ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第10回)

2017-08-21 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

フランス―革命と奴隷制
 フランスにおける最初の奴隷制廃止は14世紀、時のルイ10世の勅令に遡る。そこでは、すべての人間は自由人として生まれると宣言し、フランス王国内での奴隷制の廃止を規定している。
 これは啓蒙思想が現れる数百年も以前における開明的な施策として注目すべきものがある。とはいえ、この勅令は主として農奴制の改革を念頭に置いたもので、その後、帝国化していったフランスの海外植民地やフランスも当事者として関わった奴隷貿易には適用されなかったのである。
 奴隷貿易時代のフランス奴隷制度はルイ14世時代の黒人法によって容認されていた。黒人法は黒人奴隷に対する虐待を禁止するなどある程度「人道的」な規制を伴っていたが、奴隷主の懲罰権や人種間結婚の禁止などを含む差別的な立法であった。
 ただ、フランスでは先のルイ10世勅令の影響も残り、奴隷制の運用は寛容で、個別的な解放奴隷も多かったうえ、人種間結婚の禁止も厳守されなかったため、特にカリブ海の西インド諸島植民地では混血系のムラートが中間層として形成された。
 啓蒙の時代になると、フランスでも奴隷制廃止論が盛んとなり、1788年には英国のトマス・クラークソンの助言の下、初の奴隷制廃止運動団体として「黒人の友協会」が設立された。翌年の革命の後、92年には有色自由人へのフランス市民権の付与を経て、94年に第一共和政ロベスピエール政権下で奴隷制廃止が決定、翌年の憲法にも盛り込まれた。
 このような急展開の背景には、91年、カリブ海の代表的なフランス植民地サン‐ドマング(後のハイチ)における奴隷反乱が影響していた。この反乱は後にハイチの独立という成果に結びつくが、これについては次回改めて見ることにする。
 さて、年代だけを取ると、フランスでの奴隷制廃止は英国より40年近く先駆けたまさに革命的な出来事であったが、ロベスピエールらジャコバン派の失墜とナポレオンの登場によるフランス革命の反動的終息が逆行的な経過をもたらす。
 第一統領に就任したナポレオンは西インド諸島マルティニーク島出身の妻ジョゼフィーヌの一族もそうであった旧奴隷主の支持層からの圧力を受け、1802年、奴隷制の復活を決断したのである。この反動政策への反発は、04年のハイチ独立革命を呼び起こした。
 結局、フランスで最終的に奴隷制が廃止されるのは、ナポレオンの失墜と1830年の七月革命をまたぎ、さらに1848年の二月革命による第二共和政の樹立を待たなければならなかった。

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奴隷の世界歴史(連載第9回)

2017-08-16 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

英国の奴隷制廃止立法
 英国議会における奴隷制廃止立法の動きは、ウィリアム・ウィルバーフォース議員を中心に18世紀末から開始されるが、当初は困難を極めた。奴隷所有者も多く参加していた当時の英国議会では、言わば「奴隷既得権」の壁は厚かったのである。
 1791年における最初の廃止法案は大差で否決された。ウィルバーフォースはその後も粘り強く活動を続けるも、18世紀中に実現することはなかった。転機は19世紀に入ってからである。まずは奴隷制そのものではなく、奴隷貿易の禁止に重点を置く戦術にあえて後退させたことが突破口となり、1807年に奴隷貿易廃止法が成立する。
 この法律により、英帝国全域での奴隷貿易は違法化されたとはいえ、妥協策であるため、違反への罰則は軽く、闇の奴隷貿易は横行し続けるなど、「ザル法」の嫌いは否めなかった。それでも、1808年以降、王室管理地となったシエラレオーネは奴隷貿易取締りの拠点となり、取締り艦隊の摘発により、多くの奴隷が解放されるなど、相応の効果も上げたことは事実である。
 しかし、これは始まりに過ぎず、ウィルバーフォースら奴隷制度廃止派の最終目標は当然ながら奴隷制度そのものの廃止にあった。運動を強化すべく、1823年には従前の奴隷制廃止促進協会が反奴隷制協会に再編された。
 その結果、1824年には07年法の罰則強化が実現し、1833年、ついに奴隷制廃止法が成立した。このような急展開の背景には、1830年、長く野党だった改革主義的なホイッグ党が政権を獲得したことが大きく関わっていたと考えられる。
 もっとも、この33年法は当初、「年季奉公」という形態の抜け道を残していたほか、東インド会社所有領を適用除外としていたが、これらの抜け道も1843年までには順次撤廃された。
 ただ、妥協策として旧奴隷主に対する補償を伴う有償廃止の方式が採られた結果、英国政府は総額で2000万ポンドの補償金を支払うことになった。その一方で、解放奴隷たちは全く補償されることがなかったのである。
 こうした非対称な解決法の道義的・政策的な是非はともかく、議会での討議を通じ、奴隷制廃止を実現させた英国の先例は歴史上も画期的だったと評してよいであろう。以後、英国は39年に反奴隷制協会から英国及び海外反奴隷制協会に再編された国際的な奴隷制廃止運動の拠点となる。

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奴隷の世界歴史(連載第8回)

2017-08-15 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

英国の奴隷制廃止運動
 英国で奴隷制廃止運動の先鞭をつけたのは、17世紀に創設された非英国国教会系のキリスト教宗派クエーカー教徒たちであった。かれらが奴隷制廃止に目覚めたのは、元来クエーカー教では平等主義の教義が強かったためと考えられる。
 これに触発される形で、英国キリスト教主流派である国教会側でも改革的な福音主義の立場から奴隷制廃止に賛同する潮流が生じ、両者が合流する形で、1787年に奴隷貿易廃止促進協会(以下、協会と略す)が設立された。以後、協会が奴隷制廃止運動のセンター機能を果たしていくことになる。
 協会設立の原動力となったのは、当時まだ20代のトマス・クラークソンであった。そのきっかけはケンブリッジ大学の学生時代、ラテン語の論文コンクールで「奴隷制」のテーマを与えられて奴隷制について詳細な研究をしたことにあった。
 彼の論文は賞を取り、英語にも訳されて多方面で反響を呼んだ。協会の設立もその延長上にあり、生涯を奴隷制廃止運動に捧げたクラークソンは おそらく歴史上最初の職業的な人権活動家であったかもしれない。
 クラークソンが協会の理論的支柱だったとすれば、英国議会側で実務を担ったのがウィリアム・ウィルバーフォースであった。クラークソンと同じケンブリッジ大学卒業生であった彼は以後、英国における奴隷制廃止立法の中心人物となる。
 協会はまた、解放奴隷オラウダ・エキアーノの奴隷体験を綴って反響を呼んだ自伝の出版と販売促進にも努めた。エキアーノ自身も奴隷制廃止運動に参加し、ゾング号虐殺事件をはじめとする奴隷貿易に関する詳細な情報提供者の役割を果たしたのである。 
 協会の活動は単に奴隷制に反対するばかりでなく、解放奴隷をかれらの先祖の地であるアフリカ大陸へ帰還させる派生的な運動を生んだ。その中心となったのは、クラークソンらよりも一足早く奴隷支援の活動を始めていた聖書学者グランヴィル・シャープである。
 彼はアフリカのシエラレオーネ半島に解放奴隷の入植地を創設する計画の中心人物となり、それを実現する植民組織として、シエラレオ-ネ会社を設立した。最初の植民地は彼の名にちなみ、グランヴィルタウン(現フリータウン)と命名された。
 これが現在は独立国家となったシエラレオーネの発祥であるが、初期の植民活動は地元部族との確執や伝染病などから困難を極め、失敗を重ねた。結局、シエラレオーネは王室管理地から英国植民地となり、入植者の子孫たちは現地部族と混血して、支配力を拡大していく。
 一方、英国本国では、19世紀に入ると、ウィルバーフォースの尽力もあり、議会で段階的に奴隷制廃止立法が進んでいくが、これについてはまた稿を改めて見ていくことにする。

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奴隷の世界歴史(連載第7回)

2017-08-14 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制廃止の萌芽
 奴隷制度は人間を人間に恒常的に隷従させる制度であるが、古代ローマや中世イスラーム世界の奴隷は主人によって個別的に解放されることもあった。このような個別的奴隷解放は、制度としての奴隷制廃止とは明確に区別された奴隷制度の運用上の柔軟化にすぎない。
 また、国内(及び植民地の一部)を中心とした限定的な奴隷制廃止は、フランスでは中世の14世紀、ポルトガルでも18世紀後半には実現しているが、これらは両国も参加していた大西洋奴隷貿易には適用されなかった。
 現代では―少なくとも法的な建て前としては―、奴隷制度が全世界的に禁止されていることは第一章で見たが、そこに至るまでには、まさに歴史的な長年月を要した。そうした国境を越えた奴隷制廃止への最初のステップとなったのは、奴隷貿易の中心にあった英国における奴隷制廃止運動であった。
 その小さなきっかけは18世紀後半、ジェームズ・サマーセットなる一人の逃亡黒人奴隷をめぐる訴訟である。逃亡したサマーセットを拉致した主人に対し、サマーセットの支援者らが人身保護を申し立てた事件で、裁判所は史上初めて奴隷の解放を命じた。
 当時の英国には奴隷所有に係る法は存在しなかったが、法の不存在ゆえに英国内で奴隷は存在し得ないという形式論理でサマーセットの解放を導いたこの判決は、裁判所の判例を優先法源とみなす判例法主義の英国ならではの歴史的転換をもたらした。
 この事件の10年ほど後には、奴隷運搬船が航海中に奴隷130人以上を海に遺棄した事件(ゾング号虐殺事件)で、奴隷の喪失は保険金支払の対象になるかという争点に関し、裁判所は奴隷は家畜同様の所有物であるゆえに保険会社は損害保険金を支払う義務があると判決した。
 サマーセット事件と同じ裁判長が関わったこの判例は、奴隷を家畜並みに所有権の対象としつつ、その棄損を保険金でカバーできるという不当なものであったが、後に奴隷制を法律をもって廃止する際に、奴隷所有主らに補償金を支払う妥協的な有償廃止方式―そうしなければ、議会を通過しなかっただろう―に影響した可能性がある。
 いずれにせよ、「法の支配」の祖国たる英国では、司法の力により、奴隷制廃止の最初の一歩が踏み出されたことは注目に値する。とはいえ、その第一歩も反奴隷制の思想に目覚めた先駆的な人々の尽力なくしてあり得なかったことも事実であるが、これについては稿を改める。

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奴隷の世界歴史(連載第6回)

2017-08-08 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷制

隷属的外国人労働
 児童労働が主として後発国における現代型奴隷制だとすれば、外国人労働は主として先発国または資源国に遍在する現代型奴隷制である。
 一般国民の生活水準が一定以上に発達した諸国では、一般国民が敬遠するようになった低賃金の単純労働・底辺労働の担い手不足が深刻化するため、外国人労働力にそれらを依存するようになる。これが外国人労働の慣習を生み出す共通根である。
 外国人労働はいちおう契約によって成立するとはいえ、しばしば契約内容が不当であり、隷属的な地位に置かれることが多い。中でも、中東産油諸国で一般化している外国人家政婦労働ではしばしば主人による種々の虐待や秘密裏の転売すら行われ、外国人家政婦の家事奴隷化が指摘されている。
 これら中東産油国の中には、人口構成上外国人のほうが国民より多い例すらあり、それら外国人のすべてが奴隷状態に置かれているわけではないとしても、国民としての権利の保障が受けられないまま、従属民化されている。
 他方、先発国向けでは、不法就労と人身売買とが結びつき、組織犯罪集団の資金源となっている疑いが指摘される。中には到着次第、旅券などの必要書類を取り上げたうえ、拘束的環境で強制労働させるような形態もあるとされる。それとも関連して、外国人を性労働者として海外で働かせる性的奴隷慣習と結びついた形態も少なくない。
 ちなみに近年、アフリカから欧州への移民を目指す人々の中継地となっているリビアで移民を拘束し、奴隷として売買する奴隷市場が形成されていることが報告されている。こうした闇の奴隷市場が確立されれば、まさに復刻奴隷制となる。 
 移民受け入れ政策を公式に打ち出している諸国にあっては、外国人労働者はいずれ移民として定住していくため、合法的外国人労働者にも相応の権利保障がなされるとはいえ、永住権を取得するまではしばしば不当な労働条件を強いられ、永住後も低所得層に押し込められることが多い。
 その点、移民政策を採らない日本では1990年代から「外国人技能実習制度」として、外国人労働者を技能実習名目で正規に受け入れる制度を導入してきたが、この制度は実態として、外国人労働者を「実習生」とすることで、労働基準法を脱法し、外国人に隷属的労働を強いる手段の温床とされてきた。
 国際社会では1990年に「国連移住労働者権利条約」を採択し、その中で移住労働者を奴隷状態に置くことを禁止している。しかし、同条約を批准しているのは労働者送り出し国を中心としたわずか50か国弱にすぎず、日本やアメリカその他の受け入れ国側はほとんどが未批准の状態で放置しており、条約体制として全く不備な状況にある。
 外国人労働は、奴隷制が原則的に禁止された現代にあって、奴隷制を補填する手段として、ある意味ではまさに現代型奴隷制の典型なのかもしれない。

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奴隷の世界歴史(連載第5回)

2017-08-07 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷制 

児童奴隷慣習の遍在
 低年齢の子どもを使役する児童労働は、主として後発国・開発途上国を中心に世界的になお遍在する労働形態である。ほとんどの場合、児童労働者は無賃ないし低賃金で使役され、その労働環境も隷従的であるため、実態としては現代型奴隷制の一種に数えてよいものである。
 国際労働機関(ILO)によると、こうした児童労働者は減少傾向ながら、なお世界に1億7000万人近くいるとされるが、あくまでも推計にすぎず、潜在的にはより多数に上るだろう。その多くは農業を中心とする第一次産業に家族労働力として狩り出されているもので、こうした場合は必ずしも奴隷とは言い難いケースもあろう。
 しかし、児童労働の一部は前回見た性的奴隷慣習とも重なり、先発国のツアー客を見込んだ少女・少年買春に使役されているケースもある。また多国籍資本が工場を展開するアジア諸国などで、児童が下請け労働に動員されているケースもあり、先発国も決して児童労働と無関係なのではない。
 こうした児童労働が特に多いのは東南アジアや南アジア、アフリカ等の貧困層を多く抱える諸国で、それら諸国では児童の親も貧困ゆえにやむを得ず子どもを児童労働に供さざるを得ない事情もあり、構造的貧困とも関わる深い問題である。
 一方、児童労働の特殊なケースとして、少年兵士の問題がある。これは低年齢の児童を徴用して兵士として前線に出すもので、アフリカや中東の紛争地域で武装勢力や時に政府軍によっても実施されている。少年兵士の多くは誘拐・拉致され、洗脳訓練されたうえ、成人兵士が躊躇するような残虐な殺戮作戦に動員される。
 国連児童基金(UNICEF)によると、こうした少年兵士は世界で25万人と推計されている。かれらは紛争が終結し、解放されても、心身の成長を阻害するトラウマに苦しみ、社会参加に困難が伴うため、充実した再教育のプログラムを必要としている。
 国際社会は、このような児童労働に関しても、つとに1989年の「国連児童の権利条約」をベースに、2002年の「武力紛争における児童の関与に関する選択議定書」及び「児童の売買、児童買春及び児童ポルノに関する選択議定書」を通じて、児童労働を禁ずる国際的な法体制を整備してきたが、根本にある貧困問題―そのさらなる基底にある資本主義―を解決しなければ真の解決にはつながらない。

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奴隷の世界歴史(連載第4回)

2017-08-02 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷制

性的奴隷慣習の遍在
 旧奴隷制では、奴隷に家事や何らかの生産労働を強制することが目的であったが、現代型奴隷制の中心を成すのは、性的サービスをさせるために人間を隷従させる性的奴隷慣習である。
 こうした性奴隷制にも商業的な性サービスを提供させる商業性奴隷と戦時に兵士の性的欲求を充たすための性サービスを提供させる戦時性奴隷の二種があるが、圧倒的なウェートを占めているのは前者の商業性奴隷である。性的サービスもある主の「労働」だが、商業性奴隷はサービス産業が経済の中心となってきた現代資本主義社会の特徴に沿っている。
 そのため、こうした商業性奴隷は途上国のみならず、称先進国にも及び、世界に遍在しており、闇の人身売買市場で中心的な「商品」となっている。商業性奴隷の大半は男性客向けの少女を含む女性であるが、一部に同性愛サービスのために少年男子が奴隷化される場合もある。
 もっとも、商業性奴隷の労働形態は曖昧化しており、有償の労働契約により任意性が担保されている場合もあるが、雇い主に借金を負っていたり、厳しいノルマを課せられたりしているならば、形式上の任意性にもかかわらず、その性労働者は奴隷に準じた状態に置かれていると言える。
 国際法上はつとに1949年の「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が存在しているが、取り締まりは行き届いておらず、冷戦終結後、女性の最低限度生活保障を担保していた社会主義体制が崩壊した旧東欧圏を中心に人身売買組織の暗躍が広がっていったと見られる。
 そのため、2000年には「国際組織犯罪防止条約」に付随して、これを補完する「人身取引議定書」が国連で採択され、加盟国に対し人身取引行為を犯罪化することを義務づけている。これは、上記49年条約のさらなる補完的意義を持つ条約とも言えるものである。
 これに対し、戦時性奴隷は性格を異にする。かつては公式の政府軍が設営する軍用慰安所制度が世界に遍在していたこともある。しばしば先鋭な論争の的となる旧日本軍によるものは、その一例にすぎない。このような制度は、公的に容認された性奴隷制とも言える公娼制度の軍事版として、すでに過去の遺制となっている。
 しかし、近年でも、中東やアフリカなどの内戦紛争地域で、戦闘員の性的欲求を充たすための奴隷として女性を集団的に拉致するような行為が見られる。前回見たISの復刻奴隷制もこうした戦時性奴隷の性格が濃厚である。
 これら現代の戦時性奴隷慣習は民間武装組織によるものであり、管理統制が利かなくなりやすい点で、旧軍用慰安所制度と比べてもいっそう人身への危険性の高いものである。 

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奴隷の世界歴史(連載第3回)

2017-08-01 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷制

残存奴隷制と復刻奴隷制
 第一章では、国際的な奴隷禁止ルールをかいくぐって伏在する現代型奴隷制について記述する予定であるが、その前に、現代にあって旧制的な奴隷慣習がなお続いている不幸な事例を紹介しなければならない。その一つは、西アフリカはモーリタニアの残存奴隷制である。
 モーリタニアとは、その国名に由来でもあるアラブ系と混血し、イスラーム化したモール人(アマジグ人)が社会の上層階級を占め、アフリカ黒人系の諸民族を従属化させてきた歴史的構造を持つ。まさにこの非対称な構造から、奴隷制が発生してきた。
 黒人系の多くは、かつてモール人が奴隷狩りによってサハラ以南から連行してきた住民の子孫と見られ、ハラティンと称されている。かれらはモール人の主人の間で売買や相続すらされ、無償で使役されるまさに旧時代的な奴隷そのものである。
 その歴史は古く、イスラーム到達以前から存在すると言われるが、アラブ人がイスラームを持ち込むと、イスラーム的な理念に基づく異教徒・戦争捕虜の奴隷が制度化され、定着されたと見られる。
 モーリタリア奴隷制はフランス植民地時代の20世紀初頭に禁じられ、独立後の政府も1981年には名目上奴隷制廃止を宣言し、1986年には前回見た「奴隷制度廃止補足条約」に加入したにもかかわらず、2007年に至るまで実質的には奴隷所有を禁じていなかった。
 その後も、政府の公式的な否定にもかかわらず、モーリタニアでは依然として人口の20パーセントから最大推計40パーセントもの国民が奴隷状態にあると見られている。国の歴史的根幹に関わる民族的階級構造が土台にあるだけに、容易に解決しない課題であるかもしれない。
 もう一つ、2014年にイラクとシリアにまたがって占領した地域でイスラームに基づくカリフ国家樹立宣言を行なった武装勢力イスラーム国(IS)による奴隷制復活宣言がある。この唐突かつ奇異な宣言は世界を驚愕させ、多くの非難を巻き起こしたが、イスラームの伝統的な奴隷制擁護論に基づくものと説明されていた。
 実際のところ、IS占領地域におけるこうした復刻奴隷制の実態はその閉鎖性による情報不足のため不詳であるが、体験者の証言などによれば、IS奴隷制は主として少数民族クルド人の一部に見られるヤジディ教徒を対象としたもので、同教徒の少女を含む女性を戦闘員に慰安婦的な存在として「配分」するというシステムであり、そのための人身売買市場すら構築されているという。
 これが実態とすれば、ISの復刻奴隷制はイスラーム的伝統である異教徒の奴隷化と現代型性奴隷―中でも戦時性奴隷―の新旧要素が複合されたシステムを成すように見える。そこで、次節では現代型奴隷制の代表格とも言える性的奴隷慣習について概観する。

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奴隷の世界歴史(連載第2回)

2017-07-25 | 〆奴隷の世界歴史

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷

奴隷禁止諸条約の建前
 現代において、奴隷という立場の人間は公式には存在しないことになっている。これは国際社会における共通ルールである。その最も根本規範となるのは、第二次世界大戦後に国際連盟を再構築した国際連合が1948年に採択した「世界人権宣言」の第四条に規定される次の簡潔な宣言文である。

何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。(日本外務省訳)

 次いで、1957年に発効したより具体的な「奴隷制度廃止補足条約」である。この条約は、戦前の国際連盟時代に締結されていた奴隷条約を継承しつつ、広い意味で奴隷の範疇に包摂し得る借金による債務奴隷や隷属的な農民の形態である農奴、少女の強制婚、児童労働者などを補足した新条約である。
 しかし、この条約自体、2016年時点で加盟国は123か国にとどまっている。不可解にも、後で述べるように奴隷慣習が残存するとされるアフリカのモーリタニアが加盟国であるのに対し、日本は条約発効から半世紀を経てもなお未加盟状態である。このように、奴隷禁止の共通法規範はいまだ全世界的に確立されたとは言えない状況にある。
 他方で、補足条約から約20年を経て1976年に発効した国際人権規約‐市民的及び政治的権利に関する国際規約では、その第八条に改めて奴隷禁止の根拠規定が置かれている。すなわち―(以下、日本外務省訳)

1 何人も、奴隷の状態に置かれない。あらゆる形態の奴隷制度及び奴隷取引は、禁止する。

2 何人も、隷属状態に置かれない。

3 (a) 何人も、強制労働に服することを要求されない。

 (b) (a)の規定は、犯罪に対する刑罰として強制労働を伴う拘禁刑を科することができる国において、権限のある裁判所による刑罰の言渡しにより強制労働をさせることを禁止するものと解してはならない。

 (c) この三(筆者注:第3項)の適用上、「強制労働」には、次のものを含まない。
  (i) 作業又は役務であって、(b)の規定において言及されておらず、かつ、裁判所の合法的な命令によって抑留されている者又はその抑留を条件付きで免除されている者に通常要求されるもの
  (ii) 軍事的性質の役務及び、良心的兵役拒否が認められている国においては、良心的兵役拒否者が法律によって要求される国民的役務
  (iii) 社会の存立又は福祉を脅かす緊急事態又は災害の場合に要求される役務
  (iv) 市民としての通常の義務とされる作業又は役務

 ただし、この規定は奴隷禁止の原則に対して、第三項で例外的に許容される「強制労働」の類型を除外する点に主旨があるようにも読め、特にc号にいう「軍事的性質の役務」や「社会の存立又は福祉を脅かす緊急事態・・・の場合」、「市民としての通常の義務とされる作業又は役務」といった文言を拡大解釈するなら、脱法的な形態の奴隷的強制労働が容認される恐れを内包している。
 なお、商品性を帯びた奴隷取引を抑止するための条約として、世界人権宣言採択の翌年1949年に国連が採択した「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」も、奴隷禁止の補充的な国際規範として重要である。
 かくして、現代世界は奴隷禁止という原則論に関しては、端的な国際法規範を備えるに至っていることはたしかであるが、それはなお不安定で、脱法の危機にさらされていることが今後、本章で明かされる。

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奴隷の世界歴史(連載第1回)

2017-07-24 | 〆奴隷の世界歴史

序説

 先行連載『女の世界歴史』『農民の世界歴史』『不具者の世界歴史』に続く四部作最終連載として、『奴隷の世界歴史』をここに開始する。本連載では、すでに過去の悪制とみなされている奴隷制をめぐる世界の歴史を鳥瞰する。
 奴隷とは、人格としての権利と自由をもたず、主人の支配下で強制・無償労働を行い、また商品として売買、譲渡の対象とされる「もの言う道具」としての人間(ブリタニカ国際百科事典)と定義される。
 商品性はともかく、一般に他者を隷従させ、一定の目的のために使役するという習性を持つ生物は極めて少なく、人間以外で知られているものは、アリのような社会性昆虫類の一部のみである。人間に近い類人猿でも、奴隷慣習を持つ種は知られておらず、ヒトは進化の過程で類縁種とは全く異なる昆虫的習性を身につけたことになる。
 一方で、歴史の進歩の過程では、奴隷制度への反対と奴隷解放という人道主義的な潮流も生じ、現代では、少なくとも公式的には―あくまでも―、奴隷制は否定・禁止されている。このように、他者の苦痛・苦難を慮り、共感するという人道的感覚は人間特有のものである。
 にもかかかわらず、第一章ですぐに見るように、現代においても、法規制をかいくぐる形で、種々の奴隷慣習―現代型奴隷制―が伏在している。奴隷制と人道主義との両義的な拮抗状態は現代でも続いていて、両義関係の両項がともに「人間的」な営為となっているのである。
 本連載は、通常の歴史的叙述とは異なり、現代から奴隷制が始まった古代へと遡る手法で記述される。それは、如上のとおり、奴隷制は決して過去の遺制ではなく、現代でも姿形を変えて続いている慣習だからである。そうした同時代史的な観点を浮き彫りにするためにも、あえて逆行的記述を試みたいのである。
 いずれにしても、本連載は四部作中でも最も重たく、辛い内容となるであろう。筆者自身の体調がすぐれない中で、完結させることができるかどうか確約はできないが、何とか最終章まで漕ぎ着け、四部作を完成させたいと思う。

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