ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

玉砕体制は不変

2017-03-11 | 時評

当ブログは東日本大震災・原発事故の同年に開始したため、震災と同じく満6年を迎える。すでに満5年の節目は昨年通過し、次の節目である満10年へ向けた5年間が始まっている。

この間、政権交代をはさみ原発固執政策は変わらず、さらに続くだろう。ほんのわずかの僥倖で日本の半分が汚染し、大量避難民が生じることを免れたにすぎない大事故を経験し、なおかつ今後も大地震の予測がいくつもスケジュールされている中で、なお原発固執を続けるやり方は敗色濃厚な戦争を継続した70年前のやり方と同じである。

原発固執政策を正当化する際には、必ず日本のエネルギー自給率の低さが持ち出されるが、そのような目先の経済的利益と人間の生命や環境の価値とを比較考量するという発想が全く欠けている。これは国土の狭隘さを持ち出して、「大東亜共栄圏」の名の下に日本領土を飛躍的に拡張しようとした侵略の論理と類似の発想である。そうした視野の狭い国家プロジェクトが破綻した場合の損害の測り知れなさはまさに視野に入らないのだ。

一度始めた大国家プロジェクトは止める勇気も知恵もない―。これが、戦前・戦後を通じた日本支配層の体質のようである。破局の予感を持たないわけではないが、その時は国民総玉砕すればよいという安易な終末論があるとしか思えない。不変の玉砕体制である。なぜそのような発想になるのか、単に無責任なのか、それとも玉砕を美風とする観念によるのか。

おそらく両方なのだろう。個が弱く、互いに持たれ合う体質のため責任を持って決断する主体も存在しない一方、いよいよ最期という時にみんなで玉砕することは日本人らしい終わり方だ、と。

そんな玉砕体制はご免こうむりたいと思う者にとっては、今後このまま日本に居続けるべきか、それとも海外に移住すべきかという至難の人生決断を迫られる5年間になりそうである。

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「地球第一党」で対抗

2017-03-01 | 時評

ついに日本でも排外主義政党の誕生である。報道によると、先月26日、「ジャパン・ファースト(日本第一主義)」を掲げ、日本の国益・日本人の権利護持を呼号、在日コリアンら旧植民地出身者とその子孫の特別永住資格の廃止、移民受け入れ阻止、外国人への生活保護廃止などの政策を打ち出す新党・日本第一党が発足した。

海の向こうでは、一足先にトランプ政権が「アメリカ・ファースト」を連呼している。トランプ政権は形の上ではアメリカにおける伝統的な保守政党である共和党ベースの政権であるが、その主流派からも逸脱している政権は実質上「米国第一党」政権と呼ぶべきものと言える。

その他、欧州でも「自国第一主義」を掲げる政党は近年、モードとなっている。いずれも主張は似通っており、人種差別的な排外主義と偏狭な自国(民)優先主義である。ロシアのプーチン大統領の翼賛的政党「統一ロシア」も、実質は「ロシア第一党」の性格が強い。

近年の中国もかつての非同盟国際連帯を離れ、自国の「核心的利益」を追求する姿勢が強い点では、対外的には「中国共産党」ならぬ「中国第一党」体制に移行してきていると言ってよいだろうし、事実上の鎖国体制下で核開発に驀進する「主体主義」の朝鮮もまた然りである。こうした反米日的「自国第一主義」がまた、米日の「自国第一主義」を反転刺激する契機ともなっている。

このままいくと、これら主義の唱導者らが望むとおり、世界の主要国で「自国第一党」政権のオンパレードとなるのかもしれない。しかし、その行き着く先は? 「自国第一」ではそもそも外交は成り立たず、最終的に戦争で決着となるだろう。実際、トランプ政権は史上最大級の軍事費増大をぶち上げている。他の同類たちも例外なく軍備増強論である。

「自国第一」の最終極点は第三次世界大戦である。懲りない三度目の世界戦争となれば、今度こそ破局的な核戦争であろう。人類滅亡も映画の中の話ではなくなる。もちろん、「自国第一党」の幹部連は「御身第一」でVIP専用核シェルターに逃げ込み、生き延びる算段であろうから、幹部連とその子孫だけが生き延び、最終決戦に臨む。最後はその中の一強の子孫だけが生き残る。ただし、ほぼ自給自足で生きる絶滅危惧種の人類としてであるが。

映画的なシナリオを描くとすれば、「自国第一主義」の末路はこんな様子であろう。だが、希望がなくはない。「米国第一党」政権は、多くの米国民によって抗議され、反対されている。次の選挙でトランプが再選するかどうかは不透明である。一方、報道によれば、日本第一党の党員数は結党時点で約1600人、結党大会出席者は約270人という。初物にしては多いと見るか、少ないと見るか、いずれにせよ、大ブームとは言えまい。

こうした「自国第一党」の蠕動に対しては、ネガティブな批判にとどまらない「地球第一党」で対抗したい。批判する側も中途半端な形で「国益」とか「国境」といった概念を弄んでいては、勇ましくも単純な「自国第一党」に本質的に対抗することはできない。国家というそれ自体排他的な国民収容所制度を思想的に超克し、地球を束ねる世界共同体を構想する必要がある。

一方で、国境を越えた地球規模での金儲けに邁進する「グローバル資本主義」(グローバリゼーション)を運命として受容することも、反グローバル化運動を反転刺激し、「自国第一主義」というガスを発生させる要因となる。今世紀初め頃に盛んだった左派色の強い反グローバル化運動が退潮したのと入れ替わる形で現今の「自国第一主義」潮流に取って代わったことは必然である。

なお、「地球第一党」はそのような政党を実際に結党するという趣意ではない。「自国第一主義」潮流に対する一つの対抗視座の提示である。それは政党のようなそれ自体偏狭な徒党を組むことによってはとうてい実践することのできない包摂的視野を要する思考枠組みと言ってよいものだからである。

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異様な「蜜月」三角形

2017-02-12 | 時評

建国記念日なるものに格別の意味づけをする立場にはないが、いちおう法律上建国記念日として設定された日に国を代表する施政者はアメリカで大統領とゴルフ三昧。そんな国はおそらく日本以外になかろうが、それもほとんど問題とされないところに、日本と米国の本当の関係が投影されている。

現在、安倍政権はトランプ政権との蜜月関係構築に躍起となっており、そのことが戦後歴代首相の中でも最も愛国者を自任する(はずの)首相をして建国記念日に渡米ゴルフの決断をさせたのであろう。

周知のとおり、トランプ政権は人権無視の差別的入禁政策で内外の批判を浴びている状態であるが、それについては黙して、トランプ政権と蜜月関係を結びたがる日本は、国際社会からトランプ政権と同類の排外主義の国とみなされてもやむを得ないだろう。

そればかりではない。安倍政権は「麻薬犯罪者殺害政策」を掲げるフィリピンのドゥテルテ政権―果たしてトランプからも「評価」された―とも蜜月関係を結び、中国と競い合うようにして援助を拡大してみせた。「麻薬犯罪者殺害政策」を幇助するも同然であり、国際社会の視線はトランプ蜜月以上に厳しいものとなるだろう。

トランプといい、「フィリピンのトランプ」たるドゥテルテといい、21世紀的価値観からはかけ離れた人権無視の奇矯な政策を掲げて物議を醸す両首脳と安倍を結ぶ「蜜月」三角形は、日米同盟堅持とか歴史的な日比友好などの大義名分を立てたとしても、異様である。

しかし、国内ではこれを異様と見る人は少数でしかないようだ。深読みすれば、やはり日本国民の大方は人権感覚に乏しく、トランプやドゥテルテの同類ないしはシンパなのだろうか。そうは思いたくないのだが。

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「壁」の時代再来

2017-01-26 | 時評

トランプ新大統領が公約の目玉に掲げ、早速大統領令という形式で議会の承認も得ず、一方的に宣言した「トランプの壁」―大統領が建設し、一方的に隣国メキシコの費用負担とするとされている以上、こう呼ばれるべきだろう―は、アメリカによる新たなメキシコ侵略と呼ぶべき振る舞いである。これは決して誇張表現ではない。

現在の米墨国境線は、19世紀の米墨戦争の結果、アメリカがメキシコから奪取した領土におおむね沿って設定されている。そうであれば、国境線を緩めて曖昧化しておくことは、侵略の歴史的事実を消去することはできないとしても、いくらかなりとも緩和する意義を持つ。

ところが、トランプ政権はこれを覆し、アメリカ版万里の長城とも言うべき長大な「壁」を築き、かつその費用を合理的な理由もなく一方的にメキシコに負担させるという国際法上もあり得ない方針を示している。

しかし、こうした「壁」はトランプ政権の専売ではない。すでに先行する物理的な壁として、中東にはイスラエルがヨルダン川西岸に築造中の「隔離壁」が存在するところ、トランプ政権は米大使館のエルサレム移転を進め、イスラエルとはこれまで以上に濃密な関係を築こうとしている。

また昨年EU離脱方針を決めた英国も、物理的な「壁」こそ築造しないが、国境を相対化するEUの枠組みに反発し、移民流入を阻止することを狙いとしている。トランプはこれを好感し、英国政権と改めて同盟関係を強めようとしているようだ。

トランプからさらなる分裂を煽られ、閉塞状況のEUも、表向きの理念や美辞とは裏腹に、英国やトランプ新政権を大歓迎し、勢いづく反移民勢力の突き上げを受ける形で移民制限の方向へ動こうとしているし、実際そうなるだろう。

世界の分断の象徴だった「ベルリンの壁」の崩壊からおよそ30年近い時が経過し、「壁」のない世界が到来したかに見えたが、ここへ来て歴史は反転し、再び「壁」の時代に逆戻りのようである。

これには、「ベルリンの壁」崩壊後の世界がグローバル資本主義の方向に大きく舵を切ったことが影響している。結果として国家間の経済格差が顕著化し、それに伴い貧しい国から豊かな国への経済移民が大規模化するグローバルな「民族大移動」が発生した。こうした「逆侵略」に反発した豊かな国の国民の反動として、反移民の流れが起きている。

トランプ政権がもう一つの柱とする「反自由貿易」も、経済的な「壁」を作って自国経済を防護しようという非物理的な「壁」の構築という点で、物理的な「アメリカの壁」とはまさに双璧の関係にある。これも、グローバル資本主義に対する資本主義内部からのナショナリスティックな反動現象である。

「壁」のない世界の構築は、およそ資本主義には実行できない業である。人道その他の精神・理念からどれほど「壁」を批判しても、跳ね返されるだろう。いつもながらの我田引水になるが、「壁」のない世界の構築は、貨幣経済によらない新たな経済社会体制の構築によってしか実行し得ない業であることを再確認したい。

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人道的大義の陥穽

2016-12-31 | 時評

大晦日の午後、NHKが放映したカナダ映画『消えたブロガー“アミナ”』は、ブロガーの端くれとしても、様々なことを考えさせるミステリー的要素も加味された出色のドキュメンタリー作品であった。

この「アミナ事件」は発生から4年が経過しているが、それは「ダマスカスに住む女性同性愛者(レズビアン)」という標榜でシリア民主化を求めるブログを発信し、世界的に著名な存在となっていた人物「アミナ」が、実は既婚米国人男性による完全な創作だったことが発覚した「事件」である。

それだけのことなら、ネット社会にありがちな「なりすまし事件」で片が付いていたところ、問題を複雑にしたのは、架空の主人公「アミナ」がある日、政権派と見られるグループに拉致され、行方不明になったという情報が流れたことである。実は、これも件の男性がでっち上げた作り話だったのだ。

しかし、この話を信じた人道関係者や「アミナ」とネット恋愛していたカナダ女性らが“解放”に動き出し、アメリカ国務省も巻き込む騒ぎとなった。しかし、結局、事態の展開に恐れをなした男性が創作を告白し、騒動は終わった。

私の知る限り、当時日本ではこの「事件」は大きく報道されなかったと記憶する。中東情勢に関心が薄く、まだシリア内戦も初期段階だったことに加え、性的少数者がらみの話題をいまだタブー視する風潮の強い日本の特殊事情が絡む無関心だったのだろう。筆者自身、寡聞にして今回初めてその概要を知った。

しかし、この事件は事実確認を飛び越えて人道的大義にはやることの危険性を教えてくれる重要な前例である。ちょうど昨日、シリア内戦が年末駆け込みで今年三度目の停戦を迎えたところであるが、この停戦はシリアのアサド政権を擁護するロシアの荒っぽい軍事介入によるところが大きい。

同時に、アサド父子が二代半世紀で築き上げたアサド家のバース党支配体制の抑圧体系が、周辺諸国で唯一「アラブの春」を乗り切ってしまえるほど強力であることが改めて証明されたのである。戦後も、抑圧体系は機能し続けるだろう。

人道的大義に従ってアサド政権の存続を非難することはたやすいが、シリアでは反政府勢力がまとまらず、分裂していることもたしかであり、現状、アサド政権―広くはバース党―以外に、現実的な統治能力を持った勢力が存在しないのが実情である。

人道的大義は大事でないとは決して言わないが、それに駆られすぎると、シリアの戦後復興は進まない。また、第二の「アミナ事件」のような悲喜劇も起きかねない。

そうであれば、アサド政権にどんなに問題があろうと、ここ数年最大規模の難民を出してきた状況を打開するために、国際社会は三度目の正直となる停戦を支え、アサド政権の当面の存続を容認するという決断を下すしかないだろう。

ただし、そのことは、政権の組織的人権抑圧を等閑視することを意味しない。国際社会はシリアの復興を助けつつ、人権監視団のような中立的ウォッチの体制も整備する必要がある。 

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皇室からの悲鳴

2016-12-23 | 時評

近年、ガラスの向こうに囲われた一家からの悲鳴が聞こえてくるようになった。従来から心身を病む皇太子妃と不登校問題を抱える皇太子夫妻の息女に加え、ついには家長たる天皇その人からも。

天皇・皇族は、その地位の特殊性から、一般市民に保障される選挙権をはじめとする公民権・市民的自由を否定もしくは強く制約されているから、言いたいことも言えず、常に動静を報じられ、老齢になっても職務から解放されることはない。

こうしたことは憲法上折り込み済みとされているが、小手先の法的理屈を抜きにすれば、天皇・皇族が基本的自由・人権を侵害されていることは否定できない。このような「天皇・皇族の人権」論は基本権の否定と引き換えに多くの世襲特権を享受する天皇・皇族の立場に鑑みれば荒唐無稽と思われてきた。

しかし、好むと好まざるとにかかわらず、現代の天皇制は、かつての神秘化された超越的なものから世俗化なものへと変貌しており、天皇・皇族は大なり小なりブルジョワ・セレブ化し、皇室は芸能的に観賞される著名人一族に近い存在になろうとしている。

解決の方法は、二つある。一つは、天皇制を維持したうえで、天皇・皇族の基本権の保障にも歩を進めること。現今の問題で言えば、天皇にも老齢または病気を理由とする退位の自由を認めることである。もう一つは、そもそも天皇制を廃止し、共和制へ移行すること。その結果、天皇・皇族も一般公民・市民としての資格を与えられることになる。

後者が最も端的な解決法であるが、そのためには憲法改正を必要とする。昨今改憲論は盛んだが、天皇制廃止を掲げる改憲論をほとんど聞かないのは、筆者の寡聞のせいだろうか。耳を澄ませてみたい。

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「領土」虚構を想う

2016-12-16 | 時評

「新しいアプローチ」云々と前宣伝が喧しかった師走の日露交渉も終わってみれば、実質的な成果なし、老獪な北の大国の術中にはまり、経済協力のみの言質を取られる結果になったようだ。今後は今回の交渉をめぐって喧々諤々の論争がなされるだろうが、どこか虚しさも感じられる。

「北方領土」と当然のごとくに刷り込まれてきたが、日本側が奪還を目指す四島、すなわちエトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイはすべてアイヌ地名であることから瞭然のように、元は北海道全域と併せてアイヌ民族の「領域圏」であった。

アイヌは国家を持たない民族であり続けたから、アイヌ固有の国家としての領有権を主張したことは一度もないが、先住の事実に変わりない。フランス革命と同じ1789年にクナシリ・メナシのアイヌが和人商人に対して起こした武装蜂起事件は、当時の幕府による四島を含む「蝦夷地」占領への重要な契機となった。

その後、第二次大戦直後、ヤルタ協定を根拠に旧ソ連軍が四島に進攻、占領し、ソ連解体後の新ロシアが継承して今日に至る。順番をつければ、アイヌ、日本人に次ぐ三番手の住人がロシア人である。現在の争いは、二番手住人と三番手住人の間でのものである。

虚しさは、ともに侵奪者たる後住者同士の領有権争いから来るものかもしれない。しかし国際法の「理論」は不法占領でも実効支配が確立されれば領土となるといういまだに粗っぽいものだ。ロシアの実効支配は、すでに半世紀を超えている。タイムリミットが近い。

「新しいアプローチ」として日露共同主権論のような新概念が提唱されれば、いくらか展望も開けたが、日露どちらからもそうした斬新な提案はなかった。ただし、救いは今般交渉では旧/現住民の権利の擁護という視点が滲んできたことである。

旧住民の権利として墓参を含む自由往来の権利、現住民の権利としては居住継続とともに経済開発による生活水準の向上が想定されている。唯一の具体的な提案事項と言える「共同経済活動」なるものも、そのための枠組みであるべきで、四島を日露両資本の共同草刈場にしてはならない。

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老革命家カストロ逝く

2016-11-28 | 時評

フィデル・カストロはある意味で、最後の革命家であった。武力革命家という意味においてである。彼がゲリラ活動から武力革命を成功させ、その後半世紀以上革命体制を持続させた手腕は比類なきものだったが、このような形態の革命はもはや過去のものである。

その点、筆者は革命の方法として、Ⅰ民衆蜂起とⅡ集団的不投票の二つを提唱しているが、歴史的な革命のほとんどがⅠ型であり、カストロが主導したキューバ革命はその最後の輝かしい成功例であった(拙稿参照)。

このタイプの革命に伴いがちな権威主義的革命体制の出現はキューバも例外に漏れず、今日まで多くの政治犯・亡命者を出してきたことは事実である。ロシア革命のキューバ版である。相棒だったチェ・ゲバラが生きていればキューバはもっと違っていただろうという見方もあるが、どうだろうか。

社会主義キューバは後ろ盾ソ連を失った後もしぶとく生き延びてきたが、それはゆっくりしたスピードながら、なし崩しの市場経済化・対米融和へ向かうことによってであり、すでに開始されているポスト・カストロ時代にはその流れは加速するだろう。

いずれにせよ、Ⅰ型革命の時代はほぼ終焉したと見る。となると、いよいよⅡ型革命の出番とである。

この型の革命にはカストロやチェ・ゲバラのようなカリスマ的革命家を必要としない。無名の民衆が集合的な革命家である。それだけに机上の革命構想に終始したり、せいぜいゼネスト程度で収束してしまうかもしれない。しかし、失敗の先にこそ成功あり、である。

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アメリカン・ファシズムへ?

2016-11-10 | 時評

8月に連載終了した『戦後ファシズム史』拙稿の末尾で、次のように書いた。

アメリカン・ファシズムとも言うべき「トランプ政権」が現実のものとなるかどうか、現実のものとなったとして、その政策綱領を修正なしに実行できるかどうかは、アメリカにおける「自由主義」の牽制力がどこまで働くかにかかっているだろう。

一般得票数で下回った候補を勝たせてしまうアメリカの古式な間接選挙制度は、そのような危うい道を用意してしまったようだ。とはいえ、労働者階級の反動化がファシズムの底流になるという歴史法則どおりの結果ではある。しかし、現時点ではタイトルに?印を入れておくのは、トランプ次期政権がアメリカン・ファシズムの性格をはっきりさせるかどうかはまだ確定しないからである。

「米国第一」「偉大な米国の復権」といった愛国主義イデオロギーに基づくムスリム入国禁止や国境の壁などの公約をそのまま、あるいは修正してもムスリムの入国審査の強化や不法滞在者の大量検挙・送還、不法入国企図者の即時射殺といった強硬策を実行するなら、アメリカン・ファシズムの道である。

その点、トランプはドイツ系移民のルーツを持ちながら、どこかピエロ的気質を備えている点では、しかつめらしいヒトラーよりはイタリア人のムッソリーニに近いと言えるかもしれない。

しかし、トランプに不信感を抱く議会共和党の圧力で公約を撤回、または実質撤回に等しいほど希釈化するならば、それでもイタリア元首相ベルルスコーニのような右派ポピュリストの政権の性格は免れないだろうが、ファシズムは際どく免れる。

いずれにせよ、オバマ→トランプという転換は唐突で一貫性がなく見えるが、必ずしもそうではない。すでに国際的なパワーとして斜陽化し、国内的にも分裂したアメリカを既成政治家の手で辛うじて現状維持するのでなく、独善的な扇動家に委ねていっそう斜陽化させ、分裂・解体を促進するという「一貫」した道が選択されたのだからである。

そのようにして米国一極体制が決定的に壊れていくのは好ましいことだが、懸念すべきは、管理ファシズムの道を行くロシアのプーチンを好感しているらしいトランプが親露政策に転換して、「露米ファシズム連携」のような奇異な国際秩序が形成されるかもしれない点である。

このような関係は欧州のネオ・ファシズムの潮流をも刺激して、欧州各国にも同様の傾向をもった管理ファシズム政権のブームを巻き起こし、すでにそうした政権がいくつもひしめくアジア・アフリカと合わせ、世界が急速にファッショ化する危険を内包している。

それは日本の前ファッショ的な右派政権にとってもさらなる躍進の推進力となると同時に、アメリカの従属的同盟国として、一つの難しい選択も迫られる。

「米国第一」のトランプ次期政権が駐留米軍縮小または撤退をちらつかせて負担増を要求することには困惑するだろうが、一方でトランプが同盟国の核武装を容認するらしいことを逆手に取れば、コアな政権支持層の隠された願望である核武装も夢ではなくなるだろう。負担増か核武装か―。見ものである。

トランプ政権の登場はコミュニストにとってはいっそう後退・閉塞を強いられるような事態に見えるが、決してそうではなく、このような反動現象は、むしろ「与えて奪え」の格言に沿った一過程とポジティブに捉えたい。

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お手盛り任期延長

2016-10-26 | 時評

自民党総裁任期が、三年二期から三期まで延長されるという。二年二期の時代も長かったことを考えれば、総裁任期の大幅な延長である。明確な根拠があってのことなら一政党の内部問題であるが、今般の党則改訂は、どう見ても安倍首相の在任期間を憲政史上最長期化するためのお手盛りの観が濃厚である。

誠実な党則改正なら、次期総裁からの適用となるはずのところ、すでに二期目の現総裁に遡及適用して、安倍首相の在任を九年にまで一挙延長との思惑が見え透いている。口実として、日本と同様に議院内閣制を採る外国の例が持ち出されているが、むしろここで参照すべきは海外の独裁体制の事例だろう。

今回、首相自らは沈黙を保ち、周辺から任期延長論を提起させ、あっという間に実現させてしまった。このようなお手盛り手法での執権任期延長は、しばしば独裁化の手段として海外でも駆使されてきた政略である。最近では、固辞のポーズを取りながら、延長に延長を重ねて25年以上大統領の座にあるカザフスタンのナザルバエフ大統領が知られる。

今、自民党がかつての中道保守的な包括政党からファッショ的な性向を秘めた一極的な反動右派政党へと変貌してきている中での総裁任期延長である。当初取り沙汰されていた任期制限撤廃は当面退けられた模様だが、三期目が満了する頃に改めて任期制限撤廃、安倍無期限総裁=総理が誕生する可能性も完全には否定できない。

その点、かつてポルトガルで首相の座にとどまったままファシスト独裁政権をほぼ終身間40年近く維持したサラザールも想起すべき先例となる。それにしても、どういうわけか、今般のお手盛り総裁任期延長を批判的に論評する向きは少ない。そういう言論鈍化もまたファッショ独裁化の危険兆候と見なければならない。

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高度成長の夢よ、もう一度?

2016-10-02 | 時評

政府が2020年東京五輪に続き、2025年大阪万博の誘致にも乗り出すのだという。これはまさに1964年東京五輪―1970年大阪万博という高度成長期の懐かしい昭和の歴史をもう一度なぞりたいというはかない支配層総体の願望の現れである。

すでに開催が決定している第二次東京五輪でさえ、誘致運動当時の予算見積もりは「コンパクト五輪」を謳った内外への宣伝用過少数値であり、実際にはその数倍の見積もりに膨張して問題化しているところである。

“都民ファースト”ポピュリスト知事の豪腕をもってどうにか圧縮に成功したとしても、全体で兆の単位に達することは避けられそうにない。そのうえ、西でも第二次大阪万博誘致で巨費を投ずるのは客観的に見て愚策と思われるが、高度成長の夢をもう一度見たい支配層にとっては決してそうではないらしい。

しかし、歴史上高度成長を二度経験した国はない。人間と同じで、経済の成長期も一回きりのものである。その厳然たる法則性を直視する勇気がなく、悪あがきしたがるのは、敗戦・降伏を最後の最後まで認めなかった旧軍国勢力と似ている。

軍事大国を断念させられ、戦後は経済大国に衣替えしたものの、ひたすら規模の拡大を欲望する支配層の基本的な精神構造は不変のままであるので、潔く大国の看板を降ろす勇気が出せないのだろう。

しかし、線香花火的な経済効果を狙って大祝祭イベントに巨費を投ずるのでなく、公費を市民の暮らしの充実のために振り向けるのは、成長期をとうに過ぎ、成熟期―という名の老化期―に入った国にとっては理にかなった政策転換である。

ちなみに大阪万博のテーマは「人類の健康・長寿への挑戦」だそうだが、「人類の健康・長寿への挑戦」のためには、維持管理に難儀する箱物を将来に残し、社会サービスを切り詰める一層の緊縮財政を強いるだけの五輪や万博には手を出さず、公的な社会サービスの充実に注力することがさしあたり最も近道である。

残念ながら、そのことを理解したくない夢見心地の政官財“エリート”たちを信奉し、踊らされ、さぁ五輪だ・次は万博だと浮かれている国民の暮らしの行く末は限りなく暗い。生活崩壊という敗戦さながらの苦境が訪れる前に覚醒されんことを。

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水の革命

2016-09-11 | 時評

10日のNHK・ETV特集は、アフガニスタンで長年にわたり灌漑事業を展開してきた日本人医師・中村哲氏の活動の中間総括をテーマとするものであった。『医者井戸を掘る』の著書でも知られる人だが、改めて見ると、その活動は凡百の「開発援助」よりもはるかに効果的かつ革命的でさえあると感じられた。

中村氏自らも作業を手伝う地元民総がかりの灌漑事業に江戸時代の堰の工法が応用されているということも興味深い。当然時間はかかり、建設は10年がかりだが、資金の乏しい途上国では高価なハイテク機材を必要としない前近代の職人技術はかえって有用であることがわかる。

河川から長大な用水路を引く灌漑の結果、旱魃に襲われてきた不毛の砂漠地帯が広大な緑の農地に豹変したのは、まさに革命である。アフガニスタンと言えば、歴史上何度も政治革命を経験済みだが、どんな革命スローガンも砂漠の緑地化の革命性には勝てない。

まだ全土の一部でしか実現していないこの灌漑プロジェクトが、中村氏が構想する現地人技術者の育成を通じてさらに拡大されれば、アフガニスタンは平和を取り戻し、過去のどの革命政権もなし得なかった農業大国化を達成できる可能性も秘めている。

中村氏によれば、氏の事業は「平和運動」ではなく、「結果として得られる平和」であるというのも、意味深い。これは「豊かになれば、誰も戦争など行かない」という地元民の言葉とも重なり、平和は「運動」でなく、生活基盤を築く「事業」であることを教えてくれる。革命についても、然りである。

このような貴重な番組を時々見せてくれるのも、商業スポンサーを持たないNHKならではのことである。近年は、民放を意識した娯楽仕立て番組の増発で、NHKの擬似民放化が進行しているように見えるが、この路線がさらに拡大されれば、ETV特集のような番組は真っ先に姿を消すだろう。

NHKの統制に熱心な政府が近年ちらつかせている“NHK改革”の方向が、「武器ではなく、命の水を」というような、中村氏らにも機銃掃射を浴びせる「テロとの戦い」に全面協力する政府にとって耳障りであろうタイトルを持つ番組の一掃に向けられているのだとしたら、なおさらである。


[追記]
中村氏は2019年12月4日、アフガニスタン東部を自動車で移動中、武装集団による銃撃を受け、死去された。殉職と言える。

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軍は暴走する

2016-08-07 | 時評

軍の暴走と言えば、大日本帝国の侵略行動の代名詞のような表現であるが、同じことは日本軍部の暴走を止めたはずの米軍にも起きていた―。6日のNHK特集「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」は、アメリカによる原爆投下の意思決定過程に関する通説を覆す衝撃の内容を伝えた。

原爆投下に関する通説とは、「原爆投下は戦争を早く終わらせ、多数の米兵の命を救うために必要だとして、当時のトルーマン大統領が慎重に決断した」というもので、トルーマン自身が後付け的に情宣し、日本でも長くそう信じられてきた。

ところが、実際には、原爆投下作戦は原爆の威力を試したい気持ちにはやる一握りの中堅軍人と協力科学者らがトルーマン大統領の頭越しに主導したもので、大統領は市街地への投下を承認しておらず、その結果としての一般市民大量殺戮の事実も事後的に知らされたのだという。

つまりは軍の暴走であり、人類史上最初の作戦に関して、アメリカご自慢の文民統制が全く機能していなかったことになる。核開発を開始したローズベルト大統領の急死を受け、副大統領から自動昇格したトルーマン大統領の統治能力の弱さも影響したのだろうが、弁解にはならない。

トルーマンは戦後の冷戦を開始した張本人でもあるが、これについても、どこまで彼の明確な施政方針に基づくものか疑わしく、冷戦とは原爆開発でライバルのソ連軍に対して優位に立った米軍主導で仕掛けられたもう一つの暴走だったという見方もできるかもしれない。

米軍の暴走が疑われる事例は、冷戦期のベトナム戦争や、冷戦後のイラク戦争に至るまで、重要な戦争においていくつも見られる。世界で最も文民統制が行き届いた民主的軍隊のモデルと目されるアメリカ合衆国軍隊にしてそんなありさまである。

中でも人類史的に重大な原爆投下作戦における米軍の暴走は、軍の文民統制という命題の幻想性を物語っている。日本の将来にとっても、改憲再軍備を急ぐことの危険性に対する警告事例として受け止める必要があると考えたい。

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改憲―早期の国民投票を

2016-07-14 | 時評

先般の参議院選挙によって、戦後初めて与野党改憲勢力が衆参両院で三分の二に達した。これにより、数字上は憲法上の改憲発議の要件をクリアすることとなった。これは当面は数字問題だが、長い目で見れば日本の戦後史における画期点である。

選挙では改憲問題の争点化を極力避けた政権与党であるが、三分の二クリアという結果に内心色めき立っているのは間違いない。今後、政権与党がどのような政略に出るかは予断を許さないが、改憲本丸の9条をさしあたり避けて、緊急事態条項とか、プライバシー権・環境権条項の創設などを先行させる迂回戦術を採る可能性が高い。

改憲勢力が9条改憲に不自然なほど慎重なのは、世論調査を見る限り、国民の間に依然9条護持論が少なくないことを懸念しているせいだろう。また昨年新たな「解釈改憲」によって「限定的な」集団的自衛権を解禁したことで、それ以上の拡大につながる9条改憲を言い出しにくくなっているという皮肉な自縛もあるかもしれない。

そこで、迂回戦術によって時間稼ぎし、9条を除外した「お試し改憲」をする。その間に世論工作を展開して9条改憲論を高めたところで、最終的な本丸の国民投票に持ち込もうとの算段が透けて見える。

しかし、世論工作によって一定の結論が作られている問題を国民投票にかけるのは、民主的な国民投票ではなく、ある種の喝采政治、独裁の手段である。国民投票は国論が二分されるような争点について、あえて国民が直接に決断するときに初めて民主的な意義を発揮する。

他方、護憲勢力も、9条問題を国民投票で決着させることを臆するべきではないと思う。議論が煮詰まっていないという反論もあるが、煮詰まっていないのは、9条以外の条項に関する改憲議論のほうであって、9条に関しては論争の歴史は長く、まさに現行憲法制定時から半世紀以上論争が続いてきた。

通常、改憲問題と言えば9条問題を指すほど、9条改憲論/護憲論それぞれの議論のアウトラインはすでに出揃っており、あとは最終的な総括論議のみという段階に来ている。拙連載「9条安全保障論」も、そうした総括論議の材料の一つと認識している。

世論調査上は「安倍政権下での改憲に反対」という微妙な条件付き護憲論も根強いようだが、先送りすればするほど、先の迂回戦術に乗せられて、かえって国民投票結果が操作される危険もあることが懸念されるのである。そうならないためにも、あえて安倍政権下で9条問題に決着をつけたほうがよいと思われる。

決めるのは、有権者国民である。護憲派なら反対票を投ずればよいだけである。結果として、賛成多数でいよいよ改憲となったら、多数決に従って新憲法下で生きるか、あるいは信念を貫き、軍隊のない外国に移住・帰化するか自己決定しよう。

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EU脱退―英国民衆の反乱

2016-06-24 | 時評

欧州連合(EU)を脱退するという過半数英国民の意思表明は、世界経済に打撃を与え、自国の将来をも危うくする軽挙妄動だ、という非難も可能である。しかし、むしろ、これは英国民衆のEUに対する反乱であった。

最大の焦点は、移住労働者問題にある。その意味では、EU脱退を問う国民投票とは、移民問題を問う国民投票とほとんどイコールであった。その内実は、先住労働者対移住労働者の利害対立である。

そもそもEUという構制は、欧州がまだ戦乱状態だった19世紀、ユゴーやガリバルディ、バクーニンなど多彩な欧州知識人が結成した「平和自由同盟」が提唱した自由主義的な「ヨーロッパ合衆国」構想を部分的に継承している。

これに対し、このような知識人主導の平和統合構想に批判的だったマルクスは、「様々な国の労働者階級の団結が、究極的に国際間の戦争を不可能にする」と論じ、「支配階級やかれらの政府に対する共同の闘争における労働者階級の国際的なきょうだい愛」を対置した。

これとは逆に、知識人と資本家の団結の結晶であるEUの現実は経済格差の著しい加盟諸国の東西で労働者階級を分断し、豊かな西側労働者階級が労働市場で敵となる貧しい東側労働者階級の移民を排斥する状況を作り出した。元来、EU消極派であった英国で「脱退」という最初の大きなリアクションが起きたことは、自然の成り行きだったとも言える。

こうした反EU‐民衆反乱の動きが他の加盟国に拡大する可能性も指摘されている。ただし、これを影で煽動しているのはもはや労働者階級政党ではなく、国家主義的な衝動を隠さない反動的諸政党である。これら諸政党はしばしば「極右」とも総称されるが、国家主義をイデオロギー的軸に、反移民を主要政策とするその正体は、ネオ・ファシズムである。

一方、西側への移民送出国となっている東欧諸国でも、中東・北アフリカ方面からの難民/移民の歴史的大量到来に対し、これを排斥する動きが活発化しており、この面から反動的なネオ・ファシスト政党が躍進し、反EUの動きが拡大する可能性がある。

労働者階級がファシズムに煽動、誘引されていく現象は、二つの大戦の戦間期とそっくりである。ただ、反移民で共通する欧州ネオ・ファシズムの高揚が、直ちに世界大戦の再現につながる可能性は低いと思われるが、少なくともEUの弱体化を促進し、欧州を再び相互に利害対立するばらばらの主権国家の群生状況に引き戻す可能性は十分ある。

しかし、知識人と資本家の連合であるEUに対置すべきは、ネオ・ファシズムの競演ではなく、労働者を主体とした民衆の連合‐民衆会議以外にない。いささか我田引水ながら、英国のサプライズは、改めてその確信を深めた出来事であった。

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