五十 イラン・イスラーム共和革命
(5)女性の動静
イスラーム主義をイデオロギー的基調とするイラン共和革命の大きな特徴として、多様な階級からの女性の参加が見られたことがある。このことは、イスラーム主義は女性の政治参加に否定的と認識されている通念に反する特徴である。
その点で、イラン共和革命は「ジェンダー革命」と評されることもあるが、実のところ、イランでは20世紀初頭の立憲革命にも女性の参加が見られ、革命を契機に女性の権利の拡大が進んでいた。
こうした流れは共和革命で打倒されたパフラヴィ―朝主導の近代化改革にも引き継がれ、1966年にはイラン女性運動のセンターとなるイラン女性機構(以下、女性機構)が設立され、70年代にはファラ・パフラヴィ皇后自ら穏健なフェミニストとして女性の権利の擁護に立った。
そうした積み重ねの上に1979年の共和革命を迎えるのであったが、その点では、革命の絶対的とも言える指導者であったホメイニが女性の革命への参加を積極的に呼びかけたことも、ジェンダー革命を促進する動因となった。
もっとも、こうしたホメイニの好意的な言動が革命を全社会化するためのレトリックだったのか、真に女性の政治参加を促進する意図に基づいていたかの評価は分かれ得るが、ともかくも、1979年革命では女性は革命運動に座を占め、デモに参加した。
特に子連れの母親デモはパフラヴィー朝による革命の武力鎮圧を躊躇させる効果を持ち、革命を成功させる力学的な要因となったほか、家庭で夫を説得して革命に参加させることで革命過程を促進する触媒としての女性の役割には大きなものがあった。
また、反パフラヴィー朝運動家で、イスラーム主義者としてホメイニ側近に名を連ねたマルジエ・ハディッチのように、革命体制のインサイダーとして活動する女性革命家の存在もあった。
とはいえ、革命における女性の役割は非組織的であり、フェミニストの間でもイスラーム主義に対する態度は分かれ、思想的な統一は見られず、女性の参加はあくまでも民衆革命の下支えにとどまったとも言える。
事実、いざ革命が成功すると、ホメイニ体制は厳格なイスラーム主義の教義に基づき、女性のヒジャブ着用義務のほか、一夫多妻制の奨励、パフラヴィー朝時代の近代的な離婚法の廃止などの復古的な政策を打ち出していった。
一方で、革命体制は女性を政治的に排除することはせず、如上ハディッチは革命後の1987年に創設された一種の女性政治団体イスラーム共和国女性協会(以下、女性協会)の総裁となり、これにはホメイニの長女で哲学博士号を持つザーラも事務総長として参加するなど、イラン革命のジェンダー革命としての性格は維持されている。
もっとも、革命後、イスラーム主義と相反する女性機構は解散したうえ、イスラーム主義の枠内での女性権利擁護を目指し、ヒジャブの着用を支持する女性協会も国会にほとんど議席を得られないなど、革命後の女性の政治的地位は閉塞している。
他方で、医療や教育分野をはじめとする職場における女性の参加は革命後に飛躍的に増加しており、1979年共和革命のジェンダー革命としての成果は両義的であり、イラン女性は次なる革命の潜勢力となり得る条件を保持していると言える。