犯罪はこれを処罰するより防止したほうがよい。
―チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』
応報の精神が少しでも敬意を受け続ける限り、復讐欲が人々の心に存する限り、応報の害が成文法に浸透している限り、私たちが犯罪防止に歩を進めることはできない。
―カール・メニンガー『刑罰という名の犯罪』
前言
筆者は『共産法の体系』において、刑罰制度を持たない法体系の枠組みを示した(拙稿参照)。この点は、現行法体系と大きく異なる共産主義法体系の中でも特に理解されにくいところかもしれない。
残酷な刑罰とか死刑といった特定の刑罰の廃止はあり得ても、およそ刑罰制度全般を持たない法体系は、社会体制のいかんを問わずあり得ないのではないか―。そんな疑問も浮上するであろう。その理由として、従来の社会体制には、「犯罪→刑罰」という図式が深く埋め込まれてきたことがある。
こうした「犯罪→刑罰」という図式を近代的な形で確立したのは、冒頭に引いたベッカリーアの主著『犯罪と刑罰』であった。ベッカリーアは、彼の時代にはまだ西欧でも死刑を頂点とし、恣意的かつ残酷でさえあったアンシャン・レジームの刑罰制度に対して公然と、かつ理論的に異を唱え、罪刑法定主義・証拠裁判主義・刑罰謙抑主義の諸原則を対置したのであった。
この言わば「ベッカリーア三原則」とは要するに、刑罰制度とそれを運用する手続きである刑事裁判制度を法律と証拠、そして人道によってコントロールしようという構想であって、現代的な刑事司法制度においては、少なくともタテマエ上はほぼ常識化して埋め込まれている。
ベッカリーアが近代的に確立した「犯罪→刑罰」図式は、それまでまだ復讐の観念が支配していた旧制に代えて、復讐観念を言わばパンドラの箱の中に隠し、より啓蒙的な応報刑の理論に仕上げたものであり、当時としては進歩的な内容を示していた。
彼が著書に冠した『犯罪と刑罰』(DEI DELITTE E DELLE PENE)という端的なタイトルの「と」(E:イタリア語)という接続詞は決して単なる並列ではなく、「犯罪→刑罰」という応報論図式の端的な表現であったのである。
もっとも、ベッカリーアは「犯罪→刑罰」図式を絶対化していたわけではなかった。彼は『犯罪と刑罰』の終わりの方で「いかにして犯罪を防止するか」という一章を設け、処罰よりも犯罪防止こそがよりよい法制の目的であるはずだと指摘し、犯罪防止を法(刑罰)の目的とする目的刑論の考え方を示唆している。
彼はそうした犯罪防止の「最も確実で、しかも同時に最も困難な方法」として教育の完成をあげている。しかし、『犯罪と刑罰』のベッカリーアは一般論としての教育論を超え出ることはなかった。こうしたベッカリーアの未完の論をより具体的に発展させたのは、彼の次の世紀末にようやく現れた教育刑論の潮流であった。
刑罰を応報ととらえるのでなく、犯罪を犯した人の矯正と社会復帰のための手段ととらえる教育刑論は、ベッカリーアとの関わりでみると、彼の人道主義的な側面に立脚しながら、彼が一般論としてしか指摘していなかった究極的な犯罪防止策としての教育の完成をより具体的に刑罰論の枠内でとらえようとしたものであったと理解することもできる。
こうした基本的な方向性は次の20世紀になると世界的な潮流となり、教育目的を持たない死刑の廃止の反面として、刑務所の環境整備と矯正処遇技術の開発、社会復帰のための更生保護の制度などが打ち出されていくようになった。
しかし、こうした教育刑論もやがて頭打ちとなり、近年は「犯罪抑止」や「被害者感情」を高調することで、刑罰制度の振り子を再び応報の方向に振り向けようとする反動的な動きも高まっている。
教育刑論は刑罰から応報的要素を何とか払拭し、パンドラの箱をしっかり密閉しようと努めてきたが、それとて「犯罪→刑罰」図式を完全に脱却したわけではない以上―その限りでは教育刑論も相対的な応報刑論に包含されている―、果たして箱のわずかな隙間からあの復讐の要素が漏れ出すことを防ぎ切れなかったのである。
やはり冒頭で引いたアメリカの精神医学者カール・メニンガーが言ったように、刑罰と更生(教育)とは本来、不倶戴天の敵同士なのであって、両者はあれかこれかの二者択一でしかあり得ない。もし刑罰をとるならば、メニンガーが刺激的な著書のタイトルに冠したように、刑罰とは犯罪を犯した人に対して加えられる「刑罰という名の犯罪」にほかならないのである。
刑罰という方法で犯罪を犯した人に制裁を加えることは、その者の更生に役立たないばかりか、かえって更生の妨げにさえなる。そのため、刑務所という環境は言わば「犯罪再生産工場」と化している。刑務所出所者の再犯率の高さはその象徴である。
一方、ロシア革命は刑罰制度に代えて新たな社会防衛のための処分の制度を生み出したが、これは社会の危険分子の防除という政治的な目的に悪用され、基本的人権の侵害が多発した。これを反省した後のソ連では結局、古典的な刑罰制度が事実上復活してしまった。
このような教育刑主義の限界と社会防衛主義の暴走の狭間で、「犯罪→刑罰」図式を転換し、犯罪を「罪」という道義的な観念から切り離し、「犯則」と見立てたうえ、これに対して刑罰ではなく、犯則行為者の矯正・更生に資する効果的な処遇を与える新たな枠組みを追求するのが、『犯則と処遇』の目的である。そのため、本連載はベッカリーアの著書通行本に準じて、前言と40余りの章で構成される。
なお、本連載は元来、ベッカリーアの著書表題をもじり、『犯罪と非処罰』と題して公開していたが、上述のような趣旨から、また『共産法の体系』新訂版の内容を踏まえつつ、より明瞭に『犯則と処遇』と改題したうえ、再掲する。これに伴い、旧題連載に所要の改訂や新たな章の追加または不要な章の削除を施したが、全体の構成や基軸的な記述に大々的な変更はない。