ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第391回)

2022-03-08 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(6)ブルガリア革命

〈6‐2〉環境市民運動から革命へ
 前回見たように、35年にわたり続いてきたジフコフ体制はソ連側のたびたびの指導部交代にも巧みに適応して生き延びてきたのであったが、1980年代半ばからのゴルバチョフ指導部に対しても対外的にはその改革路線を支持しつつ、対内的には改革を拒否するという内外二重政策で切り抜けようとしていた。
 しかし、近隣諸国で革命のうねりが隆起する中、1989年10月に転機が訪れた。同年4月に結成されていた環境市民団体・エコグラスノストが同年10月に首都ソフィアで開催された全欧安全保障協力会議の環境サミットに招待されたのを機に活動を活発化させると、これを危険団体とみなしたジフコフは政治警察を動員して暴力的な弾圧に出た。
 こうした強権的対応が広範な批判を呼ぶと、共産党内の改革派が決起して、翌11月の政治局会議の席上、ジフコフ書記長の辞任を迫り、これを実現させた。続いて、人民議会もジフコフが兼任してきた国家評議会議長(元首格)からの解任を決定した。これにより、35年に及んだジフコフ体制があっけなく終焉する。
 この党内政変を主導したのは、長年外相(兼党政治局員)を務めてきたペタル・ムラデノフであった。彼は長くジフコフ側近であったが、トルコ系迫害政策を機にジフコフ離れし、当時は改革派に転じており、エコグラスノストを招待したのも外相としてのムラデノフであった。
 こうしてジフコフ後任の共産党書記長兼国家評議会議長に納まったムラデノフであったが、彼の「改革」構想は共産党支配体制の枠内での改革であり、ソ連のゴルバチョフ改革をモデルとしたものにとどまっていた。
 ここに至り、それまで静観していた民衆が動き出し、1989年12月にはより根本的な民主化を要求する抗議デモが隆起する。想定以上のデモの拡大に恐慌を来したムラデノフが軍を動員して武力鎮圧する方針を示唆していたことが後日発覚し、政治生命を失う羽目になる。
 結局、武力鎮圧は行われず、ムラデノフは共産党支配体制の放棄と複数政党制による自由選挙の実施に向けた憲法改正を決定せざるを得なくなった。明けて1990年4月、ブルガリア共産党はマルクス‐レーニン主義の放棄とブルガリア社会党への党名変更を決定、ここに社会主義体制は事実上終焉することとなった。
 同年6月に制憲議会選挙として行われた複数政党による自由選挙では、共産党時代の組織力を生かして善戦した社会党が過半数を獲得し、第一党となった。ムラデノフは4月に新設された大統領に就任していたが、不正選挙を訴えるデモが隆起する中、如上の武力鎮圧発言が発覚し、7月に辞職に追い込まれた。
 さらに、新憲法制定後の1991年に実施された初の正式な国民議会選挙では、如上のエコグラスノストなど非共産系党派が合同して結党された民主勢力同盟が社会党に代わり第一党として政権に就き、ここに旧共産党体制は完全に終焉した。
 こうして完了したブルガリア革命は、東ドイツやチェコスロヴァキアの革命の影に隠れて目立たない存在であったが、環境市民運動に始まった革命は反体制派との協議機関も設置されることなく終始平和裏に進行するという稀有のプロセスを示しており、もう一つの「ビロード革命」と言える事例を提供している。


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