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近代革命の社会力学(連載第193回)

2021-01-22 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐3〉ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国
 1945年5月にナチスドイツが降伏すると、パルティザンによる権力の掌握は容易であった。すでに、有力なライバルとなるはずだった反共レジスタンス組織のチェトニクは枢軸側に事実上寝返り、レジスタンスから離脱しており、パルティザンはライバル組織が存在しない状態だったからである。
 チェトニク指導者のドラジャ・ミハイロヴィチは、パルティザンによる建国後、他の枢軸国傀儡体制の幹部らとともに、新政権による追及を受け、戦犯として裁かれ、処刑された。
 旧ユーゴ国王ペータル2世は終戦後も帰国を許されず、第二回人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)が公約していた君主制の将来をめぐる国民投票も反故にされたため、新ユーゴスラヴィア連邦の建国後、アメリカへ移住し、王政復古運動の中心となるだけの求心力もなかった。
 そうしたことから、先にAVNOJで決議されていた内容に沿って、1945年11月の建国宣言を受け、翌46年1月には、制憲議会選挙を経て、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアの六つの共和国から成るユーゴスラヴィア連邦人民共和国が正式に発足した。
 このような主権を持たない民族別共和国によって構成される連邦という体制は、ソヴィエト連邦とも類似する新しいタイプの連邦国家であったが、実際のところ、各連邦構成共和国内が多民族的なモザイク構成となっており、単純な民族別構成ではなかった。
 その点、パルティザンの時代には枢軸国という共通の敵と戦う大義のもとに団結できていたが、レジスタンスが完了し、建国という段階に入ると、民族の違いが意識されるようになり、連邦の統一は困難となりかねなかった。そのため、連邦全体の統一を維持するためには、結局のところ、民族主義を封じ込めるほかはなかった。
 そうした封じ込めに関しては、チトーというカリスマ性を持った指導者の存在そのものが大きな力となった。チトーは父方がクロアチア系、母方はスロヴェニア系と、まさに自身が多民族国家を体現する存在であった。その一方、ユーゴ域内で相対的な最大勢力であるセルビア人出自でなかったことは、セルビア人の覇権主義を警戒する他民族に安心感を与える有利な立場にあった。
 チトーはAVNOJ会議で決定されていたとおり、新生ユーゴ連邦の初代首相に就任したが、建国プロセスが一段落した1953年には大統領に就任、その後、終身大統領となり、死去する1980年まで一貫してユーゴの最高指導者であり続けた。
 もっとも、彼の存在一つで民族主義を完封できたわけではなく、裏ではソ連のKGBに類似した政治警察・国家保安庁が全土に監視網を敷き、民族主義的な活動の抑圧的な取締りに当たっていたことは否定できない事実である。
 こうした反民族主義的な体制を保証する組織的な担保となったのは、共産党であった。ユーゴ共産党は1945年11月の制憲議会選挙で、反共政党がボイコットする中、友党と人民戦線を組んで勝利し政権を獲得、その後は、事実上の一党支配体制に移行した。
 1952年以降は、一党支配の統制を若干緩めるべく、共産主義者同盟と改称して、連邦全体の統一的な政治組織として再編されたが、チトー没後も1990年まで実質的な共産党が統治の中心にあったことに変わりない。
 このような人為的に構制された多民族の交錯する連邦体制はカリスマのチトーが死去すると、間もなく民族主義の再現前によって揺らぎ初め、1990年代におけるソ連・東欧圏社会主義体制の連続革命的な崩壊潮流の中、連邦護持派セルビアとの凄惨な内戦を経て、完全に解体される運命にあった。

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