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貨幣経済史黒書(連載第25回)

2019-10-20 | 〆貨幣経済史黒書

File24:ニクソンショック

 1929年世界大恐慌は、世界の主要国をブロック経済化の自己防衛に走らせ、結果として第二次世界大戦を惹起したが、その反省に基づき、終戦前の1944年、勝利を目前にした連合国は通貨金融会議を開催して戦後の新たな国際通貨秩序の構築を目指した。  
 会議の開催地であるアメリカ・ニューハンプシャー州ブレトンウッズにちなみ、「ブレトンウッズ体制」と呼ばれる新秩序は、アメリカドルを基軸通貨としつつ、金1オンス=35ドルという固定為替制度を通じて自由貿易を保障するという体制であった。
 こうした緩やかな管理通貨制度は、その国際実務機関として設立された国際通貨基金(IMF)及び世界銀行を通じて、世界経済の安定と敗戦諸国や新独立諸国の経済開発の局面で非常にうまく働いた。欧州や日本の戦後復興とそれに続く高度経済成長も、この体制の産物であった。  
 その点、第二次世界大戦後のおよそ四半世紀は、近代貨幣経済の短い幸せな時間だったと言える。実際、この期間には恐慌につながるような重大な金融危機は記録されていない。この安定期に終止符を打ったのが、1971年のいわゆるニクソンショックであった。
 時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは、71年8月15日、突然声明を発し、金とドルの交換停止を軸とする8項目の新経済政策を提起した。金‐ドル交換停止以外の項目とは10%の輸入課徴金導入、物価・賃金の90日間凍結、設備投資免税の実施、7%の乗用車消費税の撤廃、所得税減税の繰上げ実施、47億ドルの歳出削減といった減税・緊縮策であった。  
 この一方的・恣意的な政策変更により、アメリカドルは信用失墜し、暴落した。ヨーロッパの主要為替市場は一週間閉鎖し、再開後も各国の為替相場は混乱した。これを機に主要国は固定相場制を離脱していったため、実質上「ブレトンウッズ体制」は崩壊したと受け止められた。  
 アメリカがこのような電撃的政策変更に出た背景としては、世界大戦に続く東西冷戦やその最悪の副産物でもあったベトナム戦争対応での軍備増強・戦費膨張により大幅な財政赤字を抱えて国際収支が悪化、大量のドルが海外に流出して金の準備量を超過した多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証できなくなったことがあった。  
 要するに、「ブレトンウッズ体制」とは、多分にしてアメリカの好意によるアメリカドルの固定相場という恩恵によってもたらされた束の間の安定であって、アメリカが自国の事情によりこれを支えきれなくなった時、突如ピリオドを打たれたというわけである。  
 特に衝撃が大きかったのは、1ドル=360円という破格の恩恵的な固定相場で経済成長を支えてもらっていた日本である。ニクソンショックの主要な標的は日本であったとすら言われるゆえんである。日本はショック後の円の急騰を防ぐべく、慌てて大量ドル買いに出るが、8月末には断念してしまった。  
 ただ、ニクソンショックが「パニック(恐慌)」とならず、「ショック」で終わったのは、アメリカが71年末にドルの切り下げと各国の通貨調整を軸とする新たな「スミソニアン協定」を主導したためでもあるが、この暫定的な代替政策はパニックを防止したものの、通貨危機を誘発したため、73年には日本をはじめ、主要国は変動相場制に順次移行した。  
 これを正式に確認したのが、76年、ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会における「キングストン協定」である。以後、現在まで、変動相場制が続いているが、これにより為替相場の投機性が高まり、ひいては通貨・金融危機の頻発という事象が日常となる。  
 また、ニクソンショックは、主要国の政策という「見える手」が世界の貨幣経済を混乱させる人為的な経済危機という現代的な現象の先駆けでもあった。こうした人為的経済危機は、ニクソンショックに続くオイルショックでもより甚大な形で現れる。

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