七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)
極限的優生学と大量「安楽死」作戦
人種学と並ぶナチス科学のもう一つの柱は、優生学であった。以前の稿でも見たように、優生学は20世紀前半に多くの国で風靡し、障碍者の強制不妊政策として体現されていたから、優生学自体はナチス科学の専売特許ではない。
ナチスにおける優生学の特質は、通常優生学における強制不妊の対象とされる障碍者を超えて、遺伝病患者、アルコール依存症者や性犯罪者にまで広く対象範囲を拡大したこと、さらには将来誕生する子どもを絶つ断種にとどまらず、「生きるに値しない」と烙印を押された現に生存している障碍者等の強制安楽死(=殺戮)にまで及んだ手段の非人道性にあった。
その点、「生きるに値しない」という価値規準に立っての優生学はナチスの専売特許ではなく、ナチス政権成立以前からドイツ医学界に登場しており、1920年には精神医学者アルフレート・ホッヘが刑法学者カール・ビンディングとの共著『生きるに値しない生命を終わらせる行為の解禁』で、重度精神障碍者などの安楽死政策を提起していた。
この著作はナチスの強制安楽死政策に直接的な影響を与えたと見られているが、このような過激な優生学説は学界では少数説であり、多くの優生学者は断種措置で必要充分、強制安楽死は無用な非人道的手段とみなしていた。
しかし、「生きるに値しない者」の安楽死という構想は、ナチス人種学に由来する「民族の純血性」の保証というイデオロギーにも合致したため、ナチスは障碍者等に対する強制安楽死政策に向かうこととなった。
それに先立ち、ナチス政権は初期の1933年に強制断種の対象範囲を大幅に拡大する遺伝病子孫防止法を制定していたが、政権中期の1939年からは公式に強制安楽死作戦を開始する。
このいわゆるT4作戦は1939年から41年にかけて大々的に実施されたが、作戦が公式に終了した後も、精神病院や強制収容所を中心に、現場の医師レベルの判断により、非公式の「安楽死」が継続された(いわゆる野生化した安楽死)。
その対象範囲は圧倒的に精神障碍者に集中しているが、児童も一部含まれたほか、「野生化した安楽死」の時期には、労働に適しない反社会分子にまで拡大されていった。こうして拡大化された極限的優生学は、ナチスによる優生学の政治利用の極限を示している。
死の医学と人体実験
ナチス極限的優生学は、医学の観点から見れば、人を生かすのではなく、反対に死なせる「死の医学」ととらえることができるが、ナチスの「死の医学」は極限的優生学に限らず、非人道的な数々の人体実験の実施という形でも発現した。
そうした「死の医学」を象徴する医学者・医師は、戦後、ニュルンベルク継続裁判の一環として実施された「医師裁判」で裁かれた23人(ただし、一部は実務担当の親衛隊将校)が代表している。
ナチスの人体実験は強制収容所の収容者を対象に事前の同意なくして行われたもので、内容も多岐に及ぶが、中でも中心人物でありながら逃亡したため起訴を免れたヨーゼフ・メンゲレ(南米に逃亡・長期潜伏中に病死)による双生児への人体実験が悪名高い。
メンゲレは、アウシュヴィッツ絶滅収容所の双生児1500人を対象に、双生児を人工的に抱合して結合双生児を作製するなどの奇矯で非人道的な人体実験を行ったほか、収容所の絶滅対象者の選別にも関わったことから、「死の天使」の異名を取った。
ちなみに、メンゲレの恩師であるオトマー・フォン・フェアシューアは代表的な優生学者として、遺伝生物学・人種衛生学研究所所長やカイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所所長を歴任し、特に断種政策における対象者選別の実務にも積極的に協力した。
また、血液検査によるユダヤ人の判定という奇矯な研究にも着手し、弟子のメンゲレを通じて収容所のユダヤ人の血液標本を取り寄せるなど、人体実験にも間接的に関わっていたが、フェアシューアはそうした関与を隠して戦後の起訴を免れ、遺伝学者として生き延びた。
こうしたナチス「死の医学」は医学の政治的悪用事例の一つであり、ナチス科学における科学と政治の混淆を体現するものでもあった。メンゲレを含め、関与した多くの者がナチス親衛隊員であったことも首肯できるところである。