File19:19世紀末大不況
1873年欧米恐慌は、それまでの周期的な恐慌と異なり、いったん収束したように見えながら、余波が尾を引く形で世紀末にかけて長期的に遷延する大不況を引き起こす契機となった点で画期的であった。この大不況は、その内部に各国での局所的な恐慌を伴いつつ、1896‐97年頃まで20年近くにわたって続いたからである。
なお、見方によっては、1929年の史上最も著名な「世界大恐慌」まで大きくスパンを取る解釈もあるが、第一次世界大戦をもまたぐこの理解はいささか拡大しすぎなきらいがあるので、ここでは「19世紀末大不況」と限局した把握にとどめる。
このような大不況の要因となったことの中心に、1870年代に欧米各国が続々と導入した金本位制があった。反面、長く基軸通貨だった銀は浚渫・精錬技術の進歩によって増産されたが、同時に価格は低下した。しかし、西部に同鉱山を抱えるアメリカは政府に毎年銀購入を義務づける銀購入法が制定し、銀価格の維持を狙った。
ところで、アメリカでは1873年恐慌が収束した後、1880年代に入ると欧州向け輸出が急伸した結果、とりわけフランスからの金の流出が増大し、フランス銀行の金準備高が急減する危機に見舞われる。1882年にはパリ証券取引所での暴落を契機にフランスは史上最悪の恐慌に突入し、その余波は10年にもわたり続き、「失われた10年」となった。
しかし、1880年代は欧米主要資本主義諸国にとっては、いわゆる第二次産業革命による重工業化の伸張期でもあり、鉄鋼生産が倍増するなど経済成長を迎えていた。反面で、穀物価格の崩壊現象があり、これにより各国を保護貿易主義へ向かわせることになった。
保護貿易主義は当時の国際貿易の中核を担った国際海運業の閉塞を招き、不況の遷延を促進する効果を持つと同時に、政治的にも貿易戦争の摩擦を引き起こしたのである。他方で、外債を利用した国際カルテルが盛んとなり、今日の多国籍企業の前身となるような国際独占企業体の形成が進み、20世紀に向けて独占資本主義体制が現れた。
この間、アメリカは1873年恐慌を脱して1880年代から景気回復基調に入っていたが、長続きはせず、同年代半ばには企業利益の低下や頼みの鉄道敷設事業の停滞、耐久財の生産減などに直面していたところへ、1893年、再び恐慌が襲う。
直接の契機は過剰な路線拡大を強行していたフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道の経営破綻であった。多くの鉄道会社の破綻が続き、西部を中心に企業15000社、銀行500行の破綻をもたらし、州によっては40パーセントにも達する失業率を結果した1893年恐慌は、この時点ではアメリカ史上最悪とも言えるものとなった。
時のクリーブランド政権は前出銀購入法の廃止と金本位制の維持を明確にし、西部鉱山も閉鎖された。この間、南北戦争以降に形成されてきていた近代的な中産階級の多くが失業とローン破綻に直面することになった。このように中産階級のつましい生活を直撃するのも、以後の恐慌の特徴となる。
もう一つ、この大不況はいくつかの新興国に波及したことが特徴である。中でも1850年代に自由主義政権の下で最初の経済成長を遂げたチリは、すでに1857年米欧恐慌の影響を経験していたが、19世紀末大不況の渦中では主産品である銅や米の価格下落で輸出が落ち込み、大量の正貨流出を招いた。さらに、ユーラシア大陸をまたぐ新興国として台頭してきた帝政ロシアも影響をこうむり、大不況の約20年間に三回の大きな景気後退に直面した。
そうした中、統一間もないドイツだけは不況の中で公共投資を増大させ、工業需要を刺激することで工業生産高を倍増させた。ちなみに資本主義発祥国のイギリスでも1897年頃まで深刻な不況が続くが、その間、巧みな供給調整を実施して、生産効率を上昇させ、工業生産高を相当増大させることに成功しているが、それは労働搾取率の増加という影を伴うものであった。
19世紀末大不況の特徴は、1870年代以前のように、突発的な恐慌の形態を取らず、エンゲルス言うところの「相対的に長くはっきりしない不況」という形態を取ったことである。このような特徴は貨幣経済が金融システムが国内的にも国際的にも複雑に入り組んでいく20世紀以降の近代的な不況現象の先取りだったとも言える。