二十四 第一次ボリビア社会主義革命
(2)チャコ戦争と社会変動
ボリビア第一次社会主義革命の動因として、1932年‐35年のチャコ戦争は決定的であった。この戦争は折からの世界恐慌への対応策として、時のダニエル・サラマンカ大統領が断行した征服戦争であるが、完全な裏目の結果となり、戦後のボリビアは社会経済の全般的な混迷に陥った。
その点、チャコ戦争の前と後で、ボリビア社会は大きく変化しており、チャコ戦争は戦後のボリビアに大きな社会変動をもたらしたという意味で、ボリビア近代史上の大きな画期となる出来事であったと言える。
チャコ戦争前のボリビアの社会構造は錫鉱山を所有する錫財閥を最大の経済的なマシーンとしつつ、伝統的な白人支配層の寡頭支配が続いていた。その点、しかし、ボリビアは他の南米諸国よりも先住民の人口割合が高く、人口の過半数を先住民が占めてきたことから、白人寡頭支配は少数独裁支配としての性格がより濃厚であった。
もっとも、政治的には、錫財閥と結ぶ自由党の台頭により、伝統的な支配層を代表する保守党の支配が覆され、19世紀末から20世紀初頭にかけては自由党の天下となる。自由党はその名のとおり、リベラルな中道保守政党であり、当初は先住民に接近したものの、かれらの急進化を恐れて間もなく抑圧に転じ、寡頭支配の構造を解体することはなかった。
自由党の支配は分派によって結成された共和党による1920年のクーデターにより終わる。共和党は自由党内の改革派によって結党された新党であり、自由党よりも革新的な立ち位置にあり、この先、チャコ戦争にかけては、26年の軍部クーデターをはさんで共和党または同党からの分派政党の大統領が続く。
しかし、それも1929年世界大恐慌を機に再転換を余儀なくされる。世界大恐慌の影響による危機打開のため、1930年に再び軍部クーデターが発生するが、翌年には、共和党からのもう一つの分派政党であるより保守的な真正共和党のダニエル・サラマンカ政権に民政移管された。
そして、サラマンカ大統領は不況打開策として、1932年、隣国パラグアイとの国境線未確定地帯である半砂漠グランチャコにおける潜在的な油田開発を見込み、パラグアイに戦争を仕掛けたのであった。
ボリビアは当初、第一次大戦で活躍したドイツ人将校によって指導された近代的な軍隊によって、質量ともに劣るパラグアイ軍を圧倒して優位に立つ想定だったが、この目算は完全にくるい、およそ3年に及んだ戦闘は事実上ボリビアの敗北に終わった。
多大の犠牲を払った総力戦の敗北は、錫財閥に代表される寡頭支配への疑問を掻き立てることになった。特に専門職や知識人、軍士官など中産階級の青壮年の間で体制への批判が広がった。こうしたチャコ世代と呼ばれる批判的中産階級の中でも、戦争に従軍した若手将校は戦場の悲惨さを経験して急進化した。
またスペインによる征服以来、独立後も周縁化されてきた先住民層がチャコ戦争に徴兵され、従軍体験を持ったことで、先住民の間に国民意識が醸成されたことも見逃せない。かれらは第一次革命の直接的な担い手とはならなかったものの、戦後、地位向上運動に乗り出していくが、こうした先住民運動も革命への地殻変動を助長しただろう。
こうして総力戦を経た社会変動が革命の素地を形成するプロセスには、第一次大戦後のロシア、ドイツ、オーストリアなど欧州諸国との類似性が認められる。ちなみに、ドイツ人将校に指導されたボリビア軍に対し、パラグアイ軍はロシア革命後の亡命ロシア人将校を顧問に迎えており、チャコ戦争はあたかも第一次大戦の同窓会的な様相も呈していたのである。