第六章 グレコ‐ロマン奴隷制
古代ローマの奴隷大反乱
古代ローマの歴史を特徴付けるものとして、しばしば「奴隷戦争」とも称される奴隷による大反乱がほぼ30年間隔で三度記録されていることである。このことは、古代ローマでは結集すれば戦争を起こせるほどに奴隷が多く使役されていたことと、奴隷の待遇が戦争を起こさせるほどに劣悪だったことを示している。
ただし、いずれの大反乱も共和政時代に集中していることは、共和政時代の政治的な不安定性と軍事的な脆弱性を示しており、帝政時代に入るとローマの軍事力が確立される一方で、解放奴隷も増えるなど、奴隷の待遇も向上し、かつ奴隷の新規供給が困難になったことを示してもいる。
三度の大反乱のうち、最初の二度はいずれもシチリア島で発生している。シチリアは二次に及ぶポエニ戦争の結果、ローマが最初の属州として手中にした記念すべき征服領土であり、それだけにシチリアでは奴隷を酷使する典型的な大農場経営(ラティフンディウム)が導入されていた。
前にも触れたとおり、農場奴隷は待遇が悪く、とりわけシチリアのような本土から離れた征服地では衣食住も満足に提供されない有様であったから、奴隷の不平不満は爆発する必然性があった。そうした時に、シリア出身の解放奴隷エウヌスが預言者を称して反乱を煽動したのが、前135年から3年に及んだ第一次奴隷大反乱である。
反乱軍の指揮を執ったのはトルコ出身の奴隷クレオンであったが、精神的指導者と作戦指揮者を分担した反乱軍の巧みな体制は、ローマ当局を手こずらせた。しかしクレオンの戦死をきっかけに反乱は鎮圧され、エウヌスも捕縛護送中に死亡した。
しかし、それからおよそ30年後の前104年、再びシチリアで奴隷大反乱が発生する。第二次大反乱は、第一次に比べると偶発性が強く、きっかけはガリア地方の先住民キンブリ族の反乱に対処するべく、ローマ軍司令官ガイウス・マリウスが奴隷を解放して徴兵しようとしたことにあった。
その際に解放したシチリア奴隷たちが、サルウィウスなる人物に率いられて反乱を起こしたのだった。サルウィウスは30年前の反乱指導者エウヌスの後継者を自称し、第一次反乱の記憶を利用しつつ第一次反乱より長い4年を戦ったが、これもマリウスの部下であった執政官マニウス・アクィリウスによって鎮圧された。
それからさらにおよそ30年後の前73年、今度は初めてイタリア本土で史上最大規模の奴隷大反乱が勃発する。この第三次奴隷大反乱はその規模やローマ側の損害から見ても、優に「戦争」と呼び得る事態であった。その指導者は剣闘士奴隷スパルタクスである。
スパルタクスは剣闘士に多いバルカン半島の先住民トラキア人の出身と見られ、剣闘が盛んな南イタリアはカプアの剣闘士養成所に所属していた。前に触れたとおり、剣闘士奴隷は生命の危険を伴う最も過酷な境遇の奴隷であり、待遇への不満が鬱積していた。
スパルタクスと彼の同僚らがそうした境遇からの逃亡を企てたのが、この大反乱のきっかけであった。それがなぜ単なる集団脱走を越えて「戦争」に発展したかは定かでない。スパルタクスの大反乱はしばしば後世の史家によって美化され、階級戦争の初例として挙げられることもあったが、一競技者にすぎないスパルタクスらにそこまで覚醒された問題意識があったかどうかは疑わしい。
とはいえ、前二回の反乱のように扇動者的存在はいなかったにもかかわらず、反乱軍は様々な種類の奴隷を糾合して最終的に推定30万人規模にまで膨れ上がり、まさしく奴隷の階級的蜂起の様相を呈したことは間違いない。またスパルタクスは扇動者としてより軍事指導者として優れており、反乱軍は規律と統制が取れていたと評されている。
しかし、スパルタクスの盟友であったクリクススが何らかの対立から離脱行動を取ったことに加え、緒戦では反乱を見くびり敗北を重ねたローマ側がクラッススやポンペイウスらの有能な将軍を投入して反攻に出た結果、前71年までに反乱は鎮圧され、スパルタクスは戦死(推定)、捕虜数万人が見せしめのため磔刑に処せられた。
こうして第三次奴隷大反乱は規模こそ最大級ながら、期間は最も短い2年ほどで終息することとなった。しかし、この事件の衝撃余波は大きかったと想像され、以後奴隷の待遇は改善され、財産の所有や個別的解放の増発、また農場奴隷の小作人への転換などが徐々に進んでいった。
それはとりもなおさず、ローマ社会の土台であった奴隷制の衰退と体制の終焉へ向けた長いプロセスの始まりでもあったと言えよう。そうした意味では、スパルタクスがどこまで意識していたかは別としても、彼の名とともに記憶されている第三次奴隷大反乱には階級蜂起的な意義を認めることもできるだろう。