第二章 独自社会の発展
【4】グスク時代の始まり
南の辺境にあって狩猟採集社会が長く続いた沖縄社会では本土の平安時代末期の12世紀頃になると、稲作を軸とした農耕が開始される。
どのようにして沖縄の農耕社会が開始されたかについてはなお未解明であるが、この頃を境に沖縄人の人類学的形質そのものが弥生時代以降に現れた本土農耕民と同型に変化し始め、現在に至っているところからすると、本土の平安時代末期以降、九州を中心とした本土からの農耕系移住民が大量化し、先住沖縄人と通婚・混血して新しい沖縄人が形成されたと考えられる。言語的にも、沖縄語は本土日本語の方言ないしは同語族系言語に変化する。
これは、沖縄社会にとっては形質的な変化に加えて、言語・文化面にも及ぶ社会革命の始まりであった。それは社会編成のあり方にも大きな変革をもたらした。13世紀に入ると、各地にグスクと呼ばれる城塞が多数出現する。この建造物の用途に関しては聖域説・集落説・城館説等の学問的な論争が続いているが、おそらくそのすべての機能を兼ねた地域首長の拠点であったろう。
やがて按司と呼ばれるようになるこれら地域首長は農村集落の長でもあり、農業生産を統括しつつ、グスクに拠って相互に抗争し合ったと見られる。こうした大小様々なグスクが沖縄全域で300以上も確認されていることからして、グスク時代初期はこれら按司が勢力を張り合う一種の戦国時代であったと考えられる。
この間、本土の古墳時代におけるような大規模墳墓の築造がなされた形跡はないが、社会段階としては各地に農耕王としての首長が割拠した本土の古墳時代前期のような状況にあったのが、沖縄のグスク時代であったと言えよう。
【5】アイヌ社会の形成
北の辺境・北海道でも11‐12世紀になると、変化が生じてきた。本土のヤマト国家は8世紀以降、東北地方へ勢力圏を拡大し、この地方に割拠したエミシ勢力掃討作戦を断続的に展開して強制移住もしくは俘囚化政策を進めた結果、10世紀までには一種の民族浄化が完了した。しかし、北海道のエミシ勢力はこうした掃討作戦の手を免れて存続していたのだった。
エミシの呼び名も本土の中世以降、エゾに変化していったが、この頃までには北海道エミシは文化的にも続縄文文化から擦文文化の時代に変化していた。これが後のアイヌ民族社会の基層となったと考えられる。
ただし、沖縄と異なり、当時の農耕技術では稲作に適さなかった寒冷地・北海道では本土農耕民の移住の波は生ぜず、農耕社会への移行は見られなかった。擦文文化時代には農耕も広がるとはいえ、主産業とは言えず、基本的には狩猟採集社会が続く。また形質的にもアイヌ民族は本土の和人とほとんど混血せず、独自の形質が長く維持されたのであった。
かくしてアイヌ社会は沖縄のグスク時代のような農耕首長の割拠する社会とはならなかったが、族長を中心に地域的な集団が形成され、有事に際しては団結する緩やかな連合が形成されたようである。
かくしてアイヌは伝統的な社会文化を保持しつつ、族長層を中心に和人勢力と活発な交易関係を持ち、商業民族としての性格を強めていくのである。