補遺1
今回は、前回までの本文では論じ切れなかった問題を補足しておきたいと思います。それは裁判員制度の制定と同時期に前後して行われた二つの法改正についてです。
その二つとは、検察官の不起訴処分の当否をくじで選ばれた一般国民が審査する検察審査会(以下、検審という)の権限が大幅に強化され、検審の「起訴相当」議決に強制的逆転起訴という強い効力が認められたこと、裁判員制度の対象事件の大半をカバーする重大凶悪事件で、被害者(遺族を含む)やその委託を受けた弁護士が裁判に参加し、被告人質問や証人尋問、さらには実質的な求刑までできる「被害者参加」の制度が刑事訴訟法上に創設されたことです。
前者の検審の制度は、戦後の司法改革の中で、検察官の権限を民主的にコントロールする目的から創設されたものですが、元来は「不起訴不当」「起訴相当」いずれの議決にも拘束力は認められていませんでした。
しかし、裁判員制度の制定と同じ2004年の法改正では、検審の「起訴相当」議決に拘束力が付与されたうえ、検察官の再捜査・再度の不起訴処分をはさんで二度の「起訴相当」議決がなされると、強制的に起訴される仕組みが導入されたのです。これはもはや検察官の権限統制という本来の目的を逸脱して、一度でも被疑者と目された犯人らしき者は必ず罰すべきだという必罰主義的な観点に立ちつつ、一般国民を動員し、検察官の不起訴処分を覆してしまう新たな制度装置であって、その趣旨は裁判員制度とも共通する連動的な制度です。
この制度の恐ろしさは、検察官が二度にわたり不起訴とした案件が検審の議決だけで自動的に起訴されてしまい、被告人はそれに対して異議申し立ても許されないということです。検察官が二度も不起訴にしたからには、有罪判決を導くだけの証拠に欠ける可能性が高いのに、検審の大雑把な審査だけで自動的に逆転起訴されてしまうのです。これでは、検審が“冤罪製造マシーン”と化してしまう日も近いでしょう。
もう一つの「被害者参加」は、従来の刑事裁判では被害者がカヤの外に置かれてきたという認識に基づく殺人被害者遺族らが結成した団体が中心となって運動した結果実現した新しい制度です。
この制度の最大の眼目は従来、検察官が専権的に行ってきた求刑を被害者側も検察官とは別個独自に行えるようになった点にあります。この場合、被害者側は検察官の方針にとらわれず、自由に意見できるので、検察官の求刑より重くも軽くも求刑できます。
ただ、制度導入の経緯から言っても、この制度を通じて表出される被害者側の意見はほとんどの場合、厳罰を求める方向に傾きがちであることは否めないでしょう。
加えて、この制度の下で被害者側の委託を受けた弁護士が関与してくるときは、被害者側に立って被告人を追及する立場から被告人質問や証人訊問を繰り出し、検察官的に振舞うことになるため、被告・弁護側は本来の検察官と被害者側弁護士というあたかも二種類の検察官を相手にするかのような形となり、防御上の負担が二重にのしかかってもきます。
如上の二つの制度は、裁判員制度と組み合わさって、同時に発動されることがあります。その場合に想定され得る最も懸念すべきシナリオは以下のようなものです。
凶悪殺人事件で逮捕された被疑者について、検察官は証拠不十分と見て不起訴処分とします。しかし、その結論に納得のいかない被害者遺族の請求で検審による審査が開始された結果、検審は「起訴相当」の議決をします。これを受けて検察官が再捜査したところ、結果はまたしても不起訴。そこで、検審の再度の審査にかけられた結果、こちらは再び「起訴相当」の議決で、被疑者は強制的に逆転起訴されます。
殺人事件は裁判員裁判の対象中の対象事件ですから、被告人は選択の余地なく裁判員裁判にかけられます。こうした強制起訴によった場合、訴追役を務めるのは通常の検察官ではなく、裁判所が選任する指定弁護士と呼ばれる弁護士になります。
捜査段階から一貫して無実を訴えている被告人は全面的に起訴事実を争い、無罪を主張します。元来証拠不十分で検察官が二度も不起訴とした案件ですから、訴追側指定弁護士は初めから守勢に立たされています。
ところが、そこへ被害者参加制度を利用して被害者遺族が参加、名状し難い感情を吐露し、「被告人は反省もせず、嘘をついて刑を逃れようとしている。死刑判決でなければ私は自殺する」と涙ながらに訴えます。これが功を奏したか、判決は意外や有罪・死刑。
被告・弁護側は即日控訴しますが、裁判員裁判における控訴審は一般国民の意識が反映された一審判決を尊重して極力破棄しないとの最高裁方針に従い、控訴は棄却されます。被告・弁護側は上告に及ぶも、元来上告理由は限られているため、あっさり棄却。その結果、死刑冤罪という最も深刻な冤罪が確定してしまいます。
このように、裁判員制度と検審による強制起訴、被害者参加は、いずれも一般国民の「司法参加」という一見して「民主的」な体裁をとりながら、三位一体で被告人を有罪・厳罰へ流していく―冤罪の現実的危険を孕みつつ―新たな社会管理の装置として配備され、動き出しているのです。