第9章 南北アメリカの大土地制度改革
(3)メキシコ革命と農民
19世紀前半、周辺諸国とともにスペインからの独立を果たしたメキシコでも、独立運動は自身もアシエンダ農場主であるクリオーリョによって主導された。独立後のメキシコ帝国初代皇帝となった軍人アグスティン・デ・イトゥルビデ(アグスティン1世)もそうした一人であった。
もっとも、19世紀後半には債権国列強の属国状態からの自立化に貢献した先住民系農民出自のベニート・フアレス大統領が出て進歩的な改革を試みた。フアレスは畑の見張りや下僕から身を起こして法律家となった立志伝中の人物であったが、その改革政策の内実はブルジョワ民主主義的なものにとどまり、農地改革には切り込めなかった。
そのフアレスが道半ばで急死した後は政治経済の反動化が進み、1876年にはポルフィリオ・ディアス将軍がクーデターで政権を奪取し、以後断続的に30年に及ぶ独裁体制を敷いた。ディアス体制の農地政策はアシエンダをいっそう拡張する反動的なものであった。
彼は19世紀半ばのアメリカによる侵略戦争で領土を割譲した結果、農場を失ったアシエンダ農場主たちを慰撫するため、アシエンダ拡張を推進したが、その際、近代的な土地登記制度を制定し、先住民の伝統的な共同体農地を接収、アシエンダ農場に売却する方法で先住民の土地を収奪した。それは農民のほぼすべてが土地を喪失するほど徹底した収奪政策であった。
これ以降、農民たちにとっては奪われた土地の回復が民族的課題となる。ディアス体制はそうした農民運動を弾圧したが、これに対し新興農場主層に出自した元ディアス支持派のフランシスコ・マデロが反旗を翻し、ディアス独裁体制打倒の狼煙を上げた。これが1910年以降、10年にわたって続くメキシコ革命の端緒となる。
ただ、メキシコ革命における農民の立場は微妙であった。革命初期に大統領となったマデロは表向き農民寄りの姿勢を示したが、元来保守的な農場主出自であり、就任後は守旧的立場を採ったため、農民層を代表していた革命家エミリアーノ・サパタと対立した。
実はサパタも農場主出自だったが、先住民との混血メスティーソであり、先住民への共感があり、早くから先住民の土地回復支援運動に取り組んでいた。革命勃発後は「土地と自由」の理念に基づき、農民の土地回復を謳う綱領を掲げる左派として台頭していた。
この「土地と自由」は直接には同時代メキシコの代表的なアナーキストであったリカルド・フロレス・マゴンに影響されたものとされるが、「土地と自由」はロシアのナロードニキの理念とも重なる。サパタの思想はひとことでは規定できない複雑なものであるが、社会主義というよりはアナーキズムであり、彼が革命左派を代表した結果、メキシコ革命は総体として社会主義革命としての性格が希薄なものとなった。
ともあれ、サパタは革命渦中で保守的なマデロ、そのマデロを打倒した反革命派に対して武装闘争を展開したが、左派排除を狙う中道派の計略により殺害されてしまう。しかし、サパタ綱領の精神は革命を収拾した中道派ベヌスティアーノ・カランサ大統領が主導した新憲法に反映されることとなった。
カランサ政権は農地改革の支柱としてエヒード制を導入した。エヒード制は土地の無い農民と地主の間を政府が仲介し、政府が収用した農地に相続可能な耕作・収穫権を設定するという社会主義的な国有農場と伝統的農地共有制の中間のような制度であった。
とはいえ、当初はこれとて遅々として進まなかったが、革命終息後10年以上を経た1934年に大統領に就任したラサロ・カルデナスの下で、総面積2000万ヘクタールに及ぶ農地のエヒード化が推進された。
この制度は政府の仲介過程での汚職や不法なエヒード売買などの不正行為の元ともなり、1992年の憲法改正により実質廃止されるが、それまではメキシコ革命を終息させ、一党優位体制を確立した制度的革命党の基本政策であった。
なお、エヒード制廃止と農地私有化は新たな農民問題を生み、再びサパタの精神が参照され、彼の名を冠した農民蜂起を呼び起こすのであるが、これについては最終章で改めて取り上げることとする。