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近代革命の社会力学(連載第169回)

2020-11-18 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(2)大恐慌とチリの社会経済危機
 チリにおける1932年社会主義革命の動因となった1929年大恐慌が震源地アメリカから遠く離れた南米大陸南端のチリに破局的な影響をもたらしたのは、当時のチリが硝石(チリ硝石)と銅の輸出に依存した極端な輸出経済構造をとっていたためであった。
 チリ硝石は、19世紀後半に当時ペルー領だったタラパカ地方をチリ軍が占領して以来、世界最大の産出地となり、主に欧州への輸出でチリ経済は大いに潤った。しかし、乱掘削により1920年代には早くも枯渇が懸念され、20世紀初頭のハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成技術の発明以来、衰退し始めていた。
 そうしたところへ大恐慌に見舞われ、もう一つの基幹鉱物資源である銅の国際価格の下落も手伝い、チリは当時の国際連盟によって恐慌による影響が最も大きな国と名指しされたほどの打撃を被ることとなった。
 そのひどさは、輸出額が恐慌年の1929年から革命年の1932年にかけて六分の一まで激減、連動して輸入額も落ち込み、GDPでは1929年から32年までに20パーセント以上の落ち込みを記録するというものであった。
 労働に関しても、重要な雇用セクターであったチリ硝石及び銅山労働分野での大量解雇に伴う失業率の増大が見られた。職を失った鉱山労働者らは首都サンチアゴに国内難民として流れ込み、ホームレス化したため、炊き出しが行われる有様であった。
 大恐慌当時のカルロス・イバニェス大統領は軍人出身で、旧来の議会共和制を解体する契機となった1924年から25年にかけての二度の軍事クーデターにも関与していた人物である。その後、1927年に民選の大統領に就任すると、再強化された大統領権力をフル活用し、権威主義的な統治手法を用いつつ、アメリカからの融資に頼った大規模な公共投資でチリの近代化を推進しようとしていた。
 しかし、大恐慌を契機にアメリカからの融資も停止したことにより、政権運営に行き詰まり、1931年7月に政権を投げ出す形で事実上亡命、同年10月に行われた大統領選挙で、イバニェス政権の内相だったフアン・エステバン・モンテーロが初めて急進党から大統領に当選した。
 独立後チリにおける最大級の経済危機の最中に発足したモンテーロ政権は、公共支出の縮減、公務員給与の削減、行政改革などの教科書的な緊縮財政政策で経済危機に対処しようとしたが、通貨安とインフレーションの進行に歯止めをかけることはできず、早くも行き詰まった。
 このような突発的経済危機が直接に革命を惹起することは歴史上稀であるが、チリの場合は、大恐慌の影響が社会経済全般に及び、まさに危機的だったことに加え、1925年の新憲法下における新たな大統領共和制がまだ固まっていなかったことは、革命の土壌を形成したであろう。

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