ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

10月革命100周年

2017-11-07 | 時評

今年2017年は、ロシア革命100周年に当たる。中でも今日は、二段階にわたった革命の第二次革命―10月(新暦11月)革命―の日である。しかし、ほとんど忘れられている。

ロシアでも、旧ソ連時代からソ連解体後の2005年までは祝日だった11月7日の革命記念日を廃し、代わりに革命で打倒された帝政ロシア・ロマノフ王朝樹立のきっかけとなった1612年に遡るモスクワ占領ポーランド軍を排撃した11月4日を国民団結日に定めた。

これは単なる祝日の形式的な変更にとどまらず、10月革命を事実上否定し、帝政ロシアの歴史的意義を再発見するようなロシア・ナショナリズムの潮流を反映した政策的な変更である。

ナショナリスト・ロシアを警戒する向きも多いが、反10月革命的な歴史観は、ロシアに限らず、世界的にも主流的であろう。たしかに10月革命を旧ソ連が公式的にしていたように手放しで賛美することはもはやできないが、かといって何事もなかったふりをして歴史から抹消することもできない。

100周年を機にロシア革命の功罪を振り返り、今後の100年を見通すよすがとすべきであろう。とはいえ、二段階にわたる複雑な経緯をたどったロシア革命を整理するのは容易でなく、それだけで一冊の大部な書になりそうであるが、ごくざっくり整理するとすれば━

ロマノフ朝に象徴されたような専制君主制が、歴史的に葬られる契機となった。ロシアでも君主の存在しない共和制自体は、ほぼ恒久的に確立されている。君主制を残す諸国でも、君主は象徴的な存在として、実態は共和制に接近していった。

しかし、最大の意義は、労働者が初めて社会の主役に上ったことである。フランス革命からロシア革命第一段階の2月(新暦3月)革命までのブルジョワ民主革命では、二級的な地位しか与えられなかった労働者―広くは民衆―に光が当たる契機となったのだ。

その結果、10月革命を敵視した資本主義諸国においても、労働者階級の利害を代表する政党が結成され、政治参加することが通常となった。労働者階級政党が結成されなかったアメリカでさえ、大恐慌という資本主義的破局に直面して、「ニュー・ディール政策」のような形で労働者階級に配慮する新政治潮流が生じ、以後も継承された。

しかし、10月革命の罪の部分も大きい。それは武装革命としては「成功」したがゆえに、内戦期を含め、おびただしい流血と経済的混乱を避けられなかった。少数の革命家集団が革命プロセスを主導し、政権確立後はすみやかに独裁体制化していった。 

独裁党の地位を確立した共産党は党名に反して共産主義を正しく展開できず、曖昧な「社会主義」でお茶を濁し、労働者は体制を正当化するための名義上の存在と化していった。あたかも専制君主制が退いた場所に一党独裁制が座っただけであった。

そうした点で、10月革命は20世紀武装革命の集大成的な悪しき教科書となった。実際、10月革命後、世界で継起した武装革命のほとんどが10月革命をなぞるように同様の経過をたどって、およそ革命の評判をすっかり落とし、革命を虐殺と同義のようにしてしまった。

10月革命100周年は、こうした武装革命の潮流に終止符を打つ節目である。ただし、革命をすっかり忘れてロシア革命以前の世界に引き戻すための節目ではなく、その功罪を踏まえて10月革命を正しく超克し、今後の100年を見据える節目である。

どんな今後100年を描くかについては様々あろうが、非武装革命による真の自由な共産主義世界の形成という新たな形の革命に向けた100年を描く私見は、現時点では極少数意見のようである。

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フランコの政治的DNA

2017-11-04 | 時評

腰砕けに終わろうとしているスペインのカタルーニャ自治州独立宣言の事後処理として、スペイン中央政府が州の自治権剥奪、罷免した前州政府閣僚らの検挙・投獄という挙に出ている。

国内的にも国際的にも充分な調整―日本流に言えば根回し―もなく、さりとて篭城してでも最期まで抵抗する覚悟もなしに、独立宣言に突き進んだ州政権にも総辞職に値する政治責任はあろうが、中央政府による報復的な仕打ちも看過できない。

詳細には通じていないが、問題の発端となった州による独立の是非を問う州民投票はスペイン憲法・法令に違反するらしい。とはいえ、そうした形式的な違法性のみを根拠に、治安部隊を投入して投票を妨害し、かつ賛成多数の結果を無視して自治権剥奪、前州政権閣僚拘束という権威主義的強権行使に出るのは、中央集権を強制した旧フランコ独裁体制を髣髴とさせる。

それもそのはず、現在スペイン中央政府の与党に座にある国民党は、フランコ時代のファシスト翼賛政治団体・国民運動を母体とする保守政党である。同党は表向きフランコ主義とは縁を切り、通常の保守政党として活動してきたものの、体内にはフランコの政治的DNAをなお保存していたと見える。それが、スペインの経済的屋台骨でもあるカタルーニャの独立という非常事態に直面して顕在化したのだろう。

しかし、これまでのところ、前州政権幹部が武装反乱などの暴力的行為を煽動、共謀等した形跡はなく、平和的な手法で州民投票を強行したというに過ぎない。それが形式的に法に違反していたとしても、政治的信念に基づく行動であり、かれらを捕らえれば政治犯・良心の囚人となる。

スペインも加盟するEUの共通価値として人権尊重が標榜されている。もしEUがスペイン中央政府の報復的措置を支持・黙認するなら、その標榜の真偽が鋭く問われよう。また、国際的人権NGOsにとっても、沈黙することはダブルスタンダードとなろう。

 
〔付記〕
このところ、カタルーニャやイラクのクルド自治区など、自治地域の独立の動きが活発だが、侵略の結果としての植民地からの独立ならいざ知らず、主権国家からの独立は技術的にも至難である。主権国家は、領土の縮小、経済基盤の喪失にもつながる地域の独立を容易には容認しないからである。
我田引水になるが、こうした「独立」は、国家という枠組みを廃した世界共同体の大枠で、緩やかな合同体を組む合同領域圏のような構想―スペインであれば、カタルーニャを含め複数の独立領域圏が合同した「イスパニア合同領域圏」のようなものを想定できる―において、初めて実現するだろう。

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ドイツのネオ・ファシズム

2017-09-27 | 時評

24日投票のドイツ総選挙で、「ドイツ人のための選択肢」(以下、「選択」と略す)なる政党が躍進、議席数で第三党、野党第一党の地位に就いた。躍進の最も大きな要因は報道でも指摘されているように、党がイスラーム系移民の排斥を強く訴えたことにある。その意味では、同党は近年の欧州で隆盛化している反移民政党の一環とも言える。

しかし、同党の綱領では、とりわけ反イスラーム主義を強く打ち出すとともに、直接選挙による強力な大統領制への移行(議会権限の縮小)、反フェミニズム、男性兵役義務の復活など、全体としてファシズム色の滲む政策を掲げている。

ドイツでは、ナチズムへの歴史的反省から、ナチス党の復活は事実上禁じられており、より明確にナチズムに傾斜した先行政党・国家民主党の躍進は困難である。それを補填するかのように、近年はペギーダ(西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)を名乗る反イスラーム主義政治団体が形成され、「選択」にも浸透し、連携する党員も存在する。

「選択」指導部は、表向きペギーダとの連携を禁止する活動方針を決めている。しかし、この方針はイデオロギー的な相違によるものではなく、総選挙で幅広い支持を得るための党略的な姿勢であり、方針は厳守されないだろう。そればかりか、党内にはナチ的用語を用いる者もおり、反イスラーム主義の裏にはナチスの基盤でもあった反ユダヤ主義も二重に見え隠れする。

総合的に見て、「選択」はナチスの復刻とは言えないまでも、ナチズムを迂回する形のネオ・ファシズム政党とみなす余地が十分にある。かかる政党がドイツで野党第一党となったことは憂慮すべき事態である。党がさらに躍進を続けて与党化する可能性を視野に入れれば、ドイツもファッショ化要警戒段階に入ったと言えよう。


〔追記〕
10月のオーストリア総選挙では、保守系国民党が第一党を維持した。メディアは「反移民」の主張で勝利と報じ、31歳のクルツ新首相に焦点を当てた。しかし、国民党はオーストリアの伝統的な保守政党であり、従来は社会民主党と大連立を組んでいたところ、クルツ執行部の下で右傾化を進め、連立協議では従来からオーストリアのネオ・ファシズムを代表する自由党と組もうとしている。
この国民党‐自由党連立は1999年にも成立し、当時はファッショ化を警戒したEUから制裁を受けた。当時よりもEUが拡大し、移民問題が深刻化した現在、EUが国民党‐自由党連立の再来にどのような反応を示すか、注目される。

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アメリカン・ファシズム?

2017-08-27 | 時評

筆者は、昨年、トランプの大統領当選直後の拙稿「アメリカン・ファシズムへ?」で次のように書いた。

一般得票数で下回った候補を勝たせてしまうアメリカの古式な間接選挙制度は、・・・・・危うい道を用意してしまったようだ。とはいえ、労働者階級の反動化がファシズムの底流になるという歴史法則どおりの結果ではある。しかし、現時点ではタイトルに?印を入れておくのは、トランプ次期政権がアメリカン・ファシズムの性格をはっきりさせるかどうかはまだ確定しないからである。

現在、トランプ政権は発足からすでに半年を過ぎているが、この間の政権の軌跡を見る限り、政策・政治手法の両面でそのファッショ的性格は濃厚である。特に大統領令の乱発、大統領自身のネット発信による情報操作、支持者を動員した喝采集会といった手法はファシスト特有のものである。大統領の巧妙に煽動的なネット発信に刺激され、白人至上主義やネオナチなどの極右勢力が蠕動し始めてもいる。

そのため、「アメリカン・ファシズムへ?」のクエスチョンマークは外してもよさそうであるが、しかし、政策面では政権に行き詰まりも見える。その要因は、トランプ当選前にものした連載「戦後ファシズム史」最終節の末尾で指摘した「アメリカにおける「自由主義」の牽制力」ということに集約されるだろう。

「アメリカにおける「自由主義」の牽制力」の内実をもう少し分節すれば、一つはアメリカ憲法である。憲法上、アメリカ大統領は法案提出権を持たないから、大統領は自身の政策の立法化に当たっては、議会に要請するしかない。そこで、トランプは議会を迂回できる大統領令を乱発してきたが、それにも限界がある。

そのこととも関連して、トランプ政権が独自の政党を持たず、「偉大なる古き党」(GOP)の異名を持つ伝統的な共和党の枠組みに収まっていることがある。そのため、議会で多数派を握る共和党との協調が避けられないところ、トランプ政権に懐疑的な議会共和党執行部との確執が見られることも政権の足かせとなっている。

しかし、本質的に日和見な議会以上に強力な「「自由主義」の牽制力」は、政権発足後もいまだ続き、今月のヴァージニア州シャーロッツヴィルでの白人至上主義テロ事件後はさらに高まっている反トランプ抗議活動に象徴される民衆の抵抗である。これも、元をただせば憲法上保障された言論の自由に基づく草の根の牽制力である。

この草の根牽制力はことのほか強く、実際、メディアが強調するほど社会の「分断」は進行していないように見える。トランプ政権は人事面でもイデオロギー上の助言者を放出するなど軌道修正を余儀なくされる方向にある。従って、「アメリカン・ファシズム?」のクエスチョンマークを外すのはまだ早計のようである。 

行き詰まりの根本的打開のためには、過去の多くのファシスト政権がしたように憲法改定に走るか、議会共和党に妥協して「共和党右派政権」に収斂されるか、半年を過ぎた政権は岐路に立っている。前者なら「アメリカン・ファシズム?」からクエスチョンマークが消え、後者なら「アメリカン・ファシズム」のタイトル自体が消える。

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核兵器&死刑禁止条約

2017-07-08 | 時評

7日、国連本部で核兵器禁止条約が採択された。それ自体としても人類史上画期的なことであるが、これにより、約30年前に採択された国連死刑禁止条約と合わせ、少なくとも国際連合の枠組みでは核兵器&死刑に関して、これを法的に否定する政策が出揃ったことになる。

もっとも、論者の中には、核兵器禁止条約に賛成しつつも、死刑禁止条約には反対ないし懐疑的という向きもあるかもしれないが、核兵器が究極の兵器であるのに対し、死刑は究極の刑罰、どちらも人間の生命を究極的に奪う権力行使として共通性を持っている。とりわけ「抑止力」を最大の根拠として正当化される核兵器と死刑の共通性は濃い。

そうした内的連関性を持つ両者を否定する旨を国連が70年がかりで条約化したことの意義は、過小評価できない。ただし、いずれも条約としては「弱い」条約である。

核兵器禁止条約は、200近い国連加盟諸国のうち約三分の二に当たる122か国の賛成を得たが、核保有五大国はもちろん、日本のような大国の核傘下国も交渉すら拒否した。死刑禁止条約は、1991年の発効から25年を経た2016年時点で85か国が批准しているにすぎない。

こうした勢力ないし数の劣勢は否めず、そうした弱さを突いて両条約の意義を否定しようとする国―その代表が日本―も存する。しかし、当面の事態対処的な条約ではなく、未来に向けた理想を掲げる条約の場合、問題は勢力や数ではなく、その内容で意義が決まる。

もう一つの弱さは、条約の読み方にもよるが、いずれも核兵器なり死刑なりの当面の「禁止」に重点があり、後戻りできない「廃絶」を明言しないことである。ただ、これはいきなり廃絶に踏み込むことで、加盟諸国の合意形成が難しくなることを回避する技術的手段と考えれば、条約は廃絶を否定していないと読み取ることは十分可能である。

ちなみに、五大国の状況をみると、両条約とも批准しないのは米・中・露(露は死刑執行凍結中)、死刑禁止条約は批准済みだが、核兵器禁止条約を批准しないのは英・仏と対応は分かれている。五大国すべてが両条約を批准する日が来るとしたら、それは世界革命の日かもしれない。

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100億人の地球時代

2017-06-23 | 時評

国連の人口予測によると、世界人口は現在の76億人から2050年に98億人に増え、2100年には112億人に達するという。特にアフリカでの増加が著しく、2100年時点で現時点の3.5倍、45億人に飛躍するというのである。

国別では2024年頃までにインドが中国を抜き首位となり、日本は現在の11位(1億2700万人)から次第に順位を下げ、2100年には8500万人で29位になるとされる。

これをみると、21世紀の人口爆発は先発諸国における貧困解消的な20世紀の人口爆発とは異なり、先発諸国を後追いする後発諸国での貧しさと同居した人口爆発現象である。

それは当然、地球環境のいっそうの悪化を背景に、食料・水不足を惹起し、飢餓や食糧・水争奪戦争を誘発する恐れが強い。筆者はもうこの世にいないが、2100年頃の世界を想像すると恐ろしいものがある。

国連は「持続可能な開発目標」の履行が課題などと優雅なことを言っているが、資本主義体制に手をつけないままでの持続など到底無理であろう。私の願望的予測によれば、2100年前後には世界共産主義革命が勃発することになっているが、人口爆発による持続不能性も革命促進要因となるだろう。

とはいえ、共産主義社会も100億人の地球を維持することができるかどうか、確信は持てない。共産化による貧困の根絶がアフリカやインドにおける人口爆発を抑制することにより、世界人口を適正規模に回復することを願う。

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没論理の新共謀罪法案

2017-05-18 | 時評

衆議院で可決間近となっている「テロ等準備罪」の名を冠した実質的な新共謀罪法案の趣旨説明は、改めて没論理的な思惑でもって立法が“粛々と”進むこの国の危険性を露呈している。

この法案の必要性について、政権は2020年東京五輪を睨んだ「テロ対策」として説明している。が、それならば、「テロ等」ではなく、まさに「テロ準備罪」に限定した縮小法案で足りるはずだ。なぜ「等」として、テロ以外の犯罪にも大幅に拡大するかの説明がつかない。

拡大の理由として想定されるのは、署名のみで批准が十年以上先送りとなっている国連組織犯罪防止条約の批准条件を整備するためという点だが、これについては、新法なしでも十分批准は可能とするのが専門家の大方の見方である。

とすると、いったい政府をしてこれほど新法制定を焦らせるものは何か。おそらくは捜査・処罰権限の一挙拡大という国家的思惑である。実際、専門家たちが懸念するように、新法が制定されれば、従来の刑法体系を一変させるほどの大改変が加わることになり、国家は原則として犯罪の実行行為を待たねば人を処罰できないという法的制約から解放される。そして、それが可能なのはしかない。

そうした思惑を一般国民向けには「テロ対策」という餌で釣りつつ、拡大的な「テロ等」の矛盾を突かれると、批准・加盟自体には大きな異論のない条約を持ち出してフォローするという相互に矛盾する二段構えの理屈―細かくは政権与党が「テロ対策」、所管法務省は「条約」で役割分担しているようにも見える―で制定を急ごうというのが政権の計略のようである。

法案への賛否を聞く各種世論調査では「わからない」が相当に多い。「わからない」理由は、無関心からか無知からは不明だが、「わからない」人は少なくとも反対はしないわけで、国民がよくわからない間に法案をさっさと通過させるには絶好のタイミングであろう。

しかし、刑法体系をたった一本の法律で覆してしまう法案を没論理的な思惑だけで強引に成立させることは、将来に重大な禍根を残すことになる。せめて、「理性の府」参議院は否決する気概を示してほしいところである。

〔追記〕
期待も虚しく、参議院は否決どころか、委員会審議を打ち切る「中間報告」というウルトラ術策―緊急性という「中間報告」の要件自体も充たしているか疑わしい―を使って採決した。2017年6月15日は参議院が死んだ日付として記憶されるだろう。

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「9条加憲論」をめぐって

2017-05-04 | 時評

安倍首相が3日の憲法記念日に打ち出した新たな9条改憲提案は、軍の保持を禁止する現行9条2項を温存したうえで、自衛隊の規定を追加するというもので、首相が総裁を務める自民党が2012年に公表した9条2項廃止・国防軍の創設という改憲案とは大きく隔たる「9条加憲論」と呼ぶべき新提案であった。

しかしながら、改憲派集会向けビデオメッセージという形で提起された今回の提案は、内閣総理大臣としての演説・声明ではないことはもちろん、自民党総裁としての党内会議等での演説・発言ですらない、民間改憲団体に宛てた個人的なメッセージにすぎない。

つまり、一人の改憲論者安倍晋三としての私案である。本人の認識がどうあれ、公表の形式を客観的に見る限りそうである。そういう前提で、この提案をどう受け止めるかであるが、筆者はあえて是々非々としたい。

是とする条件は、9条に追加されるという自衛隊条項が、平和主義を指導原理とする自衛隊の任務や文民統制に基づく指揮系統について憲法上十分にこれを制約し、自衛隊に対する憲法的コントロールが及ぶ内容になるかどうかである。

その点、自衛隊は創設からすでに半世紀を越え、戦後日本の公式防衛組織として「定着」を見ながら、憲法に一行も規定がなく、すべてを憲法の下位法で規定する憲法上幻の組織であることにより、憲法的コントロールが効かないまま、なし崩しに権限や組織が拡大の一途をたどり、違憲状態になりかけている。

この状態を解消し、言わば「防衛立憲主義」を実現するために、自衛隊は9条2項が禁ずる陸海空軍に該当しないことを前提に、如上のような憲法上の根拠規定を適切に置くなら、ぎりぎりで賛同できる改憲案となり得るだろう。

一方、非となるのは、自衛隊条項を単純に追加するのみにとどまったり、あるいは改憲に乗じて自衛隊の任務をいっそう拡大し、自衛隊が文民統制を破って自立暴走しかねない内容が盛られるような場合である。

私案とはいえ、最長で2021年までの史上最長期政権を窺う首相が打ち出した以上、その方向での検討が進む公算は高い。感情的に反発するのでなく、具体的成案を見たうえで、理性的な討議がなされることを期待したいと思う。

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「上皇」の時代錯誤感覚

2017-04-22 | 時評

天皇の退位問題に関する政府の「有識者会議」の最終報告で提案された天皇退位後の呼称「上皇」には驚かされる。おそらく「有識者会議」とは正確には「有職故事者会議」の間違いだったに違いない。

まだ法案化されたわけではないとはいえ、恒例の結論先取り的なやり方からして、最終報告の線で法案化される公算は高い。もし「上皇」が誕生すれば、200年前の光格上皇以来の復古となるというのだから、時代錯誤も極まれりである。

上皇とは太の略であり、元来は天皇より上に位置する地位であった。初代の持統上皇は譲位した年少の孫・文武天皇の後見役として初めてこの職を創設し自ら就任、引き続き女帝として実権を保持していた(その経緯については拙稿参照)。これにより、不安定だった皇位継承制度を確実にしたのである。

このように上下二人の天皇が並存するような仕組みから、平安時代には院政のような二重権力支配の弊を生じたわけであるが、院政の代名詞である上皇を現代の象徴天皇制の時代に復活させる感覚は理解し難い。神権天皇制の明治憲法下ですら上皇は復活しなかったのに、象徴天皇制の時代になぜ上皇復活か。

今般の退位問題は、いかに会議の正式名称を「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」などとぼかしても、平成天皇の「定年退職」の可能性を開くための策として出てきているものである以上、院政のイメージの強い上皇はふさわしくなく、象徴天皇制に適合した策を考えるべきだろう。

最も端的なのは、特別な称号なしというものである。天皇を辞めれば平の皇族に戻る。それでは寂しいというなら、私案であるが、「先皇(せんのう)」「先皇后」という対語はどうだろう。前の天皇を「さきのみかど」と呼ぶことは古くからあったようであり、必ずしも新奇な表現ではない。まさしく先代天皇・皇后の呼称である。

もっと言えば、自ら天皇の地位を去るなら皇族ですらなくなるということが最も民主的だが、年金制度もないゆえに老後の生活問題に直面する。特別な年金や邸宅を公費で支給すれば、貴族制度の廃止を定めた憲法14条に違反する疑いも生ずるため、皮肉にも平等原則を守るために「先皇」「先皇后」は皇族として扱わねばならない。

不可解なのは、筆者の知る限り共産党のような革新野党も上皇復活論に特別な反応を示していないことである。幻の「野党連合」構想のために、天皇制をめぐる議論の矛も鈍っているなら、それは根本的な次元での時代感覚の緩みである。

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「遡及逮捕」と無罪推定

2017-04-16 | 時評

千葉県下で外国籍の少女が誘拐・殺害された事件は、地元小学校保護者会長氏が死体遺棄で逮捕されるという衝撃的事態に発展した。ミステリードラマ顔負けの思いがけない人物だったため、注目の高さはわかるが、現時点では「死体遺棄」の容疑にとどまっている。

最近の警察の殺人事件捜査として、このように時間的には後の死体遺棄容疑でまず逮捕し、取調べを経て本命の殺人罪で再逮捕するというやり方が常態化しているようである。これは別件逮捕とまで言えないが、本来一体的な殺人・死体遺棄を分割して、後ろの死体遺棄から遡っていくというややずるいやり方である。

業界的にどう呼ぶのか知らないが、あえて言えば時間的に遡る「遡及逮捕」である。おそらく本命の殺人容疑が固まっていないので、まず簡単な死体遺棄で挙げておいて、取調べで殺人を自白させてからおもむろに殺人罪で逮捕しようという算段なのだろう。その限りでは、別件逮捕の変則版とも言える。

そもそもすでに拘束した人を(釈放せずに)「再逮捕」するというのも手品のようで不思議な日本の慣例であるが―すでに留置されている人に改めて逃亡や罪証隠滅の危険は生じないはずだから―、それをおいても死体遺棄から遡るやり方は自白偏重捜査の名残ではないかと懸念される。

だが、もっと問題なのは、死体遺棄で逮捕されただけで早くも殺人の「犯人」と断じて、報道洪水を起こすメディア総体である。このような推定無罪無視の早まった犯人視報道は日本の犯罪報道の宿痾だが、いっこうに正される気配がないのはどうしてだろうか。

こうした報道悪習が数々の冤罪事件を生み出してきた歴史は、顧みられていない。冤罪確定の時だけ一転して「さん」付けでもって名誉回復報道をしても時遅すぎ、かつ白々しい。たとえ今回は冤罪でないとしても、推定無罪は全事件において貫徹されるべき例外なき鉄則である。

〔追記〕
千葉県警は5月5日、上述被疑者を殺人とわいせつ目的誘拐などの疑いで再逮捕した。ただし、本人は当初否認、その後は黙秘しているとされる。

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「ハンバーガー外交」を

2017-04-12 | 時評

朝鮮戦争危機をメディアで煽る専門家を称する人々には辟易する。専門家というなら、なぜ軍事衝突を回避するための知恵を出さずして、戦争シナリオばかり並べてみせるのか。

思えば、第三次世界大戦化の危険もあった朝鮮戦争が休戦して60年以上が過ぎ、戦争の惨状を知る人も少なくなった。当時を知る人なら、戦争危機を煽るような真似をしないだろう。戦争を知らないから、ゲーム感覚でシナリオを描いてみせることができるのだ。これこそが、本当の「平和ボケ」症状である。

その点、トランプ大統領は選挙中、朝鮮の金正恩委員長と“ハンバーガーを食べながら”核交渉したいと言っていた。また、プーチン大統領を好感し―その是非はともあれ―、対露関係改善を目指すことも事実上の公約だったはずだ。いずれにせよ、首脳の対話で危機を解決するのは良いことである。

もっと熾烈だった米ソ冷戦時代ですら、米ソ首脳が対話で危機を回避した事例は、キューバ危機(書簡外交)をはじめ数多い。冷戦終結直後、93‐94年の朝鮮半島危機でも、当時のクリントン政権はカーター元大統領を特使として派遣し、金日成主席(当時)と直接交渉して危機を収めた。

近年の首脳たちは友好国同志なら必要以上に「蜜月」を過剰演出する一方、敵対国相手となると直接対話を避け、互いに非難の応酬を繰り広げることが多い。為政者らもコミュニケーションが苦手な傾向にあるのかもしれない。

トランプの公約に良い点があったとすれば、首脳対話で解決しようとする姿勢の一端が見えていたことだが、どうもここへ来て撤回され、安易な軍事攻撃で事を済まそうとする流れが見える。早くも見えてきた政権の行き詰まり打開策だとすれば、あまりにもあざとい。

「ハンバーガー外交」、大いに結構ではないか。少なくとも、アメリカは正副大統領経験者級の特使を派遣して、説得に当たることくらいはできるはずである。

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「非核諸国運動」の結成を

2017-04-08 | 時評

国連の核兵器禁止条約をめぐり、核保有五大国及びその追随諸国と非核諸国の対立が鮮明になってきている。五大国が参加しない条約は無意味との批判もあるが、条約の成否はこの際、関係ない。むしろこの機をとらえ、非核諸国は合同して非核を旗印とした「非核諸国運動」を結成すべきだ。

これは冷戦時代の産物としてすでに形骸化し切った非同盟諸国運動に代わる多国間運動として、21世紀的意義のあるものと思う。言わば、国連内野党勢力の結集である。世界を統合すべき国連が「与野党」に分裂するのは国連の失敗とも言えるが、失敗の中から未来の非核世界共同体を展望できる成功の石を拾うとすれば、非核諸国運動をおいてほかにはない。

この運動は首脳会議や外相会議などの正式な会議機能を備え、必要に応じて共同声明や国際紛争などに対する一定の平和的協調行動も取れる体制を備えることが望ましい。それらがセレモニーに終始しないためにも、各国の非核市民運動と連帯して、民衆との結合も図るべきだろう。

ところで、この運動において史上唯一の被爆国・日本はどちらの陣営に属するのだろうか。残念ながら、核兵器禁止条約の交渉への参加をボイコットした日本政府の立場は、核保有五大国の追随勢力側にあることになる。

これは公式標榜上「核廃絶」を唱えつつ、防衛政策上はアメリカの核の傘に依存するという表裏二重路線を採るからであって、その意味で日本は国としては真の意味での非核国ではなく、南太平洋非核地帯条約に参加しながらアメリカの核の傘に依存するオーストラリアなどと並び、「核傘下国」という新分類に包含される立場である。

しかし、ひとたび戦争となれば最も無防備な草の根日本国民のレベルでは、非核諸国運動とともにあるべきであろう。国策とはねじれが生じるが、憲法の平和的生存権がそれを支持する。だからこそ、改憲勢力は平和的生存権を憲法から削除しようと目論んでいるのだろう。「非核諸国民運動」も必要である。

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「自己責任」は死語に

2017-04-06 | 時評

「自己責任」なる用語はいつ頃から普及し始めたのだろうか。少なくとも、昭和の時代にはほとんど聞いたことがない。おそらく市場主義・脱福祉国家主義に傾斜した小泉政権時代の頃だろう。それにしても、曖昧模糊として徘徊する怪語とも言うべき言葉で、外国語への翻訳はほぼ不能と思われる。

もっとも、self-responsibility という英語がないわけではないようだが、定義を明確にした文献資料は見当たらなかった。それどころか、日本語の「自己責任」(jikosekinin)の英訳説明用語としている例すらあり、相当に日本独自の用語と見える。

強いて英訳すればself-help、もっと砕けばDo it yourself.ということになろうか。少なくとも、会見で大臣の責任を追及した記者を罵倒した復興大臣閣下が原発避難者に向けた際の「自己責任」はこの意味に解釈できる。すなわち、避難指示によらず自主的に避難した者たちは今後の生活を自助でまかなえというわけである。

しかし、「自己責任」は海外の渡航危険地域に自主的に立ち入った邦人が現地武装勢力に拘束・殺害された場合にまで拡大適用されるようになっている。これは明らかに用語の乱用である。思えば、このような用語の乱用も小泉政権下でのイラク人質事件が初発であった。

そもそも「自己責任」という用語が持ち出される場面に共通しているのは、人を保護・救済すべき公的責任を縮小・放棄しようとする狙いのある場合である。原発避難者の場合も、説得力を欠く一方的な安全宣言により避難指示を解除したことをもって避難者救援策を打ち切ろうとする局面で飛び出した言葉である。

「自己責任」をそういうエクスキューズの公用言葉だと受け止めれば、合点がいく。そうとすれば、少なくとも一般社会ではこのような怪語は使用を止め、死語にしたほうがよい。そして、「自己責任」を振りかざす無責任な公職者に対しては、公職者としての「自己責任」を取って、次回選挙で去ってもらうことである。

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テロ等準備罪と敵基地攻撃論

2017-04-01 | 時評

春本番にはふさわしくない不穏な表題の二題はそれぞれ治安と国防に関わるテーマであり、位相が異なるように見えるが、根底には共通根がある。それは、いずれも対象が組織犯罪なり武力攻撃なりの準備を始めた段階で国家権力を発動し、これを未然に防圧しようとする発想に基づいている点である。

理屈のみで考えれば、重大な策動を準備段階で抑え込もうとするのは合理的であるように思える。しかし、準備には様々な段階と態様とがあり、しかも重大な策動ほど準備も密行的に行なわれるから、当局がそれを的確に把握することは技術的にも難しい。ともすれば、当局側も密行的な諜報手段で対象を監視し、内情を探知する必要が出てくるし、そのためには盗聴・盗撮・電子記録盗取のような危うい手段を駆使しなければならないだろう。

その点、戦後と戦前の日本を分ける大きな特徴として、国家権力が我慢強くなったことがある。つまり、治安でも国防でも、国家権力の発動をぎりぎりまで自制するということである。戦前なら、公安を害するおそれがあるというだけで人を予防拘束することさえできたし、敵基地攻撃は攻撃的軍備を保持していた戦前なら当然の戦略的選択肢であった。

しかし、戦後は国家権力の発動を自制する論理が支配的になった。治安に関しては、実行行為の概念がそれである。すなわち何者かが犯罪の実行行為に出ない限り処罰しないという原則である。国防に関しては、厳格な専守防衛論がそうした「自制」の理念となってきた。

ここへ来て、そうした「自制」の理念が取り払われ、非常に気の早い権力発動への衝動が高まっているよう見える。その背景として、国際テロリズムとか近隣諸国の危険な軍事行動などの事象があることは理解できるが、実際のところ、そうした危険事象に対して早まった権力発動をしても効果は薄く、むしろ逆効果的である。

そうした国家の衝動を抑制する如上の諸理念が効かなくなっているなら、改めて国家権力を縛る憲法の諸原則に立ち返る必要が出てくるが、それも近年の憲法軽視の風潮により無理となれば・・・

そもそも国家という観念自体の揚棄を試みるほかはない。国家という怪物は本来、自己増殖しようとする性質を備えているものだからである。こんな言説自体が「テロ等準備行為」に該当する・・・などということにならないためにも、与野党ロー・メーカー―とりわけ与党の―には賢慮が求められる。

(補記)
自民党が先月末に政府に提出した提言では、「敵基地反撃」の語が使われているが、これは外国から武力攻撃を受けた後に、第二撃を抑止するための反撃という趣旨であって、先制攻撃ではないという。しかし、第二撃以降に関してはそれを先制抑止する狙いがある以上、これも先制攻撃の亜種にほかならない。「共謀罪」を「テロ等準備罪」に言い換えたことと同類の名称操作である。

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政府独立調査委員会を

2017-03-30 | 時評

このところ数か月も連日のようにメディアを賑わせてきた防衛省「日報」隠匿問題、M学園国有地不当取得問題、さらに東京都の豊洲市場不明瞭移転問題などはいずれも少なからぬ登場人物が複雑な相関関係を形成していたり、行政首脳部周辺の関与も取り沙汰されたりする難題である。

そのため、市民の関心が高いわりに解明は進まない。これらのケースはいずれも明確に犯罪行為と言える要素が少ないため、捜査機関が直ちに捜査着手するような事案ではない一方で、党派性の強い議会の調査では与野党間の綱引きに陥り、うやむやに終わりやすい。市民の苛立ちは募り、次第に諦めの境地に達する。

しかし、犯罪捜査でも議会調査でもない第三の方法がある。それが表題の政府独立調査委員会である。これは特定の問題の調査のためだけにそのつど政府(自治体も含む。以下同様。)が設置する非常設型の調査委員会であるが、その調査は政府や議会から独立して中立に行なわれる。委員長をはじめ、調査委員は全員が法律家や会計士、さらには問題の内容に対応する分野の専門家で構成される。

その調査は違法行為ばかりでなく、違法でないが不当な行為にも広く及ぶ。そのため調査は基本的に任意であるが、正当な理由のない調査への協力拒否には罰則が科せられる。その点では最高執権者やその親族、政府閣僚、自治体首長らも例外たり得ない。また必要に応じて証拠提出命令及び裁判官の令状に基づく証拠保管場所への立入り調査の権限も保持する。

独立調査委員会の調査はすべて非公開で行なわれるから、「証人喚問」のようなハイライトはないが、その代わり、委員会の詳細な調査報告書は政府及び議会に提出されることはもちろん、一般公開もされ、閲覧に供される。

ちなみに、近年各方面で不祥事に際してよく見られる「第三者委員会」と「独立調査委員会」は似て非なるものである。「第三者委員会」は法律上の根拠にも独立性にも欠け、如上の強力な調査権限も持たない臨時の諮問機関的な制度に過ぎず、その設置動機もたいていは世論対策的なアリバイ作りの不純なものである。

独立調査委員会の設置は法律に基づいて行なわれるが、実際の設置は政府の判断となるため、政府が設置を頑なに拒否する事態もあり得る。そこで、例えば議会の三分の一以上の要求があれば、政府は委員会の設置義務を負うというように、低いハードルのもとに議会側の要求で設置を強制することもできるようにすることが望ましい。

このような洗練された調査制度が存在しない国は、民主主義の現代的な水準を満たしていないと疑われてもやむを得ない。さらに付け加えれば、党派的な議会調査を劇場的におもしろおかしく取り上げ、芸能仕立てにするメディア慣習は、民主主義の質を著しく劣化させていると言わざるを得ない。

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