしなかった。

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晩期資本論(連載第47回)

2015-06-02 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(6)

・・・・中位またはほぼ中位の構成をもつ資本にとっては、生産価格は価値と、また利潤はその資本が生産した剰余価値と、まったく一致するかまたはほぼ一致する。そのほかのすべての資本は、構成がどうであろうと、競争圧力のもので、これらの資本と平均化されようとする傾向がある。ところが、中位の構成をもつ資本は社会的平均資本と同じかまたはほぼ同じなのだから、すべての資本は、それら自身が生産する剰余価値がどれだけであろうと、この剰余価値のかわりに平均利潤をそれらの商品の価格によって実現しようとする。すなわち、生産価格を実現しようとする。

 このように、「中位状態を中心として規制される傾向」―中位収斂化傾向―を、マルクスの言葉でより簡潔に言い換えれば「生産価格を価値の単なる転化形態にする傾向、または利潤を剰余価値の単なる部分に転化させる傾向」ということになる。これは、とりもなおさず、資本家が生産物を価値どおりには交換し合わないことを意味するが、となると、第一巻に立ち戻って「諸商品がそれらの現実の価値どおりに交換されるということは、いったいどのようにして成り立っていたのであろうか?」という自問が生じる。

困難のすべては、商品が単純に商品として交換されないで、資本の生産物として交換され、資本は剰余価値総量のうちからそれぞれの大きさに比例してその分けまえを、またはそれぞれの大きさが同じならば同じ分けまえを要求するということによって、はいってくるのである。

 単純な商品交換社会とは、「労働者たち自身がめいめい生産手段をもっていて、自分たちの商品を互いに交換し合う」ような社会であり、このような社会で利潤率は度外視され、等労働量交換が成り立ち得るという。「それだから、価値どおりの、またはほぼ価値どおりの諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換に比べれば、それよりもずっと低い段階を必要とするのである」。
 しかし、このように資本主義的発展段階論で説明するとなると、まさに「資本論」における基礎理論であったはずの等労働量交換理論が宙に浮くことになりかねない。ここは、『資本論』全巻を通じて、マルクス理論が最も破綻に接近する箇所である。

いろいろな生産部面の商品は互いに価値どおりに売られるという仮定が意味していることは、もちろん、ただ、商品の価値が重心となって商品の価格はこの重心をめぐって運動し、価格の不断の騰落はこの重心に平均化されるということだけである。さらにまた、いつでも市場価値―これについてはもっとあとで述べる―は、いろいろな生産者によって生産される個々の商品の個別的価値とは区別されなければならないであろう。

 ここで、マルクスは一転して、商品の価値を商品価格形成の重心という意義に薄めた上で、突如「市場価値」の概念を持ち出し、これを個々の商品の価値とは区別することによって、新たな説明を与えようとする。このように、追加概念を持ち出して基礎理論の等労働量交換論の位相をずらすのは立論として正当とは言えないように思われるが、この先、マルクスの議論は市場価値論へと遷移していく。

市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値とも見られるべきであろう。最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって、市場価値はそれ自身市場価格の中心なのである―といっても、市場価格は同じ種類の商品では同じなのであるが―。

 ここで、マルクスは、市場価値の意義について、主に二つの方向から定義らしきものを示している。一つは「一つの(生産)部面で生産される諸商品の平均価値」である。しかし、このような現実の生産諸条件を捨象した純粋平均値は理論値にすぎないので、結局、現実の市場価値は第二の「その部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値」ということになるだろう。ただし、需給状況の異変次第では、最悪または最良生産条件下での生産物が市場価値を規制する可能性も排除されていない。

同じ生産部門の、同じ種類の、そしてほぼ同じ品質の諸商品がその価値どおりに売られるためには、二つのことが必要である。
第一に、いろいろな個別的価値が一つの社会的価値に、前述の市場価値に、平均化されていなければならない。そして、そのためには、同じ種類の商品の生産者たちのあいだの競争が必要であり、また彼らが共通に彼らの商品を売りに出す一つの市場の存在が必要である。

 ここで、マルクスは等労働量交換の理論と市場価値論とを接合するべく、競争と市場の媒介的な働きを重視している。特に競争に関しては、「いろいろな部面での諸資本の競争が、はじめて、いろいろな部面のいろいろな利潤率を平均化するような生産価格を生みだすのである。」とし、このことのためには「資本主義的生産様式のより高い発展が必要である。」と、改めて先の発展段階論とも結びつけている。

・・・・・・・諸商品の市場価格が市場価値と一致して、それより上がることによっても下がることによっても市場価値からかたよらないためには、いろいろな売り手が互いに加え合う圧力が十分に大きくて、社会的欲望の要求する商品量、すなわち社会が市場価値を支払うことのできる商品を市場に出させることができるということが必要である。

 ここでマルクスは、「「社会的欲望」、すなわち需要の原則を規制するものは、根本的には、いろいろな階級の相互間の関係によって、またそれぞれの階級の経済的状態によって、したがってまた特に第一には労賃にたいする剰余価値全体の割合によって、第二は剰余価値が分かれていくいろいろな部分(利潤、利子、地代、租税など)の割合によって、制約されている。」と社会学的に説かれる「社会的欲望」という主観的概念を持ち出し、市場価値と市場価格の偏差的な関係性を説明しようとしている。これもまた理論的破綻をフォローする追加概念である。

もし市場価値が下がれば、平均的に社会的欲望(ここではつねに支払能力ある欲望のことである)は増大して、ある限界のなかではより大きな商品量を吸収することができる。もし市場価値が上がれば、その商品にたいする社会的欲望は小さくなって、よりわずかな商品量が吸収される。それゆえ、需要供給が市場価格を調整するとすれば、またはむしろ市場価値からの市場価格の偏差を調整するとすれば、他方では市場価値が需要供給関係を、または需要供給の変動が市場価格を振動させる中心を調整するのである。

 この説明になると、労働価値説を放棄して、際どく限界効用説と交錯するかのような様相を呈する。しかしここでマルクスは今一度原点に立ち返り、労働価値説からの独自の需要供給論を展開し直そうとするのだが、これは次回に回される。

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晩期資本論(連載第46回)

2015-06-01 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(5)

別々の部面にある同じ大きさの諸投資にとっては、たとえ生産される価値や剰余価値がいかに違っていようとも、費用価格は同じである。このように費用価格は同じだということが諸投資の競争の基礎をなすのであり、この競争によって平均利潤が形成される。

 利潤率は個別資本によって、また産業部門によって異なり得るが、そうした個別的利潤率に対して、マルクスは平均利潤率(一般的利潤率)なる概念を定立する。その前提として、「生産部面の違う生産物でも、その生産に同じ大きさの資本部分が前貸しされていれば、これらの資本の有機的構成がどんなに違っていようとも、それらの生産物の費用価格は同じである」という費用価格同等法則から、諸投資(諸資本)の競争の基礎となる平均利潤を導出する。

・・・各々生産部面の異なる資本家たちは、自分の商品を売ることによってその商品の生産に消費された資本価値を回収するのではあるが、彼らは、彼ら自身の部面でこれらの商品の生産にさいして生産された剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるのではなく、ただ、すべての生産部面をひっくるめて社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるだけである。

 この「社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」が平均利潤であり、さらに「均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」の比率が平均利潤率(一般的利潤率)である。より公式的には、一般的利潤率とは、資本が総体として年間に算出する総剰余価値を、総体として投資される総資本価値で割って得られる平均率とされる。

・・・・いろいろな部面の資本家たちは、利潤が問題となるかぎりでは、一つの株式会社の単なる株主のようなものであって、この会社では利潤の分けまえが100ずつにたいして均等に分配されるのであり、したがって、それぞれの資本家にとってこの分けまえが違ってくるのは、ただ、各人がこの総企業に投じた資本の大きさに応じて、つまり総企業への彼の参加の割合、彼の持ち株数に応じて、違ってくるだけである。

 ここで、マルクスは資本制企業総体を一個の会社に見立てて、平均利潤(率)の概念を説明しようとしている。別の箇所では、より縮約して「それぞれの特定資本はただ総資本の一片とみなされるべきであり、それぞれの資本家は事実上総企業の株主とみなされるべきであって、この株主は自分の資本持ち分の大きさに比例して総利潤に参加する」とも言い換えている。
 このようにマルクスの「総利潤理論」は資本主義を総体的に把握・分析するには適しているが、無数の個別資本が錯綜する巨大なシステムと化した晩期資本主義の現状では、いささか木目の粗い視座となっている。現代では、この理論は「各生産部面の資本は、それぞれの大きさに比例して、社会的総資本によって労働者から搾り取られる総剰余価値の分けまえにあずからなければならない」という、より政治的に言い換えられた「総搾取」の理論に置換されて理解されるべきかもしれない。

与えられた労働搾取度のもとでは、今では、ある一つの特定生産部面で生産される剰余価値の量は、直接にそれぞれの特定生産部門のなかの資本家にとってよりも、社会的資本の総平均利潤にとってのほうが、したがって資本家階級一般にとってのほうが、より重要なのである。

 個々の資本制企業や業界での剰余価値量は、個々の企業や業界にとってよりも、資本家階級一般にとっての利害関係となるというわけである。ここで、マルクスは平均利潤の概念を通じて、明らかに階級闘争の背後にあるものを提示しようとしている。ところが―

いまや特定の諸生産部面のなかでの利潤と剰余価値とのあいだの―単に利潤率と剰余価値率とのあいだだけのではなく―現実の量的相違は、ここで自分を欺くことに特別な関心をもっている資本家にとってだけでなく、労働者にとっても、利潤の本性と源泉とをすっかり覆い隠してしまう。

 特定の生産部門での剰余価値量は平均利潤の規制に共同規定的に関与するが、その関与は個々の資本家の背後で進行するため、資本家の目には見えない。そればかりか、労働者の目にも見えない。その理論的な理由として、マルクスは「価値が生産価格に転化すれば、価値規定そのものの基礎は目に見えなくなってしまう」ことを指摘する。

いろいろな生産部面のいろいろな利潤率が平均されてこの平均がいろいろな生産部面の費用価格に加えられることによって成立する価格、これが生産価格である。

 すなわち、「商品の生産価格は、商品の費用価格・プラス・一般的利潤率にしたがって百分比的に費用価格に付け加えられる利潤、言い換えれば、商品の費用価格・プラス・平均利潤に等しい」。
 マルクスによれば、このように費用価格(c+v)の付加価値たる生産価格こそが商品生産物の現実の価格の基準となるのであるが、これによって生産物の等労働量交換を軸とする価値法則が隠蔽されてしまうことが説かれている。マルクスは、この生産価格論をさらに現実的・動態的な市場価値論を通じて練り上げていくが、これについては次回に回される。

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晩期資本論(連載第45回)

2015-05-19 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(4)

・・・原料は不変資本の主要な一部をなしている。本来の原料がはいらない産業部門でさえも、原料は補助材料や機械の成分などとしてはいるのであり、したがって原料の価格変動はそれだけ利潤率の影響を及ぼすのである。

 利潤率は固定的なものでなく、変動的な指標であるが、利潤率の変動の大きな要因となるのが、原料の価格変動である。なお、「ここでは原料のうちには補助材料、たとえばインディゴとか石炭とかガスなどのようなものも含まれる」。現代では石油が加わる。また「機械の製造においても充用においても主要な要素である鉄や石炭や木材などの自然の富は、ここでは資本の自然発生的な豊饒性として現われているのであって、それは労賃の高低にはかかわりなく利潤率を規定する一要素だということである」。

・・・他の事情が変わらなければ、利潤率は原料の価格とは反対の方向に上下する。

 つまり、原料価格が上がれば利潤率は低下し、原料価格が下がれば利潤率は向上する。これは経験的にも理解しやすい法則であろう。「このことからとりわけ明らかになるのは、原料価格の変動が生産物の販売部門の変化を少しも伴わない場合でも、したがって需給関係はまったく無視しても、工業国にとっては原料価格の低いことがどんなに重要であるかということである。さらに明らかになるのは、対外貿易は、それが必要生活手段を安くすることによって労賃に及ぼす影響はまったく無視しても、利潤率に影響を及ぼすということである」。

それだから、原料関税の廃止や軽減は工業にとって大きな重要性をもっているということがわかる。それゆえ、原料ができるだけ自由にはいってくるようにすることは、すでに、より合理的に展開された保護関税制度の主旨でもあったのである。

 国際貿易が最高度に発達している晩期資本主義では税込みでの国際的な原料価格が利潤率に及ぼす影響は極めて大きく、自由貿易の究極は個別の貿易産品の関税廃止を越えた原料関税の廃止である。

資本主義的生産が発展していればいるほど、したがって不変資本中の機械から成っている部分を急激に持続的に増加させる手段が大きければ大きいほど、また蓄積が(ことに繁栄期に見られるように)急激であればあるほど、それだけ機械やその他の固定資本の相対的な過剰生産は大きく、それだけ植物性および動物性の原料の相対的な過少生産は頻繁であり、それだけこれらの原料価格の・・・騰貴もそれに対応する反動もはっきりしてくる。したがってまた、再生産過程の主要な要素の一つであるこうした激しい価格変動を原因とする激しい動揺も、それだけますます頻繁になるのである。

 植物性や動物性のような有機的原料の生産は資本主義先進諸国では機械等の固定資本部分の生産に比して相対的過少生産となるため、有機的原料への需要が供給を上回り、原料価格の騰貴をもたらしやすい。

原料が騰貴する時期には産業資本家は結束して連合体をつくって生産を調整しようとする。・・・・・・・・しかし、直接の刺激が過ぎ去って、「いちばん安い市場で買う」・・・・・という競争の一般原理が再び至上的に支配するようになれば、供給の調整は再び「価格」にまかされる。

 原料価格騰貴による利潤率の低下を食い止めるため、産業資本家は価格カルテルを結んで競争状態を一時停止するが、それが過ぎれば、再び競争状態に戻っていく。マルクスは続けて「原料生産の共同的・干渉的・予測的な統制―このような統制は概して資本主義的生産の諸法則と全然両立しないものであり、したがってまたつねに空しい願望にとどまるか、または大きな直接的危機と困惑の瞬間に例外的にとられる共同的処置に限られる」とも指摘するが、裏を返せば、「原料生産の共同的・干渉的・予測的な統制」は共産主義的生産体制では通常的なこととなるであろう。

労働の搾取率が同じだと前提すれば、・・・・・・・・・・利潤率はつぎのようなことによって非常に違うことがありうる。すなわち、原料が安いかあまり安くないないか、その買い付けについて専門知識が多いか少ないかによって、また充用される機械が生産的・合目的的かつ安価であるかどうかによって、また生産過程のいろいろな段階の設備全体が完全であるかあまり完全でないか、材料の浪費が排除されているかどうか、指揮監督が簡素かつ有効であるかどうか、等々によって、利潤率は非常に違ってくるのである。

 原料価格以外にも、こうした高度の経営判断を要する諸要因の総合作用により、利潤率は変動してくる。「要するに、一定の可変資本についての剰余価値は与えられていても、この同じ剰余価値がより大きい利潤率で表わされるか、より小さい利潤率で表わされるか、したがってそれがより大きい利潤量を与えるか、より小さい利潤量を与えるかは、資本家自身なり彼の管理補助者や支配人なりの個人的な事業手腕によって非常に左右されるのである」。そのため、現代の資本制企業では、純粋の資本家ではなく、MBAなど経営管理の専門職をトップに起用することが慣習化している。

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晩期資本論(連載第44回)

2015-05-18 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(3)

・・・・労働日の延長は、超過労働時間が支払われている場合にも、またある限界までは、超過労働時間が標準労働時間より高く支払われる場合でさえも、利潤を高くするのである。それゆえ、近代的な産業体制では固定資本をふやす必要がますます大きくなるということは、利潤をむさぼる資本家にとっては労働日の延長への主要な刺激だったのである。

 利潤率を高める最も単純な手っ取り早い方法は、労働時間の延長、言い換えれば絶対的剰余価値の増大である。この理は晩期資本主義でも変わらないがゆえに、資本家は労働時間規制の緩和を追求し続ける。

剰余価値が与えられていれば、利潤率を高くするためには、商品生産に必要な不変資本の価値の減少によるほかはない。

 絶対的剰余価値の増大にはしかし、自ずと限界がある。そこで、剰余価値がある一定とすれば、不変資本の価値を節約することが、利潤率の上昇につながる。利潤率は剰余価値mを不変資本cと可変資本vの総和で割った商であったから、仮にc=0であれば、利潤率は飛躍的に上昇することはみやすい道理である。
 このような不変資本の節約の仕方としては、不変資本を生産する労働の節約による方法と、不変資本の充用そのものの節約による方法とがある。すなわち―

一つの資本がそれ自身の生産部門で行なう節約は、さしあたり直接には、労働の節約、すなわちそれ自身の労働者の支払労働の縮減である。これに反して、前に述べた節約(不変資本の充用そのものの節約)は、このような他人の不払い労働のできるかぎりの取得を、できるかぎり経済的な仕方で、すなわち与えられた生産規模の上でできるだけわずかな費用で、実行することである。

 マルクスは、このうち後者の不変資本の充用そのものの節約について、「大規模生産が資本主義的形態ではじめて発展するように、一方では狂暴な利潤欲が、他方では商品のできるだけ安い生産を強制する競争が、このような不変資本充用上の節約を資本主義的生産様式に特有なものとして現われさせ、したがって資本家の機能として現われさせるのである。」と指摘して、これに特に焦点を当て、その複数の方法を個別に検討している。実際、資本制企業が成功する秘訣は、この方法による節約をいかに効果的に組み合わせて高い利潤率を確保するかにかかっていると言ってよい。

資本主義的生産様式は、矛盾をはらむ対立的なその性質によって、労働者の生命や健康の浪費を、彼の生存条件の圧し下げを、不変資本充用上の節約に数え、したがってまた利潤率を高くするための手段のうちに数えるところまで行くのである。

 不変資本充用上の節約の第一の方法は、「労働者を犠牲にしての労働条件の節約」である。マルクスは「およそ資本主義的生産は、ありとあらゆるけち臭さにもかかわらず、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」と断じている。
 ただ、現代の資本主義先進国では、労働安全基準法の規制によりこうした節約は一応禁止されているが、しばしば違反事例が発覚する。日本のアスベスト問題なども、政府の不作為も絡んだこの種の深刻な一例である。また労働ストレスや過労死もこうした「人間材料の浪費」の結果であり、「それ(資本主義的生産)は、ほかのどんな生産様式に比べてもはるかにそれ以上に、人間の浪費者、生きている労働の浪費者であり、肉や血の浪費者であるだけではなく、神経や脳の浪費者でもある」。

・・・ここですぐにさらに思いださなければならないのは、機械の不断の改良から生ずる節約である。

 不変資本充用上の第二の節約法として、技術革新による固定資本の低廉化が挙げられる。マルクスは「発動、伝導、建物の節約」という節題のもと、ある工場監督官の報告を引用して叙述に代えているが、資本にとってはこの方法が最も真っ当な節約方法の一つである。
 ちなみに、マルクスは最後に四つ目の節約法として「発明による節約」を挙げているが、発明は技術革新の契機となる精神的な所産であるから、技術革新に絡めてとらえてもよいであろう。ただ、ここでの節約は「およそ新たな発明にもとづく事業を経営するための費用は、後にその廃墟の上にその遺骨から起こされる事業の場合に比べればずっと大きい」という後発利用者の節約利益という形で現れる。
 そのため、「最初の企業家たちはたいてい破産してしまって、あとから現われて建物や機械などをもっと安く手に入れる企業家たちがはじめて栄えるということにもなる」が、そうした事態を防ぐため、現代では特許制度が確立され、発明企業家が特許利益を確保できるようにされているわけである。

資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費の排泄物の利用範囲が拡張される。

 マルクスはこのような生産・消費の過程で出される廃物を「生産上の排泄物」と呼び、「生産上の排泄物、いわゆる廃物が同じ産業部門なり別の産業部門なりの新たな生産要素に再転化するということ」を不変資本充用上の節約の三番目に挙げている。
 大量生産・大量消費の晩期資本主義では、「このいわゆる排泄物が生産としたがってまた消費―生産的または個人的―の循環のなかに投げ返される過程」すなわちリサイクルが、「環境保護」の体裁の下に一個の産業分野として確立、拡大されている。これもまた人間材料の浪費と並ぶ物質材料の莫大な浪費を通じた、利潤率上昇のための一つの節約法なのである。

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晩期資本論(連載第43回)

2015-05-06 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(2)

資本家が商品を生産するのは、その商品そのもののためでもなければ、その商品の使用価値またはこの使用価値の個人的な消費のためでもない。資本家にとって実際に問題になる生産物は、手でつかめる生産物そのものではなく、生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分である。

 消費者向けの様々なキャッチフレーズにもかかわらず、資本主義的生産の目的が「生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分」、すなわち利潤の獲得にあるという資本主義的真実を赤裸々・簡明に語っている。

資本家はただ不変資本を前貸しすることによってのみ労働を搾取することができるのだから、また彼はただ可変資本を前貸しすることによってのみ不変資本を増殖することができるのだから、彼にとってこれらのことは観念のなかではみな同じことになってしまうのであり、しかも、彼の利得の現実の度合いは可変資本に対する割合によってではなく総資本にたいする割合によって、剰余価値率によってではなく利潤率によって規定されており、この利潤率はあとで見るようにそれ自身は同じままでもいろいろに違った剰余価値率を表わすことができるのだから、ますますそうなるのである。

 剰余価値の可変資本に対する割合を示す剰余価値率は労働の搾取度を表わす指標として、第一巻ですでに登場した。この指標は労働者が自身の搾取されている割合を知るうえでは有益であるが、専ら利得に関心を持つ資本家にとっては重要な指標ではない。かれらにとって重要なのは、ここで示された剰余価値の総資本に対する割合、すなわち利潤率である。記号で表わせば、剰余価値率は剰余価値mを可変資本vで割った商であるが、利潤率はmを不変資本cと可変資本vの総和たる総資本Cで割った商である(従って、当然にも利潤率は剰余価値率より小さい数値で表わされる)。

剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点となるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである。

 剰余価値率は言わば経済原論的な一つの理論的指標であるが、利潤率のほうは経営学的な実際的指標と言える。歴史的にも、資本主義は利潤率の向上を目指す資本家の「経営努力」の歴史であったし、現在でもそうである。

・・・・利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤は剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉もその存在の秘密もおおい隠され消し去られているのである。じっさい、利潤は剰余価値の現象形態であって、剰余価値は分析によってはじめて利潤からむきだされなければならないのである。剰余価値にあっては、資本と労働の関係はむきだしになっている。

 さしあたり原理上剰余価値mと利潤pは等価的なものと措定されていたが、剰余価値を資本家の視点から利潤と把握し直すことによって、搾取的な剰余労働の存在が隠蔽されることが指摘されている。剰余価値とは利潤の「正体」であり、そこでは資本と労働の対立関係が明るみに出される。そのことから、剰余価値はある種政治学的な概念となるのである。

・・・・・・・利潤率の上昇が剰余価値率の低下または上昇に対応し、利潤率の低下が剰余価値率の上昇または低下に対応し、利潤率の不変が剰余価値率の上昇または低下に対応することがありうるのである。同様に利潤率の上昇や低下や不変が剰余価値率の不変に対応することもありうる・・・・・・・。

 上述のとおり、数的には別ものである利潤率と剰余価値率の関係性について、マルクスは数式例をあげて縷々検討しているが、そうした数学的操作はここでは割愛する。とにかく、利潤率の上下変動と剰余価値率の上下変動とは対応関係にあるわけでなく、様々な組み合わせがあり得るということである。 結局のところ、「利潤率は二つの主要要因、剰余価値率と資本の価値構成とによって規定される」。ここで資本の価値構成とは、併せて費用価格を構成するところの不変資本と可変資本の構成比のことである。

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晩期資本論(連載第42回)

2015-05-05 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(1)

 今回以降の参照箇所は「資本主義的生産の総過程」と題された『資本論』第三巻であるが、本巻も第二巻と同様、マルクスの遺稿を盟友エンゲルスが整理編集して公刊されたものである。
 この巻の目的は、マルクス自身の紹介によれば、「全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述すること」である。すなわち、「現実に運動している諸資本は具体的な諸形態で相対しているのであって、この具体的な形態にとっては直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿もただ特殊な諸契機として現われるにすぎないのである。だから、われわれがこの第三巻で展開するような資本のいろいろな姿は、社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現われるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいていくのである」。
 つまり、第一巻で扱った個別資本の生産過程、続く第二巻で見た総資本の流通過程を経て、最終第三巻では諸資本の競争を通して剰余価値が利潤へ転化していく動態的な過程が考察されることになる。平たく言えば、資本制企業が総体として日々精進している「金儲け」の仕組みの考察である。

商品の価値のうち、消費された生産手段の価格と充用された労働力の価格とを補填する(この)部分は、ただ、その商品が資本家自身に費やさせたものを補填するだけであって、したがって資本家にとって商品の費用価格をなすものである。

 第三巻のキータームは「利潤」であるが、その前提として「費用価格」が説明される。商品の価値(W)とは、不変資本(c)と可変資本(v)、剰余価値(m)の総和で表わされるが、このW=c+v+mの定式のうち、mを控除したc+vがここで言う費用価格(k)である。簡単に言えば、コストに当たる部分である。これは、生産要素に支出された資本価値、すなわち前貸資本の補填分である。

まず第一に剰余価値は、商品の価値のうちの、商品の費用価格を越える超過分である。しかし、費用価格は支出された資本の価値に等しく、またこの資本の素材的諸要素に絶えず再転化させられるのだから、この価格超過分は、商品の生産中に支出されて商品の流通によって帰ってくる資本の価値増加分である。

 上記定式中、剰余価値mは費用価格k=c+vを越えた超過分として表わされるが、「資本家にとっては、この価値増加分は資本によって行なわれる生産過程から生ずるということ、したがってそれは資本そのものから生ずるということは、明らかである。なぜならば、それは生産過程の後では存在するが、生産過程の前には存在しなかったからである」。これが簡単に言えば、「儲け」に当たる部分である。

このような、前貸総資本の所産と観念されたものとして、剰余価値は、利潤という転化形態を受け取る。そこにおいて、ある価値額が資本であるのは、それが利潤を生むために投ぜられるからだ、ということになり、あるいはまた、利潤が出てくるのは、ある価値額が資本として充用されるからだ、ということになる。利潤をPと名づければ、定式W=c+v+m=k+mは定式W=k+pすなわち商品価値費用価格利潤に転化する。

 こうして、資本価値と剰余価値の総和で表わされた商品価値の定式は、費用価格と利潤という二つの要素の総和に変換できるわけだが、それは言い換えれば、「一方の極で労働力の価格が労賃という転化形態で現われるので、反対の極で剰余価値が利潤という転化形態で現われるのである。」ということになる。

・・・・商品が価値どおりに売れれば、ある利潤が実現されるのであって、その利潤は、商品の価値のうち費用価格を越える超過分に等しく、したがって、商品価値に含まれている剰余価値全体に等しいである。しかし、資本家は、商品をその価値より安く売っても、それで利潤をあげることができる。商品の販売価格がその費用価格より高いかぎり、たとえその価値より安くても、商品に含まれている剰余価値の一部分はつねに実現されるのである、つまり、つねに利潤が得られるのである。

 後半部分が、いわゆる安売りで利益を上げる秘訣となる。ということは、費用価格を可能な限り圧縮することが必須であり、わけても費用価格を構成する可変資本、すなわち労賃相当分を圧縮することである、安売りは低賃金労働に支えられるゆえんである。

これによって明らかにされるのは、ただ単に日常見られる競争の諸現象、たとえばある種の場合の安売り(underselling)とか一定の産業部門での商品価格の異常な低さなどだけではない。これまで経済学によって理解されなかった資本主義的競争の原則、すなわち一般的利潤率やそれによって規定されるいわゆる生産価格を規制する法則は、もっとあとで見るように、このような商品の価値と費用価格との差にもとづいているのである、また、この差から生ずるところの、利潤を得ながら商品をその価値よりも安く売る可能性にもとづいているのである。

 ここでマルクス理論による経済分析のキーワードとなる「利潤率」の概念が先取りされているが、これは商品価値と費用価格との差に着目した理論―言わば差額理論―を前提としている。このような理論は今日でも理解されているとは言えず、いわゆる「マルクス経済学」の退潮に伴い、主流的な経済学からはほぼ無視されるに至っているのが現状である。

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晩期資本論(連載第41回)

2015-04-23 | 〆晩期資本論

九 資本の再生産(3)

・・・・・・単純再生産の場合にも、そこでは言葉の本来の意味での蓄積すなわち拡大された規模での再生産は排除されているとはいえ、貨幣の積立てまたは貨幣蓄蔵は必然的に含まれているということである。そして、これは毎年新たに繰り返されるのだから、これによって、資本主義的生産を考察するときに出発点となる前提、すなわち、再生産の始まるときに商品転換に対応する量の貨幣手段が資本家階級ⅠとⅡの手中にあるという前提は、説明がつくわけである。

 現実の資本主義生産体制は理論モデル的な単純再生産ではなく、拡大再生産によって存続しているわけだが、単純再生産にあっても、貨幣の積立てにより手元資金が維持されていなければ持続しない。単純再生産と拡大再生産とをつなぐものが、貨幣蓄蔵である。個別資本が利益の内部留保に精を出すゆえんである。

・・・現実の蓄積、生産の拡大が行なわれるようになるまでには、もっとずっと長い期間にわたる剰余価値の貨幣への転化とこの貨幣の積立てとが必要だということもありうる。

 個別資本における蓄積のメカニズムは第一巻で扱われたが、「個別資本の場合に現われることは、年間総再生産でも現われざるをえないのであって、それは、ちょうど、われわれが単純再生産の考察で見たように、個別資本の場合にその消費された固定成分が積立金として次々に沈殿していくということが年間の社会的再生産でも現われるのと同様である」。

 マルクスが例として掲げる最も初歩的な再生産表式は次のとおりである(貨幣単位は省略)。

A 単純再生産の出発表式
Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000
Ⅱ 2000c+500v+500m=3000
:合計=9000

B 拡大再生産の出発表式
Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000
Ⅱ 1500c+750v+750m=3000
:合計=9000

 ここで問題とするのはB表式であるが、仮に部門Ⅰの剰余価値の半分500mが蓄積に回るとすると、単純再生産法則Ⅰ(v+m)=Ⅱcに従い、上例どおり(1000v+500m)Ⅰ=1500(v+m)=1500Ⅱcとなる。
 さらに蓄積された500mのうち、400が不変資本に、残り100は可変資本に転化すると仮定すると、Ⅰの表式は次のように変化する。

Ⅰ (4000+400)c+(1000+100)v+(1000-500)m=6000

 次いで部門Ⅱでは、蓄積の目的で部門Ⅰから100Ⅰm(生産手段)を購入し、貨幣100を支払う。この代金100はⅠの表式で可変資本vに追加され、上記表式が4400c+1100(1000+100)vに変化する。
 他方、部門Ⅱの側では部門Ⅰから購入した生産手段により不変資本に100が追加されるが、これを処理するのに必要な新たな労働力の買い入れに50vを投入する。この不変・可変資本の増量分合計150はⅡの剰余価値から支出される。すると、上記Ⅱの表式は次のように変化する。

Ⅱ (1500+100)c+(750+50)v+(750-150)m=3000

 この新たな基礎のうえで現実の生産活動が行なわれるとすると、次年度末には次のようになる。

Ⅰ´ 4400c+1100v+1100m=6600
Ⅱ´ 1600c+800v+800m=3200
:合計=9800

 こうして初年度9000の社会的総生産が9800に増大した。マルクスは爾後、5年間に均等な率で拡大再生産が繰り返されて、最終的に総生産合計14348にまで達する過程を詳しく記述しているが、ここでは割愛する。

 さらに進んで、マルクスは資本主義的生産が発展し、可変資本と不変資本の割合が1:5に高度化した場合を想定して検討を加えてもいるが、いずれにしろ、マルクスの数式では生産手段生産部門である部門Ⅰを基軸とし、大規模な蓄積を実現するⅠが消費手段生産部門である部門Ⅱの蓄積の帰趨を決定付けるという構造が前提となっている。
 しかし大量消費社会である現代資本主義では部門Ⅱの領域が拡大し、部門Ⅱの蓄積動向が経済成長の指標となるような構造に変化しており、マルクスとは逆にⅡを基軸とする新たな修正表式が必要かもしれない。

☆中括☆
以上、七乃至九では、『資本論』第二巻を構成する第一篇「資本の諸変態とその循環」、第二篇「資本の回転」、第三篇「社会的総資本の再生産と流通」に各々沿って、個別資本及び社会的総資本の流通過程を見たが、再生産表式論で知られる本巻は『資本論』全巻中で最も経済原論的な性格が強い難解な巻であり、その晩期資本主義に即した読解は容易でなく、本連載でも十分には展開できなかった。

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晩期資本論(連載第40回)

2015-04-22 | 〆晩期資本論

九 資本の再生産(2)

 再生産表式論を展開するに当たり、マルクスはまず「与えられた価値の社会的資本は、今年も去年と同じに再び同じ量の商品価値を供給し同じ量の必要を満たす」という想定の単純再生産を例に取る。しかしマルクス自身断っているとおり、「一方では、蓄積または拡大された規模での再生産がまったく行なわれないということは資本主義的基礎の上では奇妙な仮定であり、他方では、生産がそのもとで行なわれる諸関係がどの年にも絶対に変わらないというようなことはない」。
 とはいえ、「蓄積が行なわれるかぎりでは、単純再生産ははつねにその一部分をなしており、したがってそれ自体として考察されることができるのであり、蓄積の現実の要因なのである。」として、単純再生産の事例を原理的なモデルケースとして、考察が進められる。その際、以下の「三つの大きな支点」が検討される(以下、部門Ⅰ、Ⅱの意味は前回記事を参照)。

両部門間の転換 Ⅰ(v+m)=Ⅱc

 簡単に言えば、部門Ⅰの資本家が、その生産物のv部分を成す労賃を労働者に支払い、Ⅰの労働者はそれでもって部門Ⅱの資本家から消費手段を購入する。部門Ⅱの資本家はその対価で部門Ⅰの資本家から同額価値相当の生産手段を購入する。これにより、部門Ⅰの資本家のもとに最初に支出したvが還流してくるので、結果として、Ⅰのv+mはⅡのcと等価である。
 この理は、単純再生産にあっては当該年度に消費された生産手段はその生産手段で生産された年間生産物で補填されていかねばならないという一般法則に帰着するが、拡大再生産を軸とする資本主義体制では本来想定できないことである。

部門Ⅱのなかでの転換 必要生活手段と奢侈手段 

 Ⅱ(v+m)の帰趨の件である。簡単に言えば、部門Ⅱの資本家がその労働者に労賃として支払うvで労働者はⅡの生産物である消費手段(必要生活手段)を購入する。言わば、労働者による自身の生産物の買戻しである。結果、vがⅡの資本家に還流する。
 ここで、Ⅱmの部分の帰趨も問題となるが、マルクスはこの部分をⅡの資本家自身による奢侈消費手段に消費されると想定することで、解決している。しかし、晩期資本主義では一定貯蓄を持つ労働者も奢侈傾向を帯びており―その限りで、マルクスが部門Ⅱに設けた必要生活手段と奢侈手段の亜部門の差は相対化されている―、労働者にも一定還流していると言えるだろう。このことは、mを生み出しているところの搾取に対する労働者の意識を鈍らす要因となっている。

部門Ⅰの不変資本

 「不変資本Ⅰは、製鉄所にいくら、炭鉱にいくらというようにさまざまな生産手段生産部門に投下されているさまざまな資本群の一団として存在する」。そして、部門Ⅰの内部で流通する。これはある意味堂々巡りの流通である。「資本家階級Ⅰは、生産手段を生産する資本家の全体を包括している。」とも言われるように、部門Ⅰはいわゆる基幹産業部門でもあり、資本主義体制下でもこの部門が一部国有化されることがある。
 「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとしても、明らかに部門Ⅰのこれらの生産物はこの部門のいろいろな生産部門のあいだに、再生産のために、同様に絶えず再び生産手段として分配され、一部分は、直接に、自分が生産物として出てきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門のいろいろな生産場所のあいだに絶えず行ったり来たりが行なわれることになるであろう」。こうして、部門Ⅰは資本主義・共産主義両様式に共通する再生産構造を持っている。

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晩期資本論(連載第39回)

2015-04-21 | 〆晩期資本論

九 資本の再生産(1)

資本の再生産過程は、この(資本の)直接的な生産過程とともに本来の流通過程の両段階をも包含している。すなわち、周期的な過程━一定の周期で絶えず新たに繰り返される過程━として資本の回転を形成する総循環を包括している。

 『資本論』第二巻の最後は、資本の再生産の構造論で締めくくられる。復習すると、再生産が包含する「資本の直接的な生産過程は、資本の労働・価値増殖過程であって、この過程の結果は商品生産物であり、その決定的な動機は剰余価値の生産である」。

社会的総資本の運動は、それの独立化された諸断片の諸運動の総体すなわち個別的諸資本の諸回転の総体から成っている。個々の商品の変態が商品世界の諸変態の列━商品流通━の一環であるように、個別資本の変態、その回転は、社会的資本の循環のなかの一環なのである。

 マルクスがここで分析しようとしているのは、個別資本の再生産過程ではなく、個別資本の総計としての社会的総資本の再生産と流通過程である。ここから、マルクスは古典派経済学が一蹴したケネーの経済表にヒントを得た独自の再生産表式を導く。

・・・・・この社会的資本の一年間の機能をその結果において考察するならば、すなわち、社会が一年間に供給する商品生産物を考察するならば、社会的資本の再生産過程はどのように行なわれるのか、どんな性格がこの再生産過程を個別資本の再生産過程から区別するのか、そしてどんな性格がこれらの両方に共通なのか、が明らかになるにちがいない。

 言い換えれば、「生産中に消費される資本はどのようにしてその価値を年間生産物によって補填されるか、また、この補填の運動は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費とどのようにからみ合っているか」ということが、再生産表式の問題提起となる。

社会の総生産物は、したがってまた総生産も、次のような二つの大きな部門に分かれる。
Ⅰ 生産手段。生産的消費にはいるよりほかはないかまたは少なくともはいることのできる形態をもっている諸商品
Ⅱ 消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費にはいる形態をもっている諸商品。
これらの部門のそれぞれのなかで、それに属するいろいろな生産部門の全体が単一の大きな生産部門をなしている。すなわち、一方は生産手段の生産部門を、他方は消費手段の生産部門をなしている。

 ここで、マルクスは再生産表式分析の基本視座となる産業構成の二大部門を提示している。この視座は、資本主義のみならず、共産主義を含むあらゆる生産様式について妥当する普遍性を持つ。

それぞれの部門で資本は次の二つの成分に分かれる。
(1)可変資本。これは、価値から見れば、この生産部門で充用される社会的労働力の価値に等しく、したがってそれに支払われる労賃の総額に等しい。素材から見れば、それは、活動している労働力そのものから成っている。すなわち、この資本価値によって動かされる生きている労働力から成っている。
(2)不変資本。すなわち、生産部門での生産に充用されるいっさいの生産手段の価値。この生産手段は、さらにまた、固定資本、すなわち機械や工具や建物や役畜などと、流動不変資本、すなわち原料や補助材料や半製品などのような生産材料とに分かれる。

 可変資本と不変資本の区別は、以前の復習である。「つまり、各個の商品の価値と同じに、各部門の年間総生産物の価値もc(不変資本)+v(可変資本)+m(剰余価値)に分かれるのである」。再生産表式論とは、煎じ詰めれば上記二大産業部門間でのc、v、m三要素のインプットとアウトプットの法則を構造的に明らかにすることである。

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晩期資本論(連載第38回)

2015-04-08 | 〆晩期資本論

八 資本の回転(3)

商品から貨幣への、また貨幣から商品への、資本の形態変化は、同時に資本家の取引であり、売買行為である。資本のこの形態転化が行なわれる期間は、主観的には、すなわち資本家の立場からは、販売期間と購買期間、すなわち彼が市場で売り手または買い手として機能する期間である。

 資本の回転の第三の要素、流通期間は資本家にとってはまさに商売の最前線であって、「資本家として、すなわち人格化された資本として機能する期間の必要な一部分をなしている」。これなくして資本の回転はない。

商品売買が資本家たちの手の中で占める範囲の大きさはもちろん、このような価値を創造するのでなくてただ価値の形態変換を媒介するだけの労働を、価値を創造する労働に転化させることはできない。

 生産物の売買は生産そのものとは異なり、価値創造的な労働ではなく、媒介労働にすぎない。とはいえ、こうした媒介労働の担当者の労働は、純粋な流通費を成している。その担当者が二時間余計に剰余労働したとしても、それは価値を生み出さない空費である。

ところが、もし資本家がこの担当者を使用するとすれば、この二時間の不払い(剰余労働)によって、彼の資本の流通費、すなわち彼の収入からの控除となる流通費は、減少する。彼にとってはこれは積極的な利得である。

 営業担当者の剰余労働は剰余価値を生まないが、流通費節約の効果はあり、資本家にとってはそれを積極的利得とみることはできる。とするならば、こうした節約による「積極的な利得」を、ある種の消極的な剰余価値とみなすことはできるかもしれない。

現実の売買でのほかに労働時間は簿記にも支出され、この簿記にはまたそのほかに対象化された労働、すなわちペンやインクや紙や机や事務所費がはいってくる。つまり、この機能には一方では労働力が支出され、他方では労働手段が支出される。この場合も事情は売買期間の場合とまったく同じである。

 マルクスは生産過程が社会的な規模で行なわれるにつれて必要となる簿記に着目し、不生産的な純粋流通費の二つ目に簿記費用を挙げている。マルクスは、簿記は「共同体的生産では資本主義的生産でよりももっと必要になる。しかし、簿記の費用は、生産の集積につれて、また簿記が社会的な簿記に転化すればするほど、減ってくるのである。」とも述べ、共産主義的生産過程における簿記の社会化と費用削減というメリットを強調する。逆に言えば、資本主義は簿記費用の増大という無駄を抱えていることになる。

金銀は、貨幣商品としては、社会にとって、ただ生産の社会的形態から生ずるにすぎない流通費をなしている。それは商品生産一般の空費〔faux frais〕であって、この空費は、商品生産の、また特に資本主義的生産の発展につれて増大するのである。それは、社会的な富のうちの流通過程にささげられなければならない一部分である。

 資本の回転を通じ、資本の一部が常に貨幣資本形態で存在するのが資本主義の特徴であり、それゆえに貨幣の取り扱いをめぐる諸費用も、不生産的な純粋流通費を成す。現代では電子マネー化などの技術的方法で費用節減を図っているが、根本的な対策ではない。逆に言えば、共産主義ではこうした貨幣関連流通費の無駄も省かれるであろう。

(以上のような純粋流通費に対して、保管費や運輸費のような)流通費は生産過程から生じうるものであって、ただこの生産過程が流通のなかでのみ続行され、したがってその生産的な性格が流通形態によっておおい隠されているだけである。他面では、それは、社会的に見れば、単なる費用であり、生きている労働なり対象化されている労働なりの不生産的な支出だと言えるのであるが、しかし、まさにそうであることによって、個別資本家にとっては価値形成的に作用することができ、彼の商品の販売価格への付加分をなすことができるのである。

 商品の保管・輸送などの諸費用は、「生産過程そのものから生じうる」というのはいささか言い過ぎとしても、生産過程の延長であって、価値創造的であるから、商品価格に転嫁されることで個別資本家にとっては致富源泉ともなるのである。もちろん、これらの諸費用も節減が目指され、運輸業や倉庫業などの商業部門が発達してきたところである。

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晩期資本論(連載第37回)

2015-04-07 | 〆晩期資本論

八 資本の回転(2)

前回見た資本の回転期間は、労働期間・生産期間・流通期間の三つの構成部分から成る。細かい議論ではあるが、資本の回転数を上げる回転期間の短縮がいかに行なわれるかをみる上で参考になるので、ここで取り上げる。

われわれが労働日というときには、労働者が自分の労働力を毎日支出しなければならない労働時間、すなわち彼が毎日労働しなければならない労働時間の長さを意味する。これにたいして労働期間という場合には、一定の事業部門で一つの完成生産物を供給するために必要な相関連する労働日の数を意味する。

 労働日の概念は第一巻でしばしば出てきたが、新たに登場した労働期間は言わば労働日の集積である。例えば10人の労働者が週5日8時間ずつ労働すれば、労働期間は5日、労働日(総労働時間)は400時間となる。労働者数が不変の場合、労働時間を短縮すれば、労働期間は長くなり、資本の回転数は減少する。

個々の労働日の生産物を増大させる諸事情、すなわち協業や分業、機械の充用は、同時にまた、関連する生産行為の労働期間を短縮する。

 一般に、機械化―さらには電子化―は、労働時間の短縮と労働期間の短縮を両立させる。すなわち、「労働期間を短縮し、したがってまた流動資本が前貸しされていなければならない期間を短縮する諸改良は、たいていは固定資本の投下の増大と結びついている」。

労働期間がかなり長い大規模な事業の遂行がはじめて完全に資本主義的生産のものになるのは、資本の集積がすでに非常に大きくなっており、他方では、信用制度の発達が資本家に提供する便利な手段によって、自分の資本の代わりに他人の資本を前貸しし、したがってまたそれを危険にさらすことができるようになっているときである。

 大規模事業は機械化してもなお相当の労働期間を要するため、資本主義が未発達な段階では資本主義的には運営できない。そのため、多くの未開発諸国でいわゆる基幹産業が国有化されてきた。しかし、資本主義的経済成長に伴い、資本の集積と信用制度の発達が実現すれば、大規模事業を資本主義的に民営化することが可能となってくる。現代の資本主義先進国・新興国では、こうした「民営化」がモードとなっているゆえんである。

労働期間はつねに生産期間である。すなわち、資本が生産部門に拘束されている期間である。とはいえ、逆に、資本が生産過程にあるすべての期間が必ず労働期間であるとはかぎらない。

 資本の回転を構成する第二の要素、生産期間とは第一の労働期間に労働休止期間を加えたものである。先の例で言えば、週5日の労働期間に週休2日を加えた7日が生産期間となる。生産期間の短縮も資本の回転数を上げる秘訣である。
 労働休止期間は、機械などの固定資本が遊休を強いられ、資本家にとってはいまいましい限りだが、このような「労働力そのものの自然的制約によって引き起こされる労働過程の中断」は、今日では労働基準法のような法令によっても強制される。そこで、再びこうした法的制限を緩和しようとする逆行が起きているわけである。
 これに対し、マルクスが第二巻で特に議論の対象としているのは、「労働過程の長さにはかかわりのない、生産物とその生産の性質そのものによって引き起こされる中断」である。その例は専ら自然の生物を栽培する農業などの第一次産業である。これは作物の生育季節や成熟期間など自然界の法則がもたらす中断であるが、現代資本主義は遺伝子組み換えや工場栽培などの科学技術を駆使して、環境や健康を犠牲にしてでもこうした限界を乗り越えようとしているところである。

・・・資本の回転時期は資本の生産期間と流通期間の合計に等しい。それゆえ、流通期間の長さの相違は回転期間を相違させ、したがってまた回転周期の長さを相違させることは自明である。

 資本の回転の第三の要素、流通期間は、第二の生産期間と通算されて、最終的に資本の回転期間を構成する。この流通期間もさらに「販売期間、すなわち資本が商品資本の状態にある期間」と、「購買期間、すなわち資本が貨幣形態から生産資本の諸要素に再転化する期間」とから成る。中でも販売期間の短縮が資本の回転数を早める秘訣となる。現代資本主義では高速交通機関及び情報通信技術の発達がそれを可能としているが、それらの発達を促進したのも、販売期間短縮へのあくなき欲求だったとも言える。

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晩期資本論(連載第36回)

2015-04-06 | 〆晩期資本論

八 資本の回転(1)

一人の個別資本家がある任意の生産部門で投じた総資本価値がその運動の循環を描き終われば、それは再びその最初の形態に帰っていて、そこからまた同じ過程を繰り返すことができる。この価値が資本価値として永久化され増殖されるためには、その過程を繰り返さなければならない。この一回の循環は、資本の生涯のなかで、絶えず繰り返される一節、すなわち一周期をなしているだけである。

 このような資本の周期的な循環をマルクスは「資本の回転」と呼び、資本の流通過程を解析する第二巻における重要な課題としている。

・・・与えられた一資本の総流通期間は、その資本の流通期間と生産期間の合計に等しい。それは、一定の形態で資本価値が前貸しされる瞬間から、過程を進行する資本価値が同じ形態で帰ってくるまでの期間である。

 「資本主義的生産の規定的な目的は、つねに前貸資本の増殖であ」るからして、資本の回転期間とは、「資本の生活過程における周期性を、または、こう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている」。

一つの個別資本のために回転期間を速めたり縮めたりするかもしれない個人的な冒険を別とすれば、諸資本の回転期間は、それらの投下部面が違うにしたがって違っている。
一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。

 資本の回転数は回転期間の単位一年(12か月)を個別資本の回転期間で割った商で表わされるから、回転数は回転期間に反比例することになる。ということは、回転期間が短いほど回転数は上がり、剰余価値生産の効率は高まる。「資本家にとって、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である」から、資本家は回転期間の短縮のために奮闘し、時に「個別資本のために回転期間を速めたり縮めたりするかもしれない個人的な冒険」も犯すのである。

労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分はつねにそれに固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本にたいして、流動資本を形成するのである。

 マルクスは資本の回転に影響を及ぼす二つの資本形態として、固定資本と流動資本を区別する。固定資本の典型例は、作業用建物や機械などの労働手段となる生産財である。一方で、原財料のようにそれが機能している間、固有の独立的な使用形態を保持しない生産財は、流動資本である。ただし、この区別は労働過程における機能によって定まるので、例えば家畜を労役に用いる場合は固定資本だが、畜産の素材とする場合は流動資本となるというように、同じ物がどちらにもなり得る。
 マルクスはこの二つの資本形態について学説史にも視野を広げて縷々分析をしているが、ここでは晩期資本論を論ずるに際して必須の議論ではないので、割愛する。

・・・資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も各個の投資における産業資本の生命も、多年にわたるものに、たとえば平均して一〇年というようなものになるのである。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によって、この生命が短縮されるのである。

 マルクスは、資本の回転周期を支配するのは固定資本の回転であるとみている。そのうえで、マルクスは大工業の平均的な生命循環を10年と推定しているが、現代資本主義では生産手段の技術的変革、特に情報技術の変革・更新の速さからみて、産業の生命循環速度は5年あるいはもっと短縮されているだろう。その結果、資本の回転期間は高速化し、剰余価値の生産効率が高まっている。

このような、連続的な、いくつもの回転を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、こうした循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的な基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の活況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。

 マルクスはこのように固定資本の回転が恐慌を破局的頂点とする景気循環の物質的基礎になるとみていたが、そうだとすれば、日進月歩の技術革新により回転期間が高速化した現代資本主義ではそれに伴う景気循環の周期も早まっていることになる。

・・・とはいえ、恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなしている。したがって、また―社会全体としてみれば―多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである。

 景気循環のサイクルの中で繰り返し現われる恐慌(あるいはそれに匹敵する大不況)は、資本主義の終焉契機となるのではなく、むしろ次の新投資のスタート地点である。言い換えれば、資本主義は恐慌―それに伴う生活破壊―を踏み台にしてリセットされていくまさに恐るべき経済システムである。

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