三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱
(1)概観
第二次世界大戦後、冷戦時代に多発した革命の多くは、その態様やイデオロギーに差異はあれ、社会主義革命の性格を有することが多く、成功した革命はソ連及びソ連を盟主とする東側陣営への加入・接近を結果したのであるが、例外的に反ソの立場からの革命現象も見られた。
その初期の代表例が、1956年のハンガリーにおける民主化未遂革命である。最終的にソ連軍の軍事介入に至ったため、歴史上はハンガリー動乱と呼ばれることもあるが、実態としては民主化革命であった。
1956年という時期に発生したのは、その三年前のソ連の独裁者スターリンの死去が大きな契機となっている。戦前からおよそ30年にわたって君臨し、冷戦の端緒を作ったスターリンの死後、ソ連内部でも新指導者ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判により、一定限度内の改革の機運が起きていた。
そうした盟主国の変化に最初に敏感な反応を示したのが、ポーランドであった。ポーランドでは親スターリンの独裁者ボレスワフ・ビェルト統一労働者党書記長がモスクワ訪問中に急死し(スターリン批判に衝撃を受けたためとの説あり)、権力の空白が生じていた。
折から、ポーランド西部の工業都市ポズナニの冠スターリン名称工場の労働者による労働争議が反政府デモとなり、さらに反ソ騒乱に発展した。しかし、この騒乱は革命的な展開を見せず、政府軍も迅速に鎮圧したため、一時介入姿勢を見せたソ連も介入を差し控え、事態は早期に収拾された。
この1956年6月のポズナニ蜂起は同年10月のハンガリー民主化革命の直接的な契機とは言えないが、同じくスターリン死去後、脱スターリン化が始まっていたハンガリーにも触発的な影響を及ぼし、ここではより組織化された革命的展開を見せたのであった。
しかし、革命はソ連軍の介入によって挫折、未遂に終わり、鎮圧後には親ソ政権の下で反革命暴動として断罪され、以後、ハンガリー国内では事件に言及することさえタブーとされていたところ、1980年代末の中・東欧連続革命の流れの中で再評価され、公式にも革命として認定されることになる。
そのように、1956年の未遂革命は歴史的な評価の上でも変遷のある出来事であったが、客観的に振り返れば、1980年代から90年代初頭にかけて、まさにハンガリーを起点として東欧の社会主義諸国全域に拡大した連続革命の30年早い先駆けであったと言える。
ただし、30年の時間差は決して小さくなく、1956年という冷戦真っ只中での反ソ民主化革命は時期尚早の早まった革命であり、挫折させられる運命にあったのである。
とはいえ、未遂革命後のハンガリーでは親ソ政権の建前の下で一定の自由化が行われ、ソ連を含めた東欧社会主義圏の中では相対的に最も「リベラル」な体制に向かったことも確かであり、このことがおよそ30年後、ハンガリーが再び民主化革命潮流の起点に立つ伏線となった。