第二章 独自社会の発展(続)
【6】琉球王国の成立
沖縄のグスク戦国社会では、13世紀後半頃から王と呼ぶべき有力首長が台頭し、次第に統一王国形成へ向けて動き出す。琉球正史上最初の王朝とされる天孫氏王朝は、おそらく沖縄の農耕革命をもたらしたのが天孫降臨神話を携えた九州からの移住民集団であった事実を反映する神話と思われるが、13世紀後半に浦添グスクに拠ったと見られる英祖王はある程度実在性が推定できる最初期の有力首長である。
しかし、5代90年に及んだとされる英祖王統の勢力範囲は明らかでなく、英祖王統滅亡後、沖縄本島は中部・北部・南部の三つの地域王権が鼎立するいわゆる三山時代に入る。
三山の首長たちは独自に中国の新王朝・明と朝貢関係を持ち、それぞれの王として冊封された。やがて、元来は南山に属する辺境の佐敷按司にすぎなかった尚巴志が武力で三山の首長を次々と滅ぼし、1429年までに統一王朝(第一尚氏王朝)の樹立に成功した。彼は中山の首都であった首里(那覇)を王都とし、首里城を王宮として拡張した。以後、琉球王国は首里を中心に確定する。
第一尚氏王朝は確証できる沖縄最初の統一王朝として、引き続き明との朝貢貿易や、室町幕府体制の日本とも外交・貿易関係を持ち、琉球王国の基礎を築いたが、その出自から地方按司らを完全に統制できるだけの権威を確立できず、政情は不安定であった。
1469年、第6代尚泰久王の有力な重臣であった金丸が第7代尚徳王の死後、重臣らの推挙で王位に就き、尚円を称して新王朝を開いた。これが第二尚氏王朝であるが、金丸は元来伊是名島出身の農民の子とされ、血縁上第一尚王家とのつながりはない。また、尚円の政権掌握後、第一尚氏一族が粛清されていることからしても、王朝創始の経緯はクーデターと見られ、第二尚氏王朝は簒奪王朝であっただろう。
その第二尚氏王朝も当初は安定しなかったが、尚円王の長男で第3代尚真王の時に中央集権制を確立し、16世紀に入るとまだ独立状態であった先島諸島にも手を広げる。1500年には石垣島の支配者オヤケアカハチを攻め滅ぼしたのに続いて、22年には与那国島も征服して、王国版図を南に拡大することに成功した。
以後、琉球王国はこの第二尚氏王統で確定する。第二尚氏王朝下でも明との朝貢貿易の伝統は引き継がれ、同王朝前半期の琉球は中国、日本、東南アジア方面をつなぐ中継貿易を基軸とした港市国家として経済的にも繁栄した。それは武家政権の日本とは性格を異にする独自の島嶼王国であった。