昨年の漢字は、「絆」であった。こういう漢字が選ばれたのは、2011年の日本を揺るがせた3・11で「絆」の大切さを再確認した人が多かったためだと言われる。
ただ、裏を返せば、近年はそれだけ「絆」が脆弱化していたということを暗示もしている選字である。
「絆」と言った場合、真っ先に念頭に浮かぶのは、今なお家族の絆であろう。家族が人間の社会性の基盤であることは、時代が変わっても変わらない法則と言ってよい。
ところが、戦後の家族モデルである核家族ほど脆弱な家族もない。この家族は「両親+子ども」のせいぜい4人ないし5人で構成されるのが標準で、近時は3人、2人家族も珍しくない。そして、1人だけの単身世帯=無家族も急増中。世帯構成員数は減少の一途である。
家族はかつて最低限度の福祉機能さえ備えていたが、現代の最小核家族に福祉機能を期待しても、もはや望み薄だ。
そこで、言わば公的な絆としての社会保障・社会福祉という領域が発達してきた。しかし、この領域の発達ぶりは各国や国内の各自治体ごとの格差も激しく、ピンからキリまで勢ぞろいである。
しかも昨今は、こうした社会的絆を最小限度のものに切り縮めようとするイデオロギーも盛んになり、「市場の要求」に従い公財政の均衡を最優先する傾向が強まってきたことで、社会的絆も溶解・解体の途上にある。
結局、家族的絆も社会的絆も脆弱化した心細い時代に私たちは生きていることになる。はて、どうすれば?
ここで登場願いたいのは、第三の絆と言うべき政治的な絆、つまり政治的連帯である。政治とは生物の中で人間だけが実践する社会連帯的な営みである。これを通じて、私たちは自分たちの社会の地平を切り拓いていくことができる。
しかし残念ながら、現代日本では、この絆が前の二つの絆にもまして脆弱化している。
政治的連帯行動はほとんど不発となり、政治は行政専門職の手に委ねられてしまって久しい。そして、社会的絆の解体に熱心なのもかれらである。この状況を変えない限り、「絆」を言葉としてどれほど叫んでも空しい美辞麗句に終わる。
この点で、昨年の3・11に付随した原発大事故を契機に、1960年代頃までは盛んだったデモ行動が再活性化してきたことは注目される。
たしかにデモは民衆の政治行動として意義ある手段であることは間違いないが、それだけで社会を変革するパワーを持つわけでないことも、60年代の経験が証明している。
デモを通じてどんな社会を作り出したいのか、社会的な討議とそれに基づく具体的な変革の行動とが必要である。そうでなければ、デモは一過性の政治イベントと化し、今度はイベント企画業者の手に委ねられることになる。
2012年は、こうした政治的絆がどこまで回復されるか、また新たに進展するかが問われる年になるだろう。