2 犯則行為に対する責任
反社会的な法益侵害行為である犯則行為を犯した者に対して処遇を与えるという場合、処遇という法的効果を生む根拠は責任である。責任という概念自体は、「犯罪→刑罰」体系においても、刑罰という法的効果を生む根拠として存在しているが、ここでの「責任」の意味内容は、両者で大きく異なっている。
刑罰における責任とは、犯罪行為に対する道義的な非難に由来するとされるが、突き詰めれば、報復や復讐の観念を法律的なオブラートに包んだものである。要するに、古くからある「目には目を、歯には歯を」という同害報復観念のリフレーンなのである。
もちろん、法理学者はもっと洗練されており、自ら犯した犯罪行為に対する応報としての刑罰を犯罪者に科することこそ、自由なる個人の責任主体性を尊重する仕方なのだと論ずるが、実のところ、そうした社会から完全に遊離した観念的な個人としての責任主体を措定することによって、かえって“主体”を受刑者という受動的な地位に追い込む矛盾を来たしていると言えるだろう。
これに対して、「犯則→処遇」体系における責任は刑罰のように過去の行為に対する反作用として強制される反動的な責任ではなく、過去の行為を前提としながらも、将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任である。そのような責任の賦課として、一定の処遇を与えられるのである。
従って、処遇は刑罰のように一方的に強制される処分ではなく、それを与えられる本人との合意に基づいて賦課されるある種の契約となる。もちろん、純粋の約定のようなものとは性質が異なるが、一方的な強制ではない双務的な合意である。
一方で、「犯罪→刑罰」体系は、個人責任の追及には実に熱心だが、社会の責任は等閑視している。しかし、人間は社会内においてのみ個別化される動物である。つまり、社会と全く無関係に存在し得る人間個体=個人はあり得ない。なぜなら、そもそも人間的本質とは社会的諸関係(構造)の総体にほかならないからである。とすると、個人の行為にはそうした社会的諸関係が映し出されているはずである。
とりわけ反社会的な行為は社会的諸関係の歪みを病理的に映し出す鏡である。そうした意味で各種の犯則行為とは、比喩的に、社会体の疾患であると言えるのである。別の言い方をすれば、社会は犯則に温床を提供し、犯則を誘発したことに対して有責なのである。そのような社会責任の帰結として、社会病理分析と再発防止のための社会改良が導かれなければならない。
この関係をより標語的に表現するならば、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」ということになるだろう。このような個人と社会との相互責任連関の中で、犯則行為者たる個人が負うべき責任は処遇の賦課、社会が負うべき責任は社会改良として現れるのである。