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近代革命の社会力学(連載第194回)

2021-01-25 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命

〈2‐4〉自主管理社会主義への道
 ナチスドイツに対するレジスタンス革命によって成立した新生ユーゴスラヴィアには自主独立の精神が埋め込まれており、そのことが新体制の性格にも強く反映された。そうした新生ユーゴスラヴィアの真に革命的な点は、その政治体制よりも、「自主管理社会主義」と呼ばれる独自の経済体制にあった。
 それは、共産党の指導下、中央で策定された経済計画に従い、国有企業が定められた生産目標を達成するべく生産活動を展開する集産主義的なソ連型のシステムとは対照的に、労働者評議会をベースに労働者自身が管理する企業体を通じて、一定の競争関係の中で生産活動を行うシステムであった。
 なお、ユーゴでは、農業分野でも、ソ連のような大規模な集団化はなされず、農民は再分配された一定面積の農地を所有でき、残余の農地は協同組合や農業企業などが所有するという独自の混合経済体制が追求された。農民の自主経営の割合が高い点では、農業まで含めて「自主管理」と呼べなくはないが、通常は、非農業分野の生産管理体制に限局される用語である。
 そうした意味での自主管理体制においては、資本主義企業に特徴的な経営者と労働者の乖離及び後者の前者への従属、従って労働搾取が構造化されることとは対照的に、経営者は企業の所有者に相当する労働者が公募し、選任することになるため、経営者が労働者に雇われる形となり、労働搾取の余地は封じられるとされた。
 自主管理企業では、職場単位で構成される自主管理組織をベースに、直接選挙による意思決定機関として労働者評議会が設置され、そうした評議会の連合組織として企業体が運営されるという徹底したボトムアップ型の組織運営がなされた。
 このような自主管理システムは必ずしもユーゴの新発明というわけではなく、遡ればロシア革命の初期にも労働者による生産管理として現れていたが、ここでは最終的に権力を掌握したボリシェヴィキの集産主義的な経済思想と合わず、制度として発展する前に摘み取られてしまった。
 その後、スペイン・アナーキスト革命の中でも、アナーキスト系の思想に基づき同種の社会実験が地方的になされたが、こちらも中央の人民戦線政府の経済政策と合わず、反革命派との内戦が激化する中で、解体されていった。
 これに対して、ユーゴの自主管理社会主義は、確立された体制下で、より本格的かつ持続的に構築されたのであった。このシステムの構築に当たり、理論上は、最高指導者チトーよりも、スロヴェニアの経済学者でレジスタンス運動家‎でもあったエドヴァルド・カルデルジの貢献が大きかった。
 一方で、当初は親ソ派だったチトーがソ連の独裁者スターリンと対立してソ連から離反し、東西冷戦の中で、いずれの陣営にも属さない非同盟諸国運動の旗手に転じていったことも、ソ連型社会主義に対抗して独自の社会主義体制を構築する上での政治的な契機となった。
 その結果として、ソ連共産党に睨まれたユーゴ共産党が1948年、ソ連主導の国際共産主義組織コミンフォルムを除名されて以降、ユーゴは東西いずれの陣営からも集団安全保障を期待することができなくなり、全土的な自主防衛政策を必要とした。
 そのため、自主管理組織は同時に民間防衛組織を兼ねており、武器・弾薬等の確保・貯蔵に加え、戦時にはパルティザン兵士の動員と、連邦正規軍との連絡・調整なども可能な有事体制が常時確保され、軍事的な組織をも兼ねていた。自主管理は、レジスタンスの予備的な継続でもあったわけである。
 こうした自主管理社会主義は、1963年のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国への国名変更を経て、経済危機に際して連邦末期1990年代初頭に抜本的な市場経済化改革がなされるまで維持されていた。
 しかし、計画経済によらない自主管理社会主義は、自主管理企業間の競争の余地を認めるという点で市場経済への予行演習のようなものでもあり、経営者の専業化に伴う自主管理の形骸化の進行とともに、最終的には事実上の資本主義に合流し、チトーの没後、ユーゴの崩壊と運命を共にすることになる。

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