ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第24回)

2017-10-18 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

アフリカ奴隷供給国家
 大西洋奴隷貿易が極めてシステマティックな国際貿易システムとして確立されるに当たっては、奴隷の主要な供給元となる西アフリカ沿岸部から安定的に奴隷が提供される必要があった。複数の地場黒人国家がそうした「奴隷供給国家」と呼ぶべき役割を果たしていた。
 これらの奴隷供給国家は西洋向け奴隷を提供するために戦時の伝統であった奴隷狩りを常態化し、奴隷貿易のシステムにおいては不可欠の当事者かつ共犯者の関係にあった。この事実は、旧奴隷貿易をめぐる現代の損害賠償請求に際しても黒人側を一方的な加害者として単純化できない困難を生じさせるであろう。
 最も早くに奴隷供給国家となった国の一つが、コンゴ王国である。同国は、14世紀末に建国されたが、15世紀末、西アフリカに進出してきたポルトガルと対等な国交を樹立した。以後、カトリックを受け入れ、国王もカトリック教徒となる。
 しかし、同時に財源をポルトガルとの奴隷貿易に置いたため、コンゴは初期大西洋奴隷貿易の拠点となる。特に、沖合いのポルトガル植民地サントメ島が奴隷商人の商業拠点かつ奴隷を使役したサトウキビやカカオのプランテーションとなった。
 結果として、奴隷商人の横暴やポルトガル人による王政干渉などの問題が相次ぎ、1526年、時の国王アフォンソ1世は奴隷貿易の制限を宣言するも、ポルトガルはこれを無視した。国王はローマ教皇に直訴する挙に出たが、教皇庁もポルトガルの奴隷貿易を容認しており、効果はなかった。
 ポルトガルによるコンゴ干渉はアフォンソ1世の没後、さらに強まり、事実上の属国化された。17世紀にはオランダに押されたポルトガルの後退を突いて中興を果たすも、再びポルトガルに攻め込まれ、同世紀後半から18世紀初めの内戦によって衰退していったのである。
 一方、コンゴより遅れて大西洋貿易最盛期に奴隷供給国家として繁栄したのが、現在のベナンに当たるダホメ王国である。同国は15世紀初頭に現在のナイジェリア南東部に建国されたオヨ王国の属国でありながら、独自に奴隷供給国家として国力を蓄えていった。
 ダホメは強力な王が支配する専制的軍事国家であり、奴隷貿易の見返りとして西洋から火器を輸入して、よく知られた女性軍団を含む強力な常備軍を結成し、地域の軍事大国に成長していった。そして、19世紀にはゲゾ王の下でオヨ王国からも独立し、最盛期を築いたのである。
 ゲゾ王は、欧州での奴隷廃止運動から奴隷貿易終焉を見越して、アブラヤシ栽培など奴隷貿易に代わる収益源にも手を広げたが、奴隷貿易終焉後の植民地化の潮流の中で、ダホメはフランスに侵攻され、二度の戦争に敗れ植民地化された。
 同様の運命は、他の奴隷供給国家にも降りかかった。いかに奴隷貿易を奇禍として繁栄したところで、奴隷の大量「輸出」による社会共同体の崩壊は、軍事力による植民地化という新たな西欧列強の国策の前には、無力をさらけ出したのであった。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第23回)

2017-10-17 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易:最盛期
 ポルトガルが先鞭をつけた大西洋奴隷貿易が最盛期を迎えるのは、16世紀末にポルトガルが台頭したスペインによって併合され後退した後の17世紀から18世紀にかけてのことである。
 スペインでは先住民奴隷が酷使や疫病により激減すると、補完として黒人奴隷を必要とするようになり、王室が商人集団に対して保証となる前金と引き換えに一定数の奴隷輸送販売の独占権を付与するという一種の請負契約(アシエント)の法的仕組みを整備して奴隷貿易を促進したのであった。
 ポルトガルの後退に付け込む形でオランダが割り込み、1637年、奴隷貿易の拠点であったエルミナ城をポルトガルから奪取し、17世紀前半までにギニア海岸を我が物とした。その後、ポルトガルは南下してアンゴラを征服するとともに、東アフリカ方面に侵出してモザンビークを植民地化し、新たな奴隷貿易拠点とした。
 イギリスは、初めロンドン商人を中心とする王立アフリカ会社が奴隷貿易を独占し、欧州とアフリカ西海岸とカリブ海域(西インド諸島)をつなぐいわゆる三角貿易の経済的な仕組みを最初に確立した。王立会社は独占批判を受け17世紀末に解散となったが、イギリスはスペイン王位継承戦争後の1731年ユトレヒト条約でスペインのアシエントを譲り受ける形で三角貿易を継続し、以後18世紀を通じて三角貿易の利益をほぼ独占した。
 この大西洋奴隷貿易は貿易船による奴隷の長距離輸送という過酷なプロセスを含む点で、イスラーム奴隷貿易にも見られない非人道的な性格を帯びていた。過密状態の輸送船内の環境は劣悪で、約5週間を要した航海中の死亡率は最大20パーセントに達したとされる。
 衰弱した奴隷は海中に遺棄されることもあった。そのことが保険金訴訟に発展したのが、ゾング号虐殺事件である。一方、奴隷船内で奴隷が反乱を起こすこともあったが、成功することはなく、残酷に制圧されるか、乗っ取りに成功しても漂流するだけであった。
 また、いったん奴隷として売却されれば後宮職員や側女、軍人としての立身もあり得たイスラーム奴隷とは異なり、大西洋奴隷貿易における黒人奴隷は、売却先でもプランテーション労働者として過酷な労働を強いられる運命にあった。
 ただし、場合によっては農場主の召使などの家内奴隷となり、主人の温情によって個別的に解放されることもあった。そうした解放奴隷が比較的多かったのが、後に独立するフランス植民地のサン‐ドマングや北アメリカであった。
 かくして初期から通算すれば3世紀に及んだ大西洋奴隷貿易によって輸送された黒人奴隷の総数については正確な記録もなく、論者によって様々な数字が提出されているが、最小推計でも1000万人、最大推計では5000万人に達するとされる。
 いずれにせよ、当時の人口規模では奴隷供給元となるアフリカの諸王国の存亡に関わる数字であり、実際、アフリカ社会は大西洋奴隷貿易の影響で衰退・崩壊していったのである。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第22回)

2017-10-16 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易:初期
 大西洋奴隷貿易は、西洋列強による大航海時代の開幕と密接に連関している。従ってまた、それは大航海にいち早く寄与したポルトガルによって始められる。このポルトガル主体の大西洋奴隷貿易の時代を、ここでは初期とみなすことにする。
 当時、地中海や紅海を舞台とする奴隷貿易は圧倒的にイスラーム圏の独断場であったため、西洋人による奴隷貿易はイスラーム勢力の手がまだ届いていなかったアフリカ大陸西海岸沿いが狙い目となった。ポルトガル人による最初の奴隷貿易の記録は1441年、現西サハラでの奴隷狩りによるものである。 
 もっとも、聖典で奴隷の存在を一定の条件下で許容するイスラーム教と異なり、キリスト教における奴隷の可否は聖書上不明であったところ、15世紀半ば、時のローマ教皇ニコラウス5世がポルトガルに対し、異教徒の奴隷化を認める勅許を下したことで、奴隷貿易には宗教上もゴーサインが出た。
 これに機に、奴隷貿易は1450年代を通じて活発化していき、西アフリカ沿岸地域が奴隷の供給元となる。この地域には、中小の黒人部族勢力が興亡し、相互に奴隷狩りを行なっていたが、ポルトガル人はこれら勢力と提携し、奴隷を常時購入するシステムを作り上げたのだった。
 ポルトガルは1482年、現ガーナにエルミナ城を築き、以後、ここが大西洋奴隷貿易の拠点となる。ポルトガルはアフリカ西海岸で獲得した奴隷を当時カリブ海域やブラジルの植民地で経営していた砂糖プランテーションの労働者として輸送したが、この大西洋をまたぐ奴隷貿易システムこそ、大西洋奴隷貿易の原型となる。
 ちなみに、ポルトガルとともに大航海時代を築いたスペインはアフリカに植民地を築けず、新大陸の植民地では現地先住民を奴隷化して労働力とするシステムを構築していたこともあり、スペインの大西洋奴隷貿易への参入は遅れることとなった。
 このポルトガルを主体とする初期奴隷貿易の裾野は戦国時代の日本にも、二つの方向から及んでいた。一つは黒人奴隷の持ち込みである。中でも最も著名な存在は、織田信長の家臣に取り立てられた黒人武士の通称弥助である。彼はイエズス会のイタリア人巡察師ヴァリニャーノが来日した際に同伴し、信長に譲った黒人奴隷で、出身はポルトガル領モザンビークと見られている。
 もう一つは、日本人の被奴隷化である。戦国武将たちが戦利品として敵方の領民を拉致する「人取り」の慣習によって獲得された人間をポルトガル商人に奴隷として売却することが行なわれていたのである。幸いにも、この「日本人奴隷貿易」は豊臣秀吉のバテレン追放令に付随して発せられた奴隷売買の禁止令と徳川幕府による「鎖国」政策のおかげで終息した。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第21回)

2017-10-03 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

イスラーム奴隷貿易:前期
 世界奴隷貿易の時代の幕開けを画したイスラーム奴隷貿易は、西欧列強による大西洋奴隷貿易が開始される以前と以後で大きく分けることができる。ここでは、そのうち大西洋奴隷貿易開始以前をイスラーム奴隷貿易の前期とみなすことにする。
 この時代は、イスラーム勢力が発祥地の中東のみならず、シチリア島やイベリア半島など南欧にまで拡大された8世紀に始まる。この時代、イスラーム勢力は地中海を支配したが、当時は地中海こそが文明世界をつなぐ最重要海路であったから、地中海をまたぐ交易が「世界貿易」であった。
 この貿易において、アラブ人が奴隷として取引したのは、アフリカ黒人以上に、スラブ系やコーカサス系、時にイングランド人やアイルランド人等にまで及ぶ白人や中央アジアのテュルク系の異教徒諸民族であった。
 しかも、初期の奴隷貿易、特にスラブ人奴隷の取引には北欧バイキングが一枚かんでいた。バイキングとイスラーム世界のつながりについては、スウェーデンのビルカのような北欧の交易都市遺跡から多くの証拠となる出土品が発見されており、自身も武装略奪商人であったバイキングが世界奴隷貿易の開始に果たした役割は小さくない。
 ちなみにバイキング自身も、略奪で獲得した男女をスレールと呼ばれる奴隷として使役していた。スレールは売買の対象となる最下層身分ながら、その待遇は比較的穏当で、独立世帯を有し、穀物や家畜を主人に上納する農奴的な性格も持っていた。
 イスラーム奴隷貿易で獲得された奴隷は、主にイスラーム諸王朝の後宮使用人や兵士として使役された。特にテュルク系の奴隷は兵士として重用され、解放されると軍人として立身し、後にはそうした解放奴隷軍人自身が王朝を樹立することさえあった。
 イスラーム奴隷貿易ではアフリカ黒人奴隷も取引の対象とされたが、その主要な供給地は東アフリカ沿岸であった。かれらはザンジュと呼ばれ、兵士や私的な家内奴隷として売られた。
 特にアッバース朝下のイラク南部では有力者に私領地で農業奴隷としてザンジュが使役される風潮があった。これは後に西欧列強がカリブ海地域などで営んだプランテーションに似ているが、奴隷の待遇は劣悪であったため、869年にはアラブ人革命家に煽動されたザンジュが蜂起し、勢力を挽回したアッバース朝軍により鎮圧されるまで、十年以上にわたり独自の革命政権を維持する事態となった。
 この「ザンジュ革命」は黒人奴隷による反乱・革命としては先駆的なものであったが、それが奴隷制廃止につながることはなく、東アフリカはその後、イスラーム奴隷貿易の後期には最重要の奴隷供給拠点として確立される。
 他方、西アフリカはサハラ砂漠を隊商で往来するサハラ交易ルートが確立されると、やはり黒人奴隷貿易の供給地となった。ここではイスラーム化したガーナ王国などの地場王朝が召使や兵士として自国民を奴隷として輸出するという協力関係が見られた。
 こうした前期イスラーム奴隷貿易は、イスラーム世界でテュルク系のオスマン帝国が強勢化し、西欧列強が大航海時代を迎える16世紀に転機を迎える。すなわち、奴隷貿易の主導権がアラブ人からトルコ人に移り、西欧列強というライバルが出現したのである。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第20回)

2017-10-02 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易
 前回まで奴隷制廃止への長い歴史を見たが、その前史として、人類は国境を越えた奴隷売買が世界経済システムの基盤を成すという異常の時代を経験している。物の売買が圧倒的な中心を占める現代の貿易常識では想像し難い人身売買に支えられた貿易システムが確立されていたのであった。
 それは通常、西欧列強を主体とする「大西洋奴隷貿易」の名で知られている。しかし、実際のところ、大西洋奴隷貿易の周縁には日本人をも含むアジア人奴隷の売買も包含されていたし、イスラーム世界では西欧列強に先立って、アラブ人を主体とする奴隷貿易システムが形成されていたのであり、それら全体を包括して、「世界奴隷貿易」と名付けることができる。
 こうした「世界奴隷貿易」の始まりをいつと捉えるかは難しい問題であるが、先鞭をつけたのは上述のとおり、アラブ人である。それはイスラームの創唱後、イスラーム勢力の拡大とともに中世に始まる。そうした初期のイスラーム世界における奴隷制については改めて次章で見るが、アラブ奴隷貿易が本格化したのは、大西洋奴隷貿易より700年ほども遡る。
 アラブ奴隷貿易はやがてオスマン帝国の台頭によって、オスマン帝国主導に置き換わり、20世紀初頭まで継続されていく。その全体を「イスラーム奴隷貿易」と呼ぶことができる。そうした意味で、奴隷貿易の禁止が初めて国際条約化された19世紀末までの世界奴隷貿易の歴史は、その大半を「イスラーム奴隷貿易」が占めていると言ってよい。
 より有名な西欧列強による「大西洋奴隷貿易」は「イスラーム奴隷貿易」に遅れて、かつ存続期間も限られた事象ではあったが、その貿易範囲の地理的広大さと後世に残した負の遺産の大きさに鑑みて、世界奴隷貿易の歴史的な象徴となっているのである。とはいえ、本章では「大西洋奴隷貿易」に限局することなく、「イスラーム奴隷貿易」を含めた「世界奴隷貿易」の時代の全体像を把握することに努める。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第19回)

2017-09-19 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

旧奴隷制損害賠償問題
 先に見たように、奴隷制禁止の条約化は20世紀半ば過ぎに一応完成を見たのではあるが、そこでも積み残された問題がある。それは過去の奴隷貿易・奴隷制による被害に対する損害賠償問題である。
 奴隷禁止条約は条約制定以後の奴隷制の存続・復活を禁止する将来効を有するけれども、過去の奴隷制に対する被害救済については埒外に置いている。条約は過去を不問に付しているわけではないとはいえ、被害救済が全く行なわれないことは不正義ではないかという疑義が生ずるのは必然である。
 こうした疑義は奴隷制廃止後の19世紀からくすぶっていたが、賠償請求運動として本格的に組織されたのは、公民権運動が一段落したアメリカで1987年に設立された「損害賠償のための全米黒人連盟(N’COBRA)」が最初と見られる。この団体は過去の奴隷制への損害賠償を集団的なアイデンティティを理由に迫害された人間の基本的人権として位置づけたのである。
 こうした運動を受けて、アメリカにおける黒人政治家の草分けでもあるジョン・コニャーズ連邦下院議員は1989年以来、アフリカ系アメリカ人に対する損害賠償に関する調査委員会設置法案を発議し続けているが、アメリカ史上初のアフリカ系バラク・オバマ大統領の誕生を経ても、なお採択には至っていない。
 一方、国際的な動向としては、15のカリブ海諸国/地域によって構成されるカリブ共同体(CARICOM)が、2013年にCARICOM損害賠償委員会(CRC)を発足させたことが注目される。CARICOM諸国/地域はいずれも英・仏・蘭の旧植民地にして大西洋奴隷貿易を通じた黒人奴隷の送り先でもあり、現在はその末裔が政治的にも多数派を占める諸国/地域が多い。 
 CRC設立を主導したのは、CARICOM加盟国の一つであるセントビンセント・グレナディーンの首相を2001年から務めるラルフ・ゴンサルべスである。ただし、彼自身は黒人奴隷の子孫ではなく、英国での奴隷制廃止後、ポルトガル領マデイラ島から年季労働者として送り込まれたポルトガル人の子孫である。
 CRCはCARICOM加盟諸国/地域が共同して、旧宗主国である英・仏・蘭に対し過去の奴隷制に対する損害賠償問題を提起することを目標として設立された公式機関であり、実際に国際司法裁判所に提訴することを模索している。
 こうした賠償請求は、何世紀以上も前の名も記録されていない奴隷に対する不法行為の立証、賠償金額の算定方法といった法技術的な難題とともに、請求を受ける旧宗主国側の体面上の拒否感やそれら諸国で多数派を占める白人勢力の反発も予想され、実現への壁はなお高い。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第18回)

2017-09-18 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制禁止の国際条約化
 欧米各国及びラテンアメリカ諸国における奴隷貿易・奴隷制廃止が一巡すると、国際社会において奴隷制禁止を条約化する動きが生じてくる。ようやく19世紀末のことである。
 その契機となったのは、1889年から90年にかけてベルギーのブリュッセルで開催された国際会議・ブリュッセル反奴隷制会議であった。この会議は、アフリカ奴隷貿易を公式に終焉させるための国際条約の締結交渉という明確な目的を帯びた実践的なものであった。
 この会議が生んだ歴史的な条約が「奴隷貿易並びにアフリカへの火器、弾薬及び酒精飲料の輸入に関する規約」(ブリュッセル会議条約)である。奴隷貿易と並べて火器等の輸入が規制されたのは、アフリカの地元王国が奴隷提供と引き換えに火器等を列強から輸入していたことに関わっている。
 この条約の締約国には、英・仏・独のほか、ポルトガル、スペイン、オランダ、ベルギー(王室私領地コンゴ自由国を含む)、オーストリア‐ハンガリー、スウェーデン‐ノルウェー、デンマーク、ロシア、アメリカという当時の欧米列強に、オスマントルコ、ザンジバル、ペルシャというイスラーム圏の強国も名を連ねており、国際連盟/連合のようなグローバル国際機関が創設される以前の時代にあっては、画期的な国際条約であった。
 とはいえ、この条約は執行のための措置も伴わず、強制労働、年季奉公といった形態の搾取を取り締まる規定も欠いた宣言条約の性格が強いものであったが、とりあえずイスラーム圏をも含む世界の帝国主義諸国が勢揃いして奴隷制禁止で基本合意に達したことの歴史的意義は大きい。
 この条約のグローバルな締結枠組みが、第一次世界大戦後、人類史上初となるグローバル国際機関・国際連盟の原型となったと言っても過言でない。実際、国際連盟は1926年、より実効性のある「奴隷貿易及び奴隷制禁圧規約」を締結したのである。
 さらに、国際連盟の姉妹機関として設立された国際労働機関が1930年に採択した「強制労働に関する条約」では、奴隷制以外の形態による強制労働を広く禁止することで、形を変えた奴隷制の存続を規制した。
 第二次世界大戦後の1956年、国際連盟の後継機関・国際連合は上記二つの条約の有効性を確認しつつ、より包括的な「奴隷制度、奴隷取引並びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する補足条約」(奴隷制度廃止補足条約)を採択した。これにより、奴隷制禁止の国際条約化は一応の完成を見たのである。
 しかし、この条約にも未批准の国連加盟国が70か国近く(日本もその一つ)残されており、また締約国にあっても形を変えた現代型奴隷制が残存していることは前章でも見たとおりであり、奴隷制廃止への歴史的道程はいまだ完了したとは言えない。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第17回)

2017-09-12 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

イスラーム奴隷制度の「廃止」
 19世紀を通じて欧米諸国―より広くはラテンアメリカも含めたキリスト教諸国―での奴隷貿易・奴隷制廃止が漸次進行していく一方で、イスラーム教諸国では、奴隷制度は根強く残存していた。
 聖典コーランが奴隷制度を容認している事情もあって、イスラーム圏では宗教的な観点からの奴隷制廃止運動は低調で、奴隷制廃止は近代化改革ないし革命の内圧によるか、西欧植民地支配や国際社会による外圧による場合にしか起こりにくい構造となっていたのである。 
 欧米諸国で奴隷制廃止が進展していた時代におけるイスラーム「諸国」は、ほぼオスマン帝国の版図に包含されていたから、この時代のイスラーム諸国≒オスマン帝国領であった。黒人のみならず、白人も対象としたオスマン帝国の体系的な奴隷制度及びその基底にある中世イスラーム奴隷制の概要は後に改めて見ることとするが、オスマン帝国社会、特に軍隊と宮廷は奴隷制度なくして成り立ち難い構造となっていた。
 とはいえ、オスマン帝国は19世紀後半期における欧化改革の中で、1882年の勅令をもって奴隷解放を宣言し、国際社会が初めて奴隷貿易の禁止を公式に協定した1890年のブリュッセル会議条約にも加盟したものの、結局、1922年の終焉まで奴隷慣習を完全に手放すことはできなかった。
 一方、オスマン帝国とともにイスラーム圏から同条約に署名した諸国の中で東アフリカのザンジバルは英国の保護領化された状況下で、1897年に奴隷制を廃止したのに対し、ペルシャ(イラン)は封建的なカージャール朝を転覆したパフラヴィ朝の近代化改革の一環として1929年に廃止した。
 しかしイスラーム圏全体で見ると、奴隷制廃止の進展は20世紀に入っても遅々として進まず、モロッコやスーダンなど西欧列強の植民地支配下で廃止された例が散見される程度である。特に湾岸諸国での奴隷制廃止は第二次大戦後まで持ち越される。代表的な事例を上げると、カタール(1952年)、サウジアラビア(1962年)、イエメン(1962年)、アラブ首長国連邦(1963年)、オマーン(1970年)などである。
 また前章で見た西アフリカのモーリタニアのように建て前上奴隷制を「廃止」しても社会構造上残存している事例や、内戦後リビアに出現した移民奴隷市場など、イスラーム圏には奴隷制の残存/復刻の危険性を孕む要素が潜在している。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第16回)

2017-09-11 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

「苦力」労働制への転換
 19世紀前半から欧米諸国での奴隷制度廃止の動向が広がるにつれ、奴隷労働力を補填する何かが必要とされるようになった。というのも、奴隷労働力が主に投入されていたプランテーションでの集約労働そのものの需要は何ら変わっていなかったからである。
 そこで新たに編み出されたのが、主として中国人やインド人のようなアジア系移住労働者を使役するシステムであった。かれらは奴隷そのものではなかったが、多くは騙されたり、拉致された末に過酷な労働に従事させられた者たちで、実質上は奴隷と同様であったから、「苦力」(クーリー)と称された。
 こうした奴隷⇒苦力への転換を象徴する人物として、ジョン・グラッドストンがいる。後の英国首相ウィリアム・グラッドストンの父でもある彼はカリブ海域で多くのプランテーションを経営する奴隷所有者であったが、1833年奴隷廃止法により奴隷を解放せざるを得なくなるや多額の補償金を得たうえ、いち早くインド人苦力に置き換えを図ったのである。
 こうした苦力労働者の徴用・輸出は専門のブローカー業者が差配し、組織的に行なわれたので、奴隷貿易とパラレルな関係において、苦力貿易のシステムがグローバルに構築された。このような労働システムを作り出したのも、奴隷制度廃止に大きく寄与した英国であった。
 最初の本格的な苦力船は1806年、中国人を乗せてカリブ海の英国植民地トリニダード(現トリニダードトバゴ)に向かった。これを皮切りに、世界の英国植民地に中国人苦力が送り込まれた。さらにアヘン戦争後の南京条約は中国人苦力の輸出に拍車をかけ、米国もこれに続いた。
 米国では、カリフォルニア州を中心に10万人を越す中国人苦力が送り込まれたと見られる。かれらは主に鉄道建設に投入され、特に米国産業革命の大動脈となる大陸横断鉄道の建設がその代表事例である。人道的批判を受けたカリフォリニア州は、1879年の州憲法で中国人苦力労働を「奴隷制の一形態」と認め、その恒久的廃止を明記した。
 一方、インド人苦力の使役も同時期に盛んとなったが、これも英国が先鞭をつけ、世界中の英国植民地で活用された。ことに今日ではインド洋の観光リゾートとして知られるモーリシャスは1829年以降、50万人を越すインド人苦力が継続的に送り込まれた「苦力の島」でもあり、往時の苦力収容施設アープラヴァシ・ガートは現在、世界遺産に登録されている。
 インド人苦力は自発的な移住労働者が多かったと見られているが、その渡航船の環境は劣悪であり、虐待や女性への性暴力がはびこり、現地での労働条件も過酷であった。英本国では人道的な見地からの批判が高まり、苦力労働は1916年に禁止されるに至った。
 奴隷的な苦力労働は20世紀初頭には消滅するが、外国人労働者を底辺労働に投入する慣行自体は現代まで引き継がれており、その実態はしばしば奴隷的である。その意味で、苦力労働は前章でも見た現代型奴隷制の一種である隷属的外国人労働の原型とも言えるものであった。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第15回)

2017-09-05 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

アメリカ内戦と奴隷解放宣言
 19世紀前半のアメリカでは、奴隷制廃止の進む北部と奴隷制に固執する南部の亀裂が深まっていたが、1850年代は南部の奴隷諸州の力が連邦レベルで拡大する反動期であった。
 前にも見た奴隷の逃亡を抑止するための1850年の逃亡奴隷法に加え、1854年のカンザス‐ネブラスカ法では、カンザスとネブラスカの両準州の創設に当たり、奴隷制を認めるか否かを開拓住民の判断に委ねることとされた。これは事実上、奴隷制の拡大を認めるに等しい大きな後退であった。
 さらに57年には、連邦最高裁判所がアフリカ系の子孫はアメリカ市民権を得ることはできず、連邦議会は連邦領土内で奴隷制を禁ずる権限を有しないとする判決を下した(ドレッド・スコット対サンフォード判決)。司法部も奴隷制擁護の立場を鮮明にしたことになる。
 これに対して、急進的な奴隷制廃止活動家ジョン・ブラウンは武装反乱のような直接行動を訴え、59年、奴隷州の中心であったバージニア州で連邦武器庫を襲撃し、反乱を企てるが失敗し、処刑されるという事件も発生した。
 こうした騒然とした対立状況の渦中で登場したのが、共和党初の大統領となったエイブラハム・リンカーンであった。リンカーンは弁護士からイリノイ州議会議員や連邦下院議員を経験した奴隷制廃止論者としてカンザス‐ネブラスカ法やドレッド・スコット対サンフォード判決に対して明確に反対の論陣を張った。
 リンカーンはブラウンのような急進論者とは異なり、漸進的な奴隷制廃止を唱える中道派の中心人物であったが、奴隷制諸州にとっては急進も中道も大差はなく、忌避すべき人物であることに変わりなかった。
 そういうリンカーンが1860年大統領選挙に勝利すると、南部奴隷諸州は次々と連邦離脱の動きを示した。妥協の試みは失敗し、南部11州は同盟してアメリカ連合国を結成したことから、アメリカはこれまでのところ史上唯一の内戦(南北戦争)に突入していく。
 その渦中で、リンカーン大統領は有名な「奴隷解放宣言」を発した。戦争は北部の勝利に終わり、戦後の65年、憲法修正13条が追加され、ここに奴隷制の完全な廃止が実現したのであった。
 これにより、黒人奴隷の解放は進んだが、南部では黒人に公民権は保障されず、日常生活域も分離する人種隔離政策に形を変えて黒人差別の構造が存続していく。これが転換するのは、奴隷制廃止運動に代わる公民権運動を経た1964年の連邦公民権法の成立以降のことである。
 南北戦争から100年がかりであり、公民権法を推進したケネディ大統領も、奴隷制廃止に尽力したリンカーン大統領と同様に暗殺される運命をたどったことも偶然ではないかもしれない。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第14回)

2017-09-04 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ルーマニアのロマ族奴隷廃止
 英国と米国における奴隷制度廃止にはさまれる形で19世紀半ば、東欧のルーマニアで少数民族ロマ族奴隷制の廃止が実現している。意外に知られざる出来事である。
 ロマ族とは、エジプト出自という誤解から「ジプシー」とも呼称されてきた中東欧の少数移民集団であるが、その真の出自はインドと見られている。出インド・欧州移住の経緯については諸説あるが、すでに中世には集団的移住が確認されており、その歴史は古い。
 ロマ族は移動生活を主体としていたため、「流浪の民」とも言われ、欧州各地で差別迫害にもあったが、ルーマニアではロマ族を奴隷化する慣習が形成されていた。これは中世におけるワラキアとモルダビアの両公国成立以前からの古い慣習であった。今日でも欧州でもロマ族の代表的な居住地となっているのがルーマニアであることからしても、ルーマニアにおけるロマ族奴隷制の広がりと歴史の長さが窺えるところである。
 ルーマニアのロマ族奴隷は職工や砂金採集、農業労働に始まり、家事労働まで幅広く下層労働に従事させられた。かれらは支配層の貴族や修道院、国家によって所有され、所有者によって売買されたり、懲罰にかけられたりした点では一般的な奴隷制度と同様であった。ただ、ルーマニアの奴隷制は自治組織によって管理され、奴隷自身がその指導者を選出することができるなど、一定の自治権が保障された点に特徴があった。
 こうした奴隷制に対しては、18世紀後半、ルーマニアにも到来した啓蒙主義の潮流の中で廃止の機運が生まれる。当初は自らも奴隷主層であった正教会内部の改革派が廃止の声を上げたが、19世紀に入ると、後にルーマニア首相となる革命派ミハイル・コガル二チェウの主導により、1843年、モルダビアで奴隷制廃止が成立した。これに続き、ワラキアでも廃止され、56年までに20万人を越えるロマ奴隷が解放された。
 とはいえ、ルーマニアにおけるロマ族は解放後も差別にさらされ続け、構造的差別とそれに起因する貧困問題が未解決のままである点では、アメリカの黒人問題と類似する点が見られる。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第13回)

2017-08-29 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

リベリア―解放奴隷の帰還国家
 アメリカの奴隷制廃止運動が南部で行き詰まっていた19世紀前半、アフリカ西海岸に独立国家リベリア(*)が誕生した。ラテン語の「自由」に由来する国名を持つこの国家は、アメリカの解放奴隷の故地入植によって建国された帰還国家であり、アフリカ史上初の共和制国家でもあった。
 その発端となったのは、1847年の建国に遡ること31年、1816年に当時のアメリカ植民協会が企画した解放奴隷のアフリカ帰還運動にあった。その点、英国でも解放奴隷のシエラレオーネへのアフリカ帰還計画が進行していたのと並行している。
 ただし、英国の計画が奴隷制廃止運動の中から生まれたのに対し、アメリカ植民協会は奴隷制所有者もメンバーに多数参加するなど、奴隷制廃止の理念は曖昧で、解放奴隷をアフリカへ「返還」するという発想が強かった点に相違がある。
 この計画は1820年、早速実行に移され、90人近い解放奴隷の移民を乗せた第一回の植民船エリザべス号がニューヨークを出航した。最初に到着した場所はリベリアの隣りのシエラレオーネであったが、慣れない熱帯風土の中でたちまち伝染病が蔓延し、多数が死亡した。
 続いて、翌年には二号船も到着・合流し、生き残りの移民とともにとりあえず初期植民者が出揃う。かれらはシエラレオーネより南の今日のリベリアに向かい、地元部族に半ば脅しで土地を売らせ、最初の植民地ケープメスラドを建設したのである。
 当初の植民地は狭隘な岬にすぎなかったが、リベリア植民地に改称された1824年までに領域を拡張して、後にリベリア共和国の原型となるリベリア植民地が形成された。アメリカからのリベリア植民は、当初アメリカ植民協会主導で行われたが、その後も、メリーランド州をはじめ、州レベルでの植民協会が出来始め、続々と植民地が形成されていく。
 1839年には複数の植民地が統合され、リベリア連合が成立していたが、1847年に至って、リベリア共和国として正式に独立する運びとなった。黒人解放奴隷主体の独璃国家としてはカリブ海のハイチに次ぐ存在である。その点、独立が20世紀後半まで持ち越されたシエラレオーネとは異なる道を歩んだのである。
 新生リベリアは、その建国の経緯からアメリカ憲法を模範とした立憲共和制国家として成立し、20世紀後半まで100年以上にわたり、アフリカの中では相対的に民主的な体制を維持していくのである。
 しかし、その社会の実態は最初の入植者であったアメリカ生まれの解放奴隷の子孫―アメリコ・ライベリアン―が政治経済の支配権を独占し、先住黒人部族を従属下に置くという差別構造に支えられることになった。アメリコ・ライベリアンたちは、白人がアメリカで作り上げたのと同様の社会をリベリアに作ろうとしたのだとも言えるだろう。
 この非対称な社会構造に対する先住部族勢力の歴史的な不満の鬱積が、先住部族を主体とする国軍下士官らが決起した1980年の軍事革命(クーデター)とその後の軍事独裁、凄惨な内戦による国家破綻という惨事を招来するのである。

*正確には「ライベリア」が本来の発音に近いが、ここでは、日本語で慣例化された誤表記を踏襲する。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第12回)

2017-08-28 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

アメリカの奴隷制廃止運動
 アメリカでは、最初の植民地形成当時から黒人奴隷制が存在しており、アメリカの形成は奴隷制と不可分には語れない。初代大統領ジョージ・ワシントンをはじめ、アメリカ建国の父たちの多くも奴隷所有者であったし、建国初期の帰化法では帰化条件を「自由白人」に限定していた。
 一方、奴隷制廃止運動は建国に先立って立ち上げられていた。その先陣を切ったのがクエーカー教徒であったことは、英国の場合と同様である。最初の奴隷制廃止運動体は、1775年にペンシルベニア植民地のフィラデルフィアで結成された「不法拘束下自由黒人救援協会」であった。
 この運動は独立戦争中のやむを得ざる中断を経て、1785年、建国初期の進歩的知識人にして、建国の父の一人でもあるベンジャミン・フランクリン―彼も奴隷所有者であったが、改心していた―を会長に迎えて再開された。
 これに前後して、進歩的な北部では州単位での段階的な奴隷制廃止が進行していくが、全面的な廃止に踏み切った最初の州は、1783年のペンシルベニアであった。世紀をまたいで、1804年までには北部の全州で奴隷制は廃止された。
 とはいえ、この「廃止」は廃止法制定前の奴隷に関しては一定年齢に達するまで解放を免除するなど、奴隷主に有利な条件が付されており、完全な奴隷解放は19世紀半ば過ぎのリンカーン大統領による奴隷解放宣言とその後の憲法修正第13条を待つ必要があった。
 さらに、州の内政自治権を最大限尊重する厳格な連邦制を採用する合衆国憲法上、連邦は州に奴隷制廃止を強制することができず、1820年には中西部の連邦未編入領域では奴隷制を認めないという妥協(ミズーリ妥協)が連邦議会によって図られた。
 しかし、これはあくまでも新設される州への規制(奴隷制拡大防止策)にとどまり、国内での州際奴隷取引を禁じていなかったこともあって、主産業である農業分野で奴隷労働力に依存する南部諸州では奴隷制廃止は一向に進まなかった。
 そうした中、1831年、奴隷制護持の拠点とも言えるバージニア州で黒人奴隷ナット・ターナーに率いられた奴隷反乱が発生した。ターナーは読み書きができたが、日食を徴とする半ば神がかった信条から、同志を募って子どもを含む白人の男女60人近くを殺害するというテロ行動に出たのだった。
 この反乱は州当局により短時間で鎮圧され、ターナーは残酷に処刑された。同時に反乱参加者50人以上が処刑され、反乱部外者を含む200人近くの黒人が怒れる白人暴徒によって報復的に殺戮される事態が続いた。
 この事件の後、1830年代には、社会運動家ウィリアム・ロイド・ガリソンを中心に反奴隷制協会が結成され、より理性的・非暴力的なやり方で奴隷の即時解放と全米での奴隷制廃止が目指され、奴隷救援組織が秘密のルートを中継して奴隷の逃亡を支援する運動が開始される。いわゆる「地下鉄道」である。
 この「地下鉄道」で案内役となる「車掌」として活躍した黒人女性にハリエット・タブマンがいる。自身逃亡奴隷として「地下鉄道」で救済された彼女は、90歳を越える生涯を奴隷制廃止/差別撤廃運動に捧げた黒人女性運動家の先駆者として女性史上も傑出した存在である。
 これに対し、南部では1850年、対抗的に逃亡奴隷の返還を義務づける逃亡奴隷法を連邦議会に制定させることに成功したが、奴隷の逃亡先となる北部の廃止州では人身保護法を制定して逃亡奴隷を保護するようになった。こうして、アメリカ合衆国は連邦制構造の中で、奴隷制をめぐり、北部と南部に亀裂が生じていく。

コメント

奴隷の世界歴史(連載補遺)

2017-08-23 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ラテンアメリカ独立と奴隷制廃止
 スペイン・ポルトガルの支配下にあったラテンアメリカでは両国が持ち込んだ奴隷制度が全般に存在していたが、17世紀、メキシコの独立を先駆的に構想したアイルランド出身の革命家にして奴隷制廃止論者でもあったウィリアム・ランポートは革命蜂起に失敗し、異端審問により処刑された。
 その後、18世紀のフランス革命とその渦中でのハイチの奴隷反乱を契機とするハイチ独立は、当時、主としてスペインの支配下にあったラテンアメリカ諸国にも続々とドミノ的な独立革命の機運をもたらした。
 そうした独立革命の中で、南米では「子宮の自由」という標語のもとに、奴隷の子として出生した者を奴隷身分から解放する制度が普及していった。ただし、ラテンアメリカでは奴隷主である大土地所有者層の抵抗も根強く、その時期やプロセスは国によって相当に異なっていた。 
 「子宮の自由」を最初に実行したのは1811年、独立前のチリであったが、チリでの完全な奴隷制廃止は独立後の1823年であった。チリに続いて、アルゼンチンでも独立前の1813年に「子宮の自由法」が成立したが、完全な奴隷制廃止は1853年の憲法制定まで持ち越された。
 南米独立運動の英雄シモン・ボリバルも奴隷制廃止論者であり、彼が建設に尽力した大コロンビア共和国(今日のコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、パナマを包含)では、1819年以降、段階的な奴隷制廃止が実現したが、奴隷主の大土地所有者層の抵抗もあり、完全な実現は大共和国解体後の1850年代まで持ち越された。
 中米では中央アメリカ連邦共和国(今日のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカを包含)が1824年に、メキシコが1829年に奴隷制を廃止している。
 ただし、当時メキシコ領だったテキサスでは、奴隷制廃止に不満を募らせたアメリカ人入植者らが決起し、1836年にテキサス共和国を分離独立させると奴隷制が復活し、テキサスはアメリカ内戦前の45年に米国に合併され、南部奴隷州の一つとなった。
 以上に対して、スペイン統治が長く続いたプエルトリコでは1873年、キューバでは独立前の1886年、1822年に独自の帝国としてポルトガルから独立したブラジルでは全アメリカ大陸において最後となる帝政最末1888年のいわゆる「黄金法」をもって奴隷制度が廃止されるに至ったのである。

コメント

奴隷の世界歴史(連載第11回)

2017-08-22 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

ハイチ独立―奴隷の革命
 19世紀初頭以来の歴史を持つカリブ海の独立国家ハイチは、イスパニョラ島西部の旧フランス植民地サン‐ドマングが独立して興された国であるが、独立前のサン‐ドマングはサトウキビやコーヒーを主産とするフランスの代表的なプランテーション植民地であり、決して広大ではなかったけれども、最も利潤を上げる海外植民地でもった。
 そのプランテーション労働力として投入されていたのが、アフリカ西海岸から強制連行された黒人奴隷たちだった。ただ、前回も述べたように、フランス植民地の黒人奴隷制は比較的寛大で、個別的な解放奴隷も少なくなく、また白人と混血した自由人ムラートも相当数に上っていた。
 そうした状況下で、自由・人権を掲げたフランス革命が勃発、これに触発される形で、1791年、ハイチの黒人奴隷とムラートが奴隷廃止を求めて蜂起した。その中心に立ったのは、解放奴隷出身のトゥーサン・ルーヴェルチュールであった。
 彼はフランス革命に対抗する反革命派のイギリス・スペインの軍を撃退しつつ、1801年にはイスパニョラ島全島を制圧し、奴隷制を廃止したうえ、自治憲法を制定、自らイスパニョラ島総督に就任して事実上の独立国家を樹立した。
 しかし、これは正式なハイチの独立ではまだなかった。フランス革命政府を乗っ取ったナポレオンが02年には強力な軍を派遣して反撃、ルーヴェルチュールを捕らえて反乱を鎮圧したからである。この苦境を打開したのが、ルーヴェルチュール麾下の有能な部将であったジャン‐ジャック・デサリーヌである。
 彼は03年にはフランス軍を撃退し、翌年04年に正式にハイチ独立を宣言したのである。これは奴隷による独立革命という歴史上も稀有な出来事であり、かつ当時まだ軒並み西洋列強の植民地下にあったラテンアメリカ初の独立国家の誕生という記念すべき出来事でもあった。
 ただ、権力欲の強いデサリーヌは共和制に飽き足らず、敵のナポレオンにならって皇帝に即位、ジャック1世となった。ここから、フランス革命同様の反動化が始まる。この帝政ハイチでは、奴隷制は廃止されたものの、産業基盤のプランテーションを維持するため、解放された奴隷たちの多くはプランテーション労働者に転向させられたのである。
 デサリーヌの統治は民主的とは言えず、白人への憎悪から白人の大量処刑を断行する一方、国の行政・軍事機構を整備するために、知識層のムラートを登用したことから、ムラートの勢力が台頭し、やがてかれらが支配階級としてハイチの政治経済を独占する基礎が作られた。
 デサリーヌへの不満はすぐに高まり、06年、彼は反対勢力の手により暗殺された。その後のハイチは、政治的に共和制と君主制(帝政)の間を揺れ動き、経済的には奴隷制廃止に対するフランスへの多額の賠償金の支払いで経済が崩壊し、一時は奴隷制を復活させるなど、「解放奴隷国家」という特異な誕生経緯ゆえの苦境を何世紀も経験することになるのであった。

コメント