ザ・コミュニスト

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民衆会議/世界共同体論(連載第28回)

2018-01-29 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第6章 世界共同体の理念

(4)グローバルな参画民主主義
 世界共同体は世界民衆のネットワーク機構であり、グローバル民主主義の実践の場である。しかし、グローバル民主主義という理念は、現状では恒久平和と同じくらい観念的な夢想にすぎない。
 現行の国家体制にあっては、「民主主義は工場の門前で終わる」とともに、「民主主義は国境線の内側で終わる」。すなわち資本制企業の内部に民主主義は届かず、なおかつ国境を越えて民主主義は展開されない。民主主義は、政治という狭い場で―それも「議会制限定民主主義」の限度で―、かつそれを標榜する国内でしか適用されず、国際社会は主権国家間の談合か戦争の場でしかないのだ。
 もっとも、しばしば米欧に主導された国際社会が独裁国家と名指された諸国に「民主主義」を軍事的に強制しようとするが、このように横槍的に強制される「民主主義」は侵略的軍事介入の口実でしかなく、ここで言うところのグローバル民主主義とは無関係のしろものである。
 世界共同体は、「民主主義」の口実的な標榜を排し、かつこのような民主主義の狭い限界を乗り超えて、民衆主権の理念に基づき、地球規模で参画民主主義を展開することを目指すグローバル民主主義の実践体でもある。そのためにも、世界共同体はそれ自体が民衆会議―世界民衆会議―によって運営されなければならないのである。
 最終的に完成された形態においては、世界共同体はその総会を兼ねた世界民衆会議をベースとして、それを構成する各領域圏の民衆会議が有機的に結びついた民際ネットワーク機構として機能することになる。そのため、本連載のタイトルも当初は『世界共同体/民衆会議論』を予定していたのであるが、世界共同体の核心も民衆会議にあり、民衆会議が起点となることから、タイトルを『民衆会議/世界共同体論』へと中途変更した次第である。
 このようなグローバル民主主義は恒久平和の必須条件でもあり、恒久平和の機構化である世界共同体はグローバル民主主義の実践体でもあるという意味において、グローバル民主主義と恒久平和とは等価的である。

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民衆会議/世界共同体論(連載第27回)

2018-01-29 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第6章 世界共同体の理念

(3)恒久平和の機構化
 およそ200年前にイマヌエル・カントが提唱したような常備軍の存在しない恒久平和は理念としてはなお尊重されているが、それが実現された試しはない。特に現在のように200近くにも及ぶ主権国家が地球上に林立・競合する状況では、かえって恒久平和の実現からは遠ざかっていると言わざるを得ない。
 20世紀の二つの世界大戦は、第一次大戦後の不完全な成果であった国際連盟を経て、現在の国際連合(国連)という地球規模の安全保障機構を生み出したが、この機構は元来、恒久平和ではなく、当面の大戦抑止を目的とした暫定的な国際安全保障の枠組みにすぎない。
 カントは恒久平和の条件として自由な諸国家の連合と常備軍の廃止を思念したが、排他的な領土の保持を存立条件とする主権国家群が並立する限り、主権国家が常備軍を手放すことは原則としてなく、国連も、各国の常備軍保持を前提とした連合体であるにすぎない。
 国連自身が国連軍を組織する可能性は認められているが、加盟国の常備軍を没収して国連に集中する“刀狩”のような体制ではなく、加盟国の常備軍保持の権利は留保されている。しかも、核保有の特権を公認された五つの大国中心の非対称な運営機構でもあるため、核兵器の廃絶という国際平和の初歩的必要条件すら満たされる見込みはない状況である。
 それでも、国連はここまで何とか第三次世界大戦の危機を冷戦のレベルに抑止し、風雪に耐えてきたが、冷戦終結後は対テロ戦争や五大国に対抗しようとする野心的な国家による核開発という新たな危機に見舞われている。
 特に対テロ戦争は、世界大戦とは異なり、もはや国家間の戦争ではないため、主権国家の連合体にすぎない国連の枠組みでは根本的な解決がつかない。また対抗国家による核開発は、五大国にのみ公認の核保有特権を認めるという国連の不平等な構造のツケである。
 そうした国連の本質的な限界を乗り超え、恒久平和を真に実現させるためにも、主権国家という観念を揚棄して、よりグローバルな統治機構を構想する必要があるのである。
 歴史的にやや図式化して俯瞰すれば、世界共同体とは、第一次大戦後の不安定な休戦的平和の機構であった国際連盟、第二次大戦後の核兵器付きの矛盾した安全保障の機構である国際連合に続き、冷戦及び対テロ戦後に現れるべきはずの恒久平和の機構である。

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