粛清考
2013-12-14 | 時評
師走の朝鮮民主主義人民共和国で行われた電撃的かつ冷酷な粛清。その経緯や細かな背景分析は「ウォッチャー」に譲るとして、もっと大きな視点でこうした政治的粛清をとらえれば、それは足元でも見つかる。
2005年のいわゆる「郵政解散」総選挙で与党執行部が断行した「刺客」擁立作戦も、執行部に刃向かう議員の政治生命を絶った粛清の一種である。文字どおりに生命を絶つ粛清との違いは小さくないとはいえ・・・。
こうした反党分子排除という手法は、イデオロギーを問わずおよそ政党組織に付き物である。政党は特定の政治的価値観を共有する同志の結合体というタテマエから、異分子を排除する構造になりやすい。
中でも、レーニン主義の影響を受けた共産党ないしその亜型政党では、一枚岩的団結がことのほか重視され、分派は容赦なく粛清される。レーニンの後継者スターリンはそうした粛清を大規模に行い、独裁体制維持の手段として大々的に活用した。朝鮮はスターリン主義の最後の継承者である。
例外的に、アメリカの二大政党は政党というよりも大雑把な政治的傾向と利害関係で結びついた政治クラブ的な性格が強く、相互転籍もしばしばあり、反党行為者への粛清はない。その代わり、選挙戦では両党間での非難中傷の潰し合いが常態化し、しばしば日常政治にも延長戦的に持ち込まれる。
全般に、政党は内外の異分子に対して寛容ではない。そうした非寛容さは、民主主義と両立するものではない。教科書的には政党は民主主義の代名詞と扱われるが、実際のところ、政党は民主主義を腐食させている。
真の民主主義の地平にたどり着くためには、多党制か一党制かを問わず、政党政治は解消されるべきである。一般通念に反し、「政党なき民主主義」は決して概念矛盾ではなく、民主主義の同語反復である。