三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱
(2)スターリン主義国家の成立
ハンガリーは、第二次世界大戦末期から終戦を経て1956年革命(ハンガリー動乱)に至るまでの十数年の間に、体制のめまぐるしい変動を経験している。
ハンガリーでは、共産党による革命政権であったソヴィエト共和国が短期で崩壊した後、ホルティ・ミクローシュ海軍提督を摂政とする国王不在の王国という異例の体制―事実上はホルティ独裁体制―が1944年まで20年以上にわたって続き、独裁の中に一定の安定を得ていた。
しかし、ホルティ・ミクローシュ摂政体制は、第二次大戦では枢軸国側に与しながら、大戦末期、連合国との単独休戦に踏み切ろうとしたため、これを阻止すべくドイツが侵攻し、ハンガリー版ナチス党も言える矢十字党による傀儡政権を立てた。
これに対抗して、ソ連の進駐・占領地域で44年12月に共産党を含む挙国一致の臨時国民政府が樹立される。これを母体としながら、ソ連軍のブダペスト包囲戦により矢十字党政権・ドイツ軍が敗北・降伏した後の45年11月の総選挙を経て、翌年2月に成立したのが、第二共和国である。
ハンガリーにおける戦後の出発点は、この第二共和国であった。「第二」を冠されるのは、先のソヴィエト共和国を「第一共和国」とみなすためである。
第二共和国の出発点となった45年11月選挙では、中小農業者に支持基盤を置く独立小農党が過半数を征して政権を獲得した。他方、臨時政府段階から参加していた共産党は17パーセント余りの得票にとどまったが、選挙前の協定により政権に参加した。
このように、農民政党が第一党となり、共産党が遠く及ばなかったのは、当時のハンガリーではいまだ工業化が進まず、農業経済を下部構造としていたことの反映であり、自然な成り行きであった。
ただ、この連立政権(他に二党を加えた四党連立)は独立小農党が過半数を占めながら、ソ連の影響下にあったため自律性を制約されており、次第にモスクワを後ろ盾とする共産党の力が増していく。47年5月にはファシストや戦犯関係者の投票権を剥奪した制限選挙の下、総選挙が行われ、共産党を軸とする左派連合が第一勢力となった。
とはいえ、なお単独では20パーセント程度の得票にとどまった共産党は、単独での党勢拡大を断念して48年に穏健左派の社会民主党と合同し、新たに親ソ派のハンガリー勤労者党を結成した。
このやり方は第一共和国当時の政党合同を踏襲したものであったが、勤労者党は共産主義を前面に出さず、人民民主主義を打ち出した点で、当時の中・東欧の潮流に沿い、当時のハンガリーでは最大政党となり、その結果、49年5月の総選挙では勤労者党が圧勝した。
結果、同年8月には勤労者党中心の政権が発足するが、これを率いたのは党第一書記ラーコシ・マーチャーシュであった。彼は若き日にソヴィエト共和国にも参加した古参の共産党活動家であったが、スターリン主義者を標榜し、政権獲得後は、直ちにスターリン主義に沿った国家再編を強行した。
これにより、1949年8月には憲法が改正され、国名もハンガリー人民共和国に改称された。ここに、第二共和国は社会主義に基づく新たな第三共和国に移行した。
もっとも、銀行や鉱工業の国有化や農地の無償収用などの社会主義的政策は共産党中心の左派連合が政権を獲得して以来、なし崩しに実施されていたが、ラーコシ・マーチャーシュが政権を握ると、彼は標榜通り、スターリン主義に沿って、農業集団化や秘密警察網を活用した恐怖政治を開始した。
ラーコシは当初こそ独立小農党から勤労者党に移籍してきたドビ・イシュトヴァーンを名代的な首相に立てていたが、1952年に自ら首相となり、名実ともに独裁体制を樹立する。