Ⅱ 悪魔化の時代
教義宗教の障碍者観
前章では、不具者が神秘的に受容されていた時代を見たが、それはおおむね先史から古代にかけての時代的特徴だったと言ってよい。このある意味では不具者にとって幸せな時代を終わらせる転機となったのは、教義宗教の発達という新現象であった。
教義宗教とは、伝統的なアニミズムあるいはそこから発展した多神教の習俗的宗教に対し、特定の開祖を持ち、体系的な教義や戒律をもって信者を教化する宗教のことであり、その代表例が中東に発祥したキリスト教やイスラーム教、アジアの仏教などである。
これらの教義宗教は、規範性を欠き、叙事的な性格が強い多神教的宗教とは異なり、あるべき完全な人間像を提示する規範性を志向するため、心身の健常さを欠く者に対しては必ずしも好意的ではない傾向があり、それまでおおらかだった人々の障碍者観にも大きな変化をもたらした。
ただし、宗教教義は各宗教により、また細かくは各宗教内宗派によっても差異があるため、すべてを包括して議論することは不可能であり、上掲の代表的な三大宗教もそれぞれに障碍者観は異なっている。
とはいえ、これら宗教の名誉のために予め言っておけば、どの宗教においても初めから意図的に障碍者を差別・排斥する教義を持っていたわけではなく、むしろ後世における後付け的な宗教思想が差別の根源を成している。
このうちキリスト教では、中世において悪魔思想と結びつき、障碍者をサタンの子とみなしたり、悪行に対する神の審判の結果などと否定的に解釈するような差別思想が普及するようになった。中でも精神障碍者はまだ「精神障碍」という医学的な把握の仕方が想定外であった時代にあって、その一見奇矯な言動が容易に悪魔化される運命を回避できなかった。
他方、仏教では因果応報の観念が障碍者差別の要因となったと見られる。障碍は前世での悪行に対する報いといった観念からすれば、障碍者は忌避すべき存在となり、その親族にとっても恥辱的な罪業ということになりかねない。
もっとも、前章で見たとおり、古代の神話には生まれた障碍児を遺棄するというストーリーもまま見られるので、障碍児を忌避する風潮は古来なかったわけではないようであるが、障碍に対する否定的な意味づけが発達したのは教義宗教の普及以後のことである。
これらに対し、イスラーム教教義は趣きを異にする。イスラームは因果応報に代表されるような輪廻思想やキリスト教的な原罪思想も認めず、あらゆる事象を神の意思にかからしめるという徹底した神意予定論であることから、障碍もまた神の意思によることであり、ありのままに受容すべきものとなる。
このようにイスラームでは障碍が悪や恥と認識されることはないとはいえ、障碍者はイスラーム的な相互扶助の義務に基づき施しを受けるべきものとされ、必ずしも完全対等な扱いを受けていたわけではない。
こうして、イスラーム教を除く二大教義宗教の普及は障碍者にとっては受難の時代―ここでは「悪魔化の時代」と規定する―を招来することになったと言えるが、このことは障碍者が完全に排斥されたことを意味するものではない。